噛みつき評論 ブログ版

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厳しい職業、気楽な職業

2011-04-28 10:41:12 | マスメディア
 東日本大震災の後、いろいろな人物がテレビに登場しました。まず原発事故の当事者である東電の幹部、続いて気象庁の職員、地震学者、評論家、etc。東電幹部や社員の表情は暗く険しいの対して、気象庁の職員や地震学者の顔には穏やな印象を受けました。

 むろん、事故の当事者としてではなく解説者としての登場なので当然のことですが、それだけではないような気がします。気象学者や地震学者が予報を外しても厳しく批判されることはないわけで、余裕ある表情は職業上の気楽さから来るものではないかと羨ましく思ってしまいました。

 世の中には天気予報や経済予測など、うまくいかなくてあたりまえ(外れてもあまり咎められない)の仕事と電力や鉄道のようにうまくいって(事故がなくて)あたりまえの仕事があります。大事故のとき、後者は世間(=マスコミ)の集中砲火を浴びることになります。

 JR西日本の福知山線脱線事故では107名が亡くなり、歴代社長らが刑事責任を問われる事態になりました。今回の原発事故では刑事責任まで問われることはないと思いますが、既に東電バッシングが始まっているようで、針の筵にすわる思いの東電幹部はむろんのこと、社員までも肩身の狭い思いをされていることでしょう。

 事故原因の究明や責任の所在を明らかにすることは再発防止のために当然必要であり、今後の解明を待たなければなりません。しかし過度の感情的なバッシングは将来に悪影響を及ぼします。就職先を自由に選べるような優秀な学生は大事故を起こす可能性のある業種を避ける傾向が生じ、そのため優れた人材が不足する心配があるからです。

 既に国立大学の原子力関係学科の学生数は1994年度の1739人から2006年度には137人と1/10以下に急減しているように、原子力工学はもっとも不人気の学科となっており、人材供給の先細り傾向は既に「危機的な状況」と指摘されていました。今回の事故でこの傾向がさらに強まることが懸念されます。

 原発をやめても休止中の火力発電を稼動することなどで電力供給は可能だという主張をよく耳にしますが、原発を続ける最大の理由のひとつはエネルギーの安全保障であり、そのことも議論して欲しいものです。エネルギーの安全保障を担っているという原発の存在意義が忘れられれば、原発は誇りを持てない、嫌われるだけの仕事になるでしょう。

 電力や鉄道は社会を支える基幹産業ですが、事故の危険がゼロではありません。優秀な学生の多くがそれらを避け、人身事故を起こす懸念のない金融や商業、マスコミなどを選ぶような傾向が生じるかも知れません。自らは安全地帯に居て、他人の失敗をあとから非難する仕事などは最高です。

警戒区域による強制退去・・・余計なお節介

2011-04-25 09:59:49 | マスメディア
 福島第一原発の半径20キロ・メートル圏内が、22日から「警戒区域」になり、違反者は罰則を適用されることになりました。圏内への出入りは本人が決める問題であり、政府は本人が判断するのに十分な情報を与えればよく、一律の強制退去は余計なお節介だと思います。これは「民は之に由らしむべし、之を知らしむべからず」という強権的な手法とも受け取れます。

 一方、合理的な根拠もなく、居住移転の自由という憲法上の基本的人権を直接に制約する措置は憲法違反の疑いがあるという意見もあります。朝日、読売、日経は社説でこの問題を取り上げていますが、部分的な批判にとどまっています。

 朝日は「放射能と避難―住民の納得が大切だ」というタイトルで住民の納得を強調しています。「100ミリシーベルト超になるおそれがある地点が1割ある一方、約半数の地点は現在の避難を求める基準の20ミリシーベルト未満など、場所により汚染の程度に大きな差があるが、低汚染の地域でもなぜ帰宅が制限されるのかを丁寧に説明すべきだ」としています。果たして住民が納得するような説明が存在するのか、たいへん疑問です。

 また「国際放射線防護委員会が定めた事故後の緊急時の目安は20~100ミリシーベルトと幅がある。なぜ最も厳しい20ミリシーベルトを基準にして避難する必要があるのか、住民が納得できる説明がいる」と述べていますが、これはその通りでしょう。

