噛みつき評論 ブログ版

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虫の眼をもつ官房長官

2010-12-27 10:05:29 | マスメディア
 「いわゆる平和憲法だけで平和が保障されるなら、ついでに台風の襲来も憲法で禁止しておいた方が良かったかも知れない 」

 これは哲学者、田中美知太郎氏の名言で、憲法で平和が得られるとする空想的な考えをうまく皮肉っています。これを思い出したのは先日、韓国軍が予定している砲撃訓練に対する仙谷官房長官の次の発言からです。

「韓国政府には通常の軍事演習を自らの判断で行う権利がある」

 韓国が北朝鮮側の反応を警戒しつつ演習の時期を決めようとするとき、「行う権利がある」と権利の問題として扱うのは違和感というか、いささか奇怪な感があります。これは北朝鮮との緊張を孕んだ外交の問題であり、権利の有無など、意味のある問題とは思えないからです。この発言を聞くと、長官が全体的に問題を把握されているとはちょっと想像できません。

 これが平和憲法で平和が保障されるという話と似ているのは、敵国や北朝鮮という相手があるのにも拘らず、法の問題として扱うところです。戦争になっても相手が法を尊重してくれると考えるところが滑稽です。

 また、仙谷長官は尖閣の映像が流出した後、非公開の意味がなくなったにもかかわらず、公開しない理由として、政府が一般公開すると秘密性が低くなり、流出犯人が検挙・起訴された場合の量刑が下がる恐れがあるとしています。

 重要な外交問題に対して、流出犯の量刑などという瑣末なことを問題にする思考は驚くべきもので、凡人の理解が及ぶところではありません。問責決議の可決も法的拘束力はないと主張される仙谷長官の眼中には法のことしかないのでしょうか、それとも木を見て森を見ずで、目先のものしか見えない眼をお持ちなのでしょうか。


 鳥の眼、虫の眼などといいますが、俯瞰的な思考が得意な人もあれば、小さな部分ばかりにこだわるのが得意な人もあります(むろん両方できる人もいますが)。時間的にも数年先、数十年先を視野に入れる人もあれば、せいぜい数日先までの人もあります。この違いは後天的なものもあるでしょうが、生得的なものが強く影響しているように感じます。近視眼的な人物が急に大所高所からの見方をするようになったことはあまり聞き及びません。

 国家百年の計という言葉を持ち出すまでもなく、内閣の中枢である官房長官は大局的、長期的な判断が必要な立場です。重箱の隅をつつくような、狭い範囲に集中する能力もまた貴重なものだと思いますが、官房長官としてはいささかミスキャストの感があります。

 もし尖閣諸島が他国軍に占領された場合、仙谷長官なら占領国に対し、きっと明け渡しの訴えを那覇地裁などに起こされることでしょう。

 まあ他に誰もいない、ということであればそれも仕方がないことかもしれません。民主党の表看板、歴代首相などを観察すれば、人材難が相当深刻なことは容易にお察しできますので。

恥の文化の衰退・・・民主党の文化大革命

2010-12-20 10:24:11 | マスメディア
 民主党政府はまず八ッ場ダム問題で建設継続はあり得ないという強硬な姿勢によって周辺住民の信用を失い、次に普天間問題で沖縄住民と米国の信用を同時に失い、そして尖閣諸島問題では国民全体の信用を失いました。お次は全世界ということになりましょうか。

 信を失うということは大変なことで、人格を否定されるに等しい意味を持ち、甚だしい不名誉、恥ずべきことであります。

 鳩山元首相は普天間の失政、贈与税の脱税(未遂)、巨額の使途不明金の問題によって大きく信用を失いました。まともな感覚の人なら、政府の信用を失墜させ、国益を損ねたことに対して大いに恥じ入るでしょう。首相という徴税側の代表が脱税を指摘されるだけでも顔から火の出る思いをする筈です。警察庁長官が窃盗するようなものですから。

 しかしその後、臆面もなく表舞台に登場し、引退表明も撤回されました。この方の恥の感覚は理解を超えています。鳩山氏を選び、支持してきた民主党の方々も恐らく恥に対して同様な寛容さをお持ちなのでしょう。

 菅首相(または仙谷官房長官、あるいは両方)は尖閣問題で中国船長の釈放は那覇地検の決定であるとしました。見え透いた嘘で責任を逃れるやり方は不誠実であり、卑怯という謗(そし)りを免れません。きっと卑怯を恥と思わない感性をお持ちなのでしょう。胡錦濤主席との首脳会談では、下を向いてメモを読む我らの代表者の姿にむしろ国民の方が恥ずかしい思いをしました。

