噛みつき評論 ブログ版

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臆病と無恥、最悪の組み合わせ

2012-08-27 10:03:55 | マスメディア
 7月26日付の朝日新聞には原発で働く作業員の被爆に関する記事が載っています。『原発で働く電力会社社員に比べ、請負会社など社外の作業員の放射線被曝が平均で約4倍の線量にのぼることがわかった。全体の9割近くが社外の作業員であるため、総被曝線量では約30倍になる。安全教育の水準に差があることに加え、より危険な業務に下請け作業員を当たらせたためとみられ、「下請け任せ」の実態を映し出している』

 電力会社員は安全で、立場の弱い下請の作業員が危険な仕事をやらされている現状を非難する、まことにご立派な主張であります。立場の弱い者はきつい仕事、危険な仕事をせざるを得ないことはよくあることで、この記事の指摘は社会的な普遍性を持ちます。ではメディアの世界は違うのでしょうか。

 ジャーナリストの山本美香さんがシリアで殺害されました。女性だけにいっそう痛ましく感じられるこの事件にも同様な下請け関係を見ることができます。2004年以後、これで5名の日本人ジャーナリストが紛争地で殺害されたことになりますが、ロイター日本支局のカメラマン村本博之氏を除くとすべてフリーのジャーナリストです。つまり日本の大手メディアの被害は皆無です。

 元毎日新聞記者の前坂俊之氏はイラク戦争のときに見せた大手メディアの行動を次のように評しています。

 『3月20日の開戦直前に日本の大手メディアは「記者の生命の安全を守る」という理由でバクダッドから横並びで一斉に退去した。爆撃される一番危険な場所はフリーランスに任かせてしまった。米国、英国、フランス、スペイン、ドイツなど世界各国の記者の多数がバクダッドにとどまって取材を続けたのに比べると、最重要な取材現場から一斉集団離脱したのは日本だけであり、いわば、オリッピック出場を自ら棄権した形で、日本のメディアの特異性・臆病ぶりが際立たせた。(中略)
 かつてベトナム戦争報道では日本のメディアは世界の注目を浴びた。ベトコンや北ベトナムの姿を従軍取材などで深くえぐり、戦争の真実を報道して米国はもちろん、世界の世論形成にも大きな影響を与えた』

 臆病ぶりといえば、昨年の原発事故のとき、政府が30キロ圏外は安全としていたにもかかわらず、NHKは40キロ、朝日新聞50キロ、時事通信60キロ、民放各局50キロ圏外に社員を退避させていました。原発近くの双葉病院などの例を挙げるまでもなく、伝えるべき情報は山のようにあったのに、記者達は留まる人々を尻目に必要以上まで遠くに逃亡しました。恥ずかしいばかりの腰抜けぶりです。

 かつては強い使命感をもった日本メディアもイラク戦争以後は安全・安心が確保された恵まれた地位を築きあげ、危ない紛争地などは我々が行くところではないということなのでしょう。各社一斉という横並びの行動様式も日本のメディアの特徴を表しています。

 今回の取材の注文主はTBSですが、むろんそれは自由な契約に基づいたことであり、TBSは記事を買うだけということでしょう。しかし危険地域に行った女性ジャーナリストは殺害され、恵まれた男達はエアコンの効いた安全な場所でお仕事という現実に違和感を持つ方もあるでしょう。

 07年の「発掘!あるある大事典2」捏造問題は大騒動になりましたが、ついでにテレビ局の下請け構造が問題になり、スポンサーの花王が電通に払った金額の約1億円が、制作会社へ支払われる段階では860万円になるという驚異の仕組みが明らかになりました(文芸春秋07年4月号)。

 どちらも自由な契約に基づいて下請けをうまく利用しているというわけです。自由な社会はとても大切なことですが、原発作業員の被爆格差やフリージャーナリストの危険性を考えると自由な社会のもつ別の側面が見えてきます。彼らは好んで危険な仕事をするわけでないでしょう。立場の弱い者にとっての自由は制限付というわけです。

 26日の朝日の社説は「山本さんが伝えた危機」とテーマで山本美香さんのジャーナリストとしての姿勢を評価する内容です。そのことに異論はないのですが、最後に書かれた一文にはあきれました。

『極限の危機に置かれた人々が生きる場に入り、その現実を世界に伝える。ジャーナリズムの重い責務を改めてかみしめる』

 こう書いているのは極限の危機どころか僅かな危機の場に入ることをとっくに放棄した人達です。「キミにだけは言われたくない」というのが正直な気持ちです。この文章からは危ない取材を下請けに出すことを恥じる気持ちや後ろめたさがまったく感じられません。厚顔無恥の模範といえるでしょう。臆病と厚顔無恥、これ以上に魅力のない組み合わせはちょっと考えつきません。

保守党より保守的な革新政党

2012-08-20 10:36:02 | マスメディア
 前の記事で、社民党や共産党は体制に批判的な人々の不満を養分にして生きてきた政党であると述べました。私見ですが、この構造が意味するところをもう少し考えたいと思います。

