噛みつき評論 ブログ版

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宗教は害悪? (R.ドーキンス)、非課税などの優遇措置は必要か

2007-06-28 12:11:55 | Weblog
 『信仰上の理由で輸血を拒否している宗教団体「エホバの証人」信者の妊婦が5月、大阪医科大病院で帝王切開の手術中に大量出血し、輸血を受けなかったため死亡した。病院は、死亡の可能性も説明したうえ、本人と同意書を交わしていた。エホバの証人信者への輸血を巡っては、緊急時に無断で輸血して救命した医師と病院が患者に訴えられ、意思決定権を侵害したとして最高裁で敗訴が確定している(00年)。一方、同病院の医師や看護師からは「瀕死の患者を見殺しにしてよかったのか」と疑問の声も上がっている。』 (毎日新聞 07/6/19日より要約)

 十字軍の遠征、近世西欧のいくつかの宗教戦争、人民寺院事件、9.11テロ事件、イラクのシーア派とスンニ派の争い、これらの悲惨な事件に宗教は主役を演じてきた。わが国でもオーム真理教サリン事件、霊感商法、など宗教による問題は少なくない。人を救済することが最大の目的である筈の宗教は一方で戦争を含む巨大な害悪をも生んできた。

 一方、わが国では宗教は法的に手厚く保護されてきた。憲法第20条は「信教の自由は、何人に対してもこれを保証する」と規定し、宗教法人は税法上も極めて優遇されている。ここでは現代の宗教を考えてみたい。

 仮定だが、もしエホバの証人の子供が輸血なしでは助からないという事態になったとき、親が輸血を拒否して、子供を死なせてしまう可能性があるのではないだろうか。なぜなら、00年の最高裁判決は医師の救命義務(生命にかかわる緊急時の輸血)より本人の意思決定権を優先したからである。(東京大医科学研究所付属病院で92年、女性信者に無断で輸血した病院と医師に損害賠償の支払いを命じる最高裁判決が出ている)

 信仰に関する意思決定権の優先が認められたわけだが、安楽死の場合はそうではない。95年の東海大の安楽死事件に関する横浜地裁の判決は今のところ安楽死の基準とされているが、ここでは安楽死の条件として、患者本人の意思に加え、患者に耐えがたい激しい肉体的苦痛があること、 死が避けられず、死期が迫っていること、など4条件を示し、死を選ぶ意思決定権はごく限られたものである。これはオランダにおける安楽死の自己決定権に比べると非常に限定されたものである。つまり宗教にかかわる意思決定権だけは特別優遇されているという印象が拭えないのだ。

 これも「エホバの証人」のかかわる事件であるが、神戸の市立高等専門学校で、同信徒の学生が体育の剣道の授業を拒否して、進級を止められ退学になった事件があった。これも96年に出された最高裁判決では、原告学生の全面勝利に終った。剣道の授業拒否が認められたのだ。

 エホバの証人が二つの事件で最高裁判決を勝ち得たのは、憲法で保障されている「信教の自由」があったからこそだと思われる。どちらの例も拒否理由が信仰ではなく好き嫌い、あるいは信条、○○主義であったなら多分敗訴になっていただろう。宗教上の意思決定権だけは優先されているのだが、これに合理的な理由があるだろうか。

 オーム真理教による拉致・殺人、統一教会の霊感商法による経済的被害などはよく知られている。しかし家族を宗教に奪われるというケースは多い割りには知られていない。殺人のように大ニュースにならないためだろう。息子や娘が洗脳されて教団に奪われるという事態は、実際に家族を失うのに近い悲劇である。家族からは誘拐と見えても、信仰となれば警察は手出しできない。「信教の自由」が教団を守っているのだ。

 オーム真理教に対する捜査の遅れは大きな被害につながったが、当初の腰の引けた捜査にその理由があると言われている。

 宗教法人が本来の宗教活動で得た収益には課税されない。寄付金、お布施、戒名料などすべて非課税である。集めた資金の運用益にも課税されない。また宗教活動に使う土地・建物に対する固定資産税も課せられない。非課税の特典を利用できるので、休眠宗教法人の売買まで行われているとも言われている。この優遇措置に見合うだけの社会貢献があるのだろうか。

 宗教とは存在する筈がない神を、あるいはそれに代わる超自然のものを中心に置いた、虚の世界、錯誤の世界である。合理性とは相容れない部分をもつ。私は熱心な信仰を持つ人に十分な合理性を求めるのは間違いだとすら思っている。そして合理という共通の認識がなければ相互に理解することは難しい。

 著書「利己的遺伝子」によって思想界にも大きな影響を与えた生物学者リチャード・ドーキンスは「宗教攻撃」の第一人者でもあるが、宗教は害悪であり、そして神はどうみても子供の空想だと主張している(インタビューThe flying spaghetti monsterより)。偉い学者の言葉を引用し、その権威で説得するという方法を私は好まないが、この場合は少し違う。信仰あるものの神経を逆撫でする私の主張に対する風当たりをドーキンスに受けてもらうというセコイ配慮なのである。

