噛みつき評論 ブログ版

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小選挙区制と雪崩現象

2009-08-31 20:20:17 | Weblog
 総選挙は民主党の圧倒的な勝利に終わりました。それを国民の判断の結果であると、そのままに評価するのは適切ではありません。2大政党制を意識して作られた小選挙区制ですが、それには議席数の差を増幅する効果があるからです。

 小選挙区での得票率は民主党が47.4%、自民党が38.7%に対し、当選者は民主221、自民64となっています。得票の比は1.22倍ですが、当選者の比は3.45倍です。3.45倍の方にだけ注目すると状況を見誤ります。

 それにしても1.22倍→3.45倍という増幅率は大き過ぎるように思われます。有権者の行動は気分に左右されることが多く、情緒的判断によるブレの大きさが小選挙区制の増幅作用によってさらに大きい変化を生み、ポピュリズムを加速するのではないでしょうか。民主党が掲げる衆院比例定数80削減は小選挙区の比重を増し、この傾向をさらに強めるものです。

 得票差が1.22倍という数値は、今回の選挙では小選挙区制でなくても恐らく民主党が勝っていたことを示しています。小選挙区制は2大政党制の実現に必ずしも必要とは言えず、むしろその弊害に目を向けるべきでしょう。

 31日付朝日新聞の社説には「小選挙区で自民党の閣僚ら有力者が次々と敗北。麻生首相は総裁辞任の意向を示した。公明党は代表と幹事長が落選した。代わりに続々と勝ち名乗りを上げたのは、政治の舞台ではほとんど無名の民主党の若手や女性候補たちだ」と書いています。これは投票行動が人物よりも、政党を中心に行われたことを示しています。

 地方の利益を代表する人物を選出するというのが地方区の役割のひとつですが、それより政党の選択が優先されました。つまり政治家としての資質や能力をあまり問われることなく、当選した議員が多く生まれました。経験の乏しい多数の議員が国政を担うことには不安が残ります。このような状況で、意欲と能力に優れた政治家が育つのか、ちょっと心配になります。

 文芸春秋9月号には渡辺恒雄氏の話が載っています。
『与謝野馨さんが、「中選挙区制のときは、有権者の15%の心に訴えることを言えば当選できた」と言っていました。つまり自分の信念の本当のところを言えたわけです。それが、小選挙区制で過半数をとろうとすると、より多くの有権者にいい顔をしなければならなくなった。だから、信念をもって自分の政策を語れる人が出にくくなってしまいました』

 結果として民主党には党の力によって当選した、政治的能力が未知数の議員が多数生まれたわけですが、彼らの党内の発言力は弱いものとならざるを得ません。また選挙において党の公認は決定的な意味を持つので、中央に逆らうことは困難です。これらは党に中央集権的な性質を与えることにならないでしょうか。党幹部の統率力が強い組織は効率的である一方、独裁の可能性が高くなります。

 今回の選挙は、小選挙区制の問題点を浮かび上がらせたということができます。とりわけ、優れた政治家を育てることは重要であり、国家百年の計と言えるでしょう。

ダーウィンと神とイモムシ

2009-08-27 10:48:32 | Weblog
「恵み深く全能の神が、イモムシの生きた体の中で養育するという明確な意図をもってわざわざヒメバチ類を造られたのだと、私はどうしても自分自身を納得させることができません」

 これはチャールズ・ダーウィンが友人に宛てた手紙の一節です(*1)。ヒメバチ類は他の生物の体に卵を産みつけます。孵った幼虫は宿主の体を食べて成長し、やがてその体を食い破って外に出ます。イモムシの体から数多くの幼虫が飛び出す光景はまことにおぞましいものです。映画「エイリアン」の、人間の体からエイリアンが出てくる衝撃的なシーンそっくりです。

 以前、私の子供が野菜についていたアオムシを育てていたとき、突然幼虫が飛び出すのを見て食欲をなくしました。これはアオムシコマユバチでモンシロチョウの幼虫に寄生します。(幼虫図鑑 動画・・・繊細な方には動画をお薦めしません)