 かつて日本社会党は有力な野党であり、ついに1994年に成立した自社さ連立政権では村山富市社会党委員長が首相になりました。実権を手にした村山内閣は従来の路線を変更し、安保条約肯定、原発肯定、非武装中立の放棄という現実的な路線を採りました。安保条約破棄や非武装など、とても実際にできるものではないことを彼はよく知っていたわけです。しかしその結果、社会党は急速に衰退することになります。

 凋落の主な原因は従来の非現実路線を放棄したことにあったと考えられます。つまり社会党は非現実的ではあっても安保条約否定、非武装中立という路線を支持する人々の支持によって成立していたのであり、支持者は急な変化についていけなかったわけです。敗戦や侵略など、とくに重要な出来事がない限り、人々の意識は徐々にしか変わりません。

 ここから得られる教訓は、政党はその掲げる政策がいかに環境の変化に適応しなくなっていたとしても簡単に変えてはならない、ということでありましょう。一度反対を言い出したら容易に引っ込められない宿命を負っているわけで、これは組織の硬直化を招く原因にもなります。また支持者に対する迎合姿勢の必要も認識されたと思われます。

 このような政党にとって支持者の離反は政治屋という「生業」を失うことであり、何よりも避けなければならないことです。従って掲げる主張がたとえ非現実的であり、荒唐無稽であるとわかっていても、それを続けることが組織の存続にとっては無難な選択なのです。

 この構造が革新政党を十年一日のごときものにし、保守党よりも保守的な性格を与えていると思われます。しかしその方向性と現実の乖離は徐々に大きくなり、それが空論であるとの認識も少しずつ広がる結果、長期の凋落傾向は必然的なものとなります。

 これらの政党と支持者との関係は左よりの新聞と読者の関係に似ています。新聞社は読者の離反をもっとも恐れるので、読者から期待されている路線を急に変えることはできません。時代が変わって路線を変えたくても、そして変えるのが正しいと思っても、営業上の理由によりできないというわけです。そのために読者への迎合や変化を嫌う保守性が生じるのも政党とよく似ています。本来、優れた見識を提示し世論をリードすべきものが逆に読者に追従すればポピュリズムへの道を開くことになります。民意、民意と盛んにいうのは追従を正当化するための方便と聞こえます。

 朝日新聞は社民党の路線にもっとも近いといわれていました。社民党ほどの非現実性はないにしても、基本的な考え方は似ています。例えば、非武装中立までは言わなくても、自衛隊や米軍を蛇蝎の如く嫌い、その主な存在理由である戦争抑止力にほとんど関心を払わない点などです。中国とは対照的に日本の防衛予算はこの10年ほど漸減傾向が続いていますが、議論にさえならない状態です。

 非武装中立論そのものは衰退しましたが、それと整合性をとるために用いられた「平和を愛する諸国民」という概念はまだしぶとく生き残っています。最近の日本周辺の島をめぐる周辺国との軋轢はこのような「平和を愛する諸国民」という概念からすれば理解できないことですが、こちらの方が現実の反映です。

 まあ理由はどうあれ、一部の野党やマスコミがその硬直性のために時代や環境の変化に対する適応能力を欠くことは、国民の認識を誤らせる大きな不安材料です。揺るがぬ信念と頑迷固陋は似て非なるものです。

原発の存廃は気分で決まる

2012-08-13 10:23:40 | マスメディア
 原発に反対、あるいは賛成かは、その人を知ればおおよその見当がつきます。実際に被害に遭われた方は別ですが、例えば社民党の福島みずほ氏や共産党の志位和夫氏が原発に賛成することはちょっと想像できません。社民党や共産党なら原発に反対であろうと容易に予想できます。それは両党が体制に批判的な人々の不満を養分にして生きてきた政党であるからです。そのため、掲げる主張がいかに非現実的であっても一定の支持が得られてきたわけです(少数ですけれど)。何でも反対はその意味では合理的な戦法なのでしょう。

 一方、原発を支持するのは経済界の人や、経済成長が何よりも大切と考えているような人が多いようです。多少の危険より豊かな生活、つまりより多くのカネを優先する人たちと言ってよいでしょう。

 大雑把に言うと、反対派に特徴的なものは現在の社会に対する批判的態度、環境ホルモン問題に見られるような危険性に対する過敏な反応、総じて悲観的な見方、非現実性などが挙げられます。支持派には経済重視、物質文明の肯定、楽観性などが挙げられるでしょう。つまり多くの人にとって、原発に対する反対や支持の気持ちは既定のものであって、原発の利点と危険性を十分検討した上での結論ではないということを言いたいわけです。

 反対派はすでに反対の態度を決めた上で、仲間の反対論に耳を傾け、より硬直的、非妥協的な方向に進む傾向があります。これは支持派も同様であり、両者の対立は深まることはあっても解消することはなかなか期待できません。このような状況では、冷静な議論は困難であり、決定は情緒的な理由や「時の勢い」に左右されます。これは原発だけでなく、他の二項対立の状況に於いても見られることであり、一般化してよいと思います。