 現代社会における宗教の影響の大きさ、有用性はかつてと同じではない。決して無視できない負の側面をも直視し、改めて社会での位置づけを検討すべきだと思う。例えば、憲法20条の「信教の自由」は宗教だけを特別扱いしているが、19条の「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」に含めてもよいとの考えもある。

 かつて毎日新聞は創価学会批判を続けたが、結局、学会の圧力に屈した。それが「教訓」になったかどうかは知らないが、宗教問題はメディアのタブーのひとつとも言われている。宗教の優遇が現在まで顕在化しなかったのはそのためでもあるだろう。宗教問題が広く議論されることを期待する。

新聞書評は信用できるか

2007-06-25 22:44:21 | Weblog
 私は新聞や雑誌の書評欄で、高く評価された本を買っていたことがある。しかし評価にふさわしい本だと納得するより、失望を味わった方が多かった。はっきりと書評に疑問を持ったのは養老孟司著の「バカの壁」について書かれた書評である。

 「バカの壁」の帯には「朝日・毎日・読売各紙で大絶賛」と書かれている。私は朝日に載った中条省平氏の「絶賛書評」だけしか読んでいないが、その最後の部分を紹介する。

 「・・・目からウロコ、の連続である。この小さな面白い本が提起する問題はかぎりなく大きく、人類の未来を左右する。世界で最も独創的で説得的な、わずか六行のカフカ論も読めるオマケつきだ。」 

 これより前の部分は本の内容紹介に費やされている。これがわけのわからない代物なのだ。もっとも「バカの壁」自体がわけのわからぬ本なので、まともな説明のしようがないが、最後の賞賛の言葉は評者の知性を疑うのに十分だ。(拙論『「バカの壁」を読めばバカになる』を参照)

 ネット書店アマゾンには読者の評価を載せるカスタマー レビューという欄がある。「バカの壁」に関しては04年初めに200を超す評価が出ていたが、ざっと見たところ、否定的なものが七割でその半数以上は酷評といえるものであった。

 私の経験では新聞の書評よりアマゾンやbk1などの評価欄の方がよほど役に立つ。主な本には複数の評価が出ており、人気本には数十~数百の評価がでている。評価文を読めば評者のレベルや考え方はおおよその見当がつく。これはと思う複数の人の評価を参考にすればよい。驚くほどの高い識見を持つ評者も少なくない。

 なぜ新聞や雑誌の書評はあまり信用できないのだろうか。それには新聞や雑誌で書評がどのようにして作られるかを考えるればよい。任意に多くの本を読んだ評者がたまたま気に入った一冊を選び、「この本が良いぞ」と書評を書くのなら、信用ある書評ができるのだが、現実は決してそうではない。

 一般的な仕組みは次のようなものらしい。まず新聞社・雑誌社に出版社から新版が届けられる。新聞・雑誌の担当者は適当な評者を選定して書評を依頼する。評者は担当者の知己であることが多い。また何名かの書評者(書評委員)を予め選定しておいてその中で相談して決めるというやり方もある。評論家の兵頭二十八氏によれば著者が評者を指定する例も多いそうである。氏は「今の日本の新聞や雑誌の新刊書評の8割は、なんらかの「コネ」で発注されているのが現状です」書いている(http://ww1.m78.com/honbun-2/hyodo.htmlの03/5/21付参照)。

 つまり関係者の多くが仲間内なのである。厳しい評価は著者や版元に迷惑をかけることになるので、避けようとする力が働くのは当然である。それどころか褒めるのがあたりまえというのが実情ではないだろうか。

 また書評の場を自分の自慢に利用する評者も時折見られる。難しい本を、さも簡単に理解できたよう顔をして薦める輩である。買ってみたら専門書に近い本であったり、また文章や説明が下手糞で理解困難であったりする。

 褒めれば本が売れ、著者も出版社も喜ぶ。新聞・雑誌や評者も出版社と良い関係のまま共存できる。新聞・雑誌は出版社から広告を出してもらうし、著者はいつか出版社に世話になることも多い。すべてまるく収まってめでたしめでたしとなる。犠牲になるのは読者の利益だけだ(こんなもの取るに足らない?)。

 アマゾンなどの書評は玉石混交という欠点はあるものの、利害関係のない評者によって書かれているのが最大の長所である。ネットの書評が従来の書評の世界に風穴をあけることを願う。・・・以上は決して新聞には載らない話題である。

メディアが作るイメージと現実の乖離

2007-06-20 22:36:21 | Weblog
 浜井浩一・芹沢一也 共著「犯罪不安社会」(光文社新書)は一般の犯罪に対する認識と犯罪統計がいかに異なるかを示した本である。なかなか説得力のある本であり、一部を紹介する。

 内閣府の「社会意識に関する世論調査」によると「治安が悪い方向に向かっている」と考える人は98年は約19%であるが05年には約47%になっている。実はこの期間、殺人事件は減少傾向が続いている。

 また85年から03年にかけて殺人事件の件数は、85年を100とすると一貫して100以下であるにもかかわらず、朝日新聞の殺人記事数は増加し、同じく85年を100とする指数では00年と03年には500近くになっている。約5倍もの殺人記事を読まされたら誰でも治安が悪くなっていると誤解するだろう。「良識の朝日」でこの程度だから、「非良識」のテレビはもっとひどいのではないか。