 しかし朝日自体が政府の説明を理解・納得しているとは思えず、住民に対して丁寧に説明すればよい、という主張には納得できません。まず政府に詳細な説明を求めるのが筋というもので、自分が理解もしないまま、住民に対して丁寧に説明すればよい、とするのは無責任な態度です。

 読売は「『警戒区域』設定 住民に説明と代償措置が要る」という題で、警戒区域の設定は止むを得ないとした上で、一時帰宅時間の延長を求め、また朝日と同様、説明が必要と述べています。

 日経のタイトルは「警戒区域の避難者に丁寧な説明尽くせ」』で、もっとも批判的な内容です。「漏れている放射性物質は発生直後よりかなり減ったとみられ、周辺の放射線量も減少傾向にあるのに、なぜ今になって実施するのか理解に苦しむ」と述べています。また「空き巣の被害も出ているが、それを防ぐためなら、もっと早く手を打てたはずだ」としています。

 社説ではないのですが、毎日は「記者の目」では新たな計画的避難区域について、
「福島県飯舘(いいたて)村が、大気中の放射線量が高いなどの理由で国から『計画的避難区域』に指定され、全住民の避難を求められる見込みになった。これに対して村は、放射線量が低い地区を除外することや、役場機能を残すことを認めるよう訴えている。放射線のリスク以上に高齢者ら弱者の心身に負担がかかり、主要産業の畜産が途絶するダメージも大きいからだ」とし、国の一律のやり方を批判しています。

 20km圏内は警戒区域というのはわかりやすいですが、まことに丁寧さを欠いた決め方です。放射線レベルに応じて細かく決めるのは「めんどくせー」ということなのでしょうか。計画的避難区域における村単位の指定も同様です。

 機械的な線引きのため、わしのところは強制退去させられるがお隣は自由だ、といったことが起こります。20ミリシーベルト未満の地域でも家畜の給餌のために帰宅することが許されなくなり、家畜は餓死することになるでしょう。高齢者の場合は放射線より不自由な避難生活の方が深刻です。

 この問題に政府が強制力を行使することは妥当でしょうか。20km圏内に入ったところで他人に迷惑をかけるわけではなく、本人が健康上のリスクを負うだけであり、本人が決めるべき問題です。圏内に入るのを地元民に限定し、十分な情報提供と線量計の携行など、本人がリスクをよく理解・管理できるようにすればよいことです。

 多くの人が合理的な理由もなく住居を追われるようなお節介は人権にかかわる重大な問題です。法による規制は大雑把な網をかけることであり、不合理な部分が生じることは避けられません。強制力をもって人権を侵害することは慎重であるべきです。まして20km圏内といった荒っぽい手法は理解できません。

 各紙とも警戒区域や計画的避難区域の設定自体に正面から反対する主張は見あたらないことが残念です。不二家事件など、僅かな健康リスクを振りかざして激しいバッシングを繰り返してきたメディアは微小な健康リスクに関して現実的な態度をとれば自家撞着に陥るのかもしれません。そんなくだらないことより、不合理なことで自由を奪うことの方が私には大切に思えます。この強権的なやり方が民主党政権の隠れた体質なのかどうかは知りませんが、強制による健康上の効果と不自由を強いる副作用のバランスについて十分吟味されたのか、たいへん疑問です。

 国立がんセンターによると100~200ミリシーベルトの被曝による発ガンリスクは1.08倍です。これは肥満による発ガンリスクの1.22倍、男性の喫煙や毎日3合以上の飲酒の1.6倍よりかなり小さい値です。この1.6倍は2000ミリシーベルト以上の被曝とほぼ同じだそうです。強制退去を正当化するためには、まずタバコや多量の飲酒、肥満を即刻禁止する必要があります。

(参考)国立がん研究センターの記者会見、4月25日付日経記事

国外逃亡する人々と救援に現地入りする人々・・・歪曲情報の伝わり方

2011-04-21 10:08:59 | マスメディア
 福島第一原発の事故後、大勢の外国人が日本から脱出しました。また多くの国が大使館の業務を大阪などに移し、ロシアは日本への渡航を制限しました。さらに食品以外の製品まで日本からの輸入を制限する動きなど、外国の過敏な反応が目立ちました。以下はある個人ブログに載せられている記述です。

『福島第1原発2号炉で最悪の事故が起こる可能性が進行しています。外国に娘がいる友人の話では娘から「早く国外に逃げるように」との電話がかかってきているそうです。アメリカは在京米人に「家からでないように」との指示をだしたとのことです。外国の報道のほうが事実をきちんと伝えているそうです』

