噛みつき評論 ブログ版

マスメディア批評を中心にしたページです。  姉妹ページ 『噛みつき評論』 もどうぞ(左下のBOOKMARKから)。

対比すると面白い 水支援、日本3t ニュージーランド250t

2022-01-23 21:31:18 | マスメディア
 フンガ・トンガ・フンガ・ハウパイ火山(なんとややこしい名前)の噴火の被害を支援するため各国の支援活動が始まった。支援物資を積んだニュージーランドの軍艦は1月21日にトンガの首都に到着、水250トンに加え、1日70トンの海水淡水化装置も積載しているという。これに対し日本は自衛隊輸送機を派遣し、22日に飲料水3トンを届けた。続いて2機に残りの飲料水などを積んで派遣するという。

 ニュージーランドは水、日本は飲料水となっており、違いがわからないが水を飲用に変えるのは難しいことではない。3トンに対して250トンと毎日70トンの淡水、どちらがありがたいか。そもそも水や砂利のような低価格で大量に使うものを数千キロ離れた地域に空輸することが馬鹿げている。そんなものは近隣の国に任せて食料など他のものを空輸するのが合理的である。税金だからコストと効果を考える人がいないのかと思う。ニュージーランドの支援と日本の支援、二つ並べて記事にすれば日本の間抜けた計画が際立つ。

 アフガニスタンの撤退作戦では日本は無能ぶりを世界に示した。直前の爆弾テロという不運もあったが初動の遅れが大きい。さらに現地採用を除く大使館員全員が早々と逃げてしまったことも恥ずかしい。一方、駐アフガン英国大使は最後まで残り、1万数千人の退避を指揮したとされ、帰国時は英雄扱いだったという。日本の役人の逃げ足が速いのは福島第一原発の事故時、真っ先逃げた4名の原子力保安院検査官以来見慣れたことである。危機に際して重要な立場にある者が我先に逃げるというのは敵前逃亡にも並ぶ大罪である。英国大使の行動と並べると、日本の教育にまで疑問が及ぶ。日本の対応と英国の対応、この二つも並べて記事にすると面白い。

 逆に、実に痛々しいことであるが、救助に向かった若者の勇敢さと責任感に心を打たれた出来事があった。1月5日、那須サファリパークで起きたトラの事故である。26歳の女性飼育員がトラに襲われた。悲鳴を聞いた20代の二人が助けようと中に入ったところ彼らも襲われ、22歳の女性飼育員は右手首から先を失うという実に気の毒なことになった。詳しいことはわからないが、二人には中に入らず、安全な場所で人を呼ぶなどの選択もあっただろう。危険を承知で仲間を助けようとした行為には本当に頭が下がる。

 これと対比するのはセウォル号の船長がいい。彼は乗客の姿に化けて、高校生の乗客を残して先に逃げた。しかも彼は危機に際して指揮をとるべき船長なのである。逃避行動も熟慮の上なのだろうからことさら悪質である。弁解の余地はない。

 セウォル号の船長は散々メディアに叩かれ、有罪にもなった。しかし那須サファリパークの勇敢な二人をメディアが称賛したのを見たことがない。メディアは称賛が嫌なのだろうか。報道のほとんどは人や組織に対する非難・誹謗である。メディアは責めたり非難するのが仕事だと考えているようだ。これには読者・視聴者にも責任がある。読者・視聴者は悪人が断罪されることに快感を覚える。悪人が資産や権力を持つ大物なら効果はより大きい。快感を与えられることはメディアが商売として成立する要素のひとつである。その結果、メディア報道は称賛より避難に傾斜する。

ご臨終近い社民党

2022-01-12 21:37:50 | マスメディア
 この夏、社民党は政党でなくなるかもしれない。公職選挙法などで政党として扱われるには所属する国会議員が5人以上か、直近の衆院選か最近2回の参院選で全国を通じた得票率が2%以上出なければならない。前回の参院選では2.09%であったが、昨年の衆院選では1.77%であり、夏の参院選で2%を超えるのは難しい情勢だ。

