噛みつき評論 ブログ版

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思想は虚構に過ぎない

2010-12-02 10:42:56 | Weblog
「思想というものは、本来、大虚構であることをわれわれは知るべきである」
11月21日の毎日新聞のコラム、反射鏡によれば、40年前の三島由紀夫の自決直後、司馬遼太郎は「異常な三島事件に接して」と題する3000字を越す文を毎日新聞に寄稿したそうで、これはその文中の言葉です。

 司馬は「幕末の思想家、吉田松陰を引いて「思想」がいかに取り扱い注意の危険物であるかを論じながら三島の思想(=美)と自決との関連を解析した」と同コラムは解説しています。

 一方、季刊誌「考える人」にはこれに関連する記述があり、一部を引用します。

『三島自決の1ヶ月後に行なわれた鶴見俊輔との対談「日本人の狂と死」も興味深いものです。ここで司馬は、終戦の直前、米軍の本土上陸の際には東京に向かって進軍して迎え撃て、と命じた大本営参謀に、途中、東京からの避難民とぶつかった場合の対応を尋ねます。すると、「その人は初めて聞いたというようなぎょっとした顔で考え込んで、すぐ言いました。……『ひき殺していけ』と」。司馬は「これがわたしが思想というもの、狂気というものを尊敬しなくなった原点です」と語ります』

 司馬はこの終戦直前の経験から思想というものに懐疑心を持ち続け、その後の洞察を通じて「思想は虚構」という結論を得たのでしょう。当時、思想というものには今より高い価値が与えられていたと思われるので、この司馬の言葉はずいぶん刺激的であったことでしょう。

 まあ司馬は三島の自決を思想に結びつけて理解したわけですが、三島は思想が虚構であることを承知の上で自決を選んだ可能性も否定できないと思います。現実的なものに価値を見出せなくなったとき、敢えて虚構の世界に身を投ずることは考えられないことではないからです。

 思想に神秘的な味付けをすれば宗教になります。「思想は取り扱い注意の危険物である」も巧みな表現だと思いますが、これは宗教にもそのまま適用可能です。思想や宗教の持つ影響力の大きさを考えると、人間の頭というのはこうした観念に易々と騙されやすく作られているものだ、とつくづく思ってしまいます。

 私なら、司馬の言葉をもっとわかりやすく「あらゆる思想と宗教は嘘っぱちである」と言いたいところです。いささか品に欠けますが。

二重課税を廃した主婦の功績

2010-10-21 11:00:11 | Weblog
 年金型保険に対する相続税と所得税の二重課税で国が敗訴したことを受けて、払いすぎた所得税の還付手続きが始まりました。今回分は05~09年分の6万~9万件で、還付金は総額60~90億円に達するとされています。

 この恩恵を受ける方は少なくありませんが、これは長崎市の主婦と税理士の7年にもわたる努力の結果だそうです。しかも一審は大勢の国側代理人を相手に本人訴訟で勝ったのですから痛快です。二審では敗訴、そして最高裁で勝訴となって長年の苦労が報われたわけですが、その代償としてご本人に返ってくるのはたったの2万5600円だそうで、とても自分の利益のために出来ることではありません。

 やや特殊なケースですが、私も理不尽と思われる課税に直面したことがありました。しかし訴訟の苦労や納税者側の勝つ確率が10%程度であることを考えると、とてもそんな気にはなれませんでした。したがってこのお二人には頭が下がります。長年の二重課税という誤りを正し、公共の利益に尽くされたわけですから、国はその労苦に報いるためこのお二人を表彰すればよいと思います。それは度量の大きさを示すことになるでしょう。・・・度量がなければ仕方ないですが。

 ところで、課税に異議がある場合、訴訟という方法が用意されているわけですが、それにはたいへんな長期の裁判を覚悟する必要があるようです。この困難さが訴訟の実質的な障壁となって、不適切な課税が放置されていると言えるでしょう。とくに今回のケースでは二重課税されていた納税者数が多く、長時間を費やす裁判は大きく公共の利益を損ないます。時効を延長して過去10年までの分を還付するということですが、それ以前のものは泣き寝入り、すなわち国がネコババすることなります。裁判が長引くほど国のネコババ金額が大きくなるという仕組みです。