 ダーウィンでなくとも、これが慈悲深い神が造ったものとは信じられません。体を食べさせてもらって成長し、最後に殺してしまう、まあこれ以上の恩知らずはないでしょう。

 ダーウィンの生きた時代、キリスト教は社会に強い影響力を持っていて、多くの人は幼少期から神の存在を信じ込まされていたと推測できます。ダーウィンがそこから逃れるのはきっと簡単でなかったのでしょう。

 現代なら宗教の影響力は小さく、ヒメバチを知らなくても、世の中の悲惨な出来事、戦争やテロ、病気や凶悪犯罪を知るだけで慈悲深い全能の神の存在を疑うに十分です。罪のない子供までが犠牲になる現実と慈悲深い神とはどう考えても整合性がとれません。

 ヒメバチのように、寄生虫は宿主に寄生し、そこで自己複製をして広がっていきます。宗教も人間に取り付き、自己複製して他人に取り付きます。そして世代や地域を超えて広がっていきます。そして一神教の歴史は戦争と殺戮の歴史でもあります。

 リチャード・ドーキンスは比喩の上手な人物ですが、彼は宗教を寄生虫、あるいはコンピューターウィルスに例えました。たいへん刺激的な比喩ですが、うまく核心を衝いたものです。もっともこの比喩はちょっとばかり顰蹙(ひんしゅく)を買いそうですが。

 巧妙に設計されたものは自己複製を通じて自動的に拡散していくわけで、設計者は継続的な努力が不要という優れたものです。2000年ほども昔に作られたプログラムが未だに命脈を保っているのは設計がよほど優れていたからでしょう。

 一旦寄生されるとその駆除はなかなか厄介です。功罪両面があるものの、所詮、宗教は人を騙すことなしには成立しないものであり、宗教組織は寄生拡大を推進するシステムです。それに対する非課税などの優遇措置は国がその活動をわざわざ支援するものであり、時代錯誤と言うべきでしょう。

(*1) R・ドーキンス「悪魔に仕える牧師」より

新聞記事が生む誤解・・・年収と進学率

2009-08-24 10:10:22 | Weblog
新聞記事が生む誤解・・・年収と進学率

 7月31日の朝日新聞大阪版一面トップは「大学進学 際立つ年収差」という大見出しで、親の所得によって大学進学率が大きく影響を受けるという記事です。小見出しは「200万円未満28% 1200万円超は62%」「4年制私立で顕著」とあり、年収と進路を表すグラフが載っています。

 4年制大学への進学率(縦軸)は年収(横軸)の増加とともに急角度で上昇している様子が見て取れます。調査は東大大学経営・政策研究センターによるものとされていますが、朝日の記事は元の資料とかなり印象が異なります。

 朝日に掲載されたのは元資料の図表2ですが、オリジナルのグラフは傾斜が緩く、朝日の載ったものは元のグラフの左右を縮めて傾斜を誇張したものであることがわかります。まあこれはよく使われる手です。

 さらに元資料には図表4として 国公立・私立別のグラフがあり、これを見ると国公立大学への進学率は200万円未満では10.6% 1200万円超は8.7%と大変フラットな形をしています。国公立大学に関しては親の所得は関係がないようであり、比例するのは4年制私立大学だけであり、議論はその点に絞るべきです。

 記事の下に、「社会全体の損失」という見出しで、広井良典千葉大学教授の解説が載っています。「大学進学はその後の賃金や失業のリスクなどに決定的な影響を与える。潜在能力があるのに、親の収入で人生を左右され、格差が親から子に引き継がれるのは、社会全体にとっても損失だ。(中略) 財政的な裏づけも含めて政治的にも議論すべきだろう」

 この朝日の記事をざっと読むと、親の収入が低いと進学が困難になり、それが子の収入に影響して格差が固定化する、だから教育には公的な支援が必要だ、と理解できます。各党のマニフェストでは教育支援が争点になっていますが、親の所得が進学率に支配的な影響を与えるというこの記事はその論拠を提供するものです。

 記事は正義の立場から問題を指摘しているように見えますが、はたしてこのその通りでしょうか。むろんそのような一面はありますが、この問題はもう少し複雑であり、別の角度からも見る必要があると思います。

