噛みつき評論 ブログ版

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号泣会見の代償・・・マスコミによるいじめ

2015-11-30 09:10:26 | マスメディア
「顔から火が出る」という言い方があります。顔が熱くなるほどの、強烈な恥ずかしさを表すものです。野々村竜太郎元県会議員の号泣会見は恐らく「顔から火が出る」経験であり、一刻も早く忘れ去りたいことでしょう。ところが会見の模様はテレビで何度も執拗に流され、彼は日本、いや世界の笑い者になりました。

 誰にでも恥ずかしい思いをしたことが多少なりともあると思いますが、野々村氏はまさに一世一代の恥を執拗に報道されました。その圧倒的な報道の量に、彼は「顔から火が出っぱなし」の状態で、精神的な安定を保つことだけでも大変であったろうことは容易に想像できます。号泣は意図的なものではなく、彼の精神構造に関わるものでありましょう。とすればそれを笑うことは、身障者を嘲笑うことと同様です。

 その記者会見から1年以上が経った11月24日、政務活動費の詐欺などの罪で起訴された野々村氏は初公判を欠席しました。その事実は、また例の号泣会見と共に放送されました。他人の恥をここまで執拗にあげつらうマスコミの職業倫理や意識には強い疑問を感じます。品格の低さ、不寛容、などの言葉が浮かびますが、これらは視聴者の受けを反映したものでもありましょう。

 野々村氏は公判に出席するために自宅を出ようとしたところ、大勢のマスコミが待ち構えていて、出られない状態となったそうです。また精神的にも不安定で10日ほど前から精神科にも通うようになったとされています。

 記者達の追及に号泣した事実を我々が理解するのは困難ですが、公判欠席に至った理由は想像できます。恐らく、他人の視線、とりわけ記者連中の視線を浴びることに耐えられなかったのでしょう。

 野々村氏は政務活動費を全額返済し、議員を辞めるなど既に社会的制裁も十分受けています。顔も名前も知られたために就職も難しく、自宅から出られないそうです。政務活動費の誤魔化しは多くの議員がやっていたことで、従来は慣習のようであったとも見られています。

 マスコミが面白おかしく報道した結果、世の注目を浴び、検察は無視できなくて起訴したのでしょう。マスコミと検察がそれぞれの立場から野々村氏を過大な制裁に追い込んだと思います。野々村氏に対してマスコミがやったことは卑怯な「集団的いじめ」でありましょう。軽い罪を犯したというだけで、ここまで笑い者にしてはマスコミの倫理観が問われます。やりすぎだ、という声があまり聞こえてこないのも不思議ですが、「みんなで嗤(わら)えば怖くない」ということでしょうか。光市で母と幼児を殺害した少年を弁護するために集まった大勢の「人権派弁護士」たちも今回は沈黙しているようです。

 ついでながら、堀江メール問題では偽メールに騙された永田寿康元民主党衆院議員は強い批判を浴び、自らの命を断ちました。きっと真面目な方であったのでしょう。社会的な制裁は受ける人によって影響の程度が様々です。一方、鳩山元首相など散々批判を浴びながらも、まったく意に介する様子がありません。不真面目というか、鈍感というか、それが宇宙人と呼ばれる所以(ゆえん)でしょうけど。

現代のパリサイ人(びと)

2015-11-23 09:00:11 | マスメディア
 安保法制が成立してから約2ヵ月、その話はメディアからすっかり消え失せました。成立前の騒ぎの大きさからすると、あの騒ぎはいったい何だったのか、と思ってしまいます。これが熱しやすく醒めやすい日本メディアの特徴だと言われば、返す言葉もありませんが。。

 従って「いまさら」の感がありますが、先月の産経のコラム、産経抄(10/10)に面白い話があったので紹介したいと思います。コラムでは米カリフォルニア州弁護士、ケント・ギルバート氏の意見を取り上げています。

「憲法とは本来、権力者に義務を課すことで専制を防ぐものだ。権力者の義務には、他国の侵略を防ぐ国防が含まれる。国防義務を十分に果たす上で9条が障害であれば、9条こそが憲法違反となる…。」

 9条は憲法の一部ですから、憲法違反という言い方は適切ではなく(その方が面白いですが)、国防を否定しているので、憲法として不適切、憲法に当然必要とされる要件を満たしていないというべきでしょう。

 憲法とは国のあるべき形を成文化したものと考えられます。とすれば、あるべき形と憲法のどちらが優先すべきものかは明らかでしょう。まあ形式上のことはともかく、ギルバート氏の意見は憲法の上位概念からの憲法評価であり、憲法論議に一石を投ずるものです。

