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噛みつき評論 ブログ版

マスメディア批評を中心にしたページです。  姉妹ページ 『噛みつき評論』 もどうぞ(左下のBOOKMARKから)。

民主党の非民主的性格

2010-01-18 10:21:18 | Weblog
 小沢幹事長の側近議員など3名が逮捕されたことを受け、主要メディアの論調にも変化が見られます。17日の朝日の社説でさえ「首相も党も一丸の異様」と題し、首相が一緒になって検察と対決する姿勢を批判しています。ようやく独裁的政権の本性に気づいたのでしょうか。

 強制捜査後の様々な反応の中で、共産党の志位和夫委員長の「(民主党議員が)誰一人、この現状に対してものを言わないのは異常だ」という発言はなかなか興味深いものです。他の誰でもなく、共産党の委員長が「ものを言わない」ことに注目したのは、かつて(今も?)共産党も同じ体質を持っていたためではないかと思われます。「ものを言わない」ではなく「ものが言えない」という表現の方がより適切でしょう。

 「ものが言えない」ということは小沢幹事長への権力集中が相当進んでいることを示しており、宮本時代の共産党を思わせます。3名の逮捕後は散発的に批判が党内から出ているようですが、多くは匿名を条件とするボヤキのようなものです。これでは自浄能力など期待できそうにありません。

 民主主義には自由な言論が不可欠です。政党内部だけは言論の自由がなくてもいいという理由はありません。小沢氏に対する反対意見が言えないようでは、小沢氏の独裁を許すことになります。「もの言えば唇寒し」では自由な議論に基づく民主主義など、絵に描いた餅でしょう。

 しかし残念なことに、陳情の一元化など、「ものが言えなくなる」ほどまで、小沢氏が権力を集中するための方策を次々と打ち出していく過程で、主要メディアは権力集中に対してあまり警戒感を示しませんでした。暫定税率廃止などの大問題が小沢氏の一声で決まるといった権力集中に対してもう少し危機感があってもよいと思うのですが。

 民主党の内部構造が明らかになることによって、議員あっての政党か、政党あっての議員かという問題も浮上してきました。小沢チルドレンはじめ、小沢グループは指示通り一糸乱れず動いてきたと言われています。彼らは小沢氏の持ち駒という色合いが強く、志を同じくするものが集まるという政党本来の意味から外れています。先に政党ありき、なのです。小沢氏に忠誠を誓うものが公認されるという仕組みから生まれる議員に自由な意見の表明を期待することは無理でしょう。小選挙区制の下では、公認は絶対的な意味を持ちます。

 鳩山首相は小沢幹事長に「闘って下さい」と述べたそうですが、これは首相の実質的な立場を表しているようです。首相は政府のトップであり、政府の組織である検察と闘うのはおかしい、また首相自ら検察は信頼できないと言っているようなもの、と指摘されていますが、鳩山首相は日本国首相というより小沢氏に従属する立場という意識の方が強いのではないかと疑われます。まあ正直な方だとは思いますが。

 鳩山首相は小沢氏の発言を伝えるとき「おっしゃっていました」などと敬語を使うのが常でした。ところが16日の会見では「幹事長は辞めるつもりはないと、申しておりますから・・・」と一転して謙譲語になりました。首相の心理に微妙な変化が生まれたのでしょうか。もっとも首相は閣僚の発言などには、常々「・・・と申されています」と謙譲語と尊敬語を同時にお使いなので、その宇宙人的用語法は凡人の理解が及ばないものかもしれません。

 この逮捕劇によって小沢氏の旧来の金権的な政治手法が明らかになりつつあります。しかし、より重要なことは民主党の権力構造、その名前とは裏腹の非民主的な独裁的性格が明確になってきたことではないでしょうか。

 そして独裁的な政権の成立を許す土壌となったのは、議員に対する政党の優越という環境を提供した小選挙区制であったことにも注意が向けられるべきだと思います(十数年前、その小選挙区制を導入したのは当の小沢氏であり、まさに深謀遠慮なのかも知れません)。