 情報の伝播という点で、これらの事実はたいへん興味深い現象です。やや図式的になりますが、原発情報は日本のメディアから外国メディア、そして外国人へというのが主な流れだと思われます。結果として外国人が受け取った情報は相当深刻なものであったと推定できます。政府間のルートはあまり機能しなかったようですが、これは民主党政府の信用がなかったためでしょう。

 情報が日本メディア、外国メディアと二段階で加工を受けると、これほど「変形」されるという証明になりそうです。何人かがある情報を順番に口頭で伝えていく、伝言ゲームというものがありますが、最後の人に伝わるときはとんでもなく違ったものになることはよく知られています。しかし情報伝達のプロである筈のメディアを二つ通しただけで大きく歪(ゆが)んでしまうのはなんとも奇妙です。

 日本のメディアで一回だけ加工された情報に接しても「福島県人お断り」としたホテルやレストランがありました。また茨城県つくば市は福島県から避難してくるに対して放射線汚染の有無を確認する検査証明書を要求したそうで、役所もなかなか負けていません。まあ情報を受止める側のアタマの問題もあるでしょうけれど。

 これにはメディアの体質が関係していると考えざるを得ません。例えば、新たに放射線が検出されると「〇〇ミリシーベルト検出」とバカでかく伝え、最後に小さく「直ちに健康に影響はありません」と結びます。野菜の出荷制限は大きく取り上げ、その解除はベタ記事程度の扱いです。恐怖は大きく、安心は小さく、という体質です。このような操作が日本メディア、外国メディアと2回繰り返されると、恐怖情報はより大きく、元々小さい安心情報は無視されるということになるのでしょう。

 先に紹介したブログは日本に居ながら、より伝達距離のより大きい外国メディアを見た人の反応を素直に信用するという、ちょっと特殊な方なのでしょう。しかもブログに発表することによって他人までを巻き込もうとしています。余計なことに外国の情報をフィードバックする経路を作っているわけです。むろん日本のメディアだって信用できるとは限りませんが、2回のフィルターで変形を受けたものよりはマシで、半分くらいは信用してもよいと思っています。

 遠方へと逃げた人は比較的少数であり、多くの人は現地に留まって、幸いなことにパニックには至りませんでした。

 現地に残り、あるいは遠方から現地入りして救援や復旧にあたっている人々に対して、彼らを尻目にわれ先にと逃げ出す人々、なかなか見事な対照です。人は様々ということでしょうか。まあこれは情報の受止め方以前の問題かもしれませんが。

競争社会の光と影

2011-04-18 09:59:45 | マスメディア
 韓国で最も優秀な理工系の学生が集まるといわれる国立韓国科学技術院(KAIST)で、今年に入って4人の学生が自殺したことが問題になっています。4月9日の朝鮮日報日本語版に掲載され、13日にはNHKラジオ、16日には朝日新聞に取り上げられました。以下は朝日の記事の要約です。

『教育熱が高い韓国だが、行きすぎた成績至上主義が背景にあるとの指摘が出ており、「天才たちの悲劇」として社会問題化している。
 KAISTは、韓国の科学技術分野を引っ張る人材育成を目指して開校した全寮制大学。 自殺との因果関係が指摘されているのが、「懲罰的登録金制度」と全講義の英語化だ。
 報道によると、KAISTの学生たちは授業料を全額免除されていたが、新制度は成績を1学期4.3点を満点にして、3点未満の学生に対し、0.01点ごとに6万ウォン(約4600円)の納付を義務化。成績次第で年に最高1500万ウォン(約115万円)を払わなければならなくなった。
 英語が苦手な学生は成績を上げることが難しく、自殺した4人のうち2人は3点を下回っていた。
 激しい競争の末に味わう自信喪失感や孤立感が学生を追い詰めているとの指摘もある。一方、韓国では故金大中・元大統領の平和賞以外にノーベル賞の受賞者は出ておらず、科学技術分野での人材育成自体は必要だとして、徐総長の手法を支持する声も強い』

 まるで歩合制のセールスマンのように成績がカネに直結するわけで、なんとも強烈なアメとムチであります。

 韓国は日本以上の学歴社会とされ、約8割が大学へ進学するといわれています。当然ながら子供達と親は激しい受験競争の渦中に身を置くことになります。また韓国は1997年の経済危機の後、新自由主義政策が導入されました。その結果、日本以上の競争社会といわれており、新自由主義の経済学者らは韓国を模範としているような観があります。