 国公立大学への進学率に関しては、親の所得による影響が見られない点は朝日の記事本文でも少し触れていますが、もう少し注意を払うべきだと思います。少なくとも国公立大学への進学者には親の所得にあまり左右されない、比較的均等な機会があると見てよいでょう。

 一方、年間授業料は国立大で約54万円、私立大は約85万であり、差額は31万円です。4年制私立大学への進学率のみが親の所得に左右される理由を経済面だけで説明するのは難しく、それだけ強調すると誤解を招きかねません。学力や意欲など他の理由を考慮する必要があります。

 刈谷剛彦著『学力と階層』では両親の学歴、父親の職業などから捉えた「社会階層」、朝食を食べる、挨拶をする、決まった時間に寝るなどの「基本的生活習慣」と学力の間に関係があることを示したものです。また勉強に対する「努力」にも社会階層の影響があることを示しています。

 大変複雑な問題であり、少なくとも経済的支援だけで解決できるものではないと思われます。仮に支援によって進学率が高くなったとしても、大学進学率約80%の韓国のように卒業生の多くが就職先を見つけられないという状態にならないとも限りません。皆が行けば限界的な大学の選抜機能が低下するからです。大学卒が有利であるのはその選抜機能のために他なりません。

 上記の本によると、大学入学者のうち4割が無試験で入学し、大学生の75%が私立大学に在籍しているとされています。そして私立大学のうち半分は定員に満たないため、入学者の選別ができず、学力の低下が深刻な問題となっています。私立大学への進学率の年収による差を問題とするなら私立大学の実情にも少しは配慮すべきでしょう。

 むろん意欲と能力がある生徒が経済的な理由によって進学できない状況はぜひともなくす必要がありますが、進学率が親の年収に左右されるという記事を一面トップに掲げ、格差の問題として感情に訴えるようなやり方は適切なものとは言えません。

 複雑な問題を多くの人に正しく理解してもらうのは大変難しいことです。しかし社会を動かす力になるのは格差社会、市場原理主義、非正規雇用などの単純化された概念であり、単純化に大きい役割を担うのはマスメディアです。

 単純化はもとより不正確さを伴います。恣意的な、偏った単純化はさらに危険であり、誤った方向を示すことになりかねません。
(もっともこの記事に関しては、朝日新聞自らが単純に理解して書かれた可能性もあります。それはまた別の意味で憂慮すべきですが)

NHKまで娯楽製造装置

2009-08-20 10:06:37 | Weblog
 数日前の朝、テレ朝のワイドショーで「6日間の足どり、徹底取材」といった大きなテロップが映されていました。覚醒剤取締法違反容疑をかけられている酒井法子さんの逃亡経路を徹底的に調べようというものです。「調査報道」には違いありませんが。

 他人事ながら、私はこの番組を作っている方々の気持ちが気になりました。彼らはいったいこの仕事にどんな誇りをもっているのだろうかと。放送業は業種別の生涯給与で1位です。表口から(正規で)入社する人はエリートでしょうから、それなりの自負心をお持ちだろうと思われます。

 テレビは新聞と並ぶ、いやそれ以上の影響力があるメディアです。本来、ジャーナリストとしての志をもった若者がテレビ業界を目指すと考えるのが自然でしょう。しかし彼らの志を満たすような民放の番組はごく限られています。

 けれど、放送の大半が娯楽ものであることは今に始まったことではなく、現在の構成員の多くはそれを承知で入社してきた人であるという見方の方が現実的かも知れません。娯楽ものを志してきた人が主流を形成するとなると、ジャーナリズムとしての機能は大丈夫かと心配になります。まあ現状はそれを裏付けているようですが。

 テレビ局の形態は、新聞で言えば、大衆紙の片隅に高級紙が収まっているようなものと言ってよいでしょう。目指す目的が異なる二つの組織が同居しているわけです。視聴率を稼ぐ部門、つまり儲かる部門の支配力が強くなって、興味本位の番組が大半を占めるのは当然の成行きです。