 6月4日の日経夕刊に興味深い記事がある。医療についての相談を受け付けているNPO法人「ささえあい医療人権センター・コムル」によると、年ごとの医療事故に関する新聞記事件数と医療不信が強い相関関係を示したというのだ。

 医療事故のニュースが頻発すると、患者は医療に不信感を持ち、医師との信頼関係も損なわれる。そして訴訟の増加を招き、産科などではそれが医師の減少要因のひとつともなる。これを単に報道の副作用として、仕方がないものとして理解すべきなのだろうか。

 現在の日本の人口は1億3000万人ほどである。もしも人口が1300万人なら親殺しも子供虐待も凶悪殺人も医療事故も発生件数は10分の1になる。おいしいネタが減ると、メディアは仕方なく万引きや窃盗など小ネタを中心に載せざるを得ないだろう。その結果、日本は安全で、医療が信頼できる国だということになる。

 読者・視聴者は、意味のある犯罪率や医療事故率にはあまり関心がなく、メディアの提供する印象で判断する。安全かどうかの指標はあくまで人口比で示される犯罪率なのだ。しかし、猟奇事件のようなおいしいネタは膨大な報道がされる結果、それを身近に感じてしまう。そして日本は安全な国ではなくなったという見当違いの議論まで現れる。

 また同じ事件でも犯人が政治家や高級官僚、実業家など、高い社会的地位を持つ者の場合、報道は熱を帯びる。したがって高い社会的地位を持つ人間は悪いことをする奴が多い、などと誤解する者が出てくる。

 以上、述べたように様々な理由によって、メディアによって作られる暗いイメージと現実は乖離していく。そして暗いイメージは様々な悪影響を社会にもたらす。一部の冷静さを欠く人たちは治安が悪くなったと、凶悪犯罪に怯えながら生きているだろう。また医療の例で示したように、不信感を持ちながら医療を受けるのは気持ちのよいものではない。一般の人にとっても犯罪や不祥事がいっぱいの暗い社会というイメージの下で生活するのは愉快なことではない。

 政治団体「9条ネット」から参議院選挙に出馬予定の元レバノン大使の天木直人氏は「今日の日本の崩壊を招いたのは5年半の小泉政権にある」と発言されている。どういう見方をすれば日本が崩壊していると言えるのか、私には全く理解不能だが、氏は日本が崩壊していると認識している連中が少なからずいるという認識の上で、この発言をされたのだろう。特定局のコメンテータの言葉をまともにとっていたらこんな認識が生まれるのだろうか。理解不能だが、怖い話である。

押し紙・・・新聞がひた隠す業界の暗部

2007-06-19 20:55:17 | Weblog
 押し紙とは新聞社が新聞販売店に販売した新聞のうち、購読者に届けられたなかったものである。販売店は新聞社に代金を払うが、新聞そのものは廃棄される。その数が全体の約2割、毎日1000万部くらいあると云われている。もったいない話である。

 2002年の毎日新聞の内部資料によると、新聞社が販売した総数の395万3,644に対して、読者に購入された数は250万9,139で144万4505が押し紙ということになる。率にすると36.5%になる。読売は推定2割、朝日は同2~3割という。資料はMy News Japan (http://www.mynewsjapan.com/kobetsu.jsp?sn=234)より

 なぜこんな不思議なことが起こるのかというと、ひとつは新聞社の売り上げを増やすためだが、もうひとつは販売部数に比例する広告料を高くとるためらしい。毎日の場合だと押し紙をやめると新聞販売の売り上げが36.5%も減り、広告収入も多分同程度減ることになるだろう。

 またこの仕組みは販売店にかなりの痛みを強いるものであるにもかかわらず、維持されるのは、新聞社の販売店に対する優越的な立場のためであろう。すべて販売店の犠牲というわけではなく、押し紙の代わりに販売奨励金などの名目で販売店に埋め合わせをしていることが多い。また販売数を多く見せることによってチラシの手数料の増加につながるという販売店の利点もあるようだ。

 もし事実だとすると、毎日1000万部がそのまま廃棄されるのは資源の大きな無駄であり、またその費用は読者の負担になっているのだ。さらに実販売数を偽り、広告費やチラシ手数料を高く取ることは詐欺と変わらない。

 ここは公正取引委員会の出番であろう。新聞社が優越的地位を利用して不公正な取引が行われていないか、広告料の根拠が虚偽でないか、調査してほしい。国民経済上の無駄をなくすためにも。

 日頃、企業や政府機関に厳しいことを言っている新聞社ならば、そろそろ自らの身辺をきれいにすべきではないだろうか。1000万部を無駄にしながら、環境問題をゴチャゴチャ云うのは二枚舌と言うものだ。

 この問題(不都合な真実?)は新聞が決して報じないために一般に知られることは少なかった。ネットメディアが認知される良い機会である。


ゲルマニウムの危険性 健康食品信仰について

2007-06-18 11:55:12 | Weblog
 故松岡元農水相の光熱費騒ぎのおかげでゲルマニウム水がすっかり有名になった。ゲルマニウム調べてみた。

 グーグルで「ゲルマニウム」を検索すると約198000件ヒットした。500番目まで眺めたがゲルマニウム入り健康食品、ゲルマニウム温浴、ゲルマニウム装身具と、ほとんどは関連商品の販売サイトだ。ゲルマニウムと名がつけば売れると云わんばかりの有様である。

