噛みつき評論 ブログ版

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風評被害の加害者

2014-05-26 09:02:25 | マスメディア
 風評被害とは根拠のない噂のために受ける被害であるとされます。とすれば正確な情報が流されれば風評被害は生じないということになりますが、ことはそれほど簡単ではありません。

 多くの場合、情報を流すのはマスメディアですが、誇張や情報の恣意的な選別がしばしば見られます。不安を煽るような報道の方が注目されるので、その誘惑に逆らえないからでしょう。また原発反対のメディアであれば、自分の主張を広めるチャンスとばかり、放射線の不安を煽るような情報を流します。どのメディアが該当するかお分かりだと思いますが、そのようなメディアはモラルや信用度が低いことは当然です。

 情報を受ける読者・視聴者側の問題もあります。津波でなぎ倒された陸前高田市の松の薪を五山送り火の大文字で燃やそうという計画は強い反対にあって中止となりました。陸前高田市は福島第一原発から200kmほど離れており、放射線汚染とは無関係といえるでしょう。このような、箸にも棒にもかからない人々がいるのも確かですが、これは論外としても、科学的な理解が困難な一群の人々も存在します。

 しかし一般の人々はメディアの流す情報をまあ適切に判断しているわけです。その結果として風評被害が生じたのであれば、メディアの情報のあり方に問題があると考えるのが自然です。風評被害が僅かであればそれは一部の「論外な人達」によるものであるかもしれませんが、被害が大きければメディア報道の方に主原因があると推定できます。

 またメディア報道は変えることは可能ですが、一般の読者・視聴者の受け止め方を変えることは困難です。したがってメディアは報道の裁量権をもっている故、その責任を負う立場であるとも言えるでしょう。

 ところが風評被害の原因をメディア自身であるとしたり、責任を感じているといった話は聞いたことがありません。この十年余り、世の中は責任を厳しく追及する方向に向かい、かつては「しゃーないなぁ」とされてきたことも厳しく責任を問われるようになりました。認知症の91歳の男性が電車にはねられて死亡した事故に対して、JR東海側が92歳の遺族の女性から力ずくで賠償を取った事件は象徴的です。

 このような風潮の中であっても風評被害だけはなぜか追求されることはありませんでした。我が身かわいさで、メディアが自分自身を特別扱いしてきたためでしょう。しかし風評被害に対して、他人事(ひとごと)のような顔をするのはどう考えてもおかしいです。

 99年の所沢ダイオキシン騒動では、テレ朝のニューステーションの報道によって所沢産の野菜が暴落しました。農家側はテレ朝を訴え、最高裁まで争いましたが、和解金1000万円と謝罪放送で和解が成立しました。風評被害が訴訟になった例は珍しいですが、その当事者はテレ朝であり、やっぱりねぇという気がします。

 メディアが風評被害の主な原因者であるなら、報道を通じて風評を正す責任があると思います。風評を生み出すことができるのも、鎮めることができるのもメディアなのですから。

本末転倒

2014-05-19 00:04:22 | マスメディア
 本末転倒とは物事の順序・立場・重要度などが逆転することであり、主客転倒もほぼ同じ意味で使われます。倒錯、手段の目的化、木を見て森を見ず、も近い意味です。これらの言葉がよく使われるのは我々の思考がこのような誤りに陥りやすいためだと思われます。例えば、通常お金は生きるための手段ですが、拝金主義者のようにそれを人生の目的と考えれば手段の目的化であり、本末転倒というわけです。

 集団的安全保障の行使容認という政府方針に対し、5月14日の朝日新聞大阪版一面トップは「憲法より安保優先」の大見出しがデカデカと載っています(東京版は「安保掲げ憲法逸脱」)。「国の最高法規 骨抜き」の小見出しもあり、安全保障より憲法を優先することが朝日の本心ということがわかります。

 憲法と安全保障、どちらが優先されるべきかと問われればまともな人は安全保障と答えるでしょう。他国に軍事的に侵略された後、憲法だけが無傷で残っていても意味がないからです。安保より憲法優先は主客転倒です。

 しかし「憲法より安保優先」という安倍政権を非難する見出しを堂々と掲げ、読者の賛同が得られると考えているこの新聞の精神構造には興味を惹かれます。憲法を守れば平和が保たれるという考えが有効性を持った時代もありましたが、脅威となる国が周囲に出現することによってそれが成立する条件は既に失われたと考えられるからです。

 現在の環境変化、それから生じる安全保障対策の必要性を理解せず、念仏を唱えるように憲法、憲法と叫ぶ姿はパラノイア(偏執病)を思わせます。パラノイアは40歳以上の男性に多い精神病で、体系立った妄想を抱くのが特徴とされていますが、ずいぶん似ているような気がします(パラノイアなら治療が必要ですね)。

 新聞のような組織が集団ごとパラノイアになるなんて聞いたことがありませんが、宗教団体ならばありそうです。朝日教、朝日信者などといわれる理由はそんなところにあるのかもしれません。朝日の極度に硬直した姿勢(妄想)は宗教団体として扱ってはじめて理解できるものです。

 一方、国民主権というならば、国際環境の変化によって安全が脅かされる可能性が将来どの程度あるか、またどうすれば安全保証がより確実になるか、などを考えるための材料を国民に提供するのがメディアの役割だと思います。しかし朝日はご親切にも自分で勝手に結論を出し、読者の説得に努力されているようです。国民には判断力がないと思っているためでしょうけれど、実質的には国民主権の否定です。