 だからこそ、民放と競争する必要性が小さいNHKの存在理由があるのだと思われます。しかしこの数年、NHK総合テレビの報道姿勢は民放に接近しているように感じます。上記の覚醒剤取締法違反事件では繰り返しトップニュースで扱い、うち1回は夜7時の定時ニュースの1/3ほどを使っていました。

 このようなニュースで公共放送が民放と張り合っているようでは視聴料を払う意味が薄れます。殺人事件にも多くの時間を使い、現場の3次元模型まで制作するような娯楽化が定着しています。どうでもいいことを詳細に報道するという、民放のようなことをしてはNHKの存在理由が疑われます。

 またNHK総合テレビは1年ほど前から音量の変化が大きくなったように感じます。しばしば音量調節が必要になりました。番組の紹介と番組冒頭のテーマが流れるときなど、急に大きくなるように感じます。民放のCMの真似かもしれませんが、品がありません。

 NHKの現在の姿勢を見て、娯楽ものの制作に「高い志」を持つ若者が集まれば、娯楽製造装置への流れはより確固としたものになるでしょう。ここに一種の悪循環が生じると考えるのは杞憂でしょうか。

国の借金額最大を報道しない理由

2009-08-17 09:37:12 | Weblog
 「財務省は10日、国債と借入金、政府短期証券を合計した「国の借金」の総額が6月末時点で860兆2557億円になったと発表した。3月末に比べて13兆7587億円増え、過去最大額を更新した。税収減や経済対策に伴う借金が膨らんだため。7月1日時点の推計人口の1億2761万人で計算すると、1人あたりの借金は約674万円となった」(8/10 NIKKEI NET)

グーグルニュースで検索すると、主要紙のなかでこれを報道したのは日経、読売、産経で、報道しなかったのは朝日、毎日であったことがわかります。すべて見ていたわけではないので断定はできませんが、NHK総合テレビも報道しなかったものと思われます。

 小さな問題だと思われるかもしれませんが、メディアの認識を示すものと考えれば、その意味は小さくありません。財務省発表なので、朝日、毎日、NHKは知らなかったのではなく、知っていながら故意に報道しなかったものと考えられます。右寄りと言われる3社が報道し、左寄りとされる2社とNHKが無視したことは興味深いことです。

 借金が最高額になったという発表は、ことの重大さを知らせるよい機会です。にもかかわらず無視した朝日、毎日、NHKは財政赤字の状況を国民に知らせることが重要とは考えていない、と推定できます。無視したのは、彼ら自身に財政が危機的状況にあるという認識が乏しいためなのか、あるいは他の政治的な理由のためかわかりません。どちらにせよ納得できるものではありません。報道した3社もその扱いは大きいとは言えず、危機という認識は薄いようです。

 02年、日本国債は格下げされ、先進国で最悪、ボツアナと同じ格付けになったことが話題になりました。「私の任期中には、消費税率を引き上げない」という小泉元首相の発言は03年です。この当時から増税の必要性が議論されていたことがわかります。その後、3代の首相が続いた09年まで税率は上げられませんでした。さらに、次の民主党ら3党の共通政策では今後4年間は消費税率を上げないとしていますから、その場合は13年までは現行のままとなります。結局、03年からすると、10年間も増税せず、借金を増やし続けることになりそうです。

 文芸春秋9月号に「16兆円マニフェストを検証する」という記事があります。そこに日本の財政状況を家計に例えたわかりやすい話があるので概要を紹介します。

 『父親の年収(税収)は460万円、配当や貯金の取り崩し(その他収入)90万円を繰り入れ、さらに330万円を借金し、合計880万円になった。家計の4割近くを借金で賄うだけでなく、過去の借金残高が5500万円、利子の支払いだけで200万が消える』

 極めて危機的な状態であることは明らかです。しかし、今この家で議論しているのは金を何に使おうかということばかりで、きちんとした借金返済の計画を考える気持ちもないようです。刹那を楽しみ、「あとは野となれ山となれ」と言わんばかりの態度と映ります。

 アルゼンチンのような破綻が起きなかったとしても、先送りは解決をより困難なものにし、将来世代の負担を増やします。そして家計の例で言えば病気をするゆとりもないわけで、不測の事態が起きたときの選択の幅は確実に狭くなります。