 一方、国立健康・栄養研究所の「健康食品」の安全性・有効性情報によるとゲルマニウムの安全性の総合評価は次のとおりである。

・食品としての経口摂取はおそらく危険と思われる。
・経口摂取により末梢神経や尿路系の障害が起こり、死に至ることがある。
・日本では1988年10月、厚生省が動物試験の結果から、酸化ゲルマニウムを含有させた食品を継続的に摂取することを避けるよう注意喚起を行った。また、ゲルマニウムを食品の原料として使用する場合は、予めその長期健康影響などの安全性を確認して使用することとされている。

 またwikiによると、ゲルマニウムは貧血や疲れ、癌などによいとされているが、そのような効能、効果は医学的に証明されていない。ゲルマニウムを含む健康食品を摂取して死亡した例もあるそうだ。

 ゲルマニウム関連商品の販売資料は無数と言ってよいほどある。一部を調べた限りではその記述は化学や薬学の知識に裏付けられた信用できるものとは思えない。ただうちの商品はこの病気に有効である、と云うような薬事法に触れる記述は見あたらなかった。

 彼らは商品より、法律の勉強に熱心なのだろう。ゲルマニウムが実に広範な病気に有効であると"間接的"に思わせる記述は巧みである。業者は無害な有機ゲルマニウムであることを強調している例が多くあったが、その化学式を示したものは見あたらなかった。また説明の一部がステレオタイプなのは共通の原典の存在を窺わせる。

 他方、国立健康・栄養研究所の記述やwikiの記述は地味であるが、相応の知識を持った人が書いているのが分かる。文章を見ればその人の知識レベルは大体見当がつく。

 何故、多くの人が公的な機関よりも怪しい業者の説明の方を信用するのだろう。よく似た例にアガリクスがある。癌に効くということで藁をもつかむ人々の思いを食いものにしてきた業者の稼いだ金額は膨大である。

 アガリクスは国の研究による発がん性を示す決定的な資料の発表によって落ち目になった。これでも遅きに失した感がある。ゲルマニウムを長期摂取することが安全かどうか、確認されているのだろうか。効果も確認されず、危険性も分からないのであれば摂取は実に馬鹿げたことである。一方の、食品に対する極端な安全志向との矛盾をどう理解すればよいのだろうか。凡人には理解に苦しむことである。

 医薬品の場合は効果と長期も含めた安全性が厳しく求められるが、食品にはそのような規制はない。効果を直接うたわなくても、健康上の効能を示唆して販売する業者はやりたい放題である。業者に云われて効能を信じてしまった場合、少なくとも長期の安全性を確認してから購入すべきだ。

 コペンハーゲン大などのグループによる最近の23万人対象の調査によると、ビタミンA、同E、ベータカロテンを摂取していた人は、摂取していない人と比べ死亡率が約5%高かったという(2007年03月01日00時22分 朝日コム)。

 余分な出費が、少なくとも役に立っていなかったことは間違いなさそうだ。これらの成分は安全性が比較的確認されているものであるから、予想外の結果である。

 上記の国立健康・栄養研究所の発表はほとんど知られていない。メディアの無関心のためであろう。有用な情報を提供するのが寡占を許されているメディアの使命の筈だ。スキャンダルや殺人事件に血道をあげ、こちらは「鈍感力」では困る。不二家の10%でも取り上げれば、社会は効果の真偽や危険性の程度を検証する方向に動き、インチキ商売は淘汰されることになるだろう。


NHKの不二家事件への対応・・民放と変わらない

2007-06-15 15:43:16 | Weblog
 1月30日のNHKのクローズアップ現代が「ペコちゃんが泣いている」と題して不二家事件を採り上げていた。テレビ報道のあり方として気になった部分があったのでご紹介したい。記憶によっているのでやや不正確な点があるかもしれないことをお断りしておく(間違いのご指摘をお願いします)。

 ①不二家の食品を食べて食中毒を起こせば死者が出るかもしれない、という意味の専門家の発言を放送した。

 死者が出る確率はゼロとはいえないからウソではない。しかしこの番組でこんなことを言わせれば必要以上の恐怖を招く。確率を無視した話なのだ。あなたは道を歩いても交通事故で死ぬかもしれない、或いは隕石に当たって死ぬかもしれない、などとわざわざ指摘するようなものだ。しかし交通事故の場合はおよその確率(約1/20000、05年は約7000人死亡)を知っているし、隕石が当たる確率は無視できると知っているから、指摘されても冷静でいられる。だが食中毒で死ぬかもしれないと云われると確率がわからないだけに恐ろしいと思う人が出てくる。食中毒による全国の死亡者数は厚生労働省の資料によると05年で7人である。食中毒を心配するより交通事故の心配をする方が1000倍ほども理に適う。

