噛みつき評論 ブログ版

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左翼の暗さはどこから来るのか

2019-03-31 22:30:18 | マスメディア
 日曜の朝、TBS(関西ではMBS)で放送される「サンデーモーニング」という番組がある。政治ネタの多いニュースショーであり、 たまに見る程度だが、これがちょっと風変わりな番組なのである。数人のコメンテーターが居並び、彼らは一様に暗い顔をしている。そして決して議論をしない。司会者の求めに応じて順に意見を述べるが、皆、同方向の意見ばかりである。誰かに反論することはないから、議論にならない。

 意見の違いがないので、それでは皆、仲良くしているのかと思うのだが、何故か表情は暗い。葬式にいるかのような、あるいは明日にでも会社が倒産するかのような深刻な表情である。出演者全員についてだが、私は笑った顔をほとんど見たことがない。なぜだろうか。

 暗い顔の人間ばかりを集めてきているのか。それとも自由な発言ができず、つまり局の方針に沿った発言を強要されて面白くないのか。あるいは局の方針で明るい表情が禁止されているのか。理由はわからないが、なかなか特異な番組である。

 思い起こされるのは北朝鮮や中国の政治集会である。全員一致の、一見「理想的」な集会である。しかし特定の方向に統一された発言ばかりで、おそらく自由な発言は許されないのだろう。議論が紛糾したというのも聞いたことがない。「サンデーモーニング」とよく似ている。「サンデーモーニング」という小さな世界は全体主義に染まっているようにも見える。

 自由な議論が保証されることは民主主義の基本条件である。ひとつのテレビ番組とはいえ、異論を許さないというのはいただけない。これは特定の党派の宣伝番組だと明示すればよいが、中立公正を装いながら特定の思想を主張するのはダーティかつアンフェアである。左翼思想を信じるのは自由だが、異論を許さないというスタイルまで真似ることはないと思うのだが。

 ロシア革命の要因のひとつに民衆の嫉妬心があるとされる。民衆と支配階級との極端な格差によって生まれた支配階級に対する嫉妬心である。嫉妬は暗い感情である。シェイクスピアは悲劇オセロの中で、人の心を食い荒らす緑色の目をした怪物と呼んでいる。またヴェニスの商人でも嫉妬は主要なテーマとなっている。嫉妬は人の心に広く存在する感情である。自分より恵まれたものを引きずり降ろし、自分と同じに、つまり平等を目指すというよい意味もある。しかし行き過ぎると、引きずり下ろすだけでは済まず、さらに地獄まで落とそうとする。ロシアの革命政権がロマノフ王朝一家をことごとく処刑したように。

 ポルポト政権は100万人以上を殺したとされるが、支配階級や知識階級が主な対象にされた。毛沢東の紅衛兵運動でも同様である。これらの運動が民衆の支持を得、急速な広がりを見せた背景には、社会の上層階級に対する嫉妬があったものと思われる。暗い感情に支配された人間だからこそあのような残酷なことができるのだろう。共産党政権は民衆の嫉妬心を煽って、うまく利用してきたともいえる。人のもつ暗い感情を根幹にして成立した政権であるから、明るくなれないのではないか。

 「サンデーモーニング」が人々の嫉妬心を煽っているとまでは思わない。ただその暗さという共通点が気になる。暗い左翼政権との類似性を感じるのである。政権を批判するのはよい。ただ暗い顔をして鬱々と批判するのではなく、もう少し明るい批判者であってほしい。

英のEU離脱と政治的混迷、わけがわからん

2019-03-24 21:13:08 | マスメディア
 ホンダが英国スウィンドンからの撤退を発表し、現地では数千人の失業が予想されるとして失望が広がっているという。しかし、2016年6月の国民投票で、スウィンドンは54.3%がEU離脱に賛成票を投じたそうである。離脱に賛成した人々はそれが失業を招くことになるとは想像しなかったのだろう。国民投票実施の時、主な関心は移民問題などにあり、複雑な経済問題は選択の中心的な課題から外れていたと思われる。国民の選択はわかりやすい問題を中心に行われ、難しい問題は避けられるという傾向を持つと考えてよい。これは国民投票が国民の意志を決める最終的な手段であっても、その判断能力の限界を理解しておく必要があることを示す。理解の難しい問題への対処は直接民主制の弱点である。その弱点を補うと期待されるのはマスメディアであるが、これがさらに信用できないことが多い。