 もしこの資金疑惑の露見がなければ、民主党が参院選挙で過半数を握る可能性が大きかったと思われます。それは「ものが言えない政党」による独裁体制の完成を意味するものであり、あまり歓迎したいものではありません。

関連拙記事 小沢政治への不安(2)

マスコミのダブルスタンダード

2010-01-14 09:40:50 | Weblog
 東京地検特捜部はついに小沢一郎民主党幹事長の周辺の強制捜査に踏み切りました。政界の大物に対する捜査だけに、きっと容疑に強い自信があるのでしょう。

 文芸春秋新年号には「小沢から藤井に渡った15億円の怪」、2月号には「消えた五箱の段ボール」と、小沢氏の怪しさをかなり具体的に指摘した記事が続きました。検察がこれに影響を受けたかどうかは知りませんが、田中角栄氏失脚のきっかけになった立花隆氏らの「田中角栄研究」(文芸春秋1974年10月号)が思い出されます。小沢氏は田中氏の弟子と言われるだけに不思議なめぐり合わせです。

 一方、小沢氏の政治資金の疑惑、鳩山首相の政治資金疑惑と税逃れに関するマスコミ報道にはもの足りなさが感じられました。政権のトップとナンバー2が(どちらがトップかは不明)そろって巨額の政治資金疑惑を受けるという前代未聞の出来事に対してずいぶん腰の引けた報道です。

 小泉内閣のとき、年金未納問題がありました。数名の閣僚の年金未納が発覚し、民主党代表の菅直人氏「未納三兄弟」と激しく追及し、福田康夫氏が官房長官を引責辞任しました。その後、恥ずかしいことに菅直人氏にも未納が発覚、やむなく民主党代表を辞任しました。なぜかマスコミは政治家に極度の潔癖さを求めていました。

 政治資金疑惑や6億円の税逃れに比べると実に些細な問題ですが、辞任にまで至ったのはマスコミの連日の大報道のためだと思われます。事務所費問題で絆創膏を顔に貼ったことまで大騒ぎされて辞任に追い込まれた大臣もありました。

 朝日などは小沢・鳩山両氏の疑惑について、社説では説明責任を果たしていないなどと、申し訳程度に取り上げているものの記事での扱いは、問題の重要性に見合ったものとはとても思えません。一面トップで騒ぐのと社説では影響度に於いて雲泥の差があります。

 民主党支持率と内閣支持率の低下がそれほど急激でないのはこの報道姿勢のおかげとも言えるでしょう。年金未納程度で辞任に追い込むほどの報道と、民主党幹部に対する寛大な報道、この激しいダブルスタンダードは理解に苦しみます。

 田中角栄はその後、闇将軍となって強い影響力を行使しました。今後、小沢氏がどのようなことになるかわかりませんが、小沢氏は既に闇将軍の称号を贈られていますから、そのままでいけるかもしれません。

二大政党制とポピュリズム

2010-01-11 09:56:01 | Weblog
 二大政党制は政党政治のひとつの理想とされてきました。二大政党制の下では政権交代が可能であり、そのため国民は政権選択の自由を手にすることができます。このこと自体は望ましいことであり、少なくとも一党独裁よりずっとましです。

 一方、民主政治はポピュリズム(衆愚政治)の影響を免れることができません。ポピュリズムと隣り合わせと言ってよいでしょう。しかし二大政党制はポピュリズムの影響をさらに強めることになると思われます。

 小選挙区制と二大政党制の下では政権獲得競争が激しくなる結果、選挙に勝つことが最大の目標になります。小沢幹事長の方針はそれを裏付けるものに見えます。有権者に訴えるものは目先の利益を実現するものが主になり、増税などの痛みを伴うものは忌避されます。昨年の民主党のマニフェストが好例です。長期的には重大な政府債務問題などは取り上げられません。

 外交や防衛など政治には長期的な視点が必要ですが、目先のものに引きずられやすくなります。選挙に勝つことと良い政治を行うことは決してイコールではありません。膨大な政府債務は長期的な政策が争点にならなかった結果であり、この傾向はさらに強くなそうです。マスコミと有権者は朝三暮四の故事に例えられます(帳尻を将来世代に頼るところがより無責任ですが)。