 ②異物の混入クレームがこの1年間で一六百余件と言うことを強調していた。
 これが多いか少ないかは同業他社との規模を考慮した比較がなければわからない。異物混入を完全になくすことは現実には無理である。半導体工場並みのクリーンルームにして、作業員全員を丸坊主にでもしない限り、ゼロにするなどできない。もしやればコストは何倍にもなる筈だ。

 ③顔を隠した元従業員を登場させ、以前床に落ちた原料を拾って入れた、という証言を放送した。
 このやり方は悪徳不二家という印象を与えるのに大変有効だが、真偽の判断が難しい。会社に恨みを持つ証言者を集めるのはさほど困難ではないし、それがやらせであっても、証言を否定するような反証がまず見つからないため、制作者は安心して使うことができる。この元従業員の証言には確かな裏づけがあるのだろうか。またこの程度のことは他社では絶対ないと云えるだろうか。また街頭の声も「裏切られた」「許せない」の二つだけの採用だ。

 クロ現は不二家をより悪く見せるという意図の下に作られていることがわかる。しかもその手法は公正とは云えないものが含まれる。今までクロ現はよい番組を多く作ってきただけに、民放に横並びの迎合姿勢をとったことは大変残念である。

 翌朝、初めてTBSの、ワイドショーを見た。稼ぎまくることで有名な司会者、みのもんた氏は眠そうな顔で、不二家をあれこれ非難した後、異物の混入クレームがこの1年間で一六百余件という表示板に、大袈裟に(私にはわざとらしく見えた)驚いて見せた。そして「この会社は社会に存在する価値がない」とまで言い放った。彼の厳しく不寛容な態度は彼自身が非常な潔癖な人物であるためか、それとも彼が偽善者であるためだろうか。いや、本当のところは視聴者のルサンチマン(弱者の強者への妬みや憎悪)を意識した人気取りの態度だろう。

 不二家がマニュアルを直し、材料の期限を守るなど標準的な品質管理が出来るようになるのはそんなに難しいことなのか。会社が潰れるほど痛めつけないとできないことなのだろうか。重ねて言うが、中毒者を1人も出していないのに、これほど叩く必要がどこにあるのだろう。不二家を叩く理由が、読者を驚かすことで視聴率を上げるというメディアの属性にあるというのであれば、なんともやりきれない。 単に視聴者の好奇心を満たすための報道が経営危機を招き、さらには罪のない失業者を生み、フランチャイズ店を苦境に陥れるという事態を憂慮する。

 採り上げた二つの報道には上品・下品の違いはあるものの、意図的な必要以上の攻撃という点では共通だ。このような報道を毎日聞かされては、不二家はとても許せない、と思ってしまう人が多くなるだろう。公共放送をも含んだ付和雷同メディアの怖さとアホさを改めて思い知った。水に落ちた犬を叩くというが、それも謝罪している犬を大勢で叩くのだ。見ていて気持ちのよいものではない。よってたかってペコちゃんを泣かせているのはメディアなのだ。

 私は不二家を擁護したいのではない。ただ報道の意義を問いたいだけだ。常に報道の意義と報道が招く結果を優先してもらいたいと思う。視聴率はその次でいい。再教育を望みたいのは不二家よりむしろメディアの編集者達である。

ライス国務長官の年収はこんなに低い

2007-06-14 11:13:41 | Weblog
巨額財政赤字日本の高級公務員は遥かに高い 

 世銀総裁は自分の愛人に情実人事を行っていたことが発覚し、辞任表明に追い込まれた。愛情あふれる総裁の配慮によってこの愛人得ていた年収は 約19万ドル(約2200万円、1$=115円として、以下同じ)であり、それはライス国務長官の年収(18万ドル超)を上回るという。図らずもライス長官の年収が世界に知られることになった。

 米国の高級公務員の年収は意外に低い。ブッシュ大統領は約40万ドル(約4600万円 )、日銀総裁に相当するバーナンキ連邦準備制度理事会(FRB)議長は約18万ドル(約2070万円)だそうだ。

 それに対してわが国の場合はどうだろうか。
総理大臣、最高裁長官の年収は4169万円、衆参議長は3678万円、日銀総裁は3578万円、省庁大臣は3044万円、衆参両院の事務総長は2979万円、事務次官は2100万円となっている。(http://www.muneo.gr.jp/html/diary200606.htmlから引用)

 日本の総理大臣と米国大統領はあまり差がない。激務と責任の重さからみてそれは高すぎるとは思えない。日銀総裁の年収3578万円はFRB議長の年収約2070万円の1.73倍に達する。FRB議長は世界の経済に大きな影響を与える重職であり、日銀総裁の報酬の高さが際立つ。

 衆参議長の3678万円は、ライス長官の約1.7倍になる。かつて土井たか子氏が、現在扇千景氏がお勤めになっている議長の仕事がいかに大変なものとしても、それは世界を左右するライス長官の仕事には遠く及ばないのではないだろうか。しかもライス長官は27歳でスタンフォード大学の教授に就任した大変な逸材だと言われている。
(衆参議長と国務長官の仕事を並置するのは適当でないことは承知しているが、他に資料がないのでご容赦下さい)