 国の借金が過去最大となったことを主要メディアの半分が無視し、他のメディアもたいして大きく取り上げないという事実は、濃淡があるもののメディアが財政危機を深刻なものと認識していないことを示しています。日本の政府債務が先進国中最大になり、さらに悪化していく背景にはこのメディアの見識があると思われます。

 ドイツのメルケル首相は付加価値税(消費税)を16%から18%に上げることを選挙公約に掲げて政権を獲得しました。日本の公約は甘いものばかりと相場が決まっているので、両国の差に驚きます。GDPに対する政府債務残高比率が日本の1/3ほどの国で、国民が財政再建の方向を選択したことは注目に値すると思われます。

 ユーロ圏の財政規律に違反した状態という事情もあったようですが、少なくともドイツのメディアの見識が日本のメディアと同様であれば、増税が選択されることはなかったかもしれないと想像します。日本のポピュリズムを主導しているのは国民というより、むしろメディアではないかと思われます。

関連拙記事

謙虚と傲慢

2009-08-13 10:28:33 | Weblog
 先日クライバーンコンクールで日本人ピアニスト、辻井伸行さんが優勝し、賑やかな報道がなされました。優勝決定後のインタビューを見ていて、彼の清々しい、謙虚な態度が印象に残り、とても好感を持ちました。

 例外はあるものの、たいていの若者には謙虚さが備わっています。ところが年月を重ねると少しづつそれは失われていくのが普通で、とりわけ成功者ほど早く謙虚さをなくすという傾向があるようです。

 むろん成功してもしなくても謙虚さを失わない人があります。それは見ていて気持ちのよいものです。しかし謙虚さは好感をもたれるとわかっていても、それを続けるのはなかなか難しいようです。謙虚な態度は威厳を損なうとでも思うのでしょうか。あるいは周りからちやほやされて謙虚さなど必要のない偉い人間だと思ってしまうのでしょうか。

 反対に謙虚さが障害になることもあります。私は主にメディアのアラ探しをしていますが、こちらは謙虚な気持ちではできません。下から見上げるような気持ちでは欠点がわかりにくいのです。謙虚な気持ちを捨て、きっと間違っているだろうと疑う気持ちがあればこそ見えるものがあるわけです。

 謙虚さを失わずに批判するというような器用な人もあるでしょうが、凡人には難しいことです。ある人の意見を聞いてなるほどと納得し、対立する別の意見を聞いてまたなるほどと納得してしまう、若い頃にこのようなことを経験された方は少なくないと思います。批判するだけの知識量がないことが主な理由だと思いますが、謙虚さは相手に同調させる効果を持つように思います。それは批判能力の低下をもたらします。このような若者の特質につけこんでくる代表が拡張志向の宗教です。

 謙虚もよいことばかりとは言えず、傲慢も悪いことばかりではないと言えるかも知れません。

 外面(そとづら)は謙虚、内面は傲慢、はひとつの方法ですが、「謙遜は、最大のうぬぼれである」という諺の如く、見破られる恐れがあります。

がん検診無効論の危険性

2009-08-10 09:40:51 | Weblog
 日本の乳がんや大腸がんなどの検診の受診率はおおよそ25%で、約80%とされる欧米との差が問題とされています。十数年前、がん検診は無効・無意味だという説が論争をひき起しました。この説の主唱者、近藤誠医師の「それでもがん検診を受けますか」など著作のいくつかはベストセラーになったので、それが日本の受診率の低さに貢献している可能性がありそうです。最近でも別の著者による「がん検診の大罪」という本が出版されています。

 がん検診の不利益な点を指摘する程度ならいいのですが、これらの本はがん検診だけでなく治療の意味までを否定するもので穏やかではありません。もしそれが正しいなら、世界中で行われている検診や治療は誤りであり、大変な無駄をしていることになります。

 著者らは、がん検診を受けても総死亡率は変わらないという調査結果を根拠にがん検診が意味がないと主張しています。そして検診に意味がないなら早期発見の意味はない、したがって治療の意味もない、という論を展開しています。