 計画経済の共産主義国家が没落し、その非効率性が明らかになったことによって、自由主義経済の価値が大きく評価されました。たしかに自由な市場による競争は経済の効率性を高め、豊かさの実現に大きな役割を果たしています。

 しかし競争社会には影の部分もあります。競争社会は勝者と敗者の差を明確にします。KAISTの4人の自殺者は激しい競争が生んだ犠牲者と言えるでしょう。この事件は競争社会の象徴とも見えます。自殺まで追い込まれなくても数多くの敗者が生まれたことと思います。

 韓国の自殺率は1990年頃から急増し、主要国の自殺率長期推移によると2004年には日本を抜いてOECD諸国の中で最高となりました。また2007-2008年には合計特殊出生率が1.22、1.2と世界の最下位となっています。親が多額の教育費を負担しなければならないことは少子化の大きな要因となります。

 多くの国民に努力を強いて、経済的な豊かさが上積されても、人口が減って国が衰退しては元も子もありません。学生に強度の持続的ストレスを強いるKAISTの例は明らかにやりすぎと思います。石原慎太郎都知事は有名になった「天罰」発言で、我欲の支配する日本社会を批判されていますが、激しい競争はその土壌となり得るでしょう。

 自殺率の高さや合計特殊出生率の低さには他の文化的な要因も考えられ、すべて競争社会が原因だとは言えませんが、私には競争との関係が否定できないように思われます。競争のよいところばかりではなく、激しい競争の負の側面がもっと注目されてもよいでしょう。新自由主義で先行する韓国の行方に注目したいところです。

老人の合理精神

2011-04-14 22:43:22 | マスメディア
 最近、ある老舗へ寄った時の話です。優に70歳を超したと思われる店主夫妻と同年輩の客が賑やかに談笑していました。話題は放射性物質に汚染された食物で、ひとりが「捨てるとはもったいないことや。あんなもんは老人に食わせりゃええ。わしらは喜んで食うわ。食うても放射能で死ぬ前に他のことで死ぬわ。ワッハッハ」と言うと、他の人も「そうや、そうや」と笑っていました。その後、話題はマスコミ批判に。

 この老人達はマスコミを信用していないことがわかりましたが、それは戦前から長い間マスコミを観察をしてきたからなのでしょう。その結果、食物の汚染問題をあまり深刻に捉えず、風評とは無縁のように見えました。

 100ミリシーベルトの被曝によって何十年か後、自然のがん発生率約30%が30.55%になるとされていることを考えると、「放射能で死ぬ前に他のことで死ぬ」はもっともなことです。また見方によっては若い人たちのために自分達が犠牲になるのをいとわないという精神の表れとも考えられます。どちらにしても健全なことと思われます。

 もうひとつの話は4月13日の朝日夕刊に載ったチェルノブイリに関する記事です。旧ソ連では原発事故の後、汚染された肉をソーセージの材料にして旧ソ連各地に送り、濃度を薄くしてみんなで食べる政策を実施したとあります。また、豚や牛は出荷前の2~3ヶ月間は汚染のない餌を与え放射線量を低くして出荷し、汚染牛乳は加工で水分と一緒に放射性物質が取り除かれるのでバターやチーズ用にしたと。

 現在の日本ではちょっと考えられないやり方です。しかし健康に影響の出ない十分なレベルまで濃度を薄くするのであれば、否定する理由はありません。

 また放射線の影響を強く受けるとされる幼児の許容基準は厳しく決められていますが、高齢者は実質的な影響が少ないから許容基準を緩くしようなんて発想はまず出てきません。

 放射線に限らず、ダイオキシン、環境ホルモンなど健康に影響のあるものに関しては、「この程度の量では問題ない」といった楽観的な意見は、それが正しいものであったとしてもなかなか言えない雰囲気があります。言ったとしてもしばしばそれは御用学者の意見だと片付けられてしまいます。

 山本七平は著書「空気の研究」の中で、戦艦大和の自殺的な特攻出撃が客観的な情勢分析によってではなく、会議の空気によって決まったことを挙げ、「空気とはまことに大きな絶対権をもった妖怪である」と書きました。空気に逆らうことは大変難しく、空気は合理的な思考より優先されるというわけです。