 選挙における競争が激しくなるほど有権者の歓心を買う政策が多くなり、長期的な政策は軽視される傾向が生まれるでしょう。これは目先の利益に釣られる有権者の問題でもあります。投票行動は報道の反映ですからマスコミの問題でもあります。二大政党制がうまく機能するためには両者の政治的成熟が条件となるでしょう。

 競争が必ずしも良い結果をもたらさなかった例として放送業界が挙げられます。ここでの競争の対象は視聴率です。視聴率を稼ぐには最大公約数の視聴者が面白おかしく見てもらえる番組を作るのが基本です。視聴率が優先されるほど他のものは犠牲になります。

 民放が邦楽やクラシックを放送することはまずありません。様々な文化を伝えることは大切なのですが、視聴者が少なければ、つまり「ゼニ」にならなければ彼らは取り上げません。少数の視聴者でも放送できる、また、見るのに少々しんどくても重要なことを報道できるところにNHKの存在理由があります。視聴率競争は迎合と番組の質を落とす方向により強く働くと思われます。海外に長く住んだ人が帰国して、日本のテレビの質の低さに驚いたという話はよく耳にします。

 自由競争は一般的に創意工夫を生み、生産性を向上させで社会を豊かにするものとされてきました。しかし政治と放送の世界では、激しい競争はポピュリズムへの傾斜をいっそう強めることになりかねません。

 そして政治と放送(マスコミ)は関連しています。マスコミが政治のポピュリズムを助長するという関係です。もしマスコミが読者・視聴者に迎合せず、目先の人気取り政策などを厳しく批判するならば、政治のポピュリズムは後退するでしょう。二大政党制がうまく機能するためにはマスコミの成熟、つまり外交や防衛、経済などに関する十分な見識が必須の条件となるでしょう。

バタフライ効果

2010-01-08 09:50:02 | Weblog
 バタフライ効果とは「北京で蝶が羽ばたくと、1ヶ月後にニューヨークで嵐が起こる」などと説明されるように小さな変化が予想できない大きな変化を引き起こすことを指します(気象のように複雑さのために予測が不可能な分野での話です。これに対して惑星の運行などは単純で、何年も先の状態を高い精度で計算可能です)。

 昨年冬の派遣村騒ぎとその最大級の報道は恐らく政権交代の一要因になったと思われますが、派遣村については後に以下のようなことが明らかになりました。

○派遣村に集まった約500人のうち、派遣切りの人は120人程度(厚労省推計)
○集まったうち1月9日までに生活保護を申請したのは223人
○集まったうち1月9日までに求職の登録をしたのは125人
○東京都北区が募集した200人分の区臨時職員の募集に応じたのは4人

 集まった人達のうち、実際に派遣切りにあった人は120人ほどであったこと、求職の登録や職員募集への応募が低調であったことに驚きます。就職に対する意欲の低さは意外なものです。世の中がひっくり返らんばかりの大報道とこれらの事実の間には大きな落差が感じられます。

 また、今冬の税金による公設派遣村は最終的に833人が集まりましたが、そのうち就労相談をした人は1割にも満たなかったとされています。「希望者全員のホテルを用意しろ」と騒ぐ者もいたという産経の記事がありますが、これは恐らく少数の人達であり、このことで派遣村全体を判断するのはよくないでしょう。

 今冬の派遣村に関する報道は昨冬とは打って変わった静かなものでしたが、なぜこれほどの差があるのか不明です。もしかしたら実態にふさわしい報道になったのでしょうか。

 昨冬の派遣村騒動によって派遣労働の不安定な側面が明らかになった点は評価すべきですが、実態から離れた洪水のような報道が過大な衝撃を社会に与えました。この衝撃は小泉改革が格差拡大を招いたとする議論に油を注ぎ、自民党政治そのものへの批判につながったと考えられます(派遣村の村長であった湯浅誠氏は民主党に貢献したわけですが、彼はその後、内閣府参与として暖かく迎えられました)。

 むろん自民党が敗北した理由は他にいくつもあると思いますが、昨冬の派遣村報道がひとつの理由になったことは十分考えられることです。派遣切りに遭った120人ほどが政権を左右するほどの影響力をもったわけで、報道の力をまざまざと見せつけられた例です。