 還付を受ける数万人の人は労せずして利益を受けます。つまりフリーライダー、タダ乗りです。この主婦の方らの働きに感謝して、たとえ1%でもカンパをしたらどうでしょうか。1%でも数千万円になります。まあそうなれば税務署が「こちらにも寄こせ」と所得税を取りに来るでしょうけど。

男の顔

2010-10-18 07:51:16 | Weblog
 リンカーンは閣僚として推薦された人物に対し「顔が気に入らない」と言って同意せず、「顔で決めるのですか」との質問に対し、「40歳を過ぎれば、誰でも自分の顔に責任を持たなければならない」と答えたそうです。これは大宅壮一の有名な言葉、「男の顔は履歴書」とほぼ同じ意味で、ある程度の歳になれば顔に対する責任は親ではなく自分にあるということでしょう。

 優しい顔、怖い顔、善良そうな顔、悪辣な顔、神経質な顔、鈍感そうな顔、噛みつかれそうな顔・・・、いろんな顔があり、我々は顔から様々な情報を得て他人を判断する材料にします。大宅壮一が「男の顔」と限定した意図は知りませんが、私にとっても男の顔の方がより多くのことがわかるように感じます。女の顔の解釈が難しいのは思わず知らず「邪念」が入るからかもしれません。

 むろん腕白小僧のような顔をもつ人が有能な人格者であったり、優しそうな人物が残虐な人間であったりと、例外は少なくありません。しかしその相関はかなり確かである思われ、人を判断する材料としての有用性は十分にあると思います。また顔という、もっとも目立つ表看板にその内面の状態が書き記されているということはたいへん興味深いことです。

 単独行動をするネコには表情の必要がなく、ほとんど無表情ですが、共同生活を営むヒトには30個ほどの表情筋があり、複雑な表情を作ることできます。渋面ばかり作っているとそのような顔になるといわれるように、長年にわたる様々な表情の集積が顔に表れるのだ、と考えられるようですが、まあ本当のところは知りません。

 心理学者ポール・エクマンは、怒り、悲しみ、恐怖、驚き、嫌悪、喜びを表す表情が文化に依存したものでなく、人類共通の生得的なものであることを示したとされていますが、表情によるコミュニケーションは社会集団には大きい意味をもちます。したがって他人の表情からその意味を読み取ることは重要であり、顔を注視することで、表情だけでなく、顔から様々な情報を読み取る習性ができたのでしょう。

 少し前、核密約を取り上げたドキュメンタリー番組を見たのですが、密約の「主人公」佐藤栄作元首相の歴史を刻んだような締まった顔がとても魅力的に見えました。その大きな業績から生じる心理的なバイアスがあるかもしれませんが、吉田茂元首相や明治の元勲達の顔はなかなか魅力的なものが多いと感じます。

 歴史上の人物達と比べるのは少々酷かも知れませんが、残念ながらこのような魅力ある顔を今の政治家に見出すのはちょっと困難です。最近、政治家の質が低下したとよくいわれます。一部の例外はあるものの、たしかに顔を見てなるほどと思うことがよくあります。もしリンカーンにならって「顔が気に入らない」などと言えば、誰もいなくなった、なんてことになるかもしれません。

見当違いの司法改革

2010-10-12 10:11:54 | Weblog
 郵便不正に関する事件は検事の逮捕にまで発展しました。強い権力を持ち、正義の味方である筈の検察が証拠改ざんというとんでもない不正義を行っていたことがバレたわけで、これ以上の大恥はないでしょう。前田検事に続き逮捕された大坪前部長と佐賀前副部長のお二人は最高検と相争うという「仲間割れ」状況であり、まさに恥の上塗りの感があります。

 この内輪もめの内容はいろいろいと報道されていますが、双方の言い分に食い違いがあり、本当のところはわかりません。ただ何人かが嘘をついていることは確かです。検事は他人の嘘を暴くのが仕事だと思っていたのですが、自らも嘘をおつきになることがわかりました。