 放射性物質に関しても、ある種の「空気」が社会、とくにマスコミに漂っているような気がします。

魂を売り渡したAERA

2011-04-11 10:18:40 | マスメディア
3月28日号のアエラが一部で評判になっています。3月28日の読売新聞電子版は「アエラ表紙に抗議、野田秀樹氏が連載降板」という記事を載せています。

『福島第一原子力発電所の事故を扱った朝日新聞出版発行の週刊誌「アエラ」3月28日号が、風評被害を広げると批判された問題で、同誌に随筆を連載してきた劇作家・演出家の野田秀樹さん(55)は、28日発売の4月4日号で連載を自ら降りることを明らかにした。
 野田さんは、「ひつまぶし」と題した随筆の中で、「アエラ」28日号が表紙に「放射能がくる」と見出しを付けたことなどを疑問視し、「刺激的なコピーを表紙に使い人々を煽(あお)る雑誌だったとは気がつかないでいた」、「このアエラの[現実]に対する姿勢への不安が消えません」などと降板の背景を説明している』

 野田秀樹氏の行動がアエラの体質を世に知らせることにもなりました。アエラには多くの苦情が寄せられ、編集部はネット上の小さい字で謝罪しました。野田氏に敬意を表したいと思います。しかしこのアエラの営業戦略は成功し、すぐに売り切れたようで、私は入手できませんでしたが、かなりマトモと思われる森田満樹氏の論評が参考になりました。

 他方、週刊朝日とBS朝日は広瀬隆氏を登場させ不安を煽っています。BS朝日で放映された福島原発事故 メディア報道のあり方 広瀬隆では「福島第一の4基とも危機にあり、1基でも逝くと近づけなくなるので6基とも次々と逝ってしまう。そうなる可能性は非常に高い。そして2日ほどで日本中が放射能の雲で覆われる」という意味の発言をしています(「逝く」と言う言葉は爆発などで大量の放射性物質が飛散するという意味だと思われます)。

 反原発で知られる広瀬隆氏は高い煽動能力をお持ちだと認めますが、決して冷静な解説者ではないと思われます。激しい誇張といい加減な話が多く、トンデモ系の怪しい人物とも見られているようで、少なくとも一流メディアが取り上げるような人物ではありません。彼を起用しなかった朝日新聞本体とテレ朝はよくわかっているのでしょう。

 朝日信者でなくとも、素直な人がアエラやBS朝日を見るとすぐに逃げなければ、という気持ちになります。少なからぬ人々が関西や国外へと避難していますが、これらの報道がそれを促したことは否定できません。また風評被害の大きい要因にもなるでしょう。不合理な風評を取り除くことはマトモなメディアの仕事だとおもいますが、これでは逆さまです。

 多くの週刊誌が原発の恐怖を書きたてる中、3月19日発行の「週刊ポスト4月1日号」は異色です。新聞広告を見ただけですが、「日本を信じよう」という特集を組み、恐怖を煽るような記事は見当たりません。恐怖を煽るという販促法に比べ地味ですが、社会に好ましい影響を与える編集方針は評価できます。

 新聞や出版社は売れなければ潰れるという宿命を負っているわけで、ある程度のセンセーショナリズムは仕方がないでしょう。でもアエラやBS朝日は大きく逸脱しており、その弊害は看過できない大きさです。利益を追求する精神がメディアとしての良心を凌駕したように見えます。朝日の給与水準は業界でトップクラスですが、それはこのような精神の賜物(たまもの)なのでしょう。朝日は戦後、一転して左派色を強めたわけですが、内実は資本主義体制の優等生であったという皮肉な話です(新聞・放送業界の給与水準についての参考記事)。

 戦前、朝日新聞は「社員を路頭に迷わすわけにはいかない」と言って、軍部にジャーナリズムの魂を売りました。今は「社員に貧しい暮らしをさせるわけにはいかない」と言って、魂を売り渡すことにしたのでしょうか。

大震災に見る神のプロパティ

2011-04-07 12:57:48 | マスメディア
 神を信じる善良な男が不運な事故に遭って重傷を負ったとします。「悪いこともしてないのになぜこんな目に遭わなければならないのだ」という男の問いに対して、信仰を勧めた者の答えはおおよそ次の三つに分類されます。まあこれでたいてい片が付くのでしょう

