噛みつき評論 ブログ版

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アテネを超える過熱報道・・・朝日はスポーツ新聞?

2008-08-28 10:11:45 | Weblog
アテネを超える過熱報道・・・朝日はスポーツ新聞?

 北京オリンピックの期間中、日経・朝日・毎日・読売の四紙(都内最終版)の五輪関連記事の扱いを8月25日の日経が取り上げています。

「日本のメダル獲得数はアテネ五輪の37個を下回る25個にとどまったが、(五輪関連記事は)一面トップに限ってみると北京五輪は76本で、56本のアテネを上回る過熱ぶりだった」(新聞ごとの本数の記述がないのが残念です)

 日経が五輪記事を一面トップにした記憶はないので、この76本はほぼ3紙のものと考えてもよいと思います。19日間での一面トップ枠は、夕刊のない日曜が3回ありますから朝夕刊35回あります。3紙の合計では105回あり、このうち76回が五輪記事が占めているというわけです。

 割合にして約72%ですが、意外に少なく思ったので、手元にある購読紙の朝日を調べますと、12日から24日までの21回の一面トップのうち非五輪記事は4回だけであり、五輪記事は17回で約81%になります(14日夕刊、15日朝夕刊は紛失のため除外したのでご了承ください)。日経の調査と集計期間が異なるので厳密な比較ではありませんが、朝日の突出は読んだ印象とも一致します。つまり過熱は朝日が顕著であると言うことになりそうです。

 各紙のコラムも五輪の話題が多いのですが、中でも朝日は「100メートル世界新―常識を打ち砕いた9秒6」と題して、社説(8/18)にまで五輪を取り上げています。記録を絶賛するもので、意見とは思えません。社説は新聞社の意見や主張を書くところだとばかり思っていたのですが、時代が変わったようです。

 朝日に関しては五輪記事が多くを占めた分、一般記事が大きく削られているのはNHKのオリンピック洪水報道で述べたとおりです。決して五輪特集のために増ページをしたわけではありません。大きな写真を多用し、その分さらに文字数が減っています。またこの4月からは文字を大きくして既に情報量を5.5%減らしており、ゆとり教育の教科書のように内容の薄い新聞に仕上がっています。情報を有償で購入している者にとっては不満が残ります。

 アテネに比べ獲得メダル数が減ったのになぜ報道だけが過熱したのでしょうか。隣国の中国ということも少しは理由になるかも知れませんが、それだけではないと思います。

 新聞の読者への迎合姿勢が一層進んだためではないでしょうか。テレビが視聴率を優先するために話題性の強いものに集中するやり方と同様です。多数の読者に迎合する結果、残りの五輪に関心のない読者は軽視されます。知らせるべきものを知らせるという本来の役割も犠牲になるわけで、新聞という公共性の強いものがこれでは困ります。今回のような19日間に及ぶ過度の偏りのために、知らされなかった事柄は数多くある筈です。

 このような姿勢のためか、既に読者信頼度の低下も現実のものになっています(参考 朝日新聞の読者信頼度)。少し商業主義が露骨ではないでしょうか。
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新聞の戦争責任・・・付和雷同の精神は今も健在

2008-08-25 21:11:07 | Weblog
 一昨年から今年にかけて新聞社から戦争責任に関する本が出版されました。読売の連載記事をまとめた「検証 戦争責任」ⅠとⅡ(中央公論新社)、「戦争責任と追悼」(朝日選書)、「新聞と戦争」(朝日新聞)です。

 しかし、戦後60年以上も経ってからようやく新聞社が過去を総括をしたことは、新聞が戦争遂行に重大な役割を果たしたことを考えると、その消極姿勢は極めて不自然です。もっと早い時期に検証をやれば、多くの証言が得られ、より正確な結果が出せた筈なのに、なぜ60年余も放置したのでしょうか。

