噛みつき評論 ブログ版

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65%が裁判に参加の意向・・・信じられない最高裁の姑息なアンケート調査

2008-05-30 09:35:53 | Weblog
 最高裁は4月1日「裁判員制度に関する意識調査」の結果を発表しました。それによると,「20代~60代の約65パーセントの方が参加意向を示している」として、国民の過半数が参加に同意しているかのような印象を与えています(調査結果 P22)。

 この「65%が参加意向」の元となった質問は「裁判員裁判への参加意向」で、その答は以下の5項目からの選択となっています。
1「参加したい」 (4.4%)
2「参加してもよい」(11.1%)
3「あまり参加したくないが義務なら参加せざるを得ない」(44.8%)
4「義務であっても参加したくない」(37.6%)
5「わからない」

 5は可否を問わないので実質的には1~4からの選択です。1,2,3は参加肯定に分類され、参加否定は4だけです。しかも4の「義務であっても参加したくない」は国民としての義務までも拒否するという意味を含みますから選択する人はその分減少します。逆に言うと、この37.6%は強烈な拒否の意向を示しています。

 3の「あまり参加したくないが義務なら参加せざるを得ない」は44.8%と最多ですが、これは参加したくなくても義務感さえ強ければ選択するよう仕組まれています。参加を拒否して、罰を受けたくない人も選択する可能性があります。したがって参加意向が明確なのは1と2の合計15.5%だけです。

 また、2の「参加してもよい」に対応する「参加したくない」が不自然にも省かれていて、可否に対する回答項目の対称性が失われています。

 「参加意向が多数」という結果を引き出すため、ずいぶん無理をしたアンケートであると思います。A新聞は世論調査の設問を工夫する技術に長けて、自社の主張に近い調査結果を得るのが得意である、と言われていますが、最高裁も負けず劣らずです。しかし作為が一目瞭然なのはちょっといただけません。A新聞のように豊かな経験がないからでしょう。

 範を示す立場であり、もっとも公正さが要求される最高裁がこんな姑息な調査をやっていいのでしょうか。姑息なご都合主義は最高裁の信頼度を下げることにつながります。

 ご都合主義というと、つい数年前、最高裁の代表は司法制度改革審議会で「市民に評決権を与えるべきではない、それは間違う危険があるからだ」「陪審は統計的に誤判の率が高い報告がある」と述べたそうです(「世界」6月号)。それがいつ賛成に鞍替えされたのか疑問ですが、それに対する説明はないそうです。

 調査には苦しい作為の跡が歴然としているのに、マスコミがなぜ沈黙しているのか、大変不思議です。朝日の例ではこの20年ほどの間に殺人事件数は増加していないのに殺人事件報道は最大5倍にもなりました(参照)。殺人事件や偽装事件を重視し、大きい紙面を割く報道姿勢の下では、相対的に「面白くない」ニュースは軽視されるのでしょうが、これでは権力の監視という看板が色褪せて見えます。

以下は最新のNHKの調査結果です。

裁判員として参加したい   : 18%
裁判員として参加したくない : 77%
裁判員制度は必要     : 42%
裁判員制度は必要ない : 50%

 この結果と最高裁の結果の差は大きすぎます。裁判員制度が民意に沿うものか、あるいは民意に背くものなのかをはっきりさせるために、マスコミは参加の可否だけでなく、裁判員制度の是非をも含めた調査を改めて実施してはどうでしょうか。最高裁の信頼性も同時に明らかになることでしょう。

 最高裁判所という司法界の頂点に立つ組織が国民を騙すような調査を実施する。そんな国が一流の先進国と見られるでしょうか。

最高裁の見解は理解不能・・・なぜ、死刑を検討する模擬裁判をしないのか

2008-05-27 08:50:27 | Weblog
 死刑を検討する裁判では裁判員はきわめて重い心理的な負担を受けます。それに裁判員が耐えられるのか、検証が必要だという指摘が出ています。それに対して最高裁判所は、死刑を検討する模擬裁判は今後も行わない方針です。その理由として、最高裁は「きわめて重い刑の判断をする場合、裁判員にかかる心理的な負担などについて、現実に即した検証をするのは難しく、模擬裁判の題材には適さないと考えている」と説明しています(5/21 19時30分NHKニュースから要約)。