 またコラムは「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである」というイエス・キリストの言葉を紹介し、「憲法を聖典化し、その解釈権を独占して自らの権威を守ろうとしている現代のパリサイ人(ユダヤ教の律法学者)」と、現在の憲法学者をパリサイ人に重ね合わせます。

 形式的な法の解釈にこだわる立場と現実的な対応を重視する立場との対立は2千年前も現代もあまり変わらないようです。もしかしたら、形式主義者と現実主義者、頭の構造が異なる二種類の人間がいるのかも知れません。

 今回の安保法制の騒ぎでは、珍しくも数多くの憲法学者が登場しました。法学は実学に分類されますが、憲法学は実学から遠い反面、イデオロギーとの関係性が強いためか、左派が多くを占めるとも言われています。憲法学者がイデオロギーを背景に、重要な安全保障政策にまで口を出せば、まさに現代のパリサイ人になるでしょう。

個と全体

2015-11-16 09:06:06 | マスメディア
 パリを襲ったテロリスト達は「神は偉大なり」と叫んで銃を乱射したといいます。残虐非道な行動の背景には政治的な意図などもあったのでしょうが、彼らの神が大きい役割を果たしていたことは間違いないでしょう。アイヒマンのように、組織的に行われる残虐行為は個人の性格に帰するものでなく、宗教や過激思想によるものと考えるのが自然です。改めて現代の「神」の恐ろしさを感じます。

 無辜の人間を殺害することには、彼らにも抵抗があるでしょう。それを封じるためにいろいろな理由をつけています。神の聖戦であるとか、フランスに対する復讐であるとか。しかし我々の感覚からすれば、どの理由にしても罪のない一般市民に対する攻撃を正当化することはできません。殺され傷つくのは偶然現場にいた国民です。

 民主主義国家の主権者は国民であるので、報復に国民を殺害するという理屈も考えられますが、空爆反対者や子供まで無差別に攻撃する理由にはなりません。彼らはフランスを抽象的なひとつの概念として捉え、一人ひとりの国民の集合とは考えないのでしょう。彼らの属している社会や組織でも個人より全体が優先されるのだと思われます。神を中心とした極端な全体主義というわけです。だからこそ自爆行為も普通のこととなるのでしょう。

 在日韓国人らに対し「帰れ、殺す」などの過激なヘイトスピーチをする連中も同様に、韓国人や北朝鮮人を抽象的な概念として理解していると考えられます。国と国が対立するとき、相手国に対する敵対的な感情はその概念を土台にして生じます。相手国にはいろいろな人がいるが、多くは普通の人である、などと考えれば敵対感情は起こり難くなります。こうした見方を育てるのも教育の目標でしょう。

 「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して・・・」とは日本国憲法の前文にある言葉です。しかしテロや国家による拉致は現実であり、我々はそのような世界に住んでいます。残念なことですが、話の通じない諸国民、話合いによる解決が不可能な諸国民は厳存するわけで「諸国民の公正と信義に信頼して」というわけにはまいりません。

 余談になりますが「諸国民の公正と信義に信頼して」は誤りで「諸国民の公正と信義を信頼して」が正しい、と石原慎太郎氏は指摘しています。例えば「米国に信頼する」とは言わず「米国を信頼する」と言います。助詞の使い方が間違っているという単純なことが長い間、見過ごされてきたのは憲法の表記が間違っている筈がないという思い込みがあったからでしょう。憲法をバカにしている石原氏だからこそ発見できたのであって、憲法を金科玉条のように崇めている人には発見しがたいことです。

 ついでながら、15日の天声人語は詩人シンボルスカの言葉を引きながら「憎しみ」について「どこまでも増殖し、連鎖するという意味であろう」と書いています。つまりIS・テロリストとフランスが対立して憎しみが増殖した結果のテロという意味に取れます。IS・テロリストとフランスを対等に扱っては問題の本質を見誤りかねません。凶悪犯と警察を対等に扱うのと同じです。またテロリスト達を擁護する意味にもとれます。まあこれが朝日流だといわれれば「ごもっとも」とは思いますが。

犯罪を助長するテレ朝

2015-11-09 09:04:21 | マスメディア
 町内で飼われている8匹の地域猫が不審死するという事件が横浜でありました。11月4日のテレビ朝日モーニングショーはこれを取り上げ、詳細を報じました。8匹は下半身が動かない、ふらつく、泡を吹く、吐くといった症状の後死亡しており、毒殺の疑いがあると。診察した獣医の「腎臓の数値が上昇しており、急性の腎不全ではないかと判断しました。薬物の投与によってそういう状態を引き起こしてしまうこともあります」との説明がありました。

 原因は車に使う不凍液ではないかとビーカーに入れた不凍液を示しながら、不凍液の成分エチレングリコールは毒性があり人間にも強い影響があるといったことを説明しました。その上、これはガソリンスタンドやホームセンターなどで簡単に入手でき、猫が好みそうなほんのり甘い味がすると付け加えました。