 「君に忠、親に孝、自らを節すること厳しく、下位の者に仁慈を以てし、敵には憐みをかけ、私欲を忌み、公正を尊び、富貴よりも名誉を以て貴しとなす」

 少々古めかしいですが、これは封建社会を支えた武士の倫理を表したものです。今の日本社会はこれからずいぶん遠いところに来てしまったと、改めて思います。「禁欲的なやせ我慢の美学」から「金銭・物質的豊かさの追求」、武士の倫理から商人の倫理へと変化してきたと言うことができます。近年の新自由主義はこの傾向をいっそう加速したといえるでしょう。

 40年前に自決した三島由紀夫は日本の現状を憂い「日本はなくなって、その代わりに、無機的な、空っぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう」と書きました。好き嫌いはともかく、三島の予想は概ね妥当なものであったようです。

 以前は名誉を非常に重視した社会であり、名誉を失うことはすなわち恥でありました。つまり名誉は恥という負の感覚によって支えられてきたということができます。両者は表裏一体のものと考えてよいでしょう。

 日本人論としてはすでに古典となりましたが「菊と刀」でルース・ベネディクトは日本の文化を「恥の文化」と呼びました。一言でいうと西欧人の行動を規定するものは宗教に基づく内面的な罪の意識であるのに対し、日本人のそれは恥である、という見方なのですが、結構納得させられることが多かった記憶があります。

 恥の感覚は日本社会に深く根ざしたものなのですが、日本の「指導者」である両首相の振舞を見ると、「恥の文化」はずいぶん衰退したものだと思わざるを得ません。

 戦後教育は封建社会と関わりのあるものを悉く排除しました。それを素直に受入れ、何の疑問を感じないまま大人になるとこのようになるのでしょうか。もともと宗教の影響が小さく、罪の意識が薄い日本社会から恥の意識を取り除けばどうなるか、なかなか興味ある問題です。

 民主党の両首相は政治の指導者としての評判はあまりよろしくありませんが、身をもって恥の意識からの解放を示されたわけで、「文化の指導者」としては優れた資質をお持ちのようです。

 この前の米国の民主党大統領候補の選挙中、ヒラリー氏は「オバマよ、恥を知れ」と強い言葉で非難したことがあります。米国でもこんな言い方をするのか、と感心しましたが、恥という意識はむしろ米国の方で生き続けるかもしれません。

抽象化の落とし穴

2010-12-16 13:46:11 | マスメディア
「言葉がひとり歩きする」という表現が使われます。この意味は、ある事象とそれを表す言葉とが一致しないために、簡単な言葉が広まることによって元の事象が広く誤解されるということだと思います。短い言葉による抽象化あるいは概念化の危険を示したものと言えるでしょう。

 意図的な抽象化によって意味が大きく変えられることがあります。代表は戦時中よく使われた「玉砕」「散華」という言葉で、潔(いさぎよ)い、あるいは美しいといったイメージがありますが、死屍累々の玉砕現場のむごたらしさとは大違いです。

 これとは逆に「後期高齢者」という言葉には「まもなく死ぬ人」という暗いイメージがあり、メディアがこの言葉が好んで取り上げた結果、改正案そのものが否定的に見られてしまった感があります。

 「安保反対」をスローガンとした安保闘争は大規模なものでしたが、条約の内容を理解していたものはほとんどいなかったといわれています。多くの学生は抽象的な言葉で表される単純なイメージに動かされたのだと思われます。日本に有利な方向へと改定される内容が正確に伝わっていれば恐らく違ったものになっていたでしょう。

 昨年の衆院選挙では民主党に支持が集まりましたが、多くの人は民主党の詳細な実態を理解した上で投票したわけではなく、メディアが描く民主党の断片的なイメージに促されたと言えるでしょう。中には実行不可能なマニフェストに騙された人もいるでしょうけれど。

 複雑な事象をそのまま理解することは大きな努力が必要です。ご親切にも、メディアはそれを抽象化された単純なイメージとしてわかりやすく伝えます。それは恣意性を潜(ひそ)ませる絶好の機会でもあります。