 問題は派遣村報道が実態から大きく外れた感情的なものであったことです。感情的な報道が感情的な反応を生み、投票行動に影響したと考えられます。北京の蝶の羽ばたきを感情的に拡大する仕組みが存在し、それが予測困難な結果をもたらしたというように考えることができるのではないでしょうか。

 政治が感情に支配されることを防ぎ、冷静な判断が可能になるような情報を提供することは報道機関の重要な役割です。報道機関がカッカして、頭に血が上ってはちょっと困るわけです。それでは多面的な報道は恐らくできないでしょう。

「文は人なり」

2010-01-04 10:05:37 | Weblog
 新しい年を迎えると、またひとつ歳をとる、と気になります。歳を食って良いことはあまりないのですが、なかには経験を重ねて初めて見えてくることもあります。

 「文は人なり」と言われますが、これは意外にも18世紀のフランスの博物学者・数学者ビュフォンの言葉だそうです。文章には多くの情報が含まれていて、書いた人の様々なことがわかるという程度の意味でしょう。わざわざ言われなくてもそのように感じている人は少なくないと思います。

 短い話し言葉と違って、書かれたものは一般によく考えられたものであり、その人の頭の中をよく反映したもので、情報としての価値が高いというわけです。採点の面倒さや主観の混入という問題がありながらも、論文形式の試験が採用される理由でもあるでしょう。

 ○×式の採点なら誰でもできますが、論文の採点はかなりの知識と経験が必要です。同様に文から人を知るにも相当の知識・経験が要ると思われます。歳をとると様々な性格の類型を知る機会が多くあるので、それらを参考に推理することができるわけです。

 類型から離れすぎた奇人・変人には通用しませんが、これはけっこう楽しい作業です。司馬遼太郎氏の作品にはしばしば登場人物の人物評が出てきますが、彼も謎解きのように人物の内面を推理していたのではないかと想像します。

 政治家にとって言葉は大事な商売道具ですから、演説はむろんのこと、公の場での発言は考えられたものであり「文」に相当する意味があると思われます。「言葉は人なり」とも言えるでしょう。このような観点から政治家を眺めるのもなかなか興味あることです。

 例えばオバマ大統領の就任演説の、自らの出自を語った一節、「60年足らず前に地元のレストランで食事をすることも許されなかったかもしれない父親を持つ男が今、ここで最も神聖な宣誓をする・・・」の巧みさには感心させられます。

 またノーベル平和賞受賞演説の一節、「これら一見矛盾する二つの真実――戦争は時に必要であり、また戦争はあるレベルにおいて人間の愚かさの発露だという真実――を調和させることだ」には、抽象的なきれい事で誤魔化さない正直さと、リアリズムに基づく歴史認識が感じられます。やはり並々ならぬ人物だという気がします。優れたスピーチライターのせいもあるのかもしれませんが。

 それに対し「友愛政治」を掲げ、「トラスト・ミー」と言って信用を落とした日本のトップリーダー鳩山首相の言葉はどうでしょうか。「きれい事」と「曖昧さ」、「非現実性」ではなかなか高いレベルにあるように思いますが。

 優れたリーダーを選ぶ場合に問題になるのは人物を評価する能力です。人物リテラシーといってもよいでしょう。麻生前首相や鳩山首相を選んだ方々の人物リテラシーはどうであったのでしょうか。

教員養成課程6年制の失敗予測

2009-12-31 09:24:08 | Weblog
 朝日新聞には1ページを使ったオピニオン欄があり、けっこう面白い記事が載ります。少なくとも記者が書いたものより面白いものが多いようです。編集者の選択の結果なのでしょう。

 12月26日の同欄には元河合塾理事の丹羽健夫氏の「養成過程6年制?教員の質 下げますよ」というたいへん興味深い記事が載っています。ごく簡単に話の要点を紹介しますと、6年制にすることにより志望者が激減し、教員の質が低下するというわけです。例として先行した薬学部のケースが示されています。