 終戦10年後とかの早い時期に徹底的な検証をすれば、新聞社の先輩など当時の関係者の責任を追及することにならざるを得ません。消極姿勢は現役のお仲間を庇(かば)うためであったのでしょう(同じ敗戦国のドイツでは戦後、マスコミ関係者は徹底して追放されたそうです)。責任のある関係者の数が膨大であったことも理由のひとつとして考えられます。とにかく、身を切ってまで自らの責任を追求する態度は見られませんでした。以後、新聞に定着する反戦姿勢はこのときの贖罪意識がその理由のひとつであると思います。

 60年余も経つと終戦時30歳でも90歳であり、多くは既にあの世ですから遠慮なく総括できます。しかし、庇い続けたことは、彼らの戦争責任がいかに重大であったかを示唆しています。満州事変以後、戦争に対して国民を鼓舞し続けた新聞の戦争協力は極めて積極的でした。軍の圧力のためにやむなく戦争に加担したという被害者であるかのような弁解が一般に信じられましたが、これは事実を隠蔽するためとしか思えません。

 やむなく軍の圧力に屈したのと、積極的に協力したのでは雲泥の差があります。軍に同調し国民を鼓舞することは積極的な協力なしには不可能です。新聞社が自らの考えで戦争拡大の方向に賛成したのであり、これは戦後どうしても明るみに出したくなかったことでしょう。

 多数の新聞、とりわけ朝日、毎日の転換点は満州事変直後であることはほぼ一致した見方のようです。以後、新聞は国民を煽って軍国主義を定着させ、それに反論できないような風潮を作り出し、自らも抵抗できなくなったとされています。その後の戦争に対する「貢献」は加担というより共犯というのがふさわしく、軍と共に頭がおかしくなった感があります。インテリによって構成された組織の行動として理解するのは困難です。

 しかし、そのような中で福岡日日新聞、河北新報、信濃毎日などは軍を批判する立場をとり続けました。大新聞が簡単に転向したのは経済的な利益が大きい理由であると言われています。軍を批判すれば在郷軍人会などの不買運動を招くのに対し、勇ましい記事を書けば部数を伸ばすことができます。事実、朝日・毎日はこのあと大きく部数を伸ばしました。もっとも、朝日・毎日は計算高かったからこそ、大新聞の地位を得ていたとも言えます。軍を批判した上記の地方紙はそろばん勘定より言論機関の使命を優先しました。

 さまざまな圧力によって軍に対する批判を控えることまでは理解できます。しかしそのあと、なぜ積極的に国民を煽るようになったのか、という疑問が残ります。それを解明することは新聞の性格、行動様式を知る上でとても重要だと思います。

 新聞が短期間のうちに持論を転換するのは妙ですが、それは彼らの持論が広範な知識に裏付けられたものではなく、勢いに簡単に流される程度のものであったのでしょう。恐らく新聞自らが軍国主義にまず熱くなり、それが紙面を通じて国民に興奮が伝わりました。国が岐路に立たされ、最も冷静に行動すべきときに、新聞がまっ先に感情的になったわけです。

 新聞が興奮し、冷静な判断力を失った例は日本のバブルにも見られます。80年代後半にかけて新聞は、毎週、株の売買シミュレーションなどを掲載し、財テクができなければ能がないと言わんばかりの風潮を作り出しました。値上がりを狙う財テクは決して富を産み出すものではなく、誰かのポケットから別人のポケットへお金が移動するだけなのに、愚かにもそれを煽りました。

 経済はマインド(心理、意識)によって影響を受けます。新聞はバブルを煽り、より加速し、真面目に働くという価値観を傷つけました。バブル崩壊後の就職氷河期は多くの若者を不幸にしています。過剰流動性のために発生したバブルですが、新聞が経済を知り、冷静であれば、もう少し小さい規模で終わっていたと思います。日本の金融機関の損失は約100兆円ですが、日米の経済規模の差を考慮した上で、サブプライムによる損失額約43兆円(OECD)~約97兆円(IMF)と比べると、バブルの異常さがわかります。