 世の中を動かすものは事象そのものではなく、長文で記述されたその詳細でもなく、それを抽象化した言葉や単純な概念だと言えるでしょう。

ある少女の延命拒否

2010-12-13 10:26:33 | マスメディア
 死期の迫った人に対して「もうすぐ死んで楽になれますよ」と正直に言えるものではありません。建前を優先し「きっとよくなりますから頑張ってください」と心にもないことを言ってしまいます。また患者がその人にとってかけがえのない人の場合は「頑張ってください」というのは本心でしょうが、それが患者にとって幸せなこととは限りません。

 最近NHKで放送された二つの番組はこれらの問題に一石を投じるものです。ひとつは12月8日のクローズアップ現代「ある少女の選択~"延命"生と死のはざまで~」は悲運に見舞われた一家の記録を通して切実な問題を投げかけています。

 心臓に重い疾患をもつ少女は8歳で心臓移植を受けますが、背骨が曲がり呼吸困難になって15歳のとき人工呼吸器をつけて声を失います。訪問医療によって、少女が望んだ両親との自宅生活が実現しますが、腎不全の発症によってその望みは絶たれます。人工透析は自宅では難しいからです。少女はここで人工透析をしないという決断をし、やがて18年の短い生涯を終えます。

 父親は本人の意思を大事にするという方針なのですが、ある時、透析という方法があるので「生きているときっといいこともあるんだよ」と少女の気持ちを翻そうと試みます。しかし少女は「もう十分がんばってきたし、自分の命は自分で決めたことだし。もうパパ、追いつめないで」と携帯電話を使った筆談で答えます。

 18歳という判断力のある年齢であることから、主治医は本人と両親だけで決定するのがよいと考えたこと、両親も本人の意思を尊重するという態度を変えなかったこともありますが、なによりも少女の覚悟と意志の強さが大きな理由でしょう。透析をすれば楽になることを知りながら、断るのはとても難しいことです。18歳とは思えない見事なもので、私ならできるかどうか・・・。

 次は全く対照的な話で、認知症などの患者が胃ろう(胃瘻、経管栄養法)によって延命を続けている実態を明らかにした11月28日再放送のETV特集「食べられなくても生きられる~胃ろうの功と罪」です。胃ろうとは胃へ通じる管を腹部に設置し、栄養物を注入できるようにすることです。中心静脈に養分を送る方法に比べ胃ろうは扱いやすく長期の生存が可能とされています。

 諸外国に比べ、日本ではとくに急速に普及し、40万人に迫るとされ、65歳以上の胃ろう手術の対象者の72.3%は脳血管障害者と認知症で占められるとされています。日本はどうやら「胃ろう大国」らしいのです。

 胃ろうの普及に力を入れ、3000人に胃ろう手術をした鈴木裕医師はある病院の大部屋を訪ねたときをきっかけに、胃ろうに疑問を感じます。胃ろうをしている30人の高齢者の光景、声をかけても反応がなく、ただ生かされているだけのような姿を目にします。彼らのほとんどは自分が胃ろうの手術した患者で、消化器だけが動いている状態が患者にとっていいことなのか、という疑問を感じたといいます。

 しかしそのような場合、胃ろうを中止することは(元に戻すだけですが)人工呼吸器を外すことと同様、殺人罪に問われる危険があり、そのまま生かし続ける選択しかありません。医師で作家の久坂部羊氏の「 日本人の死に時―そんなに長生きしたいですか」には延命処置によって余分な苦しみを味わう例がいくつも紹介されています。

 さらに番組は日本老年医学界学術会議の模様を紹介します。そこでは日本だけ胃ろうが多く行われる問題に対して議論が交わされます。ある医師は胃ろうをしないという選択は訴訟の可能性が高くなると述べました。今の医療の現状でいちばん常識のことを選ぶのが訴えられずに済む、無難な選択になると。なにもしないということは刑法に触れるのではないかと考える医師も多くいました。

 277人の医師に「自分なら胃ろうをするか」という質問をした結果が紹介されましたが、「する」と答えたのは24.9%に過ぎず、多くの医師は自分なら望まない胃ろうを患者には実施しているという現状が明らかにされました。

 延命を拒否した少女と、本人の意思に関係なく生かされる高齢者達、ここには生命に対する考え方の違いが見られます。少女の場合、もっとも重要なのは生命の質(QOL)であり、物理的な時間の長さではありません。それに対して胃ろうによって生かされている高齢者達の場合は時間の長さが優先されているようです。