 岡田正彦氏の著書「がん検診の大罪」(新潮社08/7)には「手術にも寿命をのばす効果はないと結論せざるを得ない。言い方をかえれば、検診を受けて見つかったがんを手術しても、がん検診を受けずに症状が出てから病院に駆け込んでも、寿命にかわりないということである」と書かれ、治療の有効性を否定しているように受けとれます。

 同書の冒頭には象徴的なエピソードが紹介されています。それはエアバッグとアンチロックブレーキシステム(ABS)装着車の安全性に関するアメリカの研究グループが行った調査結果で、「エアバッグとABSの装着車では、事故がむしろ増えてしまい、またケガの程度も重傷になりなすい」という驚くべきものです。

 著者はこの調査を正しいとし、「エアバッグの安全神話はもろくも崩れ去った、と言えるのではないだろうか」と述べています。調査結果を解釈するにはいささかナイーブ過ぎる態度ではないでしょうか。

 注目すべきはアメリカの研究グループの動機と意図です。自明とされている装置の安全性を再確認しても意味がなく、注目もされないわけで、安全神話をひっくり返すという意図があったと考えられます。ならば彼らの調査結果には何らかのバイアスが働いていた可能性があると疑うべきです。統計調査に恣意性が入り込むのは珍しいことではありません。

 ご承知のようにエアバッグとABSの装着車は自動車保険の保険料が安くなります。これはこの装置が損害を減らすという多くの調査結果があればこそ実現したものだと考えるのが普通です。上記の調査結果だけを信じ、エアバッグとABSの効果はないと決めつける著者の思考方法が大変気になります。この思考方法は検診無意味論に引き継がれます。

 彼らの説の根拠である、検診によって総死亡率は変わらないという海外の調査結果がいくつか存在することは事実でしょう。私はそれを評価できませんが、彼らの説はこの調査結果を確信し、それを土台にしたもので、これが崩れるとたちまち根拠を失います。海外の調査にそれほどの信頼をおいていいものでしょうか。この調査のいくつかはメディアで報道され広く知られていますが、彼らだけがこれを根拠とする極論を引き出したのは何故なのでしょうか。

 検診だけでなく、治療の有効性までを否定することは医療に重大な影響を与えます。彼らの説を信じて治療機会を失う可能性が十分考えられるからです。

 強く疑問に思うのは、もし間違っていたら治療機会を奪うという重大な影響を予想できるにもかかわらず、なぜ批判能力のない読者に向け、一般書という形で出版したのかということです。先に学会誌に出して同分野の研究者の批判に耐えることを確かめてからにすべきでしょう。

 近藤氏はがんを「がんもどき」と「本物がん」に二分して、前者は放置しても問題がないもの、後者は微小な段階から転移していて治療効果がないものものとし、両者とも治療の意味はないとしています。もしこれが正しいとすると、手術や化学療法のマウス試験や治験では治療群と対照群に差が生じないことになる筈です。現在の治療法は両群に差があるからこそ有効とされてパスしたものであり、この点をどう考えればよいでしょうか(もし間違っていたら、ご教示いただければ幸いです)。

 世界的にも大変重要な問題ですから、もしも「がんもどき理論」が本当にまともなものであればサイエンスでもネイチャーでも載せてくれると思います。

 私は両氏の本を専門的に評価する能力はありません。しかし、検診無意味論には素人なりに疑問が多く感じられます。

 受診を左右するような説は十分な確かさがあって初めて一般に広めてよいものです。単なる思いつきとも評される「がんもどき理論」などの検診無意味論を一般向けに出版することは大きい危険が伴います。検診をやめさせる行為はフェイルセーフではなく、フェイルアウトであり、取り返しがつきません。

 これがもし誤りであったなら、受診率の低下によって死亡者の増加を招きます。著者達はもちろん、出版した文芸春秋社、朝日新聞社、新潮社も責任を免れません。どちらの本も一見科学的に書かれており、信じる読者は少なくないと思われます。数百万部が売れたのなら、その1割が信じたとしても被害者は膨大です。それが数十億円(印税は数億円)とみられる書籍売上げの代償では救われません。