 ①もし信仰がなかったら、あなたは重傷で済まずきっと死んでいた。
 ②事故はあなたの信仰が足りないからだ。
 ③これは神があなたに与えた試練なのだ。

 この答えは一見屁理屈のようですが、実はなかなか巧妙に作られています。神の存在を前提とする限り、この三つを完全に否定することはできません。むろんその答えが正しいとする根拠もありませんが、信仰する人間には根拠を示す必要など多分ありません。

 しかし今回の東北大震災のように多数の人が被災を受けた場合は上記のマニュアルのようにはいきません。ヴォルテールは数万人の死者を出した1755年リスボン地震の惨状を見て、神を信じる人も信じない人もみな等しく殺したのだから、神が慈悲深いわけがないと主張したといわれています。

 大惨事を目のあたりにすれば、多くの人は(慈悲深い)神も仏もないものかと思います。これはヴォルテール同様、ごく自然なことでしょう。被災者の、なぜこんな目に遭わなければならないのだ、という問いに対して、信仰を勧めた者はきっと答えに窮することでしょう。

 石巻市の市立大川小学校では全児童108人のうちの7割が死亡か不明とされています。犬や猫、牛など多数の動物も犠牲になりました。幼い子供や動物に罪があるとは考えられませんから、罪の有無による選別という説明もまあ無理です。まさにナチスを思わせるような無差別攻撃です。もしかすると神は差別廃止論者なのかも知れません。

 神は存在すると仮定した場合、ここから引き出せる一般的な結論はヴォルテールの言うように神は全能だけれど慈悲心が無い、あるいは慈悲心はあるけれど自然を制御する能力が無い、のいずれかでしょう。ヴォルテールの時代から250年以上が経った現在、既に詭弁やレトリックを駆使した模範解答が用意されているのかもしれませんが、私のような凡人にもわかるような説明を聞きたいものです。余計なお節介は承知の上ですが、他人事ながら気になるもので。

安全と親交と満腹感

2011-04-04 09:18:14 | マスメディア
 被災された方々には申し訳ありませんが、東日本大震災は衣食住など生活の基本的な条件の大切さを改めて教えてくれました。これは、健康を失ってはじめて健康の大切さを知ることによく似ています。そのとき健康さえ戻れば幸福の8~9割は得られると思うのではないでしょうか。

 動物行動学者フランス・ドゥ・ヴァールは「生命科学はもっと平凡な見方をする。人生とは、安全と社会的親交と満腹感に尽きる」と述べていますが(参考記事)、われわれはそれ以外のものを追い求めることに熱心になりすぎたのではないでしょうか。

 華美を競う、地位を争う、あるいは金銭を追い求める、といったことに強い関心を向け続けた結果、もっとも重要で基本的な「安全と社会的親交と満腹感」を忘れていたように思います。基本的なものが満たされていることはあたりまえであり、そこに価値を見いだしたり、満足感を得たりすることはないというように。

 安全と満腹感と共に社会的親交が挙げられていることに違和感をもつ方がおられるかも知れませんが、ヒトは群れを作る動物であり孤独に生きることが難しいことから考えるとやはり重要なことと思われます(出会い系サイトの賑わいぶりからもわかりますね?)。

 関東地方は計画停電が実施され、電気のない生活を初めて経験する方もおられると思いますが、恐らくそれまでは電気は水や空気のようなものであり、その存在を意識することもなかったでことしょう。

 我々はどうやら変化するものには強い関心を抱きますが、元々存在して変わらないものに対しては意識することもないようです。これはマスメディアに於いて顕著であり、それがこの傾向をさらに助長します。

 電力は重要なものですが、事故や事件以外で電力がメディアに取り上げられることはまずありません。農業や漁業、鉄鋼、化学、石油、運輸など、大切な基幹産業についてもほぼ同様です。反面、変化の激しいIT産業、芸能娯楽産業、ファッション産業などはしばしば脚光を浴びます。

 その結果、われわれは生存に必須のものにはあまり関心を持たず、それほど重要性のないものに強い関心を持ってきたように思います。この震災が契機となり、改めて基本的なものの重要性や価値が認識されるようになれば、と思う次第です。

 (関連記事) 「高熱隧道」・・・300名を超える犠牲者を出した黒部第3発電所の工事を描いた吉村昭の小説の紹介