 この最高裁の説明を、なるほど、検証が難しいから模擬裁判をしなくていいのかと、納得するひとがいるでしょうか。重い刑の判断ではなぜ検証が難しいのか、なんの根拠も示されていません。国民主権を掲げた裁判員制度なのに、それを国民に理解してもらおうという気持ちが感じられないのは不思議なことです。もしかしたら最高裁は模擬裁判によって深刻な問題が表面化するのを恐れているのではないかと邪推したくなります。

 死刑を検討する裁判は重い負担を裁判員に与えるだけに、未知の要素が多く、事前検証の必要がきわめて大きいことは容易に想像できます。十分な理由を示さず、模擬裁判を実施しないことはとても納得できません。リアリティのある模擬裁判をすれば、ある程度現実に即した検証をするのは可能だと考えられるからです。死刑判決を出すことができない裁判員や、心理的な負担に耐えられない裁判員が出てくるかもしれません。

 また衝撃的な現場写真を見て気を失う人が出るかもしれません。イラストで代用しようとする動きもあるようですが、事実から遠くなり、裁判の正確さが犠牲になるのは避けられないでしょう。

 未知の問題点を予想し、対策を準備するための実験、つまり模擬裁判は大変有効な手段です。それをやらないのであれば説得力のある根拠を示すべきです。また模擬裁判をやらず、いきなり本番をすることによるリスクについての説明も必要です。

 この最高裁の説明を聞いた記者は、「なぜ検証が難しいのか」と質問をしなかったのでしょうか。記者は視聴者が理解できるようにニュースを伝えるのが仕事です。発表をそのまま伝えるのなら記者は不要であり、最高裁がNHKにメールを送るだけでよいのです。

 また昨年、8箇所の地裁で実施された同一の想定事件に対する判決は、無罪判決から懲役14年まで、大きな差がつきましたが、それに対する最高裁の見解は「当然、想定していた」でした(07/12/2朝日)。

 ひどくバラバラの判決が出ているのに、なぜ公平な裁判なのか、凡人には理解できません。ここでも記者は最高裁に質問したという記載はありません。記者はその見解に疑問を感じることなく、単に左から右へ伝えたということなのでしょうか。バラバラの判決を最高裁がなぜ肯定するのかについての公式見解を知りたいと今も思っています。

 最高裁が記者会見をして発表したならば、記者は国民の代表として予め十分な知識をもち、的確な質問をして最高裁の意向をわかりやすく伝えるのが仕事の筈です。質問しなければ、そもそも記者クラブという場の存在理由はありません。裁判員制度について

医療崩壊に警察が追い討ち・・・くも膜下出血見逃したとして医師を書類送検

2008-05-22 13:26:12 | Weblog
 長野県の佐久総合病院で2004年10月、頭痛を訴え受診した主婦がくも膜下出血で死亡し、遺族が医療ミスがあったとして告訴していた問題で、南佐久署は5月13日、診察した同病院のA医師を業務上過失致死の疑いで地検佐久支部に書類送検した。
 医師はくも膜下出血の初期段階を疑い、適切な検査と治療をしなければならなかったのに怠った過失により、05年1月12日、同病院で主婦を死亡させた疑い。
 同署などによると、主婦は04年10月23日、同病院の救急外来を受診。「肩凝りによる頭痛」と診断され帰宅したが、数時間後に意識不明になって同病院の集中治療室に入院し、意識が戻らないまま約3ヶ月後に死亡した。また、病院側は示談の申し込みをしたが遺族は断った。

 以上は5月13日付信濃毎日新聞WEB版の記事を要約したものです。亡くなった方とご遺族には大変不幸な出来事であり、ご遺族が示談を断ったことから感情的な対立があったことも想像できます。しかし、これが刑事事件として扱われることには強い危惧を感じます。

 頭痛には様々な原因があり、出血を疑うべきものやそうでないものがあるでしょう。すべての頭痛にCTをとることは現実的ではありませんし、100%の正確さで両者を選別することは不可能です。診断の過程にどの程度の過失があったかはわかりませんが、結果的に判断のミスがあれば送検→起訴というのでは医療そのものが成り立たなくなるのではないでしょうか。

 もしこの医師が起訴され有罪になれば、すべての頭痛にCT検査をするなどの防衛策を採らざるを得なくなるでしょう。医療費の増加と本当にCT検査の必要な患者に不利益をもたらすことになるかもしれません。いや、その前に救急医療から医師が逃げ出すでしょう。