 二つの例で見たように新聞、というよりメディアの性質として「興奮しやすさ」は注目に値すると思います。興奮しては、冷静な判断が損なわれます。またそれに加えて、はじめの例では国際関係、経済、軍事などの認識の不足が、後の例では経済の基礎的知識の欠如が判断を誤った理由のひとつです。興奮しやすさと知識・認識能力の不足、これら二つの「特質」は今も続いており、適当な条件さえあれば暴走の可能性は否定できないと思います。

 以上は最初に掲げた3つの本と「太平洋戦争と新聞」(前坂俊之著 講談社学術文庫)を参考にしました。読売の「検証 戦争責任」ⅠとⅡは全体を概観するのに好適であり、「太平洋戦争と新聞」は資料が豊富で鋭く切り込んでおり高く評価できます。「戦争責任と追悼」には少し失望しました(アマゾンのレビューでは全員が最低評価)。しかしこれらの本はベストセラーには程遠いものです。新書程度の分量の読みやすいものが作られて、新聞が戦争で果たした役割についての一般の理解が進むことを切望します。
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東条元首相の手記・・・なぜこんな人物が指導者に選ばれたか

2008-08-21 09:20:50 | Weblog
「もろくも敵の脅威に脅え簡単に手を挙ぐるに至るがごとき国政指導者及国民の無気魂なりとは夢想だもせざりしところ、これに基礎を置きて戦争指導に当りたる不明は開戦当時の責任者として深くその責を感ずる」

 このほど見つかった東条英機元首相の8月13日の手記の一部です。つまり敗戦の原因は国政指導者と国民のやる気のなさであって、自分の責任はそういう国民らを信じてしまったことにある、という見苦しい責任転嫁の言葉です。

 政府のポツダム宣言受諾の方針に対し「応諾せりとの印象は軍将兵の志気を挫折せしめ、(中略)戦闘力において精神的著しく逓下(低下)を見るに至るなきやを恐る」と、戦争継続の立場から反対します。

 無条件降伏しようとするときに戦力低下を心配する理屈を私は理解することができません。またなおも戦争を継続しようとしたことは現状認識能力の不足を強く示唆します。もし勝算のないままに継続を望んだのであれば、それは戦争を進めてきた自己を正当化するためとしか思えません。

 既に300万人以上の犠牲者を出しながら、さらに大きい犠牲が予想される戦争継続の目的はなんだったでしょうか。機関銃に対し竹槍で戦うなどという本土決戦をやれば莫大な犠牲が出ることくらいは分かる筈です。戦争を始めた目的が国民(国家)の利益なら、国民のより以上の犠牲は当初の目的と矛盾します。いくら認識能力が足らなくてもこの時点で勝利を信じていたとは想像できません。

 さらに「生きて虜囚の辱(はずかしめ)を受けず」などの戦陣訓を訓令し、兵士から降伏の機会を奪って多数の生命を無駄に失わせながら、自らは拳銃による自決に失敗し、「虜囚の辱」を完璧に受けた後、処刑されました。

 私が興味を惹かれたのは、なぜこんな人物が陸軍大臣、首相に選ばれたのかということです。悪口ばかりを述べましたが、むろん優れた点もあるのでしょう。また60年以上経った現在から当時の事情もよく知らず、簡単に批判することに問題があることも承知しています。しかしここに並べた認識能力、論理性、国民に対する責任感、責任逃れの態度、どれひとつをとっても国の指導者としての適性が強く疑われます。彼は対米開戦当時の首相であり、44年7月まで続けました。日本のトップリーダーであったわけです。

 発見された手記は、国の進路を大きく誤った過去の解明に大きな意味があると思いますが、メディアは意外にも無関心です。各紙の関心はもっぱらオリンピックにあるらしく、手記に対する言及はほとんどありません。

 8月半ばになると年中行事のように、戦争の悲惨さを感情に訴える記事や番組が相次ぎ、メディアは戦争に重大な関心を持っているという姿勢を見せます。それもよいのですが、感情に訴えるものは別の感情によってひっくり返るという脆さがあります。戦争に至った事情のひとつ、なぜこんなリーダーが選ばれたかということにも注意を向けるならば、この手記に対してもっと強い関心を持たれてよいと思います。