 また証拠改ざんという衝撃の大きい事件であるために、上司お二人の逮捕は最高検が国民の怒りを鎮めるためにささげた生贄という意味があるような気がします。その点、お二人にはたいへん不運なことです。

 余談はこれくらいにして本題に入ります。検察は村木厚子氏の関与がなかったことを知りながら罪人に仕立て上げようとしたことが強く疑われています。これは市民の生命を守る警官が実は殺人者であったり、信じていた神父が実は悪魔の手先であったようなようなものです。

 この事件では上村氏など複数の関係者の供述調書に村木氏の関与を示す記述があったとされています。これらはその後の証言で否定されましたが、それにしても関係者から予定されたストーリーに沿う供述を取る能力の高さに改めて驚きます。11日の新聞には大阪地裁の公判で別の検事が脅迫的な取調べをしていた疑いが浮上とありましたが、なるほどと深く納得した次第です。

 反面、依頼したとされた石井議員の依頼日時の裏を取っていなかったことや、捜査報告書には偽証明書作成の日付が正しく6月1日と検察側の構図と矛盾したことが書かれ、それに初めて気づいたのが村木氏本人であったことが明らかにされました。

 この事件で明確になったのは証拠改ざんやその犯人隠避だけではありません。無理やり供述調書を作る場合の検察の素晴らしい能力と、緻密な論理で事件を解き明かす場合の低い能力の両方を天下に知らしめました。これらも負けず劣らず深刻な問題です。そして事件のポイントとなった偽証明書作成の日付に初めて気づいたのが、検察側でも弁護側でもなく、素人である村木氏本人であったことも重要な意味を持ちます。

 もし被告人が村木氏のように自ら矛盾を発見できる有能な人でなかったなら、結果は有罪となっていたかも知れません。これは司法全般への信頼が揺るぎかねない問題を含んでいます。エリートといわれる特捜部が手がけ、世間の注目を浴びた事件でさえこの程度のいい加減さならば、関係者以外には知られることのない多くの事件ではさらにいい加減ではないか、と疑われるのが自然の成行きです。日本の司法は精密司法であると法曹関係者は自慢していましたが、どこが精密なのでしょうか。

 司法制度改革によって裁判員制度、法曹人口の大増員などが実現しました。司法という壮大な建築物は民主化という飾りを施され、見かけだけはよくなりました。しかしいつの間にか土台が腐っていたことが明らかになりました。一部だけが腐っているのか、あるいはさらに広い範囲が腐りかけているのか、わかりませんが。

 例えばの話ですが、裁判員でなく素人の「検察員」を検察に送り込めば少なくとも取調べの可視化をしなくても脅迫的な取調べを防げます。素人の裁判員でも複雑な事件の全容を十分理解し適正な判決を下すという難しい作業ができるとされているわけですから、素人は検事の仕事ができないとは言えないでしょう。

 司法改革はさほど大きな欠陥があったわけでもない裁判制度を改変し、裁判に素人の裁判員を参加させました。しかしそれは大きな見当違いであって、本当に改革が必要であったのは検察ではなかったのでしょうか。

尖閣問題、反中デモを報道せず

2010-10-04 10:10:17 | Weblog
 10月2日、尖閣諸島沖での中国漁船衝突事件をめぐり、日本では東京など7都市で中国に対する抗議デモが行われ、渋谷では2600人が参加したとも言われています。主催は田母神俊雄氏が会長を務める右派系の全国ネットワークです。検索で調べた限りですが、報道機関でこれを報じたのはAFP(日本語版)CNN(日本語版)、ロイター、WSJ、香港メディアの鳳凰網、シンガポールのチャンネル・ニュース・アジアなどであり、報道した国内メディアは皆無です。

 日中関係への関心が強くなっている現在、このニュースの価値は決して低くないと思われます。それは海外メディアが取り上げていることからもわかります。また2日には他のニュースを追いやるほどの重大ニュースはなかったので、国内メディアには何らかの圧力、あるいは配慮や忖度が働いたのではないかと勘ぐりたくなります。