 医療は不確実なものであり、パソコンや家電製品のようにほぼ確実な世界ではありません。誤診率は14%だとか30%だとかいろいろ言われていますが、決して低いものではなく、誤診が死亡に結びつくケースも十分考えられます。その都度、医師が犯罪者扱いされたのではたまったものではありません。

 医療事故への警察の介入は医療に大きな歪をもたらします。この事件では警察発表によるものと思われる医師の実名が新聞に載っており、起訴以前に医師は大きなダメージを受けています。現段階では「疑い」だけで起訴すら決まってないにもかかわらず、そのまま実名を載せる新聞の姿勢にも強い疑問を感じます。

 新聞をはじめとするマスメディアが患者側に立った医療事故報道を大量に流すことによって医療側の信頼度は低下しました(参考記事)。警察もメディアに乗せられて正義を振り回したくなったのかもしれません。警察と新聞による患者側に立った行為が医療全体を壊しているという事実にそろそろ気づいてもらいたいものです。自分の仕事を愚直にやるだけで、「医療崩壊なんてしらねぇーよ」では皆さんがちょっと困るのであります。

8割が嫌がる裁判員、"民意"を無視しての強行にメディアの批判なし

2008-05-20 09:18:31 | Weblog
 裁判員制度に関するNHKの最新の調査が発表されました。調査は5月9日~12日にRDDと呼ばれる無作為抽出で行われ、対象の61%にあたる1084人からの回答を得ました。結果を次に示します。

裁判員として参加したい : 18% (是非参加したい: 4%、できればしたい: 14%)
      したくない : 77% (あまり参加したくない: 42%、絶対したくない: 35%)

裁判員制度は必要   : 42% (大いに必要: 8%、ある程度必要: 34%)
      必要ない : 50% (あまり必要ない: 30%、まったく必要ない: 20%)

この調査結果は過去の同様な調査と比較しても、否定的な意見が目立ちます。8割近い人が裁判員として裁判に加わることに否定的です。注目すべきは今までの調査と異なり、裁判員制度そのものの必要性についての質問があって、総合で半分以上が否定的であることです。その中身を見ると大いに必要が8%なのに対し、まったく必要ないが20%と大差がついています。これは最高裁など、裁判員制度推進派には大変都合の悪い調査結果です。

 ところでこれは5月13日午前7時のNHKのラジオニュースで放送されたもので、それ以後何故か、テレビ・ラジオを通じて取り上げられることはありませんでした。したがってご存知の方は少なかろうと思います。少なくとも、繰り返し取り上げられている舞鶴高1殺人事件よりは重要なニュースだと思いますが。

 主要メディアは裁判員制度に批判的ではありません。各社の社説は「民主主義を完成させるために」(毎日)などと賛成の態度を示しています。

 しかし不思議なことは、いつも"民意"を掲げ、それを根拠に騒いできたメディアが民意に反する裁判員制度に関しては一切批判をしないことです。今回のNHKの調査では参加の意思だけでなく、裁判員制度の必要性に関しても否定の方が多いので、民意は"反対"と見るべきでしょう。

 裁判員制度の導入が「民主主義の完成のため」ならば、民意を無視しての導入は、民主主義を否定することになります。民主主義の完成とは立派な建前ですが、実際の裁判員制度には様々な問題が予想されます(参考資料)。

 マスメディアは裁判員に選ばれた場合の問題をしばしば取り上げていましたが、裁判員制度そのものを取り上げたり、まして批判することは少なかったように思います。メディアには、400字詰めで300枚を超す司法改革審議会意見書を読み、裁判員制度を理解していいる人がどれくらいいるのでしょうか。

 例えば、米国では被告は、陪審員制の裁判か、検察官の同意を得て職業裁判官のみの裁判かを選択できます。しかし偶然司法とも呼ばれ、当たり外れの大きい陪審員制を選択する被告はごく僅か(刑事事件5.2%、民事事件1.7%・・・第30回司法制度改革審議会配布資料による)です。しかし日本の裁判員制度では選択の余地はありません。この点、選択を可能にするなどの異論がメディアから出ても良さそうですが、何故か異論や批判はありません。

 新制度を十分理解せずに賛成し、制度がスタートする、そして制度の欠陥が誰の目にも明らかになってから騒ぎ出す、というのではメディアの役割を果たしているとは言えず、単なる情報のメッセンジャーにすぎません。

殺人事件大好きの朝日新聞・・・いくらなんでもやり過ぎでは?

