噛みつき評論 ブログ版

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メディアの倫理観がおかしい

2018-06-24 23:39:44 | マスメディア
 クリントイーストウッド監督の「15時17分、パリ行き」は2015年に実際に列車内で起きた「タリス銃乱射事件」事件をもとにしている。イスラム過激派の男が銃で無差別殺傷をしようとするのを、たまたま乗り合わせた3人の若者が勇敢にも阻止した事件である。その作品は3人へのオマージュでもある。また同監督は「ハドソン川の奇跡」で大勢の命を救ったパイロットを取り上げている。

 少し前になるが9.11同時多発テロ事件のとき、ユナイテッド航空93便はハイジャックされたものの目標を外れて墜落した。それは携帯電話で自爆テロ事件だと知った乗客たちが決死の覚悟で犯人たちに立ち向かった結果による。「ユナイテッド93」はそれを映画化したものである。

 映画によってこれらの事実は世界に知られることになる。そして多くの人に勇気を与えたことであろう。そして映画などによって彼らを称賛する風潮は彼らの国の文化であり、伝統なのであろう。

 さて日本では6月9日9時45分、新幹線で殺傷事件が起きた。止めようとした梅田耕太郎さんは殺害された。「タリス銃乱射事件」と異なり、悲劇的な結末を迎えた。しかし他の乗客を守ったことは間違いない。私が現場に居合わせたら彼のような行動ができたか、と問われればとても自信がない。ただ、この時間帯は男性客が多い筈なのに、梅田さんに加勢する人がひとりもいなかったことは少し残念である。またフジテレビが、梅田さんの行為が容疑者を刺激したとする警察発表をそのまま伝えたことは常識を疑う。

 梅田耕太郎さんに国民栄誉賞を、という声もある。それでもよいし、また別の方法でもよいから、彼の行為を何らかの形で称賛すべきだと思う。またメディアは彼の行為を称賛したが、やや通り一遍の観があるし、量的にもモリカケ問題の1%にもならない。先月、奈良県で線路に落ちた男性を、気付いた女子大生が60mも背負って運び、救助したことをネットで知ったが、ほとんどの大手メディアは伝えなかった。メディアは悲惨な事件、悪質な事件は大好きだが、このような話は興味ないらしい。性格が暗いのか。

 新潟県の元知事の買春問題は大きく扱われたが、彼を週刊誌に売った女子大生には何の咎めもない。また、元財務次官はひどく叩かれたが、彼を週刊誌に売ったテレ朝の女性記者にも咎めなしである。二人の女性に共通するのが、信頼を裏切るという行為である。社会的生命まで奪うというひどい裏切りである。こんなことが横行すれば社会そのものが成立しなくなる。社会は信頼で成り立っているからである。

 マスメディアの姿勢や論調は社会の倫理観に大きな影響を与える。1年半にもわたるモリカケ報道は官僚の忖度がまことに重大な罪であるかのような印象を与えた。反面、上記の二人の女性による、背後から撃つような行為はほとんど咎められない、という倒錯が見られる。もしかするとメディアの頭がおかしくなっているのではないか。センセーショナリズムや視聴率ばかりを追求するとモラルを失うのかもしれない。

電動アシスト自転車

2018-06-17 23:18:50 | マスメディア
 電動アシスト自転車と言えば一般にママチャリ型を思い浮かべるが、最近おっさん向けにスポーツタイプの電動アシスト自転車が次々と発売されている。ヨーロッパでは既に多くの機種が発売されていて、日本は遅れているそうだ。スポーツをするのに何で電動なのか、という疑問もあったのかもしれない。それでもスポーツカーよりマシである。いくら頑張ってスポーツカーを運転しても運動にはならない。

 最近発売された機種は30万円前後と自転車にしては高額なので、私は以前から発売されているヤマハの機種を買った。価格は格段に安いが、スペックを比べるとそれほど大きな差はない。航続距離は最も補助率の高いモードでも60kmある。マニアには違いが分かるのだろうが、重量も実質的な航続距離も大差なく、あまり気にならない。