 尖閣問題では、中国船の船長が釈放されるまで日本メディア冷静さが目立ちました。9月8日の船長逮捕の後、この問題を社説で取り上げたのは産経が最も早く14日、もっとも遅かったのは22日に初めて取り上げた朝日で、2週間後となっています。文末に関連した社説の表題を掲げましたが、中国よりの新聞ほど報道に消極的である様子が伺えます。例外は産経で25日までに5本を掲載し、船長釈放直後の25日、各社がそろって出したなかでも政府の措置への批判が際立ちます。

 領土問題、とりわけ中国や韓国との問題はナショナリズムを刺激しやすいと言われていますが、今回、国内であまり騒ぎが起きなかったのはこうした報道姿勢によるところがあるのでしょう。9月2日のデモが黙殺されたのもこのようなメディアの姿勢によるものとすれば辻褄が合います。しかし喜んで報道しそうな産経まで黙っていたのは報道の自粛以上のものがあったのではないかとの疑いが残り、不気味です。

 独裁国など、情報統制された国の国民は海外メディアによって初めて事態を知ることがあります。今回のデモ報道はよく似た有様で、恥ずかしいことに自由な言論が保障された先進国の出来事とは思えません。

 むろんナショナリズムを煽るような報道はよくありません。しかしだからといって隠してしまうのは間違っています。ナショナリズムの発露が事態をいっそう困難にするといった判断があったとしても、メディアがそれを恣意的にコントロールしようとするのは傲慢な越権行為でありましょう。戦前、国民の士気を低下させないためという理由で、不利な戦況を報道しなかったのと同様です。

 一方、メディアスクラムという言葉はひとつの事故・事件に同じような横並び報道が集中するという、メディアの付和雷同体質を指しますが、今回のように全てのメディアが一斉に黙殺するのも同じ体質の現れであると理解できます。全てのメディアが隠せば、事件があったことは無論のこと、隠したこと自体もわかりませんから、より厄介です。

 メディアは民意、民意という表の顔とは裏腹に、国民の判断は信頼できないという考えを密かに持っているのでしょう。腹の底では愚民どもよりも我々の方が正しい判断ができるというふうに。でなければ世論をリードするという自負が成り立たなくなります。

 しかし過去の報道を見てきた限りでは、メディアの判断に全幅の信頼を置くことは残念ながら期待できそうにありません。いっそ独立性の強い海外メディアに来てもらい、主要メディアの一角を担ってもらえば多様で自由な報道が実現するかもしれません。

朝日新聞
9月22日付 尖閣沖事件―冷静さこそ双方の利益だ
9月25日付 中国船長釈放―甘い外交、苦い政治判断
毎日新聞
9月21日付 閣僚交流停止 冷静さ欠く中国の対応
9月25日付 中国人船長釈放 不透明さがぬぐえない
読売新聞
9月16日付 尖閣沖漁船衝突 中国は「反日」沈静化に努めよ
9月25日付 中国人船長釈放 関係修復を優先した政治決着
産経新聞
9月14日付 対中姿勢 尖閣の守り強化が課題だ
9月17日付 反日運動 中国は邦人の安全を守れ
9月23日付 菅・オバマ会談 日米で尖閣防衛確認せよ9.23 02:37
9月23日付 尖閣漁船事件 危険はらむ中国首相発言9.23 02:37
9月25日付 中国人船長釈放 どこまで国を貶(おとし)めるのか
日経新聞
9月21日付 中国は対立激化を抑える冷静な行動を
9月25日付 筋通らぬ船長釈放 早く外交を立て直せ

中国に仕える歴史学者

2010-09-30 22:57:00 | Weblog
 中国の姜瑜報道官というと、いつも怖い顔をして日本を非難する人というイメージなのですが、今回の尖閣諸島問題に関し、興味ある人は井上清・元京大教授の著作を読めと言ったそうです。