 もうひとつの問題は再度の国民投票に対してメイ首相が否定的であることだ。16年の国民投票からもうすぐ3年になり、離脱の問題点は徐々に明らかになってきた。前回の投票でも僅差であったから今、国民投票をやり直せば、離脱中止が多数になる可能性が高いと思われる。投票のやり直しを求めるデモは100万人にもなったという。現在の国民の意志を重視するならば再投票が合理的である。しかしこれは前回の投票の決定を否定することになるので、国民投票という権威、つまり法制度の権威を低下させる恐れがある。

 国民の意志か、それとも法の権威か、どちらを優先すべきは一般論としては判断できない問題である。国民の意志を重く見るのは実質を重視する考え方であり、法の権威を重視するのは形式を重く見る考え方と言える。実質重視派と形式重視派である。どちらの傾向が強いかは人によってかなり明瞭に決まっているように感じる。生来の性格にもよるし、後天的な環境にもよるだろう。また職業的な影響もある。法律家や規則の運用を職業とするものにとって形式は大切である。法や規則が軽視されてはメシが食えなくなる。

 しかしそれらの事情を考慮しても、今回の問題で優先すべきは現在の国民の意志、つまり再投票であろう。再投票は前回結果の撤回ではなく、やり直しに過ぎない。離脱は極めて重要な国家的問題であるし、前回の投票結果は現在の国民の意志を反映していない可能性が大きいからである。もし再投票をせず、離脱を決定すれば、現在の国民の意志に反することになりかねない。これは民主主義体制にとって是非とも避けるべきことだ。最も重要な原則を否定することになるからである。むろん多数が正しいとは限らないが、それは別の問題である。

 残念なことは、このような視点から英国の問題を捉えるメディアがあまり見当たらないことである。この問題は離脱の可否だけでなく、政治体制やその運用に関する重大な問題を含んでいるにもかかわらず、である。長い歴史を持つ、民主政治の先進国で起きた例だけに、その行方に興味が尽きない。 

文科省には実験という知恵がない?

2019-03-17 22:19:40 | マスメディア
 世の中には「やってみなければわからん」ということが多い。むしろ、明確に予測できることの方が少ないかもしれない。自然科学の世界では、実験は重要な手段である。北朝鮮が非難を無視してまで核実験やミサイル発射実験を繰り返すのはそれが完成への不可欠の過程であるからである。社会科学においても実験の重要性は同じだと思うが、そのような発想が乏しいようだ。

 大阪府内の公立小中学校でこの春にも、児童や生徒が校内にスマホや携帯電話を持ち込めるようになるそうだ。全国で大半の学校が禁止とする中、相次ぐ地震や台風で子供と連絡を取るのに苦労した保護者らからの要望があったためらしい。これに続いて、文部科学相も2月19日の会見で、携帯電話やスマートフォンについて「小中学校は持ち込みを原則禁止」「高校は校内での使用を禁止」という指針を見直す方針を明らかにした。

 スマホや携帯電話と一括りにしているが大違いである。スマホは通話機能があるが、SNS機能付きのゲーム機と言ってよい。多くの子供にとっては麻薬のように、魅力が強すぎる。持ち込みを認可することについては反対意見もある。休み時間の教室は静かになるかもしれない。多くの子供がゲームやSNSに熱中するからである。休み時間における子供たちの会話や遊びは社会性を育てる上で重要であると思うが、なくなるか、減少する可能性が大きい。また熱中した直後に授業への頭の切り替えができるかも疑わしい。教室での使用を禁止する方法もあるが実効性に疑問もある。トイレなどが満室になるかもしれない。

 持ち込みを求める側は災害時の連絡を挙げるが、そんな災害に出会う確率は僅かである。しかも連絡手段が有効に働くのは通学中である。学校にいる間は学校側の管理下にあるし、そこに父兄から子供に指示がいけば混乱を招くことも考えられる。人命に関わるかもしれない災害時の対策と言えば何でもまかり通るようだが、発生確率も考慮すべきである。

 結局、スマホの影響がどの程度かは、予測が難しい。こういう場合は実験が適している。いくつかの実験校を決めて、異なる条件下で実験するのである。そうすればその是非が明らかなるだろう。教育を全国一斉に変えて、もし失敗すれば影響は大きい。ゆとり教育の失敗はそれほど昔のことではない。これも実験をせず、全国一律で始めたので日本全域での学力低下というひどい結果をもたらし、低学力の厚い世代が出来てしまった。教育での失敗は取り返しがつかないことが多い。だからこそ実験が必要なのである。

 ゆとり教育を推進した人たちの多くは、その失敗が明らかになったとき、責任を問われる立場にはいない。首謀者らの謝罪すら聞いたことがない。だれも責任を取らない無責任体制なのである。だからこそ実験をして慎重にことを運ぶという動機が生まれないのではないだろうか。決定する体制のありかたの問題でもある。

マスメディアは民主主義の敵?