 愚かなリーダーを選ぶことは最も避けなければならないことであり、過去の事情の解明は将来の戦争回避だけでなく国の進路の誤りを避けるためにも役立ちます。そしてリーダーの選出にメディアはとても大きい影響力を持ちます。

 前坂俊之氏は著書「太平洋戦争と新聞」の序文で「日本はなぜあのような悲劇の大戦争に突入して、無残な敗戦を体験することになったのか、その経緯については必ずしも十分に解明、総括されているとはいいがたい」と述べています。

 その解明、総括が進むことが期待されますが、それが少数の研究者だけでなく、広く一般に共有されてこそ意味があります。少なくとも、戦争に大きな役割を果たしたマスコミの方々にはその経緯についてできる限りの理解を望みたいところです。
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NHKのオリンピック洪水報道・・・公共放送の役割放棄?

2008-08-18 09:05:51 | Weblog
 NHKと朝日新聞を見る限り、メディアの世界はオリンピック一色の観があり、他のニュースは存在しないかのような錯覚に陥りそうです。8/17の産経抄にも、「始まる前にはなんだかんだといっても、メディアは(小紙もそうだが)五輪一色だ」とありますから、日経を除く各紙は同じようなものなのでしょう。

 16日の朝日新聞京都版は全28ページの内、1ページすべてあるいは大半をオリンピックなどのスポーツ記事で占められているのは11ページにもなります。それに全面広告が3ページ、株式欄とテレビラジオの番組が4ページありますから、残りは10ページです。そのうち下4段は広告ですから、一般記事は約6.7ページとなります。こんなときにも全面広告を入れる商売熱心さには頭が下がります。

 一方、NHKはさらにひどくて、定時ニュースまで取っ払ってオリンピック中継をやっております。16日の夜は7時になってもニュースが始まりません。試合の途中ならまだわからなくもありませんが、レスリングの試合は既に終わっているのに終了後の光景を映しています。数分後にニュースが始まりましたが、これがまた直前のレスリングの、まったく同じ映像です。何度も同じ映像を続けて見せられるのはたまりません。

 30分のニュースの内オリンピック関連が20分、残りは高校野球、プロ野球、そして大雨情報と毎年ワンパターンの帰省風景、これがすべてで、政治、経済、国際ニュースは皆無でした。オリンピック中継を続けているのなら、せめてニュースくらいはオリンピックで埋め尽くすようなことはすべきではないでしょう。

 翌17日の昼のニュースは予定の12:05から40分も待たされた挙句、ニュースもまた同じ映像を含むオリンピックと帰省風景で全国ニュースは終わりでした。待たされている間、ニュースの開始予定時刻の案内は多分なく、このまま中継を続けますという字幕だけがありました。待たされる視聴者をバカにした話です。

 NHKは総合とBS1、ラジオ第一の3波を使ってオリンピックを、教育とBS2で高校野球を放送しています。まさに集中豪雨のような報道ぶりです。スポーツに関心のない人も少なからずいる筈であり、それを無視するような姿勢です。過去のオリンピック放送を覚えていないので断言はできませんが、今回のような過激ぶりはなかったように思います。

 公共放送がこれほどまでに特定の娯楽報道に傾斜し、公共放送としての通常報道の多くを放棄する姿勢に強い疑問を感じます。オリンピック放送のおかげで番組の製作に余裕ができた職員にたっぷりと休暇を楽しんでもらうためでしょうか。オリンピックは高額で購入した仕入れものなので、手間がかからないのでしょう。

 オリンピック報道に限らず近年のNHKニュースの編集方針は視聴者に対する迎合が目立ちます。殺人事件や食品偽装を重視した姿勢はまるで朝日を尊敬しているかのようです。視聴率に縛られ、迎合が必要条件の民放ならある程度仕方がないと思いますが、視聴率をそれほど気にする必要のないNHKはもっと冷静な、毅然とした姿勢であるべきです。