 井上清は真っ赤な歴史学者として有名な人物ですが、調べてみると1972年に『「尖閣」列島--釣魚諸島の史的解明』という本があり、列島は元は中国のものであり、日本が奪い取ったものであるという内容です。本書の第一部はこちらで読むことが出来ます。アメリカ帝国主義、日本帝国主義、反動的支配者などのなつかしい言葉が頻出する、まさに「歴史的な」遺物の感があります。

 1972年というと中国が領有を主張し始めた直後であり、この本はその主張を受けて書かれたようです。尖閣諸島は中国領だという主張が日本側から出たことは中国を大いに喜こばせたことでしょう。井上は後に中国社会科学院から名誉博士号を授与されたそうです(Wikipedia)。

 この井上という学者は学問に名を借りて、自分の国の利益、つまり自国民の利益に大きく反する行為を平然とやっていたようであります。約40年後の現在、中国が持ち出してくることはその影響の大きさを物語っています。

 ガリレオが「それでも地球は回っている」と言ったように、学問に忠実であろうとした結果、中国の領有権を認めるならまだしも、この人の場合は政治的な意図が透けて見えるようです。また自然科学の場合、一般に正しい解があり、正誤はいずれはっきりするものですが、領有権などの歴史解釈の問題は正解がないことが普通で、見る角度によってどうにでもなります。歴史解釈が政治的立場によって決まることは珍しくなく、政治色に彩られた歴史学はもはや学問とは呼べません。

 南京大虐殺は日本の左翼メディアがわざわざ掘り起こして騒いだ結果、中国の反日運動に大きな力を与えたものですが、この解釈も立場によって大きく分かれています。左翼は30万人などと大きく解釈して被害を強調するのに対し、右翼は数万人規模と小さく解釈します。左翼は中国の国益を優先する傾向があるようです。数えた人がいるわけでなく、恐らく真相は永遠にわからないことでしょう。

 左翼の基本的な動機のひとつは日本の軍国主義、帝国主義に対する嫌悪です。しかし皮肉なことに彼らが崇拝した中国がいまやっていることは、軍備を拡張し、なりふりかまわず領土の拡大を目指す姿はかつての帝国主義とそっくりです。おまけに言論の自由もないわけで、井上センセイが生きていたらなんと言われるか、ぜひ聞きたいものです。

防衛力強化の議論はタブー?

2010-09-27 10:07:33 | Weblog
 吉村昭著「ポーツマスの旗」は日露戦争時、日本側全権として講和会議に臨んだ小村寿太郎を中心に描いた小説です。政府は会議を有利に運ぶため、和平斡旋を引き受けたルーズベルト大統領と米国民をもちろん、要員を主要国に派遣しその国の世論をも味方につけるための努力が詳細に描かれ、当時の外交の周到さに驚かされます。一方、尖閣諸島沖の事件に対する政府の対応は別の意味で驚かされました。

 尖閣諸島沖の事件で中国人船長が釈放された問題に関しては既に様々な立場からいろいろな見方が発表されていて、私のような素人がどうこう言っても所詮二番煎じだと思うのですが、ちょっと気になることがあります。

 この事件は将来に禍根を残す日本外交の敗北であり、民主党政権の外交能力の低さを露呈したというのが多数の見方のようです。そして同時に中国は予測不可能な動きをする国家であるということが示されました。民主党政権の外交能力も困った問題ですが、こちらの方がより不気味な問題です。相手の行動が予測困難であるということはあらゆる事態に備える必要があるということになります。

 石原知事の「暴力団の縄張りと同じやり方」という発言のように、フジタの4名は人質となりました。外務省幹部は売春や麻薬で捕まっている日本人への死刑も含めた刑の執行を予測し、防衛省関係者は中国軍艦の尖閣周辺への派遣もあり得ると見ていたそうです。中国の行動は帝国主義の時代、日本をも含めた列強を思わせます。

 中国はこの20年間に軍事予算を18倍にし、空母建造など海軍力の強化を図っているとされています。それは将来、軍事的威嚇や軍事行動の必要があると考えているからでしょう。しかし近年の日本の防衛予算は逆に減少傾向にあります。まともに話も出来ない隣国が強大な軍事力を持ち、しかも膨張政策をとっていることは日本にとって大きな不安要因です。