 「2006年に薬学部が6年制になったとき、私立の薬学部志願者は前年の14万人から9万人に減りました。その後も減り続け、今春の入試では8万人になった。その結果、河合塾のデータによると、50台だった偏差値は軒並み7ポイント以上、下がりました。10~20ポイント下がったところもたくさんあります」
「(教員養成系大学の)合格者の平均偏差値は現在でも53。これは国立の系統別偏差値の中で最も低い芸術・体育系に次ぐ低さです。(中略) 40台に落ち込む可能性が高い」
「そういう子が6年間の大学の授業に耐えられるのか、授業についていけるのか、危惧を感じます」
「せっかく6年かけて教員免許を取っても、正規の教員になれるのはごく一部です。当然志願者は減るでしょう」

 刈谷剛彦氏は教員養成系学部の偏差値が近年5ポイント程度低下していると、既に指摘していますが、それに加えての7ポイントはたいへん大きな数値です。

 また、民主党が07年に策定した教員養成課程6年制はフィンランドの修士課程を意識したもののようだが、フィンランドでは教員養成系大学の志願倍率が10倍程度なのに対し、日本では平均2.5倍だと書かれています。

 丹羽氏の話はたいへん説得力があり、偏差値の低下はまず起きるとみてよいと思います。民主党の考える6年制は偏差値の低下を無視したものか、それとも教育期間を2年延ばすことによって偏差値の低下を十分補えると考えたものかの、どちらかでしょう。

 教育の重要性から考えれば、教員の資質の低下を意味する偏差値の低下は非常に重大な問題であり、それを低下させるような施策は危険だと思います。2年間の延長による効果はそれに比べると小さなものでしょう。

 養成課程6年制の背景には学生の資質よりも教育の可能性に期待する素朴な楽観論(a href="http://homepage2.nifty.com/kamitsuki/09A/shakai-Darwinism.htm">参考)があるのでしょうが、「ゆとり教育」と同様、失敗する可能性が高いと私には思われます。

 民主党が養成課程6年制というマニフェストを作成するにあたり、どのような専門家の意見を取り入れたのか気になります。政府の当事者に専門家並みの知識を求めることは無理かもしれません。しかし様々な専門家の意見から適切なものを選択する能力、そのための見識が必要なのは言うまでもありません。

フィンランドには優秀な学生が教員になる仕組みがあるようですが、その前にそれを実現した優秀な行政機構があるものと想像できます。優れた政策担当者→優れた教員→優れた教育という順序です。先に必要なのは政策担当者への「教育」ということになりますが、これは間に合いそうにないので、優れた人材を配置することが必要でしょう。

 教育政策の結果は何年も先になって現れます。失敗は取り返しのつかないもので、国家的な規模の損失を招きかねません。養成課程6年制を掲げる民主党の先生方に正しい判断を果たして期待できるでしょうか。

ばれるまで黙っていよう、贈与税

2009-12-28 10:05:45 | Weblog
 鳩山首相は12億6千万円を親からの贈与と認め、約6億円という多額の贈与税を払うことになりました。不運であったのはたまたま「故人献金」問題で捜索を受けたことであります。これさえなければ鳩山氏は税金を払わずにまんまと贈与に成功していたことでしょう。たいへんお気の毒な、不幸な出来事です(時効成立分については成功ですが)。

 資産家にとって財産を減らさずに子孫に移すことは重大な関心事です。鳩山氏の資産管理会社、六幸商会のことは知りませんが、資産家が相続税や贈与税対策のために資産管理会社を作るのはよく使われる方法です。長期の計画のもとにうまくやれば節税などにかなりのご利益があるとされています。

 もうひとつ気になるのは六幸商会→首相の事務所→各政治団体・個人の活動費・私費への流れが現金となっていることです。一般社会ではこのような高額の受け渡しは小切手か銀行振込みが常識です。現金による受け渡しは面倒なので、跡(証拠)を残したくないときなど、特別な事情があるときに利用されます。

 したがってこのような仕組みは「不透明化」のために用意周到に作られたものであるという気がします。捜査当局は金の流れをほとんど解明できなかったとされており、「不透明化」は大成功のようです。そして鳩山氏だけが資金のことをまったく知らなかったそうですが、われわれの頭脳ではちょっと理解し難いことです。やはり「宇宙人」なのでしょうか。