「個性を伸ばす教育」の成果

2009-08-06 10:12:04 | Weblog
 店頭などで、変わったペンの持ち方をする若者をよく見かけます。昔ながらのオーソドックスな持ち方はむしろ少数派ではないかと思えるほどです。ペンを手前に傾けるのではなく反対側に傾けて書く人、鉄棒を握るようにペンを握る人、「個性的」な人の多いことにしばしば驚きます。それは彼らが育った時代の教育思潮の象徴のように私には思えます。

 子供の自主性を尊重し、個性を伸ばす自由な教育と言えば、確かに素晴らしいものに見えます。知識を詰め込むという従来の教育方法に対して、子供が自らの課題によって自由に学習するという方法はゆとり教育でも支持されました。

 敗戦を契機として、それまでの教育が否定され、大きな変化をすることになるのですが、そのあたりの事情を教育の著書がある、小児科医の田下昌明氏は次のように説明しています(北方ジャーナルより、一部要約)。

「アメリカ教育使節団(46年と50年)の構成メンバーは、ほとんど全員がジョン・デューイという哲学者の弟子、あるいはその亜流だったのです。彼らの思想は自然主義といって、子供には無限の可能性があって自分で勝手に可能性を開花させるんだから、才能を引きだそうとしたり、何かを教えるような余計な手出しは必要ないという考えなんです。その考えが正しいと言われたものですから、なんだそれじゃあ放っておけばいいんだと、こういうことになってしまった」

「終戦直後はまだ当時の祖父母世代は健在で、伝統的な育児法が守られていました。しかし、戦後20年の間に家庭内の祖父母の力が少しずつ落ちていったんです。核家族も出現しました。60年代の後半あたりで当時の日本の祖父母たちは育児に出る幕がなくなったのです。そしてちょうどこの時期に、デューイの思想を具現化したベンジャミン・スポックの本『スポック博士の育児書』が日本で出版されて大変なベストセラーになりました」

 これは戦後の教育界を支配した思潮の背景を説明したものですが、これに加え、戦争につながったものとして戦前の教育をことごとく否定するような風潮が強く後押ししたと思われます。ごく簡単に言うと「型に嵌める教育」から「自由に学ばせる教育」への移行したわけです。家庭教育ではペンの持ち方が「個性豊か」になるという成果を生み、学校教育では「ゆとり教育」を産み出すことになりました。

 私は終戦直後に幼年期を過ごしたものですが、戦前育ちの両親から、してはならないこと、善悪の基準、生活の方法などを教えられました。嘘をつくことには、たとえそれが合理的であったとしても、未だに強い抵抗があります。フロイトは幼年期に教え込まれた道徳・倫理を超自我と呼び、それは道徳的規範として内面から規制する仕組みであるとしました。もし幼年期に道徳・倫理を教えなければ、内面からの規制がない、つまり罪悪感のない人間ができあがるということになります。

 ペンの持ち方だけならたいした問題ではないのですが、他の基本的なことについても「自由にのびのびと育てた」のであればちょっと心配になります。少なくとも初等教育までは社会生活に必要なこと、共通する知識を教え込む「型に嵌める教育」を大切にすることが必要だと思います。

 「個性を伸ばす教育」と異なり、「型に嵌める教育」は決してよいイメージではなく、戦後、軽視され続けました。しかし、共通部分をあまりもたない個性的な人間とはいわば変わり者です。変わり者ばっかりの社会は困るわけで、猫の集団に共同作業を頼むようなことになります。共通部分を作り上げることは大切であり、文化を次世代へ伝達することでもあります。

マスコミ主権と財政危機

2009-08-03 21:53:43 | Weblog
 今回の総選挙ではバラマキ方法の優劣に注目が集まっているようです。その一方で財源が明確でないという批判があります。そして、過去に積み上がった巨額の政府債務の返済問題は争点にもなっていません。