2008-05-15 09:25:43 | Weblog
 京都府立東舞鶴高校生殺害事件は5月8日(木)の夕刊に第一報が載りました。朝日新聞は11日(日)朝刊までの6回すべてにこの事件を大きく報道しました。1面に載らなかったのは1回だけで、1面トップ2回を含め、6回のうち5回までが一面と三面の両方に掲載されました。

 このような殺人事件の集中報道は近年あたりまえになっているので、この報道に違和感を感じない方もいらっしゃると思います。しかしこのような現象は近年のことです。朝日新聞東京版朝刊の凶悪・殺人に関する記事件数は85年を100とすると00年には約500、02年に約300、03年に約470となっています。この間、殺人の認知件数は横ばいですから、記事の数だけが3~5倍に増加していると見てよいと思います(浜井浩一、芹沢一也 共著「犯罪不安社会」による)。

 この傾向はおそらく朝日だけのものではないでしょう。購読紙は朝日と日経だけなので他紙はわかりませんが、NHKにも同様の傾向を強く感じます。とりわけ最近の印象として続報の執拗さが目立ちます。新たに判明した事実、声を聞いたとか、防犯カメラに写っていたなど、些細なことを連日大きく取り上げていく手口です。そのためこの事件は日本を揺るがす大事件かのようです。そのおかげでその分、他のニュースが報道されなくなります。

 このような集中報道は読者の探偵趣味を満足させることができる反面、社会に不安をもたらします。06年の調査によると「2年前と比較して犯罪が増えたと思うか」という質問に対して「とても増えた」と「やや増えた」とした回答が90.6%にも上っています(前掲書より)。

 しかし07年度の集計では、刑法犯は5年連続で減少、殺人などの重要犯罪も4年連続で減少しています。過大な殺人事件報道のために、多くの人が犯罪が増加していると思いこみ、不安を抱いています。探偵趣味への迎合と社会不安、どちらが大事でしょうか。

 殺人事件報道の増加の背景には何があるのでしょうか。テレビでは1分毎の世帯視聴率を見て、視聴者が何を見たがっているかを判断し、それに合わせたネタを流すということをやっているそうです。それは視聴者を煽動し、それがまたテレビに反映されることで拡大への循環(正のフィードバック)を生じる危険があります。テレビと視聴者が互いに影響しあって感情的な動きを強めるメカニズムです。戦時中の新聞と国民の間にもこのような関係があったと考えることができます。

 少し話がそれましたが、視聴率優先は視聴者への迎合につながります。新聞はテレビを手本にしているのではないでしょうか。しかし、読者の読みたい記事を優先しすぎると、報道機関としての役割を放棄することになります。子供の要求通りに食べ物を与えていたら、お菓子ばかりになって健康を害するように。

 文字を大きくした上、警察発表を取り次ぐだけの、手間のかからない殺人事件記事が連日大きなスペースを占めれば、新聞社はずいぶん楽になるかもしれません。しかし、元々少ない調査報道やメディアとして本来報道すべきものはさらに少なくなるでしょう。読者としては低品質の商品を買わされている気がします。

 メディアの果たすべき役割はたいてい迎合とは一致せず、むしろ相反することが多いと考えられます。迎合記事を大量にたれ流す裏には、新聞社の見識の変化があると思わざるを得ません。メディアとしての矜持や役割より、とにかく発行部数・・・と。

フル電動自転車の公道使用を認めよ・・・電動アシスト自転車の補助動力アップを検討するのなら

2008-05-12 08:17:43 | Weblog
 警察庁は電動アシスト自転車の人力に対する補助動力の割合を現行の1:1から1:2に変更することを検討しています(改正案の内容は文末に記載)。実現するとより軽く走れるようになります。

 これは動力補助率の上限が50%から66.7%になることを意味します。5月4日付朝日新聞別冊には「補助力を2倍にしたタイプを認める法改正・・・」と書かれていますが、誤った表現です。同一負荷時なら補助力は1.334倍にしかなりません。いつもながらの低学力紙面です。

 おっと話がそれました。一方、人力を必要としないフル電動自転車(スクーターなどを含む)というものが市販されています。道路交通法では電動アシスト自転車が自転車として扱われるのに対して、こちらは原動機付自転車として扱われ、保安部品、運転免許、ヘルメットの着用、強制賠償保険などがないと公道を走ることはできません。これらが面倒なため、違法使用以外では普及していませんが、もし自転車扱いが認められれば便利なもので、かなりの普及が見込まれます。