 首相と最高裁長官、衆参議長の所得に大差がないというのは、仕事の量や責任の重さを考えると合理性があるとは思えない。司法、立法、行政の三権を同格に扱うためと思われるが、いくらなんでも建前や形式を重視しすぎではないだろうか。

 余人をもって代え難い優れた能力、仕事の困難さ、責任の重さが十分大きければ、高給に異議を挟むものはいないだろう。

 わが国が公務員天国と言われて久しい。金持ち国家アメリカを上回る高給公務員の待遇はその象徴とも言える。大阪市の交通局職員の高給などが明らかになり、官民の待遇の格差が問題になった。また一方で、わが国政府は約700兆円の巨額の財政赤字を抱えている。これはGDP比では先進国のなかでトップである、いやワーストワンと言った方がよい。

 この高給公務員の給与水準からは、政府の危機感を感じることはできない。財政赤字解消のための削減を行うなら、せめて米国並みの水準を目標にして、まず巨額の赤字に責任を負うべき上層から手をつけるべきだと思う。上から範を示すという意味もある。

不二家への集中攻撃はなぜ起きたか

2007-06-12 20:55:32 | Weblog
少し古いものですが、多くの反響を頂いたものなので載せました。

 新聞・テレビによる、不二家「攻撃」が続いている。連日、NHKまでがトップニュースとしてとり上げている。もっともニュース報道に関する限り、最近のNHKは民放と同じ軽薄路線を歩んでいるようだ。ワイドショーでは、 コメンテーターと称するおっさん達が厳しそうな顔を並べ、メモをちらちらと見ながら「とても許せません」などと口々に非難している。発言がどの程度、局の意向なのか、あるいは本人の意向なのかは知らない。

 「罪なきものは石もてこの女を打て」を思い出した。私は信者ではないが、聖書にある有名な一節である。このイエスの言葉の後,女を打つものはいなかった,という記述が続く。しかしワイドショーのおっさん達は正々堂々と石を投げる。きっと罪のないご立派な人たちばかりなのだろう。

 街頭で収録された市民の声も、心配だというものばかり流している。ひとりくらい「私は平気だ」という人の声を入れるべきなのに、「心配だ」、「許せない」ばかりにするのは不二家断罪という方針が既に決まっているからなのだろう。 コメンテータの発言にも、ひとつとして不二家に同情的なものはない。見事な編集である。 さらにすべてのメディアが同じ調子なのも不気味である。付和雷同型のメディアが数多くあっても存在の意味がない。

 不二家はそれほど許せないことをしたのだろうか。ひとりだって中毒者を出したわけではない。家庭では期限を過ぎた食品をすぐ捨てる人ばかりではないはずだ。 私は保管条件が良ければ1日以上の期限切れの食品を食べている。

 では不二家の製品はどれくらい危険なのだろうか。殺人事件には犯罪や心理の専門家などが次々とテレビに登場して解説する。自然災害には気象学者が登場する。だが不思議なことにこの事件では食品の専門家が出てこない。なぜだろうか。それはもし食品の専門家に登場願って、期限が1日過ぎた原料を使った製品の安全性はどうかと問えば、彼は心配ないでしょうと答えて、番組が白けてしまうからだ ろう。事情を知っている専門家なら、危険ですとはとても言えまい。

 原料の賞味期限が1日過ぎていたものを承知で使っていた例がいくつか発覚したというのが指弾を受けた主な理由だ。シューロールの細菌検査で、食品衛生法基準の約10倍を検出したが手違いにより、113本が出荷されたこともあるらしいが、これは事故であろう。

 食品の賞味期限は十分な余裕をもって設定されている。さもないと出荷後の保管条件の違いにより、期限内でも変質するものがあるからだ。裏を返すと、保管条件が良ければ期限を超えても安全だといえる。食品会社はこのあたりの事情に詳しいので、1日ならば大丈夫と、許容したのだろう(1日以上の期限切れはないそうなので管理はちゃんとできてい たようだ)。

 12年前の、9人の食中毒事故の発表がなかったことまで槍玉に挙げられている(この徹底ぶり、執拗さには感動するが)。逆に、それ以後、大量の食品を供給しながら12年間一度も食中毒事故を起こさなかったことは評価されてもよい。廃棄という「モッタイナイ」ことを最小限にしながらである。この事実は規則が必要以上に厳しく決められているのではないかという疑問につながる。必要以上に厳しい規則は「モッタイナイ」という無駄を生む。

 報道の姿勢が不愉快なのは、不二家が一旦否定した疑惑の事実を後日認める場合である。当初、事実を隠蔽したとばかり、まるで極悪人扱いである。不二家に非があるのは認めるが、過大な報道は、消費者の不安を煽る。販売店は消費者の不安を気にして同社製品の販売停止をする。不二家本体はもちろん、フランチャイズ店も苦境に立たされる。不二家従業員は失業するかも知れないし、フランチャイズ店は廃業を強いられるかもしれない。メディアはそれを承知の上で報道しているのだろうか。彼らの大部分には何の罪もない。
 繰り返すが、今回は食中毒を起こしたわけではないのに、なぜ経営危機を招くほど叩かれなければならないのか。食中毒は生命には直接結びつかない。下痢と嘔吐であり、後遺症もまずない。食中毒がそれほど深刻な、生命にかかわるものなら、家庭の食物管理はとても大変なものになる。