 IMFの見通しによると日本の政府債務残高のGDP比は07年の188%から14年には239%に増加するとされています(8月31日の日経)。驚いたことに、これは終戦直後の混乱期に匹敵するレベルだそうです。この後、超インフレとなり国民の金融資産のほとんどが踏み倒されてしまったことは周知の通りです。インフレは借金の棒引きです。

 
 むろん同様なことが起きるとは限りませんが、今の借金状況は先進国の中では最悪とされ、この先、楽観できそうにありません。8月1日の朝日の政権公約に関する解説は「何よりも800兆円にまで膨らんだ国や地方の借金をどう返していくのか。その道筋は自民、民主両党の政権公約にはうかがえない」と、大変まともなことを述べています。

 今回の不況を受けて、2011年とされてきた基礎的財政収支(プライマリーバランス)の黒字化の目標年次が簡単に撤回され、2020年代初めと大きく後退する見込みとなりました。メディアがこれを大きく報道することはなく、この問題に対する無関心、危機感のなさを示しています。

 政府債務は2020年代初めまで、つまり今後9年から14年間程度は増加していくという予定ですが、これに危機感をもつ人は少数のようです。債務問題は数年前から何度も指摘され、改めて言う必要はないのですが、問題はその重要性が国民に認識されず、政党の政権公約にも載らないことです。

 破局はたいてい一気に訪れます。不連続な破壊的変化(カタストロフィ)は直前までわからないことが多いものです。リーマンショックがよい例です。政府債務がこのまま増加すれば国債の消化難、金利の上昇、円の下落、インフレなどが起こり、どのような危機や混乱が生じるのか、わかりませんが、負担を将来世代に押しつけることは多分確かでしょう。少子化が進めば1人当たりの負担はさらに大きなものになります。

 嫌なことから目を背け、目先のことばかりにとらわれる政権選択は問題を先送りするだけでなく、さらに深刻な借金地獄を招くことになります。借金と利子を借金で払うことになり、債務は雪だるま式に増えて、いずれ限界点に達する思われます。09年度一般会計では国債が税収を上回るとされており、限界が遠くないことを示しています。少なくとも選挙の争点のひとつにすべき重大な問題ではないでしょうか。

 では、バラマキの方法を重視した有権者の投票行動によって、長期的視点を欠いた政党が政権を獲得し、数年後に財政危機を招いた場合、責任を負うべきは政権政党と、彼らを選択した有権者なのでしょうか。

 図式的になりますが、投票する有権者は全体としてひとつの巨大な入出力装置(関数)と見ることができます。入力(独立変数)は情報であり、出力(従属変数)は投票結果です(*1)。そしてその入力情報のほとんどを管理しているのがマスコミです。有権者個々の性質は様々ですが、集合体としては平均的なものになり、賢明でもなく、また愚かでもない性質だと考えてよいでしょう。

 マスコミは入力情報をほぼ独占しているわけですが、もし国の借金の現状や将来の借金地獄の恐ろしさを徹底的に知らせば、国民は危機感をもち、政党は借金処理の道筋を示さざるを得なくなります。そして投票行動は変わることでしょう。それには吉兆事件でやったように、一面トップの報道を数日間にわたり続ければよいだけのことです。もっともマスコミ自身が政府債務の問題を正しく認識できる能力を持つことが前提となりますが。

 国民の政治的成熟度とか民度とか言われますが、それはマスコミの成熟度や見識に支配されると考えてもよいと思います。逆に読者・視聴者に迎合する場合は相手に合わせる必要がありますから、マスコミは読者・視聴者の影響を受けます。視聴率などを優先するために、迎合が度を超すとマスコミ自らがホピュリズムに染まります。両者は影響しあっているので、一方的な関係ではありません。しかしどちらかというと有権者は受動的な立場だと思われます。

 マスコミは第4権力と呼ばれています。不祥事を起こした政治家や企業を集中報道によって引きずりおろすという直接の権力行使もありますが、選挙を支配することによって間接的に権力を行使していると考えられます。この場合は、第4権力というよりもマスコミ主権と言うのがふさわしいかもしれません。ただ、この権力の困ったところは責任の所在がはっきりしないことです。

(*1) y=f(x)とすれば yは投票結果、xは情報、fは両者の関係を決める関数となります。