 このフル電動自転車は多くの利点を持っています。ガソリンエンジンはエネルギーの20~30%だけを動力として利用し、70~80%は熱として無駄になりますが、電動自転車は90%程度の効率が期待でき、ランニングコストはおそらく1/5~1/10となります。また排気ガスを出しません。

 ペダルを必要としなければ車体形状の自由度が高く、シート位置を低くして子供2人の3人乗りにも安全性の高い低重心設計が可能です。一回の充電で走れる距離も40km程度は可能でしょうから実用性は十分です。

 米国フロリダ州にディズニーが作った町「セレブレーション・フロリダ」があります。この実験的な都市は過度のモータリゼーション、エネルギー大量消費への反省から、広い道路をなくし、歩行者を重視した設計がされています。ここでは電動スクーター、カートがごく普通に使われ、充電設備を備えた駐車場が多くあるそうです。

 電動アシスト自転車とフル電動自転車の違いは足で漕ぐ必要があるかどうかだけです。改正案で補助動力が2/3になれば、両者を実質的に峻別する根拠はさらに希薄になります。

 また、フル電動自転車が電動アシスト自転車に比べ安全性の点で劣っているという理由は見あたりません。速度に関しては、自転車扱いの条件を最高速度を20km/hとでもすれば、漕ぐと30km/h以上も出せる電動アシスト自転車よりも安全にすることができます。

 近距離の手軽な移動手段としてフル電動自転車が普及すれば車の使用が減って、都市の交通渋滞が緩和されるだけでなく、全体のエネルギー消費も減るという効果も期待できます。

 このように利点の多いフル電動自転車ですが、0.6kw以下の電動機をつけていれば現行法では原動機付自転車に分類されます。フル電動自転車を自転車と認めることが無理ならば、法を変えて時代の要請に応えることを検討してはどうでしょうか。社会のために法があるわけで、その逆ではないのですから。

(改正案の内容)
現行の補助動力の最大値は速度が0~15km/hで50%、15km/h以上では徐々に減少し(直線比例)、24km/hで0%になるよう決められています。改正案は0~10km/hでは66.7%、10km/hから減少し24km/hで0%になります。低速域での補助率の拡大を認めるもので10km/h以下では人が1、補助動力が2という割合になります。

ガソリン代月22万円の一家、暫定税率復活で大変と朝日が大真面目に紹介

2008-05-08 11:35:45 | Weblog
 5月2日の朝日新聞17面に「ガソリン税 地方の嘆息」と題する記事が大きく掲載されています。小見出しには「一家に6台 月4万円の乱高下」「燃料費、月22万円」とあります。記事は、はじめに月22万円のガソリンを消費する富山の一家族を取り上げます。

 この家族は5月からは6万円の出費増になりそうと言います。地方は車への依存度が高く、ガソリン税の影響を強く受けるということをこの記事は訴えたいようです。

 記事の左の隅に1所帯あたりのガソリン支出金額の最小都市と最多都市の小さな表があります。それによると08年2月の最小は東京都の1515円、最多は山口市の9505円となっています。従ってここに例として取り上げられた所帯は最多消費の山口市の平均の約23倍のガソリンを大量消費しているわけです。

 なぜ平均の23倍ものガソリンを使う一家を例にとるのでしょうか。記事には何故このような特殊な例を取り上げたかという理由の説明はありません。運転者が5人ということを考慮しても過多消費です。

 また詳細に読むと、この一家のガソリン消費の内容に疑問が生じます。一家は5人が通勤などで毎日往復20キロ以上走るとあります。220000円ではガソリンを145円/Lとして1517L買うことができます。平均燃費を10km/Lとすると約15000km走ることができますから、5人で割ると1人3000km/月となります。

 1日にすると100kmですから、毎日20km以上という記事の説明との差が大きすぎます。5人が毎日100km走るというのも普通ではありません。5人の使う車が燃費5km/L程度の大型高級車ならば1日50kmであり、少しは現実的ですが、それなら別の意味での特殊ケースです。どちらにせよこの一家は極めて特殊なケースです。