 しかし少女の場合のように本人の意思が優先されるケースは稀です。生命の質は本人の主観に基づくものであり、周囲の同意が得られにくいためでもあるでしょう。

 それに対して胃ろうの高齢者ように、物理的な時間の延長を優先するケースは主流をなしています。それは、時間は客観性があるためわかりやすいといった点もあるでしょうが、命は何よりも大切であり1分、1秒でも長く生きるべきだという固定した考えと、刑法に触れる可能性、訴訟される可能性を避けるための行動による結果だということができます。まあ保険制度や病院側の事情もあるでしょうけど。

 これには刑法も大きい役割を果たしているようです。胃ろうや人工呼吸器の扱いによっては殺人罪に問われる可能性があり、その威嚇は実に強力であるからです。刑法が現状を固定する役割を果たしていると思われます。そのために医療が不本意な方法を取らざるを得ないことは患者にとって大変不幸なことです。

 法の整備を求める声はずいぶん以前からありますが、実現に至りません。本人の意思と関係なく何年もの延命が実現される今、より柔軟な対応を可能にするような法整備の必要性は強くなっていると思われます。法の益より有害性が目立つようでは本末転倒です。

 またこれは医療費の膨張、医療の配分などにも大きく関わる問題です。簡単に答えの出ない複雑な問題ですが、いずれは誰もが直面する可能性があり、他人事と見過ごせることではありません。

 番組では、胃ろうによって6年間生かされている寝たきり患者が映し出されていましたが、将来、医療技術が進み5年、10年の延命があたりまえになっても生命維持装置を外すことに殺人罪を適用して、なにがなんでも最後まで生かすことを求めるつもりなのでしょうか。

権威と信頼性の関係

2010-12-09 12:53:09 | マスメディア
 「権威たたきつぶす流行に歯止めを」と題して山崎正和氏は次のように述べています。

『あらゆる権威が落ちている。大学、医師、マスコミ、さらには検察・・・。権威をたたきつぶすことが時代の流行となって久しい。権威も権力も一緒くたに「悪いもの」だと思われているが、実はそうではない。権力は最小限度に制限すべきだが、権威は社会に必要なものなのだ。
 権威とは情報検索の手がかりで、電話帳のようなもの。あふれるような情報の中から必要なもの、信頼できるものを、権威あるプロが整理・選択してくれるから、私達は確かな情報にたどり着ける。
(中略)
 大衆化社会によっていまや5割以上が大学に進む。みんな自分は偉いと思い、壇上の人をひきづりおろそうとする。戦争と全体主義の時代を経験し、権力は嫌だ、権威も一緒くたに嫌だ、と否定の気持ちが強くなった。これは世界的な流れでもある。
(中略)
権威を盲信せよというのではない。ただ権威をたたきつぶす流行に歯止めをかけなければ、文明は無政府状態に陥ってしまう』(12/7朝日新聞)

 山崎正和氏というと若い頃、彼の著書を読んで感心した記憶が残っています。内容はすっかり忘れましたが。それはともかく、山崎氏は権威の低下を嘆いておられるのですが、その内容に少し異議をはさみたくなりました。

 ある情報が正しいか、間違っているかを自分で判断しかねるとき、権威ある人や機関の判断に従えば自分で考える手間が省けます。便利なもので、情報の選択も含め、権威の有用性はその通りです。しかし当然ながら権威ある人や機関には十分な信頼性の裏づけが要求されます。権威が落ちた背景には信頼性の低下があると考えるべではないでしょうか。その限りにおいて、権威の低下は合理的な結果です。

 科学の世界ではネイチャーやサイエンスなどの雑誌は信頼性が高く、依然として権威あるものと一般に認められ、音楽ではショパンコンクールなども高い信頼性に裏付けられています。信頼あるものは自ずから権威が生まれと理解してよいでしょう。

 逆の例をあげます。政界最高の地位でありながら鳩山元首相、菅首相に高い権威を認める方はあまり多くないと思われます。権威が落ちたのは決して「権威をたたきつぶす流行」のためではなく、彼らの信頼性の低下によるものだと考えるのが自然です。

 権威が落ちたものに大学、医師、マスコミ、検察が挙げられています。まずマスコミは自業自得、身から出た錆であり、逆にこのままの体質で高い権威を持ち続ければさらに有害であり、もう少し落ちていいくらいでしょう。メディアリテラシーの必要が叫ばれるのはメディアを批判的に見ることが求められるためです。権威を信じることは批判を捨て去ることです。