 この種の事件でのいま行われているような過大な報道の意味を見つけることは難しい。不二家製品を買っては危険だと知らせる理由があるとは思えない。かつて雪印乳業は過大な報道により巨額の損失と五工場の閉鎖、千三百人の雇用削減に追い込まれた。同社の管理体制を見直し、製品を安全なものとするためにそれほどまでの犠牲を払う必要があったのだろうか。もっとも大きな犠牲を払ったのは職を失った人々である。そのほとんどは中毒事件の原因者ではない。理不尽な結果である。

 雪印乳業の社長の当初の態度が気に入らなかったため、メディアは敵意を含んだ報道をやったとも言われている。俺達に逆らえば会社でも潰せるんだとばかり、自らの影響力を誇示したかったという動機もあるだろう。そうしておけば、メディアの立場はより強いものになるからだ。泣く子と ブンヤ(記者)には勝てぬと。

 メディアは報道の結果を予測し、その結果に責任を持つべきだ。「事実」を報道しただけだ、ではすまされない。「事実」を大きく見せるのも小さく見せるのも、事実の中の一部を抜くのも、恣意的な行為であるからだ。不二家事件も三面の3段程度の記事であればスーパーが販売停止することもなかった だろう。その程度が適正な報道だろう。

メディアが描く虚像、世の中は暗くない

2007-06-11 16:56:29 | Weblog
 親殺し、子殺し、いじめ自殺、知事主導の談合、ホームレス襲撃事件などと、新聞・テレビは年末に主なニュースを集大成するのが恒例である。とりあげられるニュースはたいてい暗いものであり、「明るい一年でした」と云うのはあまり聞いたことがない。

 日々、メディアから流される情報は暗いもの、憤りを感じるものが圧倒的に多い。メディアにとっては、死者が1人の事故より10人の事故がより大きな価値をもつ。100人規模の事故なら1ヵ月はネタに困らない。また市井の人間の犯罪より権力を持つエリートの犯罪に価値がある。権力者が転落する姿は特に好まれる。もっともそのようなものに強い興味をもつ視聴者・読者の嗜好が背景にある。

 その結果、メディアによって描かれる世界(仮にメディア世界と呼ぶ)は読者の興味への迎合、政治的意図、スポンサーの事情などにより現実から大きく変えられ、身の回りの現実世界との間に大きなギャップが生じる。メディア世界には不幸な事件や事故がいっぱい詰まっているが、普通のことや幸せなことはほとんど見あたらない。

 一方、私の身の周りはというと、悪人がごろごろいるわけでもなく、事件や災害がしばしば起きるわけでもない。様々な個人的問題が持ち上がるのは仕方がないが、周囲の社会は概ね平和な時がずっと流れている。よく云われる時代の閉塞感なんて私には感じられない。メディア世界だけの感覚なのだろう。時代の動向も気になるが、それよりも個人の動向がはるかに大事である。恐らく、大多数の人にとっても同じだろう。

 メディア世界と現実世界の乖離が大きければ、様々な問題が起こる。凶悪事件は洪水のような報道がされるためメディア世界では現実よりずっと大きい位置を占める。そのため必要以上の不安を人々に与える結果となる。実際には犯罪件数、凶悪事件件数、共に02年度をピークにして減少傾向が続いているにも拘らず、増えていると思いこんでいる人は多い。犯罪の減少は明るいニュースだが、なぜか大きく報道されることはないようだ。

 社会には鈍感すぎる人もいれば敏感すぎる人もいる。何を言っても全く動じない人も困るが、敏感すぎるのも問題だ。数年前、環境問題が騒がれたが、敏感すぎる人たちは騒ぎを深刻に受け止め、いまだに不安症から抜け出せず、深刻に環境ホルモンや電磁波の研究をしている市民団体がいくつもある状態だ。将来の環境を悲観し、子供を作るのをためらう人もいる(かつて指定された数十種の環境ホルモン物質はすべて白であったという環境庁の発表を、メディアはベタ記事ではなくもっと大きく報じるべきだ)。 意味のない不安によってQOL(クオリティ オブ ライフ、生活の質)を下げている人も少なくない。これは社会的な損失だと言ってもよい。

 政治家や企業家の多くは使命感をもって真面目にやっていると思われるが、メディア世界では逆に、隙あらば私腹を肥やす連中が多数との印象がある。これは投票行動に影響を与えるだろう。誰がやっても政治はよくならない、と思えば投票に行く気がしない。

 メディアが作る世界は現実世界の一部だけを採り上げ、強調したものであり、決して現実世界の投影ではない、という事実を我々は忘れがちだ。メディアの伝える情報を読み解く能力はメディアリテラシーと呼ばれる。英米加ではメディアリテラシーは数十年前から教育に取り入れられ、英国では大学入学資格試験の選択科目にもなっているそうである。メディアの伝える情報を批判的に受けとることが出来れば、たとえメディアが少々アホであってもその影響を軽減できる。
 格差問題など、個々の問題は山積しているが、現実世界の平均像はメディアが示すほどは暗くない。メディアに関してはやや鈍感な程度がよいのかもしれない。