 平均の23倍ものガソリンを消費し、その内容も極めて理解し難いこの一家を取り上げて、あたかも一般例のように紹介する記事は納得できません。

 地方のガソリン依存度の高さを説明するなら、標準的な例を示すべきです。特殊な例を取り上げるのであれば特殊な例だと明示し、その理由を説明するのが当然です。またこの一家のガソリン消費と走行距離の内容は少し注意すればその異常がわかるのに、無視しています。よほど算数のできない記者なのか、あるいは、気づかれることはまずないだろうと読者をバカにしているか、どちらかでしょう。

 この記事の問題点をまとめます。
①特殊な例を一般例のように取り上げ、誇張表現している。
②ガソリン消費量の異常さに対する説明がない。
③一家のエネルギー大量消費生活に対する言及がない。

 ③のエネルギー多消費の問題については記事の主題から外れますが、これほど極端なエネルギー多消費を紹介することは、それを是認していると理解される可能性があります。常に温暖化問題で騒いでいるのが空しく聞こえます。その意味でも取り上げるべき例ではありません。

 暫定税率の復活による地方の痛みをできる限りセンセーショナルに報道しようという意図なのでしょうが、この記事には誠実さを著しく欠いた、目的のためには手段を選ばない姿勢を感じます。サンゴ事件の伝統、いまだ死なず、というところでしょうか。

 以上はこの記事を書いた記者だけの問題ではありません。記事を通した朝日新聞の体質に関わる問題でもあります(記者のレベルを表す他の例)。現実はこのような記事を作る人たちが世論をリードし、政治に影響を与えているわけです。ま、暫定税率復活に反対した民主党や社民党だけはこの記事に深く感謝することでしょう。

合理主義のオランダと建前の日本・・・自殺における違い

2008-05-05 09:42:57 | Weblog
 オランダでは4月30日がベアトリクス女王の誕生を祝う日です。現ベアトリクス女王の誕生日は1月31日ですが、国民が祝うのに1月31日では寒いので、前女王であるユリアナ女王の誕生日である4月30日を使っているそうなのです。その合理性、柔軟さに驚きます。日本の、とりわけ頭の硬い連中なら筋違い、とんでもない話と一蹴することでしょう。日本は「筋」を通して12月23日という寒くて年末の忙しい時に決まっています。

 またオランダはスイス、ベルギーと共に安楽死が合法化されている国でもあります。同国では精神的な理由だけでもいくつかの要件を満たせば、安楽死が認められているそうです。これはほとんど自殺容認です。認められない場合も社会は様々なサポートを提供することが可能です。またこれは自分の命を自分で決定する権利が尊重された結果ともいうことができます。

 既にオランダでは安楽死を選ぶ人は2~3%にもなっています。またスイスには自殺幇助罪がないので、外国からの自殺ツアーが来るそうです。

 キリスト教では「命は神から授かったもの」ですから、自殺は重大な罪とされてきました。中世のヨーロッパでは自殺者は財産を没収され、埋葬もされなかったと言われています。その影響を強く受けたオランダなどが安楽死の合法化を実現したことは注目に値します。

 それに対して、日本では宗教上の制約がほとんどないのに安楽死の合法化は実現していません。いかなる手助けも殺人罪、自殺幇助罪に問われるリスクがあります(横浜地裁が示した安楽死を許容する4つの要件は適用範囲がごく限られています)。年間約30000人の自殺者のほとんどは孤独な決断をしなければなりません。

 精神科医の和田秀樹氏は「がん患者の8割は激痛に苦しみながら死んでいく」と述べていますが、苦痛の除去は完全ではなく、少なからぬ人々が人生の最後に地獄を味わいます。建前重視の日本社会では現状を変えることがなかなか困難です。

 たいていの人は、自分が不治の病で激しい苦痛が続くときには、早く死なせて欲しいと言います。ところが他人がそのような状態のときには、当人から依頼があっても早く死なせることはできません。

 刑罰だけでなく、命の尊さは何ものにも替え難い、命は地球より重い、といった考え方に背くからでしょう。建前と本音、原則と現実が乖離している例です。

 山上の垂訓はイエスが弟子と群集に語った教えです。有名な黄金律「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」もこのときばかりは実行がためらわれます。実行には逮捕される覚悟が必要です。

 筋を通す、理念を通す、原則を貫く、これらはふつう肯定的な、よい意味で使われます。しかし、命をかたくなに最優先する理念からは死を前にした患者の苦しみより延命を優先する考え方が生まれます。こういった傾向は頑固・頑迷の人にはとくに顕著です。