 今回のオリンピックでは、グーグルニュース日本版と日経新聞の冷静な報道が大変印象的です。オリンピックに興奮せず、他のニュースをきちんと伝えています。日経は20代、40代、50代の読者信頼度がトップですが(参考)、それは冷静な姿勢の反映とも考えられるでしょう。

 「冷静さ」はメディアに要求される資質として大変重要なものです。国民よりもメディアの方が熱しやすくては日本人の特質とされる付和雷同気質はさらに助長され、社会の方向が合理性によらず、感情によって決定されかねません。そして冷静さの欠如というメディアの性格は体質に根ざしたものであり、オリンピック報道に限ったものでないことは過去の報道を見れば容易に想像できます。満州事変以後の新聞も恐らくこんな調子であったのでしょう。
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観客型民主主義が社会を破壊する

2008-08-15 09:03:55 | Weblog
 「"観客型民主主義"が医療を破壊する」と題する舛添要一厚生労働大臣の小論が中央公論9月号に載っています(拙記事のテーマはこの一部を拝借しました)。舛添大臣はここで「マスコミに袋叩きにあい、大幅な見直しを迫られた」後期高齢者医療制度について説明を試みます。

 この中の『「観客型民主主義」を改めよ!』という節では、やや八つ当たり気味ながら興味ある見方が示されているので、一部を引用します。

 『報道側だけに問題があるわけではない。テレビでみのもんた氏や古舘伊知郎氏が政府や役所を手厳しく追及し、怒っている姿を見て喝采しているだけの国民にも問題がある。こういう無責任な国民のありようは「観客型民主主義」と言えばわかりやすいだろうか』

さらに軽症者の救急車利用などの例を挙げ、

 『医療費を無駄にしているのは自分自身であるという視点が欠落してはいないか』
 『今の日本では、自分が汗をかくことによって日本が良くなる-という原則が忘れられてはいないか』、述べます。

 そして対照的な例として、兵庫県のケースが紹介されます。これは母親達が「県立柏原病院の小児科を守る会」を結成し、不急の受診を控えることで、地域の小児医療を大きく改善した例です。ここでは母親達は従来の受身一方ではなく、当事者として行動しています。

 まあこんな調子で国民の側に自覚を求める内容です。勇気ある本音の発言であり、主張されていることは納得できるのですが、政治家らしくない正直な発言だけに、部分的・恣意的な引用によって、氏にとって不本意な批判がなされることも想定されます。

 「観客型民主主義」とは大変うまい表現です。私はこれを国民の「当事者意識の欠如」とほぼ同義だと解釈しています。つまり、一人ひとりが社会の成員であり、社会での役割を担わなければならないという意識の欠如であります。思い出したのはケネディ大統領の就任演説(1961)の有名な一節です(当選前ならとても言えないことですが)。

 「わが同胞のアメリカ人よ、あなたの国家があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたがあなたの国家のために何ができるかを問おうではないか」

 これは国民に対し、国家の成員としての役割を求めたものです。半世紀前の米大統領の訴えは、舛添氏が「観客型民主主義」として批判し、国民に求めたことと大変よく似ています。

 舛添氏はどちらかというと「観客型民主主義」の主体である国民に目を向けておられますが、私はその国民に強い影響を与えたテレビに、より注目したいと思います。NHKの国民生活時間調査によると、日本人のテレビ視聴時間1日平均約4時間だそうで、その影響力は他を圧倒します。

 民放は視聴者に視てもらうことが何より大事ですから、耳ざわりのよいことを並べます(なぜかNHKも含め)。視聴者に反省を促したり視聴者を批判するようなことは決してしません。国民の権利を強調しても義務を強調することはありません。視聴者に嫌われることは売上げの低下を意味するからです。事件や事故、社会問題が生じたとき、悪者にされるのは一般視聴者以外の特殊な誰かであり、それは企業経営者であったり、官僚や政治家であったりします。