 さらに日本は憲法9条によって手足を縛られていて、中国から見れば安心して軍事的な恫喝ができる国に見えることでしょう。日米関係の弱体化は中国に対し有利に働きます。鳩山元首相は日米関係に深い溝を掘るという大きな「業績」を残しました。中国から勲章を贈られてもおかしくありません。

 隣国による軍事的な脅威が顕著に増加しているとき、日本の防衛力だけ現状のままでよいとする根拠があるとは思えません。勢力の均衡が破れるとき、しばしば戦争が起こることは歴史が教えています。

 しかし、日本では軍事力の強化は戦争につながるという考えが強く、その議論さえできない状況が続きました。今回の事件でも抑止力の問題を取り上げたメディアは見あたりませんでした。

 鳩山元首相は首相になってから抑止力の重要性を理解されたようですが、抑止力は米国だけによるものではなく、自衛隊による抑止力も重要なものであり、外部環境の変化に対応する必要があります。中国が恫喝したとき、国内に防衛力強化の議論が出てくるだけでも中国に対する牽制となるでしょう。

 現在の防衛予算は子供手当て(満額の場合)より少ない額ですが、長期に抑止力を維持するためにはどの程度必要なのか、私にはわかりません。しかし抑止力について現実的な議論ができないような状況は好ましくありません。

 中国がどのような国になっていくか、予想は困難です。したがってメディアは相手も変わっていくという前提で、予想されるすべての状況に対応できるような体制実現の必要性を認識すべきでしょう。9条を死守するといった硬直した態度では自ら選択の幅を狭めてしまうことになり、情勢の変化にうまく対応できるとは思えません。中国にとっては願ってもないことですが。

米核実験を蒸し返す朝日の意図

2010-09-20 10:04:58 | Weblog
 9月19日の朝日新聞は異彩を放っています。一面トップを飾るのは「ビキニ死の灰 地球規模」と題する米公文書を紹介する記事です。米気象局が中心になってまとめられたこの報告書は1984年に機密解除され、今年の3月には米エネルギー省のホームページに掲載されていたそうです。既に明らかになっていたものがなぜか突然一面を飾りました。

 記事は、1954年3~5月にビキニ環礁で行われた水爆実験による放射性降下物の分布を示した地図を転載し、ビキニ環礁から東西に長い楕円状に降灰が広がり、日本や米国、アフリカ大陸など世界中に降灰があったとしています。高濃度の部分は赤道付近を中心に東西に広がっていて、米国南西部の降灰量は日本の5倍という記述もあると書かれています。日本は低濃度の地域となります。

 当時に近海を航行して被爆した船舶は延べ千隻を超えるとも言われ、がんなどの健康被害を訴える元乗組員も多いが、日米両政府は55年に7億2千万円の補償金で政治決着し、第五福竜丸以外の被害実態の調査はその後調査されなかった、としています。

 記事の表面的な意図は56年前の核実験による降灰の範囲が予想外に広く、被爆実態を調査してその対策を促すことにあるように見えます。

 ところが降灰量は1平方フィートの粘着フィルム上で1分間に崩壊する原子の数(d/m/ft^2)で示され、生物への影響などに用いられるシーベルトなどの単位との関係は明らかにされていません。また航空機に搭乗したときの被爆線量、あるいは自然放射能に比べてどの程度のレベルなのかも、まったくわかりません。

 もしこのような地球規模の降灰が心配されるなら、旧ソ連と中国の核実験の降灰の影響はより深刻なものとなることが考えられます。とくに中国は近距離である上、偏西風に乗って黄砂のように降り注いだ可能性があります。中国とソ連の実験に全く触れないのは理解に苦しみます。

 1984年に機密解除された報告書を速報しても意味がありません。時間をかけてどの程度の影響があるものかを明らかにして、無視できないものであれば報道するのがまともなやり方です。このような記事を影響の程度もわからぬまま一面トップで報道すれば読者に無用の不安を与える可能性があります・・・反米感情の「促進」と共に。