 医師、検察の権威が落ちたとされていますが、これは一部の医師、一部の検察官の不祥事を洪水のように報道するマスコミに主な原因があります。権威あるものに対するバッシングは視聴者受けがよく、自らのカタルシスにもなるためだと思われます。信頼性と関係なく権威を低下させた例ですが、この主役は流行のためというよりマスコミというべきでしょう。

 山崎氏の主張は、信頼性の有無でなくその肩書きや社会的地位によって権威を認めよ、とも受け取ることができ、これは批判を抑え、権威主義にも通じます。権威の低下を語るとき、その裏付けである信頼性に触れず、流行や風潮のみを理由とするのはいささか一面的に過ぎると思う次第です。

 蛇足ながら、かつて私は「バカの壁を読めばバカになる」でベストセラー「バカの壁」の批評をしましたが、以下はその最後の部分です。

『不幸にしてこの本を買った人は今後、一流出版社、著名な著者、新聞の大絶賛、本屋に平積み、この四つの条件が揃っても、安易に買ってはいけないという教訓を得たはずである。さらに権威というものを無条件に信じることの危うさを「知る」ことに役立てればよいと思う』

マスコミの政治責任

2010-12-07 11:06:53 | マスメディア
マスコミの政治責任

 11月28日の毎日新聞のコラム、反射鏡には新聞社の本音が切々と綴られているようです。筆者の与良正男論説副委員長は

「政権交代から1年2カ月。臨時国会は、閣僚の失言、陳謝、撤回のオンパレードで、確かに菅内閣の体たらくは目を覆うばかりだ」とした上で、
「『日本の政治には政権交代が必要』と長年書き続けてきた私も自省を続ける毎日である」
と告白しています。そこには長年の努力がようやく実って民主党政権が誕生したものの、そのあまりの出来の悪さに失望し、落胆している様子がありありと見て取れます。長年の自民党政権に嫌気が差し、ようやく取り替えたものの、それは前よりさらにひどいものであった、というところでしょうか。

「政権交代が必要と長年書き続けてきた」とありますが、自民党政権がずっと続いてきたわけですから、政権交代とは民主党政権の実現と同義であり、それを長年目指してきたということに他なりません。

 中立を求められる筈の新聞社がずっと民主党政権を応援してきたという事実を堂々と話される正直さに驚かされますが、それは社内では民主党を支援することが「あたりまえのこと」となっていて、それがメディアの中立性を侵すものだという意識が希薄になっていたためではないでしょうか。

 政治を左右しようというあからさまな意図が露わになった例として世に有名な「椿事件」があります。93年7月18日の衆議院選挙に臨んで、テレビ朝日の椿貞良報道局長は選挙時の局の報道姿勢に関して次のように述べたといわれる事件です(以下Wikipediaより)。

「小沢一郎氏のけじめをことさらに追及する必要はない。今は自民党政権の存続を絶対に阻止して、なんでもよいから反自民の連立政権を成立させる手助けになるような報道をしようではないか」
「共産党に意見表明の機会を与えることは、かえってフェアネスではない」

 これが報道局長であった椿氏の、日本民間放送連盟の第6回放送番組調査会の会合という公的な場での発言だそうですから、その見識に驚かされます。しかしこれが明らかになったのは1ヵ月近く経った後の産経新聞の報道によるものであったという事実などを考えると、発言の背景には民放連の中立性に関する問題意識の低さがあったのではないかと強く疑われます。つまり椿氏はまさか批判を受けるとは思わず、あたりまえのこととして発言した可能性があるわけです。

 発言からは「意見表明の機会」までを意図的に管理していることがわかりますが、そこには中立性など全く見らないばかりか、支配者のような驕りが感じられます。また毎日新聞の場合は論説副委員長、テレビ朝日の場合は報道局長の発言ですから、一部の暴走などではなく、そのメディアの報道姿勢を「正しく」表したものと理解することができます。

 しかしこのような例、図らずも本音が漏れたという例はわずかです。たいていは自民党に不利なニュースは大きく扱うなどの巧妙な方法がとられます。例えば安部内閣当時、松岡利勝、赤城徳彦元農水大臣の事務所経費問題の報道は凄まじく、松岡氏は自殺、赤城氏は辞任に追い込まれましたが、安部内閣の受けた打撃は取り返しのつかないもので、参院選の大敗につながりました。