 視聴者は常に観客、つまりお客様として扱われますから、不愉快にさせられることは決してありません。「消費者は王様」と言う言葉も同じ背景から出たものでしょう。毎日4時間、お客様扱いを受け続けたことが無責任「観客型民主主義」の原因のひとつとなった可能性があるように思います。むろん、原因はそれだけでなく、義務よりも権利を強調してきた戦後の教育にも求められるでしょう。

 「観客型民主主義」の原因のひとつをテレビの商業主義だと考える確証があるわけではありません。仮説というより思いつきのレベルであり、それを論証する手段も思い浮かびません。ただ王様 ・お客様と毎日おだてられていては、まともな考えの人間にならないことは恐らく間違いなかろうと思う次第であります。
(参考 医療崩壊を推進するマスコミ報道)
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聖職の碑・・・木曾駒ヶ岳大量遭難の跡

2008-08-11 08:57:01 | Weblog
 木曾駒ヶ岳(2956m)は中央アルプス北部にあり、古くから信仰の対象とされ、既に1532年には山頂に駒ヶ岳神社が建てられたそうです。10本程の登山コースがありますが、標高2640mの千畳敷へのロープウェイ開通後は登山道の利用者は少なくなっています。

 95年前、ここで教師と生徒たちの大量遭難がありました。先日、そのコースをたどってみたのですが、テントを背負っての登りは結構きつく、コースタイムの7時間弱をかなりオーバーしてしまいました。当時は登山口まで余分に数時間歩かなければならなかったわけで、14-15歳の彼らの脚力に驚かされました。

 4時間ほどで樹林帯を抜け標高約2600mの稜線に出ますが、ここから先の3時間は風を遮るものがほとんどない稜線の道です。遭難者の多くはこの稜線上で亡くなりました。稜線に出てから1時間ほど歩くと遭難記念碑があり、花が供えられていました。碑の後ろには説明文があります。

『遭難記念碑(聖職の碑)
 大正2年(1913)8月26日中箕輪尋常高等小学校の教師,児童,同窓生37名は急変した台風の中を伊那小屋(現宝剣山荘)の破小屋を修理して仮夜を送らんとしたが果たせず,翌27日未明から暴風雨をついて下山をはじめ,駒飼ノ池,濃ヶ池,将棊頭にわたり三三伍々に分散したが力尽きて赤羽校長以下11名が遭難死した。この遭難記念碑は上伊那(郡)教育会の主唱によりこの自然石に刻まれた。
 往古からの登山は熊笹をかき分け倒木や巨岩を避けて野営を重ね,その困難は計り知れぬものであった。たまたま中箕輪小学校の遭難は内外に大衝撃を与え宿泊施設の建設及び登山道整備が緊急不可欠の要望となった。これらが順次実現すると共に大正の中期からは心身の鍛錬道場として積極的に登山熱は高揚した。        (宮田村誌より)
 近年,この遭難が「聖職の碑」として新田次郎氏により小説化された。』

 小説「聖職の碑(いしぶみ)」によると当時の長野県の教育界には、白樺派の影響を受けた教師たちによる、生徒の自主性を重んじる理想主義的教育と、明治以来の実践主義教育との対立があり、赤羽校長は実践主義教育の立場から反対を押し切って例年通りの登山を実施します。

 計画は周到に進められましたが、飯田測候所も予想できなかった台風による暴風雨にさらされながら、ようやくたどりついた小屋は他の登山者によって焼失しており、11名が遭難死するという悲惨な結末を迎えます。

 赤羽校長は自分の防寒シャツを生徒に与えるなど、懸命の努力をしますが、やがて力尽きます。遭難は人知を超えた原因によるものとされ、「聖職の碑」という題名から察せられるとおり、小説は赤羽校長の教育者としての側面に光を当て、彼の行為を肯定的に捉えています。

 一方、子を失った父兄の痛みは計り知れず、学校に対する怒りは大きかったようです。しかし事故から12年後、赤羽校長の残した教えを守るべく駒ヶ岳登山は再開され、現在は他の中学校にも広がって登山人数は2000人を超える、と記されています。引率者をはじめ、関係者の努力は並々ならぬものがあったことでしょう。