 憲法解釈を変えて集団的自衛権を認めれば、憲法が骨抜きになるというのはある程度理解できます。しかしそれを云うなら朝日新聞自身の綱領「不偏不党の地に立って言論の自由を貫き・・・」をまずお改めになるのが先だと思いますが。

ローマ法王の言葉

2014-05-12 08:58:57 | マスメディア
『 ローマ法王は「セウォル号」の事故に対し、「韓国民がこの事件をきっかけに倫理的・霊的に生まれ変わることを望む」と強調した』・・・4/26付中央日報日本語版より。

 セウォル号の事故に関する報道は事故を起こした海運会社やその乗務員、海洋警察、政府などの呆れるような行動に集中しました。その結果、韓国民は無責任で無能、嘘が多いといった印象が生まれたと思われます。同様な報道に接した上での法王の発言ならばそれは一見、ごく自然なものに見えます。

 しかし、韓国民全体に対して「倫理的・霊的に生まれ変わることを望む」というのは少し問題があります。韓国民という大集団の一部の行動を見て、国民全体を「倫理的・霊的」に問題ありと判断しているからです。まともな韓国民には侮辱と映るかもしれません。ローマ法王がいくら偉くても「一を聞いて十を知る」のは無理というものです。

 セウォル号の事故では乗客を避難させようとして殉職した乗務員や自分の救命胴衣を譲った人など、尊敬に値する行動をとった方々もありましたが、それらの事実はその数十倍ほどもある、呆れる報道に埋もれてしまった感があります。

 この事故は大統領が日本の悪口を世界中に言いふらすような国で起きたことであるため、恥部にスポットライトを当て、呆れるようなことを流せば視聴者に受けるという判断があったのでしょう。途中から報道の方向性が決まっていたような気がします。むろん呆れるようなこと自体にもニュースバリューがあります。

 もし無責任さの世界ランキングがあればセウォル号の船長は間違いなく最上位にランクされるでしょうし、他の乗務員や海運会社の中にもランクインする人が少なくなさそうです。この事故では無責任人間の出現頻度が異常に高いと思われます。しかし彼らは海運会社の実質的なオーナーが主宰する宗教の信者と言われ、その影響があったのかも知れず、無責任が韓国民に共通する特徴と決めつけることはできません。

 ローマ法王のように集団の一部の行動を見て全体を判断し、さらにはレッテルを貼る行為は日常的に行なわれます。国や民族、学校など、様々な人間からなる集団に共通の特徴を示すレッテルを貼ることは面白いのですが、多くは根拠がありません。また均質な集団ではないめ、その意味も希薄です。レッテルがその集団の象徴として一人歩きすれば誤解を招き、無用の摩擦を生じたりします。

 我々には複雑なものを複雑なまま理解しようとせず、抽象化して単純なひとつの概念として理解する傾向があると、一般化してよいと思います。頭の負担を減らす工夫だと思いますが、乱暴に単純化するわけですから、当然多くの誤りを生じます。スローガンは意図的に単純化された例であり、分かりやすい半面、多くの誤りを含むものと思われます。

不偏不党の朝日新聞

2014-05-05 08:58:05 | マスメディア
 5月3日の朝日新聞は憲法関連の記事を9ページのほとんど全部を使った大特集を組んでいます。さらに3ページすべてを護憲団体などの意見広告に提供しています。まるで政党の機関紙のようであり、報道機関の範囲を十分逸脱していると思います。このうち一面トップの「憲法を考える」はさらに2日間続くそうです。

 形は憲法特集ですが、実態は護憲と集団的自衛権反対のキャンペーンです。報道機関としての立場や役割はどうなっているの?、と問いたくなります。中立的な立場をとり、意見があれば社説で述べる、というのがマスコミのあり方だとされてきましたが、そんなことを気にしている気配すら感じさせない、堂々たるものです。

 紙面は集団的自衛権への反対という露骨な政治的な意図で満たされていますが、そのような方法を当然のことのように用いる朝日新聞、それを違和感なく受け入れる読者の双方に強い危惧を感じます。メディアにとって中立性は重要なモラルの筈ですが、問題意識の低さが気になります。

 発行部数第2位の朝日新聞は強い影響力、発言力をもっています。メディアといっても選別・加工した編集情報を一方的に多数の読者に伝達するわけですから、世論を左右し得る立場です。それだけに中立性は大きい意味を持ちます。朝日新聞の綱領には「不偏不党の地に立って言論の自由を貫き・・・」と書かれています。

 朝日新聞は昔から強い政治的志向性を持ち、紙面に反映させてきました。我々はそれに慣れてしまい、あまり気にしなくなったのではないでしょうか。繰り返し行われると感覚は鈍磨し、気になりなくなります。しかし不偏不党を標榜するメディアが特定の政党の機関紙のようになっては詐欺同然です。

 ついでながら、集団的自衛権に反対するならその理由を示すべきです。集団的自衛権の目的は周辺国からの攻撃を抑止することですから、周辺国から攻撃されることはないという根拠を示す必要があります。19世紀のような軍事的膨張を続け、人口10倍、鉄鋼(粗鋼)生産量7倍(世界生産量の約半分)の中国に将来どんな政権が生まれても軍事的脅威にはならないという根拠を。

 メディアに求められる中立性を軽視し、「下心のこもった」記事ばかり書いているので信頼度が低下し、東大生からも見放されるのでしょう。政治目的をもつ新聞の信頼性が低いことは赤旗を見ればわかります。まともな読者は事実の報道を期待しているわけで、「教化」してもらうために購読料を払っているわけではありません。