2019-03-10 21:41:54 | マスメディア
 2015年、大阪都構想は住民投票によって敗れた。この時の賛成反対の差は0.8%、僅かな差である。このとき、MBS毎日放送は大阪都構想に反対の報道をしたと言われている。構想の負の面ばかりを強調したということである。0.8%というわずかな差なので、MBSが実質的にキャティングボートを握っていたと考えてもよい。大阪都構想を実際に決定したのはMBS毎日放送という奇妙なことになった。

 2009年の衆院選挙では民主党が圧倒的な議席を獲得して政権を手に入れた。最大の勝因はメディアの大部分が民主党を持ち上げたためであろう。選挙の勝利が確定した時、ある新聞社では「われわれの勝利だ」と叫んだそうである。3年余に及んだ民主党政権は散々な結果を生み出した。民主党を正しく評価できなかったメディアはその識見の低さが証明された。しかし多くの有権者は民主党政権は自分たちの投票の結果、誕生したという意識があると思う。自分の意志で投票しているように思っても、実際は与えられた情報によって投票しているに過ぎないのである。投票行動は与えられた情報によって変化する関数であると思っても大きな間違いはない。民主党をまず見誤ったのはメディアであって有権者は乗せられただけである。

 投票するのは有権者であっても、実質的に大きな影響力をもって投票結果を左右するのはメディアである。メディアは情報の仲介という仕事をする民間企業に過ぎず、本来情報を恣意的に操作してよい立場ではない。現実にはあり得ない例だが、NTTやソフトバンクなどの通信会社が通過する情報を恣意的に取捨選択することを想像してみればわかるだろう。しかし現在の多くのメディアは特定の目的に合わせて情報の加工をやっている。また、この民間企業は選ばれたわけでもなく、特別な資格があるわけでもない。現実のメディアは政治的な思想性、党派性を強く持っていることが多い。だから余計に厄介なわけであるが。

 ワイロが横行する社会においては、たいていワイロに対して寛容である。だからこそワイロがなくならないともいえるが、一般に、以前から身の回りに存在するものに対して、われわれは鈍感であり、あまり注意を払わない。朝日や毎日が左に偏った報道をしても、それはいつものことであり、特別悪いこととは思わないようになっている。まあ馴化されているわけである。

 そもそも有権者の行動を左右しようなどという考えは有権者より我々の方が正しい判断ができるという思い上がりがなければできない。本当にまともな判断ができるのであればそれも悪くないが、民主党を担いだ例を見れば彼らの見識の程度がわかる。それよりも偏った情報を与えることによって投票を意のままにしようという行為は民主主義の原則を否定するものである。

 偏った報道の例として、放送法遵守を求める視聴者の会による調査結果を以下に引用する。
「当会の調査によると、安保法制成立直前1週間の各局報道番組の法案への賛否の放送時間比較は、NHKニュースウォッチ32%:68%(賛成:反対、以下同)、日本テレビNEWS ZERO10%:90%、テレビ朝日報道ステーション5%:95%、TBS NEWS23 7%:93%、フジテレビあしたのニュース22%:78%など、常軌を逸した偏向報道となっています。特定秘密保護法、集団的自衛権の閣議決定など重大なトピックではほぼ同じ極端な偏向が繰り返されてきました。この現状を短期間に是正しない限り、国民が正しい政治判断を下すことは不可能です」

 朝日と毎日の極端な比率はおなじみのものだが、賛成の立場が5%と7%、あまりにもひどい。日本テレビも10%:90%とは驚く。賛成に最も多くの割合を割いたのがフジでなくNHKというのも意外である。ともかく、視聴者はこれらを見て判断するわけである。強い影響がないわけがない。テレビは公共財の意味が強い。つまりインフラである。こんな偏りが許されてよいわけがない。メディアはしばしば「それは民主的ではない」と批判するが、自分では民主主義の根幹を否定するような行為をしているのである。中立を装いながらの偏向報道には汚い偽善者の匂いがする。