 鳩山氏は結局、贈与をお認めになったわけですが、もしこの発端が検察の捜査でなく、税務調査であったならば同じことになっていたでしょうか。税務調査の結果、数億円の税逃れが出てくれば普通は立件になると言われています。税務当局と検察庁は「全く知らなかった」という宇宙人のような釈明が理解できるのでしょうか。普通の人が同じことを言ってもまず認めてくれないと思いますが。

 それにしても現職首相による多額の「申告漏れ」という事態に対し、マスコミの優しさが気になります。赤城農相の事務所費が不明朗であるとして今回とは比較にならない程の大騒ぎになりました(それほど重大な罪とは思えませんが)。10年間の事務所費の合計でも数千万円であり、金額は2桁違います。絆創膏を貼って出てきただけでもひどく叩かれ、参院選の自民敗退、安部政権の崩壊へとつながりました。選挙まで左右するマスコミの腕力をまざまざと思い知らされた出来事でもありました。

 今回の「激漏れ」は課税分だけで約6億円であり(延滞税以外の加算税が課せられるのか興味あるところです)、まったくスケールが違います。なぜマスコミはこれほど優しいのでしょう。マスコミには公平性という概念がないのでしょうか。

 税務署長→財務大臣→総理大臣というラインでいえば首相は徴税する側のトップです。納税の範を示すべき立場の人が「激漏れ」とは困ったことです。警察庁長官が刑事事件を起こすようなものです。放置すれば納税のモラルに大きく影響することでしょう。「贈与税はばれるまで黙っていよう、もしばれても払えば済むことだ」、と。

 鳩山氏は民主党のスポンサー、オーナーとも呼ばれ、民主党が鳩山氏の資金力に依存してきたとされています。政治資金規制が徐々に厳しくなった結果、金を集めることが困難になり、自ら資金を持つ人が有利になったという側面は否定できないと思います。

 麻生氏、鳩山氏と自己資金のある首相が続きました。キングメーカーの森元首相は「お世話になったから」と公式の場で麻生氏を首相に推しました。「お世話」が経済的なものかどうかは知りませんが、首相が資質や能力以外の要素で選ばれるのは国民にとってたいへん不幸なことです。その結果かどうかはわかりませんが、両氏とも首相としての資質に疑問が残ります。

 かつて金権政治が批判されました。それが自己資金によるものに変わっただけであるならば残念なことです。首相の巨額の使途不明金が何に使われたのか、たいへん気になるところです。

市長のブログ騒動

2009-12-24 10:58:13 | Weblog
 鹿児島県阿久根市の竹原信一市長がブログで語ったことが問題になっています。引用され、障害者への差別だと指摘されている部分は以下のところです。
「高度医療のおかげで以前は自然に淘汰された機能障害を持ったのを生き残らせている」「結果、養護施設に行く子供が増えてしまった」

 ここだけ読むとたしかに問題ある表現です。朝日、読売などが批判的に取り上げ、TBSの朝ズバは手厳しく批判しています。問題の11月8日のブログは修正中で読めませんが、転載されたものなどを読むと、マスコミの批判は理解を欠いた、ずいぶん一方的なものと思います。次のような市長の発言があります。

「生まれる事は喜びで、死は忌むべき事、というのは間違いだ。個人的な欲でデタラメをするのはもっての外だが、センチメンタリズムで社会を作る責任を果たすことはできない」
「社会的な救済を受けられない人が数多く存在するという世の中の矛盾について、議論を喚起する必要がある」

 高度医療などに多額の費用が使われる一方、必要なのに救済がうけられない人がいることを市長は指摘したかったのでしょう。「命はなによりも尊い」として、例えば植物人間となった患者の延命に多くの費用(社会的資源)をつぎ込みながら、その一方で生活にもこと欠く人たちがいるという矛盾です。

 このような問題をヒューマニズムの観点から批判するのは簡単であり、しかも多くの賛同が得られます。しかしことはそれほど簡単ではありません。社会的資源の配分の問題に突き当たるからです。