 この遭難は生徒たちの命を奪った悲惨な人為的事故という面と、懸命に救おうとして職に殉じた教師の行動という二つの側面を持っていて、どちらに重点を置くかによって異なる様相を見せます。

 また、この事故は教育に伴うリスクという、現代にも通じる問題を投げかけています。世に絶対の安全はないわけで、教育にリスクをどこまで許容すべきかは難しい問題です。近年、リスクに対する許容度が小さくなる傾向が見られますが、許容度が小さくなりすぎると、教育を制約し、後々に問題を残すことになりましょう。
(「聖職の碑」は後年、映画化されました)
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毎日新聞のお粗末コラム・・・メディアの気楽さ

2008-08-07 09:26:42 | Weblog
 毎日新聞7月29日付のコラム「余録」のテーマはこのところ被害の目立つ豪雨と積乱雲です。積乱雲の説明に、お天気キャスターの倉嶋厚さんの本から引用しています。

『濃密な積乱雲の1立方メートルに浮かぶ雲粒の水量は5グラムという。雲の大きさを半径5キロ、高さ10キロの円筒形とすれば宙に浮かんでいる水量は131万トンになる(「季節の366日話題事典」東京堂出版)。どんな大軍勢も及ばない質量であろう』

 私はこの131万トンが少なすぎるように感じ、計算をしてみたところ392.5万トンになりました。約3倍の差があります。円筒の容積に5グラムを乗じるだけで、小学生にでもできる計算です。

 131万トンが半径5キロの範囲に降れば雨量は平均16.7mmにしかなりません。実際はこれの3倍以上になり、時間雨量100mmということもあり得ます。1立方メートルの空気は5グラムの水滴だけでなくその数倍の量の水蒸気を含んでいて、上昇気流による温度低下によって水蒸気が水になるからです。

 131万トンはどんな大軍勢も及ばない質量、とありますが、これもおかしいです。大規模な艦隊ならこれに匹敵します。比喩だとしても、軍勢と重さを比べるアイディアはちょっと論理性に問題があるように思います。

 コラムにあまり堅苦しく注文をつけるのは野暮かもしれません。また揚げ足取りといわれるかもしれません。しかし新聞記事に数学的な考えが足りないことはよく見られることで、この例はその象徴という意味があると考えます。確率や統計を理解する人がメディアにもう少し多ければ、BSE問題や食品の安全性に関する報道はもっと違った、より冷静なものになっていたと思われます。

 このコラムからは数に対するセンスの欠如を感じます。倉嶋氏の著書からの引用であることは少し同情できますが、それは一方でお天気キャスターという権威を無批判に信じ、そのまま読者に伝えるという安易さを表します。これらはコラムの筆者だけでなく、チェック機能という新聞社の重要な能力の問題でもあります。

 発電所などプラント、車両などの設計・製作は、僅かなミスが大事故につながるので細心の注意が要求されます。それに対しメディアの世界は、朝日新聞「素粒子」の「死に神」発言のように、余程の大失敗でない限り指弾されることはありません。そのことが安易な記事につながっているように思います。

 1000万人(推定到達読者数)とされる読者は毎日新聞の権威を信頼(誤解?)しているわけで、間違った記事の影響は大変大きいものになります。技術的なミスによる事故は因果関係も明確であることが多く、当事者は責任を追求されます。しかし不適切な記事の影響は広く分散され、因果関係も明確でないことが多く、責任が顕在化することはほとんどありません。この辺がメディア稼業の気楽さなのでしょう。

 事故や不祥事を起こした当事者に対する、完全を当然とするメディアの容赦ない態度とメディア自身のお仕事ぶりの間にずいぶんアンバランスなものを感じてしまいます。
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内閣支持率24%から41%まで・・・新聞世論調査の怪

2008-08-04 09:10:10 | Weblog
 『内閣支持 改造後も24%』
 これは8月3日付朝日新聞朝刊の一面トップの見出しです。内閣改造後も支持率が上らなかったことを一番に知らせたい気持を感じます。