 前置きが長くなりましたが、この小文の趣旨は多くのメディアが政権交代、すなわち民主党政権の誕生に大きい役割を演じながら、その出来の悪い政権を作ったことに対して責任を感じている様子が見られないということです。責任は選んだ国民にあるのだということにして。

 与良氏の発言の中には「自省」という言葉があり、民主党政権を望んできたことに対する後悔の気持ちが見られますが、これは例外的と言ってよいでしょう。まあそう思うのであれば少なくとも社説に書くべきでしょう。しかし、ここでも民主党政権を生んだことへの責任は感じられません。

 つまり、多くのメディアは判断を誤り、民主党の能力を過大に報じて、国民の選択を誤らせた結果、誕生したのが「目を覆うばかり」の民主党政権であったというわけです。たしか福田内閣のとき、当の小沢代表自身が「民主党には政権担当能力はない」と発言しましたが、皮肉にも現状はそれを実証する形となりました。

 鳩山内閣が発足すると、首相や閣僚達の発言が逐一報道されるようになりました。発言を聞けばその人物のおおよその見識レベルがわかります。最初の2~3ヶ月間の発言から政権の実像を理解し失望した方は少なくなかったと思います。

 マスコミは情報を収集するのが商売ですから、その情報量は一般国民をはるかに凌駕します。したがって政権発足前に政党やその構成者の能力をより正しく評価することは十分可能な筈です。にもかかわらずその評価を外したときは、自らの評価能力の低さを恥じるべきでしょう。

 政府のレベルは国民のレベルによって決まるといわれています。しかし国民の投票行動はマスコミ報道の反映でもあることを思えば、政府のレベルはマスコミのレベルによって決まるといった方がより適切でしょう。

 誤った判断によって政治が変えられることはたいへん危険です。メディアの判断が頼りにならない以上、有名無実となっている中立性をもっと厳しく考える必要があるでしょぅ。不偏不党、中立報道を看板にするメディアは多いのですが、その看板を自らの政治責任を回避するためにだけ「有効利用」している現状はまことに憂慮すべきものと思います。

思想は虚構に過ぎない

2010-12-02 10:42:56 | Weblog
「思想というものは、本来、大虚構であることをわれわれは知るべきである」
11月21日の毎日新聞のコラム、反射鏡によれば、40年前の三島由紀夫の自決直後、司馬遼太郎は「異常な三島事件に接して」と題する3000字を越す文を毎日新聞に寄稿したそうで、これはその文中の言葉です。

 司馬は「幕末の思想家、吉田松陰を引いて「思想」がいかに取り扱い注意の危険物であるかを論じながら三島の思想(=美)と自決との関連を解析した」と同コラムは解説しています。

 一方、季刊誌「考える人」にはこれに関連する記述があり、一部を引用します。

『三島自決の1ヶ月後に行なわれた鶴見俊輔との対談「日本人の狂と死」も興味深いものです。ここで司馬は、終戦の直前、米軍の本土上陸の際には東京に向かって進軍して迎え撃て、と命じた大本営参謀に、途中、東京からの避難民とぶつかった場合の対応を尋ねます。すると、「その人は初めて聞いたというようなぎょっとした顔で考え込んで、すぐ言いました。……『ひき殺していけ』と」。司馬は「これがわたしが思想というもの、狂気というものを尊敬しなくなった原点です」と語ります』

 司馬はこの終戦直前の経験から思想というものに懐疑心を持ち続け、その後の洞察を通じて「思想は虚構」という結論を得たのでしょう。当時、思想というものには今より高い価値が与えられていたと思われるので、この司馬の言葉はずいぶん刺激的であったことでしょう。

 まあ司馬は三島の自決を思想に結びつけて理解したわけですが、三島は思想が虚構であることを承知の上で自決を選んだ可能性も否定できないと思います。現実的なものに価値を見出せなくなったとき、敢えて虚構の世界に身を投ずることは考えられないことではないからです。

 思想に神秘的な味付けをすれば宗教になります。「思想は取り扱い注意の危険物である」も巧みな表現だと思いますが、これは宗教にもそのまま適用可能です。思想や宗教の持つ影響力の大きさを考えると、人間の頭というのはこうした観念に易々と騙されやすく作られているものだ、とつくづく思ってしまいます。

 私なら、司馬の言葉をもっとわかりやすく「あらゆる思想と宗教は嘘っぱちである」と言いたいところです。いささか品に欠けますが。