 合計特殊出生率が変わらなければ2055年には生産年齢人口1.2人が1人を支えることになると試算されています。現在は3人が1人を支えていますから、この試算どおりにならなくても負担の増加は間違いないでしょう。

 07年度の社会保証給付は91兆円とGDPの約4分の1を占め、年々拡大している現状があります。10年度の一般会計予算案では、社会保障関係費は国債費と地方交付税を除いた一般歳出の5割強を占める最大の支出項目となっています。

 予算の半分以上は借金に頼るものであり、将来の生産年齢層の大きい負担になります。将来の生産年齢層は重い負担の上にさらに前世代のつけまで払わなければならないことになりそうです。

 少し話がそれましたが、「命はなによりも尊い」式の方法は資源配分の問題によっていずれ制約を受けざるを得ないことになると思われます。きれい事では済まない現実的な解決が必要となるでしょう。「生まれる事は喜びで、死は忌むべき事というのは間違いだ」という発言は現在の形式的な考えに対する批判でしょう。

 市長の発言に対する反応は批判的なものが大部分だそうですが、これはマスコミ報道の当然の反映でしょう。このようにして世論が形成されることは恐ろしいことです。

 障害者を例にとるなど、市長の発言に問題なしとは言えませんが、市長という立場にありながら非難を覚悟の発言は評価できるものです。誰かが言わなければならない問題だと思います。

 きれい事を言うのは簡単です。そういう人は掃いて捨てるほどいるのですが、それには国民負担の増加が伴うことを意識する人はどれだけいるでしょうか。聞こえのよい報道が分不相応な出費を促し、巨額の政府債務を作り上げた一因とも言えるでしょう。

顕示的消費とユニクロ現象

2009-12-21 09:53:19 | Weblog
 かなり古いことですが、なかなか売れなかった宝飾品に10倍の値段をつけたらすぐ売れたという話がありました。この種の話は誇張されて伝わることが多く、そのまま信じるのは賢明ではありませんが、この話は顕示的消費の例で、ヴェブレン効果とも言われています。

 私達は商品を購入するとき、一般的には商品の実用価値に対価を払います。しかし宝飾品、高級衣類、高級車などを購入する場合、実用価値だけでなく、それによって得られる幸福感に対価を払います。

 幸福感は商品を他人に顕示することで得られる優越感に多く由来すると言えるでしょう。高級品を身につけることは財産や高所得を示すラベルを身に貼り付けることでもあります。この場合、高級品を誇示された側は劣等感を持つ可能性があります。つまり優越感には他人の劣等感が必要というわけで、合計するとゼロになるかもしれません。

 他人に対して優越したいという欲求はかなり強いものです。フロイトは人間を行動に駆り立てる基本的な動機を性欲に求めましたが、フロイトの弟子、アドラーは基本的動機を他に対する優越であると考えたほどです。

 現代は物が豊富にありますが、それまでは欠乏時代が長く続きました。そのため、物を所有するという欲求は普遍的なものであったと思われます。物と交換できる貨幣についても同じです。したがって、物や金を多く所有することによって他に優越するという動機は最も一般的であったと思います。

 数十年前、車は経済的地位の象徴でした。しかし少しずつ実用価値の割合が増してきて、地位の象徴としての意味は徐々に薄れてきたように思います。

 物が豊富になったため、物の相対的な価値が低下して、社会的地位、知識や頭の良さ、趣味の世界、洗練された生活様式、など他のカテゴリーで差をつけようとする傾向が強くなってきたのは自然なことでしょう。

 ユニクロは規格品を大量生産・販売し、社会に広く受け入れられました。これは多品種少量生産という現在の流れとは逆方向です。安価で品質がよいことがその大きい理由であることはもちろんですが、衣類が以前ほど優劣を競うカテゴリーではなくなったことも理由のひとつだと思われます。衣類は実用価値が重視されるようになったと考えられます。

 京都では、一見して金持と分かるような身なりをする人間は軽蔑されるという風潮がありました。見えないところに金をかけるのがよいとされたわけです。私は好きにはなれませんが、一種の洗練とも言えるでしょう。