 猫が好む致死性の薬剤、しかもホームセンターなどで簡単に手に入る、ということをこの番組はわざわざ説明されました(同日の日本テレビの番組では毒物は警察で調査中とされていました)。

 数年前、故意に置かれた不凍液を猫が飲んで死んだという事件があったので、不凍液を疑ったのでしょうが、毒物が不凍液かどうかが確認できていないにもかかわらず、その入手方法の容易さや猫が好むなどの「効能」まで全国に放送する必要がどこにあるのでしょう。

 猫嫌いの人は少なくありません。しかしその中で猫を殺したいとまで思っている人はごく少数でしょう。そしてそれを実行する人はさらに少数の筈です。猫を捕まえるなどの困難さ、自分の手を汚す残虐行為への躊躇、などが実行を思いとどまらせるのでしょう。しかし簡単に買える物を少量を置くだけで目的が達せられますよ、と教えられれば実行しようとする人が新たに出てくる可能性があります。

 誘拐事件など、マスコミが大騒ぎするとその後、高い確率で模倣犯が現れてきました。この意味において、報道は両刃の刃です。必要な報道については仕方のないことですが、不凍液の効能のように知らせる必要のないものを知らせるのは単に犯罪を助長するだけの行為です。報道に携わる者にとって、報道の影響、その反作用を考慮することはあたりまえのことです。

 番組の作成には多くの人が関わります。つまりよってたかって作られるわけです。放送による悪影響について、誰一人気づかないというのはちょっと考えにくいことです。とすれば、かつての所沢のダイオキシン問題のように、番組が与える悪影響など誰も考慮しないという「常識」があるのでしょうか。

 テレビ朝日はキー局であり、番組は系列の地方局でも流されます。情報の伝達者として、またオピニオンリーダーとして大きな影響力があります。それが思慮の浅い人たちによって作られていることこそ深刻な問題だと思う次第です。

NHKオムニバス

2015-11-02 09:17:59 | マスメディア
 日々、報じられるニュースは生活に必要なものであると同時に娯楽でもあります。とりわけ時間を持て余している人にとっては好奇心を満たしてくれる格好の退屈しのぎというわけです。それはメディアの方もよくご存知で、誇張や偏向などを用いて面白く、或いは深刻に伝えるよう工夫が凝らされます。朝日では記事に角度をつけると称します。しかしこの脚色と信頼性は二律背反の関係で、脚色が過ぎれば信頼性が損なわれるわけです。

 そのような中、公共放送であるNHKには娯楽性は低くても公正中立な報道が期待されるわけです。また左右のメディアが相容れない主張をしているとき、中立的な立場からの報道がもっとも期待されるのも公共放送でしょう。

 昨年の夏の朝日新聞の虚偽報道事件は日本のメディア界を揺るがしました。過去の慰安婦報道や福島第一の所員の9割が命令に違反して逃げたという記事です。虚報を白状した朝日の主張と産経、読売、新潮、文春などの主張は食い違い、読者・視聴者に混乱を広げました。日本が国家として犯罪的行為をやったのか、他の国々と同じようなことをしただけなのか、は気になる問題です。

 NHK特集などで取り上げるのにふさわしい問題だと思いますが、未だに見かけません。そのため、虚報は意図的に作られたものなのか、或いは単なる不注意から生じたものか、といった基本的な点についても我々は明確な答えを知らないままです。

 公共放送である以上、他のメディアには関与しない、では済まされないことと思います。諸々の思惑がある民間メディアに対しての中立的な調査・解説は他のメディアによい影響を与えることでしょう。

 次は歴の問題。NHKと産経だけは主として和暦を使っています。他の全国紙・民放は主として西暦ですから、西暦と和暦が混在し、不便です。海外のことには西暦を使うのでひとつの文章に西暦と和暦が混在することもあります。2001年の同時多発テロを受けて政府は平成16年に・・・といった具合で、時間的な関係がすぐに理解できません。これはあるメディアだけがメートル法でなく尺貫法を使っているようなものです。

 政府の発表が和暦に基くものだから、あるいは西暦にすると右翼が騒ぐからなどと言われていますが、どれも現在の不便の大きさから考えるとたいした問題ではないと思うのですが。

 ついでながら用語法について。交通事故では「はねられる」と「轢かれる」がいい加減に使われる例がよく目につきます。また「登山道から滑落した」という表現もよく使われますが、これは急な雪面を滑り落ちる際の表現です。岩壁などでは「転落」が適切でしょう。これらは他のメディアにも言えることですが、公共放送が国語軽視では困るわけです。