 この記事が科学に弱い人たちによって作られたことは容易に想像できますが、それにしてもこんな意味の不確かなものを一面トップ載せることには何らかの意図が感じられます。朝日は同盟国である米国の核実験を強く非難する一方、中国、ソ連の核実験はほぼ黙認するというダブルスタンダードを実践してきたことは周知の事実ですが、いまだにその体質を引きずっているのでしょうか。

 今のところこのニュースを報道したのは朝日とVoice of Russia(日本版)だけのようです。ロシアのメディアが取り上げる理由はおわかりでしょう。こんなニュースを報道するメディアは他にはないだろうと思われます。朝日の亜流として定評ある毎日ですら恐らく取り上げないでしょう。

 この記事は朝日新聞の政治的中立性と科学的理解力、そしてメディアとしての誠実さを強く疑わせます。朝日はいまだに旧態依然とした体質を大切に保存しているようです。

(ft^2は平方フィート)

「仮定の質問には答えられません」

2010-09-16 10:07:29 | Weblog
 民主党の代表選を前にした公開討論会で小沢氏は、首相になれば連立を組み替えるのか、また検察審査会で起訴すべきと議決されれば自身の起訴に同意するのかという記者の質問に対し、仮定の質問には答えられない(勝つかどうかわからない)という意味の発言をしました(起訴に関しては後日同意すると表明)。

「仮定の質問には答えられません」は質問から逃げるときしばしば使われる文句です。「たら、ればの質問」も同じ意味で使われ、質問拒否の常套句と言ってもよいでしょう。そして質問者は拒否を認め、それ以上の追求をしないというのがほぼ慣習のようになっています。はたしてこれは一般に質問を拒否する正当な理由になり得るでしょうか。

 予想される仮定がいくつもあったり、質問者が可能性の低い仮定を持ち出した場合は時間的な制約などの理由で質問を拒否することは仕方ないと思います。しかし小沢氏のケースは代表に選ばれるか、そうでないかの2つの可能性があるだけで、どちらの可能性も十分あると考えられていた状態ですから、拒否する理由にはなりません。

 とりわけ選挙の場合、投票者が知りたいことは、候補者が当選したときどのような政策をとり、どのような行動をするかということですから、立候補者は当選後の政策なり行動を予め投票者に伝える必要があります。当選後のことは言えないけど、とにかく投票してくれというでは、見積書なしに購入契約をしろというのと同様です。

 質問をする記者は一般の有権者(代表選の場合は議員や党員、サポーター)を代表して立候補者から当選後のことを聞きだして明らかにするのが仕事です。そして多くの場合、質問は記者クラブに加入しているメディアの記者に限定されています。それだけに記者らに期待される役割は大きく「仮定の質問には答えられません」という返答に「ごもっとも」とばかり簡単に引き下がるのはいささか情けないと思います。

 これでは緊張感を欠く馴れ合いと思われても仕方ありません。「仮定の質問には答えられません」という返答には納得できないという「常識」を身につけるべきでしょう。

思想の毒

2010-09-13 10:04:45 | Weblog
 政治の世界で左翼と右翼の対立が長く続いたように、さまざまな分野で思想の違いを原因とした対立が見られます。むろん論争から望ましい解決が得られることもあり、また思想の対立によって繰り広げられる果てしない論争が出版業界を潤わせ、人々を退屈から救うという利点もあります。しかしその一方で、思想の違いは対立を激化させ、極端な場合は戦争の一因にもなるという負の面もあります。

 8月25日の朝日新聞「ザ・コラム」に載った小林慶一郎一橋大教授の寄稿文「市場システムを『価値』として守る覚悟持て」は、思想や主義を考える上で大変よい機会を提供してくれます。要旨は以下のようなものです。