 メディアが政治的に中立でなければならないことは多くのメディアの綱領にも明記されている。民主主義には中立が必要と認めていながら、それを破っているのだ。かなり悪質である。それでは視聴者としてなにをなすべきか。まず現状をおかしいと思う認識、まともな感覚とモラルが必要である。視聴者が、偏向報道はワイロと同様、悪いことだと思う感覚が重要である。ひどい偏向報道は許さないという気持ちが必要である。視聴者・読者がそのような意識を持って、偏向報道する局の番組を見ない、そういう報道をする新聞の購入を断るといった行動が事態の改善に役立つ。偏向報道を示すために放送時間の比率以外にもいろいろな指標があるだろう。Me too 運動のような国民的な運動ができないものだろうか。規制メディアにそれを期待するのは難しいが、今はネットがある。

異文化の国々

2019-03-03 22:12:49 | マスメディア
 米朝首脳会談が行われた27日、NHKなどのテレビは数時間後に迫った会談についての解説番組を放送した。多くの学者・評論家が動員され、ああだこうだとそれぞれが分析や予想を繰り広げた。しかし翌日の会談の実質的な決裂を予想した人はいなかったのではないか。お気の毒だと思うが、予想外の結果となり、動員された学者や評論家のセンセイ方の予想はほぼ全員がハズレとなった。ハズレの理由はいろいろあろうが、彼らが北朝鮮を普通の国、合理的な行動をする国であると判断したことがその理由のひとつでないだろうか。正常性バイアスと少し似ている。

 首脳会談の結果は数時間ないしは翌日に出るのだから、それまで待っていればいいのだと思う。テレビに招かれれば断りたくはないのだろうが、こんな結果になれば、センセイ方にとっても不名誉なことになる。そもそも視聴者にとっては間もなく結果が出ることについてあれこれと好き放題に聞かされても意味がない。間違った予断は役に立たない。解説なら首脳会談の後で十分であるし、正確でもある。センセイ方にとっても会談の前後で手の平を返したような説明になるのは嫌だろう。決裂の理由についてはいろいろと解説されているが時間がなかったためか、納得のできるものは少ない。北朝鮮の秘密のウラン濃縮施設を米国が指摘したが、北朝鮮はそれを認めなかったことが決裂の原因のひとつだと一部で報じられた。寧辺の施設を破棄すると言って譲歩を引き出し、裏で同じ施設を作るという過去と同じだましの手口であり、それなら納得がいく。しかしもしそうなら元々ないに等しい北朝鮮の信用がさらに失われたわけで交渉の見通しは絶望的ということになる。まあ米国がまた北朝鮮に騙される事態が避けられたことだけは確かなようである。

 それはともかく、今回、改めて明らかになったことは北朝鮮と交渉することの難しさであろう。交渉や約束は互いを理解することが前提になる。理解のためには、たとえ政治体制が違っていたとしても、ある程度の共通認識、つまり共通の文化が必要なのだと思う。極端な例であるが、共通の文化がない宇宙人との対話は極度に困難なものとなるだろう。むろん北朝鮮は宇宙人ほどの違いはないが、文化の違いが対話を困難にしているのではないかと思う。米国は過去に何度も裏切られて、援助だけ取られてきた経緯がある。北朝鮮の行動は米国の予想を超えるものであったからだ。日本の拉致問題が何十年経っても一向に解決しないことも我々の常識では理解できない。合理的な理解が不可能なのである。

 相互理解が困難という点で言えば韓国もなかなか大したものである。こちらは政治体制の違いは大きくないが、日韓両国間の摩擦が絶えない。戦後70余年になるが、未だに戦前の問題が何度も蒸し返されて永遠に続くようにさえ思える。前大統領の「恨みは千年経っても忘れない」という意味の発言があったが、文化の違いであろう。千年の恨みの上に友好を築けるのだろうか。

 まわりの国が理解困難であることは実に困ったことだが、そうである以上、適切な対策を取らなければならない。過去の失敗の原因のひとつは、相手国の文化を我々と同じだものだと考えたことにあるのではないか。人がみな違うように国もまた違うのであろう。誠実で恩義を忘れない人もあれば、不誠実で恩を仇で返す奴もいる。また約束を守れない者もいる。国もまた同じではないか。何度も約束を反故にされてなお約束事を求めるのは誤りである。その場合は履行に対する強制力のある担保が必要である。信義など何の担保にもならない。相手国のもつユニークな個性を十分見定めた上で、付合う必要があるのではないだろうか。