犬猫の供出・・戦時下の悪夢

2007-06-08 21:37:03 | Weblog
 2006年11月4日、NHKラジオ第1で『犬の消えた日』という番組が放送された。07年1月21日朝7時、NHK総合のニュースの中で、『猫供出の思いを本に』というタイトルの番組が放送された。

 11月の番組は犬の供出を、1月の番組は猫の供出をとり上げたものだった。偶然、私は猫の方だけを見た。昭和20年、12歳のときの供出の体験を本にされたという滝島雅子さんという方が出演されていて、当時のことを話された。簡単に大筋だけを述べる。

 当時、彼女の家はクロという猫を飼っていた。彼女はいつもクロと一緒に寝ていたそうだ。供出されることになり、親に言われて、仕方なくクロを袋に入れ、指定された場所に持っていった。棒を持った男が2人立っていて、まわりの雪は赤く染まっていた。彼女は渡さずに帰ろうとしたが非国民と言われ、やむを得ず渡した。クロはその場で撲殺された(詳しい記述は*1)。

 60年ほど前、我々のご先祖様たち、父母や祖父母たちがやったとは思いたくない話である。現在との感性の違いはあるとしてもだ。これを単純に戦争のせいだとして片付けてはならないと思う。反戦好きの人はすべてを戦争のせいにする傾向があるが、他の多くの要素も見なくてはならない。

 戦争をした国は多いが、米英仏などの先進国でこんな野蛮なことをした国は恐らくないだろう。犬猫の供出など、国民に与える苦痛の大きさに比べ、その有用性があまりにも小さいのだ。この事件の要素として戦争が最も大きいことはもちろんだが、国民性や社会の構造が一定の役割を果たしていたのではないだろうか。

 藤原正彦氏は著書「国家の品格」の中で武士道や惻隠の情など様々な例を引いて過去の日本国民をさかんに美化されている。また右翼雑誌にも同様な議論が見られる。だが、同じ国民がこんなことをやっているようでは、彼らの言うことはあまり信用できないな、とも思う。悲惨で愚かなことはこれだけではないと思うからだ。

 犬や猫の供出は、毛皮を集めて軍事用の帽子や飛行服など防寒具を作ると名目で行われたそうだ。06年の東京新聞からの孫引きであるが、「町内会が警察や役所と協力する「犬の献納運動」は、四四年十二月に軍需省化学局長、厚生省衛生局長の連名で徹底を促す通達が出され、強制力が増した」という記述がある(*2)。全国的に供出が実施されたことは体験談がいくつも残っており、事実と考えてよさそうだ。供出は実質的には強制だと見てよいだろう。

 これも孫引きだが、正論1月号で中村氏が引用したように、「犬の供出があったか疑わしい」、「供出により全ての犬猫が殺されたのであれば、土佐犬、秋田犬、柴犬などの純粋な日本犬はいなくなっている筈だ」などという意見もあるそうだが、論理面だけ考えてもまともに取り合う価値のないことがわかる(*3)。

 非国民といえば誰も逆らえなかった当時の状況が背景にあったのだろう。だがこの事件を通じて注目したいのは、過剰な反応をする一部の人間の存在である。もちろんそれは事件の一部の説明でしかないが、他の社会現象を観察する場合にも興味のある視点になるうると思うからである。

 当時、他に例を見ない特攻作戦を発案・実行した者達、終戦の玉音放送を録音したレコードを奪って降伏を妨害し本土決戦を主張した連中、現代ではダイオキシン騒ぎにキャンプファイヤーまで禁止した自治体の役人、など熱くなって過激に走る人間は、いくらでもいる。始末が悪いことに、良いと信じてやっているので制御がききにくい。彼らには合理的な説明が通じないのだ。

 かつての戦争を始めたのも、敗色が明らかな状況で戦争を中止できなかったのもこのようなタイプの人間の存在の影響を無視できないと思う。また明治期の東京帝国大学の教師であったチェンバレンは日本人の特徴として「付和雷同を常とする集団行動癖」をあげているそうである。過激人間と付和雷同人間の組み合わせが最悪の暴走を招いたとの見方も可能だ。国を挙げての煽動が、予期された以上の結果を生み、誰も制御できなくなったのではないだろうか。

 国民総動員のための宣撫工作にはメディアの積極的な協力が不可欠であったと思う。戦時中の言論弾圧はメディアの責任逃れのため戦後、誇大に伝えられているが、実際はそれほどでもなかったと一部では指摘されている。実際にはメディアにも過激分子がおり、軍部が望む以上に積極的に協力したのではないだろうか。

 たいていの場合、勇敢で単純・積極的な意見は協調されやすく、冷静で複雑・地味な意見は無視されがちである。メディア内での過激なキャラクターの存在は影響が大きく、いっそう危険である。 メディアが熱くなるときは警戒する必要があるのだ。

 戦争がすべての災いをもたらしたという考えは充分ではない。我々の国民性や社会構造が戦争に加担し、より悲惨なものにしたという視点も必要なのではないだろうか。