 実際に走ってみるとスタート時の加速と登り坂のラクチンさに感心する。登坂で苦闘する人力だけの自転車を追い抜いていくのも気持ちいい。電動アシスト自転車については道路交通法施行規則で定められている。時速10km/hまでは人力1に対して補助動力2以下、時速10km/hから24km/hまでは補助動力は直線比例で減少し、24km/h以上で0となる。従って低速時、登坂時(低速となる)の効果が高いわけである。

 山間部を走るのが好きで、自宅から標高差660mの峠を回ってきた。走行距離は37km/hで、電池の消費は56%であった。バッテリーは約382w/hなので214w/hの消費である。エネルギーとしてはごく僅かであり、電気代としても6円程度にしかならない。使用エネルギーの半分程度は人力であるとしても自転車の移動エネルギーの少なさには改めて驚く。一般の乗用車なら40kw/h(約4.3L)程度の燃料が必要だろう。電動アシストでは0.2kw/hなので約200分の1、人力分を加えても100分の1くらいである。ひとりの人間を37km移動させるのにこんなに違うわけである。

 峠への坂道はとてもきつく、恐らく12度(約21%、100m行って21m登る)程度はあったと思う。しかし座ったままでラクラクと登れた。道路の基準は最大でも12%(6.9度)らしいが、それをを大きく超えてる筈である(日本には37%という公道もあるらしい)。

 よく似た乗り物にモペットというものがある。こちらはペダルもついているがモーターだけでも走ることができる。便利なものだが原動機付自転車に該当し、ナンバーやライトなどが必要で運転免許も要る。堂々と販売されているが、行動では走れませんと書いてある。以前にも触れたが、モーター走行で20km/h程度の速度しか出ないものは自転車と同様の扱いにしてもよいと思うが、実現していない。また津波から逃げるとき、モーターだけの走行が可能であれば助かる人も増えるだろう。だがモリカケ問題で忙しい野党の偉い先生方はこんな些細なことには関わっていられないのだと思う。

 エネルギーの観点だけから言えば優れた乗り物だが、低速であり、屋根なし、エアコンなし、と長距離の実用として使うのはつらい。しかし極端な環境論者にとっては素晴らしい乗り物ではないだろうか。エネルギー自給率が8%に過ぎない日本にとっても有用である。たいていは歩道走行も可能で、自転車より遠距離、車より近距離の移動に便利な乗り物である。

核の威力と魅力

2018-06-10 22:02:11 | マスメディア
 人口2500万人、経済規模は韓国の45分の1という小国がアメリカと対等に話ができることになりそうだ。核攻撃能力が完成したと確認できたわけではないのに、とにかく核の力は大したものである。世界は核の威力を改めて認識したと思う。但し、日本だけは別だろう。

 核保有という言葉すら出せない状態が長く続いた。日本は唯一の被爆国だからもう核はごめんだ、という感情が強いこともある。だが日本がもし核攻撃されるとすれば、それは相手国の核が使われる場合で、日本の保有する核が日本に使用されることは考えられない。むしろ日本の核保有は外国からの攻撃に対する強い抑止力として平和に貢献する。核攻撃されたくなければ核を保有すべきであることは現実的な選択である。子供でも分かる道理だが、なぜか永年これがタブーとされてきた。

 雑誌「正論7月号」には著名な人口学者エマニュエル・ドット氏の記事が載っているが、ここでドット氏は次のように述べている。
「フランス人にとっての核兵器は戦争の対極にあります。戦争を不可能にするものです。フランスは核を保有したからこそドイツとも信頼関係を築けたのです。アメリカが日本を守るために核をつかうことはないでしょう。核兵器は自国のためだけに使えるものだからです」また「私は左派で平和主義者、戦争が嫌いです」とも。

 とりわけ今の日本を取り巻く国際関係からみれば十分理解できる現実的な議論である。他国の核を放棄させることができれば理想的だが、口で言うだけでは何の効果もない。ならば次善の策として自国の核保有が現実的な選択となる。平和を願うのであればの話だが、魅力的な選択である。