 一方、最近の若者の世界では無理をしてまで車を所有するのは格好悪いこととされているそうで、大きな価値観の変化が感じられます。若者に車が売れなくなった理由のひとつだそうですが。

 物を買い集め誇示する方向から、様々なカテゴリーで価値を見つける方向への転換は、資源の有限性からも歓迎すべきことでしょう。少なくとも多数が大型の高級車を目指す社会よりも好ましいと思います。GDPの成長にとってはマイナス要因かもしれませんが、それは仕方のないことでしょう。

鳩山政権の統治能力

2009-12-17 10:05:37 | Weblog
 我々はとんでもない政権を選択したのではないか、8月の選挙で民主党に票を入れた人ですら、そう思い始めているのではないでしょうか。統治能力への疑問は定着しつつあるようです。

 普天間飛行場移設問題を先送りした理由を鳩山首相は次のように説明しています。

 「日米の合意の重さ、一方で沖縄県民の強い思い。両方同時に考えたときに、今すぐに結論を出せば必ず壊れる」「私は結果を出して壊すなどという無責任なことはやりたくない」

 米国はもとより、これに納得する国民がいるのでしょうか。何が必ず壊れるのかを明示すべきであり、また結論を先延ばしにすれば展望が開けるのなら、その道筋を示すべきです。むしろ先送りして壊れそうになっているのは日米の信頼関係です。深読みすれば、結論を出して自らの連立政権が壊れるくらいなら日米関係が壊れた方がいいという意味にも受けとれます。これは国民が餓死しても体制の維持を優先するというどこかの国と通じるものがあります。

 上記の発言は「決定しない決定」の理由という重要なものであるにもかかわらず、意味がよくわかりません。会見に群がっていた優秀な記者の方々はこの発言に納得されたかもしれませんが、私にはわかりません。「何が壊れるのですか」くらいの質問をして、首相の意図を一般国民にもわかるように伝えるのがお仕事だと思うのですが。単に伝えるだけならマイクロフォンだけで十分です。

 鳩山政権は米国に対し信頼を失うような行動をとりながら同時に中国に接近していると、既に指摘されています。もしかすると日本外交は岐路に立っているのかもしれません。政治的に安定し、半世紀を超す関係を築いてきた米国と距離をとり、未知の要素が多く残る中国に接近するのは大きなリスクがあります。

 多くのメディアはこの問題を大きく取り上げています。産経や読売は当然というところですが、今回はNHKも事態を深刻なものと理解しているようで、大きく報道し、批判的な解説もしています。しかし朝日だけは異色です。

 「あらたにす」によると15日、日経と読売は朝夕刊ともトップで取り上げているのに対し、朝日は朝刊ではトップですが『普天間移設先「5月までに決定」』と誤った事実を伝え、夕刊では一面から消えています。また同日のテレ朝「報道ステーション」では野球の松井選手の話題の後、申し訳程度にごく短かく触れただけです。まるで知らせたくないような、驚くべき姿勢です。日米間の危機につながりかねない問題を伏せるのは、国民の認識を誤らせるものです。

 日本には非武装中立論に代表されるような空想論が根強く存在します。100年先の理想論としてはわかりますが、外交に対処していくには非現実的なものです。この空想論に汚染されているのは社民党と朝日新聞だと言われていますが、このところの動きは鳩山政権もかなり親和性をもっていることを示しています。

 日本は数十年前、生産力が10倍もある米国に戦争をしかけました。リアリズムに立脚せず、思想や精神論に影響された認識がいかに危険なものであるかは既に経験済みの筈です。主義や思想が現状認識を狂わせるという事実は一般化してよいと思います。

 哲学者田中美知太郎氏は「いわゆる平和憲法だけで平和が保障されるなら、ついでに台風の襲来も、憲法で禁止しておいた方がよかったかも知れない」と言ったそうですが、非現実的な認識を巧く皮肉っています。

 むろん、普天間問題は基本的な政策の結果などではなく、単に政権の統治能力の欠如の結果と見ることもできます。まあどちらにしても困ったものです。目先の人気取り以外には関心がないようなこの政権の統治能力が周知のものとなるのに、さほどの時間はかからないと思われます。