『世界的な経済危機によって市場経済システムの不完全さが示され、市場経済を擁護する経済学者などは「市場経済は欠陥だらけだが、歴史上、人類が試みた他の全ての経済システムよりましだ」という。これはチャーチルの「民主主義は最悪の政治体制だ。これまで試された全ての形態を別にすれば」との言葉から来ている。
 この議論には隠された主張がある。それは民主主義と同じく市場経済システムも私たち一人一人がそのために献身するべき「価値」つまり目的なのだ、ということである。
 市場経済システムは豊かさを得るための手段ではなく、自由主義という理念の現実社会における表現形態であり、これは議会政治が民主主義の表現形態であるのと同じだ。議会政治の否定は民主主義の否定になるように、市場システムは自由主義の理念と不可分である』

 簡単に言うと、市場経済システムより優れたシステムはなく、また自由主義の表現形態であるから、市場経済システムを価値(目的)として、それに献身すべきである、ということなのでしょう。市場経済システムを価値とまで持ち上げた意見ですが、それについて考えたいと思います。

 民主主義と同様、他より優れたシステムだから手段ではなく価値(目的)であるという理屈がまず理解できません。民主主義も統治形態のひとつで、それは目的ではなく手段であって、最終目的は国民の幸福です。民主主義が実現されても国民が不幸になっては意味がありません。「手術は成功したが、患者は死んだ」と同様、あり得ないことではありません。

 小林氏はチャーチルの言葉を民主主義を反語的に礼賛したものと解釈されているようですが、私は民主主義が不効率で最悪の政治体制であるが他よりましだから仕方がない、と素直に理解すべきだと思っています。

 したがって市場経済システムは国民の生活を豊かにするための手段と考えるのが自然であり、それを価値とか目的とする考えはちょっと理解できません。また手段と考えられる市場経済システムをあえて価値(目的)とすれば、国民の豊かさという最終の価値(目的)との関係が問題になります。両者がイコール、あるいは正比例の関係であるとはとても言い切れません。

 また、市場システムは自由主義の理念と不可分であるから献身すべき価値となる、と述べています。これからは市場システムを制限する行為は自由主義の否定になるという大そうな理屈が導かれます。これは市場システムに関する現実的な議論を遠ざける可能性があると思います。

 手段である市場経済システムに献身すべきほどの大きな価値(目的)を与えることは、それに思想としての意味を与えることに他ならないと思います。しかしこのことにどんな意味があるでしょうか。

 現在、世界で市場経済システム以外の体制を採用しているのは北朝鮮などごく少数で、多くの国は市場経済システムの中で最適な形態、最適なルールを模索している状況です。そして欠点があるにしても市場経済システムがもっとも効率のよい仕組みであることはほぼ周知されたことです。したがって必要なことは市場経済システムそのものの是非ではなく、そのシステムの安定性や公平性をどうやって実現するか、また教育など市場システムになじまない分野との調整をどうするかなどの、細部の議論です。ここに市場経済システムを献身すべき価値・目的とした議論を持ち込めば無用の混乱が生じることでしょう。

 思想や主義は何かに対し常識で考えられる以上の価値があるように思わせ、それを献身的に守らせる、という面があり、それは宗教によく似ています。それは人や社会をある方向に向かわせるときに有効な方法です。しかし市場経済システムが計画経済に対するアンチテーゼとして存在しているときは思想としての役割があったかも知れませんが、計画経済がほぼ消滅した現在、その意味はありません。逆にそれ自体を価値と思わせることから生じる極端な思考が、細部にわたる現実的な議論を妨げることの方が問題です。

 思想や主義は新たな角度から光を当てることによって、物事の理解を助けるという利点がある一方、偏った視点が他の部分を覆い隠して見えなくするという負の側面をもっています。アタマが思想に侵されてしまうと世界が別の色に見えるようで、現状認識にも偏りや歪みが生じ、議論の前提すら成り立たなくなることがしばしば起こります。それは空疎な、際限のない議論を生みます。

 思想には冷静な目を奪い、物事の正確な理解を妨げるという副作用があります。またそれは「感染力」を持ち、人から人へと伝染するという厄介な性質を備えています。これは宗教と同じです。というわけで、思想の持つ負の側面はもっと注目されてもよいと思う次第です。

(主義とは特定の思想に拠った立場というほどの意味ですが、ここでは思想と同じ意味で使っています)