 「昭和16年夏の敗戦」という猪瀬直樹氏の本があります。昭和16年夏、つまり日米開戦直前、各分野から集られた若手エリートたちによって構成された内閣直属の機関、総力戦研究所がシミュレーションを重ねて出した日米戦争の予測は日本の敗戦であり、その経過も実際とほぼ同じであったと、ここに書かれています。

 そして東条英機はこの総力戦研究所の結論を無視し、開戦へと踏み切ります。東条の頭は既に開戦に決まっていて、総力戦研究所の結論に従う気など初めからなかったと思われます。日米開戦というまことに重大なことが、綿密なシミュレーションによる予測も考慮されず、東条や陸軍の感覚的・情緒的判断によって決定されたと見ることができです。

 原発を将来どうするかという問題は開戦ほどには重要ではないにしても、好き嫌いや気分で判断してよいほど軽い問題ではありません。いま目立つのは反対派による主張ですが、危険性など反対側の挙げる根拠は誇張したものが多いという印象があり、どれが信頼できどれが信頼できないのか判然としません。

 電力コストやエネルギー安全保障の問題、CO2排出問題、原発の事故率、放射性廃棄物処理問題、これらを一つひとつ評価して全体を総合評価することは簡単ではなく、ある程度の誤差も避けられません。しかし少なくとも好き嫌いや気分で、あるいは事故後の「時の勢い」で決めるよりもずっとマシでしょう。

NHKは頭がヘンになった?

2012-08-06 10:04:47 | マスメディア
 オリンピックが始まってからは日本中のメディアがスポーツ新聞、スポーツチャンネルになったような観があります。とりわけNHKの集中ぶりはひどく、総合テレビ・BS1の2波の9割ほどがオリンピックで占められている有様です。スポーツ番組の狭間に僅かばかり残ったニュースを見ると、ここでも大半がオリンピックのニュースで占められています。受信料を返してくれといいたくなります。まあそのおかげでオリンピック関係以外のNHK職員の方々は長期休暇をたっぷり楽しんでおられることでしょうけれど。

 視聴者はオリンピック以外の情報を遮断されたも同然です。いま政局は激動期にあり、本来なら周知されるべき大事な事柄が片隅に追いやられています。公共報道の役割が放棄されていると思わざるを得ません。NHKはスポーツ専門チャンネルと化し、公共放送としての節度も失われているようです。

 国全体がオリンピックに浮かれているように見えますが、それはメディアの演出によって作りだされたイメージであり、現実とイコールではありません。例えばゴールに近づいたときのアナウンサーの語尾を長く引っ張る絶叫は、私にはとてもわざとらしく聞こえます。冷静な語り口は似合わないにしても、これは演出過剰でしょう。メディアはその名の通り情報の媒介者であって、演出者になることは報道を曲げることです。

 メダルをもらった選手達の地元の情景、生い立ち、様々なエピソード、どれも偉業達成の感動物語を形成します。ほとんどのメディアがオリンピックの熱狂を演出しているように見えます。いつものメディアスクラムですが、所詮、付和雷同に過ぎません。政治などに無関心でよいのか、たかが運動会の親玉ではないかと、熱狂に冷水を浴びせるような天邪鬼やへそ曲がりが一社くらいあってもよさそうな気がしますが(日経だけが冷静です・・・経済紙であることを考慮しても)。

 それにしても人間は順位付けすることが好きな生き物です。わざわざ競技会を行って順位を決めます。それはわざわざ格差を作って楽しむ行為ともいえます。敗者は惨めですがそれはあまり報道されず、観客にとっては勝者の方が大きい存在となり、いっそう楽しいお祭り騒ぎとなるのでしょう。良い成績を残し、メディアの賞賛を浴びた選手は国会議員への道まで用意されています。政治家として資質は知りませんが。

 すべてのメディアが熱狂を演出する結果、メディア自身もそれを実像だと勘違いしているのではないでしょうか。ここには相互に影響しあって増幅されるというメカニズムが働いているような気がします。NHKのオリンピック集中報道はオリンピックは国民全体が熱狂する筈のものだという前提でなされたもので、安易な迎合姿勢の結果とも考えられます。

 オリンピックに興味のない人、騒々しさを嫌う人、もともとスポーツに関心のない人は決して少なくありません。また17日間ものオリンピック期間中、本来報道されてしかるべき多くのものが捨てられてしまうことでしょう。さらに心配なのはオリンピックの約半月間のことよりも、このような判断をしたNHKそのものです。

 NHKはクラシック音楽や邦楽など、民放では視聴率が期待できないため放送しないものも放送してきました。これは公共放送としての見識でしょう。視聴率が稼げるものだけをやれば少数の文化は滅びます。多数にのみ阿(おもね)るのではなく、少数にも配慮する姿勢が必要です。オリンピック報道ではこの見識や節度が見事に崩れた観があります。

 テレビは社会にもっとも強い影響を与えるメディアですが、中でもNHKは信頼性が高いと思われていて、その影響力は恐らく最大でしょう。そのNHKのアタマがおかしくなればその影響は計り知れません。NHK中枢の決定であろうと思われるオリンピック報道がその前兆でなければよいのですが。