 これに対して『内閣支持41%に好転』としたのは読売です。朝日の24%と読売の41.3%、これを単なる偶然と考えるべきでしょうか。両者の数値の違いの大きさは統計上の誤差だけでは説明できないような「何か」があるように感じます。

 ほぼ同時期の調査による主要紙の内閣支持率と政党支持率を下に記します。
   内閣支持率             政党支持率
朝日 24%(支持)   55%(不支持)   自民23% 民主22%
毎日 25%(支持)   52%(不支持)   自民31% 民主46%
東京 31.5%(支持) 48.1%(不支持)  自民28.7% 民主30.2%
日経 38%(支持)   49%(不支持)   自民37% 民主33%
読売 41.3%(支持) 47.0%(不支持)  自民35.1% 民主24.6%

 各社とも統計上の誤差が一定範囲内になるよう、十分なサンプル数を確保している筈です。それにしてもこの大差はどう考えればよいでしょう。不思議なことは、現政権に対立的な新聞ほど内閣と自民党の支持率が低く出る傾向が見られることです。ある新聞社にとって実に都合のよい調査結果であります(読まされる方はたまりませんが)。

 世論調査を行う場合、調査主体の意図に沿った調査結果を出すために質問項目を工夫することはしばしば行われます。最高裁の調査にまでこの誘導手法が用いられるのには驚きました(参考)。しかし内閣の支持、不支持の調査では質問が単純なため、そのような操作は困難であると思われます。

 そうであるならばサンプルの抽出方法に何らかの作為があるのか、あるいはデータの処理方法に秘密があるのか、などの疑念が生じます。しかし理由はどうあれ、この調査結果の大差を納得することは困難です。新聞の世論調査担当の親切な方、この魔法の種明かししていただけないでしょうか。

 こんな有様では新聞全体の信頼が損なわれ、真面目な新聞社まで同様に見られかねません。
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野党もメディアも相続税にはなぜか無関心

2008-08-01 13:56:05 | Weblog
 09年度の税制改正に向け、自民党税制調査会では相続税の強化が浮上しているそうです。相続税は03年度に最高税率が70%から50%に下げられましたが、今回は逆に課税強化が議論されるそうです。逆進性が問題になる消費税の増税とセットにして批判をかわそうとする意図があるとも言われています。

 不思議なことは野党もメディアも相続税の問題に極めて無関心なことです。税率が下げられた03年の際もほとんど報道されず、議論になりませんでした。今回も同様に無関心が主流です。相続税の重要性をどう認識しているでしょうか。

 相続税は世代の交代時にリセットし、スタート時の機会均等を実現するという大切な役割を担っています。相続税が低ければリセット機能が弱くなり、生まれながらに格差がつくという好ましくないことになります。しかし相続税が高すぎると資産を税率の低い外国へ移したり、子供に財産を残せなければ働く意欲が弱まるなど、様々な要素があり簡単な問題ではありません。

 相続税は約1.5兆円で税収としてはそれほど大きいものではありませんが、機会均等を実現する最も強力な手段です。そして機会均等はその重要性に見合うだけの関心が払われていないように感じます。

 今回は課税最低額の引き下げ案が有力とされていますが、前回緩和された累進度はどうするのかなど、議論すべきことは少なくありません。機会均等は社会の基本的な理念に関わることであり、経済格差と同様、政策を批判する上で重要な基準にもなり得るものと思いますが、メディアも野党も関心がないのはなんとも理解ができません。

 メディアが無関心を続ければ、国民が知らぬ間に少数の関係者だけで決まったということになります。法曹3000人、裁判員制度などの司法改革は国民の多くが知ったのは決まった後でした。大事なことを広く知らせるのがメディアの期待される役割のはずです。食品偽装や殺人事件を騒ぎ立てるクセがついてしまい、そちらを重要と考える体質になったのでしょうか。

 高所得者は資産も多い傾向があり、相続税の強化を喜びません。高所得を稼ぐマスコミの幹部や野党の幹部は、機会均等より自分の子供に財産を残すことが大事なのでしょうか、と勘ぐりたくなります。
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