 社民党が今後どうなろうとどうでもいい、後は野となれ山となれである。興味を惹かれるのはこのような長い歴史を持った政党がいかに時代から取り残され、長い時間をかけて支持を失ってきたかという問題である。

 社民党の前身は日本社会党である。両者に共通する特徴は「なんでも反対」の党であり、とくに自衛隊には反対で、その考えは憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」に近い。
(指摘されているように「信義に信頼」ではなく「信義を信頼」の方が日本語として正しい)。

 現在の国際環境が「平和を愛する諸国民の公正と信義」を信頼し、非武装でよいと考える人はさすがに僅かとなった。よほどおめでたい人だけであろう。非武装中立は両党が掲げてきた主張であった。国際環境の変化と共に社民党の時代遅れの様相が明確になってきたわけである。しかし国際環境の変化がなくても国際政治はパワーポリティクスの世界であり、力が最重要の要素であることは歴史を見ればわかることである。この現実に目をつむり、非現実的な妄想を長期にわたって信じてきた現象は奇妙である。

 福島瑞穂氏は高校生時代、全国模試で一位をとったほどの秀才であり、国際社会の現実を理解できないのはまことに不思議である。また弁護士時代は韓国の元慰安婦に寄り添いアジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件の弁護を担当して日本政府に補償請求した。朝日の記事などを真に受けて、善意でのことかもしれないが、真偽を見抜く能力がいささか弱いようだ。

 ついでながら彼女の師匠格である土井たか子氏にも重要な象徴的なエピソードがある。1988年、拉致された石岡亨さんの手紙が有本恵子さんの両親に届いた。文字通り決死の手紙である。両親は土井たか子氏に手紙のことを訴えたものの土井氏は無視し、手紙のことを朝鮮総連に密告した。2か月後、石岡さんと有本さんは死亡したと北朝鮮から発表された。彼らの死と土井氏の密告とが無関係とは思えない。手紙を出したことによる処刑や口封じの可能性もある。土井氏は北朝鮮という国や友党である朝鮮労働党を正確に把握していたとは到底思えない。これも不思議である。これほどの大失態であるが左翼に甘いメディアは十分な報道をせず、あまり知られていない。

 福島氏や土井氏に見られる現実離れした妄想、狂ったとしか思えない現象認識はなぜ生じるのだろうか。それを左翼思想と簡単に片づけてしまっていいものとは思えないのである。若年者が一時期、様々な思想や宗教にかぶれることはよくある。けど社会の現実を見、経験を重ねるにしたがって多面的に見方もできるようになり、より正確に現状を認識できるようになる。福島氏や土井氏にはそれがなく、基本部分は一貫して変化がないようだ。永遠の若者というと聞こえがよいが、アスペルガーにも似た硬直的な精神特性ゆえなのだろう。個人のことならよいが、問題はそれが社会的影響力を持っていることである。

 オウムの世界観は妄想に基づくもので、それは凶悪な犯罪集団の基礎を形成した。妄想が現実認識を歪めた例である。社会党・社民党の防衛政策もそれに似ている。隣の人は平和を愛するいい人であり、戸締りなど必要ないと言い続けてきた。しかし戸を開けたままだと泥棒行為を誘う。戸を閉めることが泥棒や強盗行為を抑止する力になるという常識さえ理解できないのである。社会党・社民党は何十年もの年月をかけて日本の抑止力の足を引っ張ってきて、戦争の危険を高めたと言ってよい。それを可能にしたのはメディアの認識の愚かさであろう。共犯である。こんな有害な政党がいままで続いたことを反省しなければならない。

 思想と宗教につけ込まれやすい性格というのは存在する。こだわりの強い性格などがそうだろう。そして思想の自由、信教の自由としてそれらは強く保護されている。当初、警察がオウム捜査に腰が引けていたのは憲法上の信教の自由のためだった言われている。しかし、これらの自由権は社会の基本であり、制限することはとてもできない。宗教や思想に潜むこれらの危険を防止することができるのはマスメディアだけである。メディアが正確に認識し、応援などしないことである。メディアがアホでないことが必須条件となる。