 北朝鮮を米国との会談にまで引き出すことができたのは国際的な制裁のおかげでもあったが、米国の軍事力の威圧が大きいとされている。軍事力が果たした役割については何故か我が国のメディアはあまり評価していないように感じる。一方、拉致問題に関する日本の要求など、北朝鮮は歯牙にもかけない。今回、北朝鮮が首脳外交をしているのは韓国を除けば米国、中国、ロシア、と核戦力を持つ国ばかりである。軍事力を持たない国、持っていても専守防衛などといって攻撃力を封じられている国など交渉相手にすらしてもらえない。

 国際環境が大きく変わっているのに旧態依然の思考から抜け出すことができないのは政治家、学者、マスコミ、政党などの知的怠慢であろう。理想論に価値がないとは言わないが、英米仏露など核保有国の現実的路線をせめて検討するぐらいの柔軟さを持ってほしいと思う。現実には核保有は困難な道であることも確かである。しかし核保有を主張する政党くらいは表われ、自由な議論が行われてもよい。それだけでも外交のカードになる。一年以上もモリカケ問題を追及する野党6党よりずっと国の将来ためになると思う。

朝日に愛想尽きた

2018-06-03 21:34:22 | マスメディア
 先月末をもって50年間ほど続けた朝日新聞の購読を止めた。50年の前半は肯定的に読み、後半は否定的に読んだ。肯定的に読んだのは無知のためであった。50年で世の中は大きく変わったが、朝日は政治的立場を頑として変えなかった。初志貫徹と言えば聞こえがよいが、時代の変化に対応できないほどの硬直性の故であろう。また中立的な情報の提供という新聞本来の目的を軽視し、政党の機関紙と見紛うばかりの党派性の強い紙面を続けた。改めて眺めると、ずいぶん変わった新聞である。

 戦後一貫して、朝日は政権の足を引っ張ることを目的としてきたように見える。しかし言うまでもないが、現在の政権は国民の選挙という民主的な手続きによって選ばれたものである。すなわち朝日は国民の選択をずっと否定してきたわけである。本音では民主主義を否定しているのではないか。非民主的な軍事政権などに対する批判ならば筋は通るが、怖くてできない。戦前の朝日は軍部が怖くて、批判どころか積極的に協力したとされる。安全第一、たいへん結構なことである。

 朝日が従軍慰安婦問題や福島第一原発で職員が職務放棄したという誤った報道で紛争の種をつくったり、日本の信用に傷をつけたりする反日姿勢は周知のことである。しかし、より大きな罪は日本の無能な野党6党を育てたことであると思う。野党は保守政権を倒すという目的では朝日と一致するわけであるが、彼らを無条件に支持してきた姿勢が野党の無能化を招いたということは前に述べた。

 この一年半近くも、朝日と野党6党は共に手を携えてモリカケ問題に集中してきた。国会を機能を奪い、その分、日本が抱える少子化や財政赤字など、他の重要課題を放置せざる状態にさせてきた。これにはさすがに愛想が尽きた。野党6党の凋落と朝日の部数減少は関連した現象なのだと思う。

 現在の価格での計算であるが、50年間の購読料は240万円ほどになる。僅かでも朝日を支えてきたわけで、国民の方々には悪いことをしたと思う。朝日の実売数は減少が止まらず、400万部を切り、経済的に苦境に立たされているという言われている。こういう時にこそ購読をやめて、「こんなアホなことを書いていてはあかんよ」と意思表示をすることが必要かと思う。選挙に一票を投じるのと同じである。日本社会をまともにするために。

 既にもう一紙は止めているので、これからは新聞なしの日常になる。ネットやテレビがあるので不自由はない。新聞購読は長年の習慣でもあるので、しばらくは物足りなさがあるだろうが、反面、読むという義務感からは解放される。一方、これで若者たちの生活スタイルに近づくことでもある。