 理念や原則はたいてい不完全であり、それを適用する範囲も限られます。それを頑なに守れば現実との不適合が多くなるということは一般化してよいのではないでしょうか。原理原則も必要に応じて自在に曲げることが必要です。反対に徹底的に理念や原則に忠実な態度は原理主義と呼ばれ、妥協のできない困りものになります。

 理念や原則に忠実であることの利点はあまり頭を使わなくてもよいことです。石のような頭の人には向いているかもしれません。しかしそれでは変化への最適な対応が難しくなり、社会が停滞します。合理性、柔軟性をオランダから学びたいところです。

光市事件死刑判決、藪蛇の日経社説・・・裁判員制度の逆宣伝に

2008-05-01 10:03:22 | Weblog
 4月23日の日経社説は「国民の感覚を映した死刑判決」というテーマで、光市母子殺害事件を例に引き、死刑判決についての見解を述べています。

 その中に、失礼ながら社説の主題よりも興味深い調査結果が引用されています。それは司法研修所による「量刑に関する国民と裁判官の意識についての研究」のアンケート結果で、再引用します。

 『被告人が未成年者だったら刑を重くすべきか軽くすべきか、を尋ねたところ、一般国民の回答者はほぼ半数が「どちらでもない」を選び、裁判官の常識とは逆の「重くする」「やや重くする」が合わせて25%あった。裁判官で重くする方向の回答はゼロ。「軽くする」「やや軽くする」が計91%である』

 更生の可能性が大きい未成年者の刑を重くすべき、という意見が25%もあったのには驚きます。それ以上に驚いたのは社説がこれを肯定し、裁判官は専門家の「量刑の適正感」でなく、国民の「何が適正な刑罰か」の感覚をくむべきだと述べている点です。以下に引用します。

 『死刑は憲法が禁止する「残虐な刑罰」にはあたらない、との判断を初めて下した48年の最高裁大法廷判決には「ある刑罰が残虐であるかどうかの判断は国民感情によって定まる」との補足意見がついている。
 これを敷衍(ふえん)すれば、死刑適用を判断するには、裁判官は専門家の「量刑の適正感」でなく、国民の「何が適正な刑罰か」の感覚をくむべき、といえよう。さらに刑罰全般についても専門家の「適正感」が妥当か一般国民の感覚と常に照らし合わせる必要がある。裁判員制度を始める理由の1つがそこにある』

 残虐性の判断は国民感情によって定まる、というのは妥当です。問題はその次の敷衍の仕方です。残虐性の判断を国民感情が定めるべきならば、量刑の判断も一般国民の感覚をくむべきである、ということですが、残虐性の判断と量刑の判断は別個のものであり、安易に敷衍してよいのでしょうか。ここは敷衍より飛躍がふさわしい言葉です。

 裁判官は専門家の適正感でなく国民の適正感に拠るべきだということを言いたいのでしょうが、それにしては少年法の趣旨を理解しない者が25%という調査結果を示したのでは薮蛇です。この調査結果からはむしろ一般国民の判断は信頼に値しないことを強く示唆していると理解できるからです。

 更正の可能性、未熟な判断力、知識・経験の不足、どれも少年に対する刑を軽くする理由になっても、重くする理由にはなりません。25%とはいえ、少年に重い刑を主張するという一般国民の感覚を尊重すべきだという社説の主張は説得力がありません。

 裁判員制度ではこの25%の人が6人の中に含まれます。平均では6人中1.5人ですが、場合によっては6人中4人や5人もあり得ます。その場合の少年被告は成人より重い刑を受けるという不合理なことになるかもしれません。少年法の精神など理解しない人々によって。

 米国は陪審員制ですが、被告は職業裁判官による裁判をも選択可能です。陪審員制は素人判断による「偶然司法」になっているという批判が根強く、連邦地裁における陪審利用率は刑事で5.2%(97年~98年)、民事では1.7%(同)という低率で、大多数は職業裁判官を選びます(参考)。

 新聞各社は概ね裁判員制度に肯定的ですが、よく理解した上のことなのでしょうか。裁判員制度のもつ偶然性によって判決がばらつき、被告の公平性が犠牲になることに彼らは極めて鈍感のようです。この鈍感さゆえ、社説は皮肉にも本来の意図とは逆に裁判員制度の危うさを示すことになったようです。