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噛みつき評論 ブログ版

マスメディア批評を中心にしたページです。  姉妹ページ 『噛みつき評論』 もどうぞ(左下のBOOKMARKから)。

終末期医療と安楽死

2009-12-14 09:16:07 | Weblog
 以下は医師で作家の久坂部羊氏が「終末期医療はだれのため?」という題で書かれたものの要約です(2009.2.12 産経新聞)

 『私が在宅医療で診ていた乳がんの末期患者Kさん(72)が、入院先で亡くなったという連絡が届いた。Kさんはは午後8時過ぎに心肺停止の状態で発見されて、すぐに当直医が呼ばれ、心臓マッサージなどの蘇生処置を受け、心拍が再開した。その後、人工呼吸器を装着し、強心剤などの投与を行ったが、治療の甲斐なく、翌日の午後9時過ぎに息を引き取ったという。

 慌ただしくのどに人工呼吸の管を挿し込まれ、激しい心臓マッサージを受けるのは、決して穏やかなことではない。Kさんは痩せていたので、本格的な心臓マッサージを受けたら、肋骨が折れた可能性も高い。点滴だけでなく、尿の管も入れられただろう。がんの末期で静かに死を迎えているのに、そうやって生の側に引き戻すことが、ほんとうにKさんのためなのだろうか。

 Kさんの意識がもどらなかったからよかったものの、気がついていたら、きっと治療の苦しみに悶えたにちがいない』

 誰もがこんなことはされたくないと考えることでしょう。むろんすべてがこのようなものではないと思われます。DNR(Do Not Resuscitate 蘇生拒否)シートを出しておけば避けられる仕組みになっているものの、上記のようなことがある以上、まったく安心というわけにはいきません。

 久坂部羊氏は「こういう事例を耳にするたび、終末期医療はいったいだれのためにあるのかと、考え込んでしまう」と結ばれています。

 少しでも命を延ばそうとする周囲の気持ちと、苛酷な延命治療を受けて亡くなった人が「もうこりごり」といった感想を述べる機会のないことがこの背景にあるのでしょうが、あまりにも形式に偏重したやり方との感が否めません。

 さて日本では呼吸器外しが殺人罪に問われる状況ですが、欧州ではかなり変わった状況が見られます。今年の3月、ルクセンブルグはオランダ、ベルギーに続き安楽死の合法化に踏み切りました。

 自殺を禁じるキリスト教の影響下にある国々が合法化に踏み切ったのは自らの命は自らが決めるという権利意識がより強いためだと言われています。いろいろ議論があることは承知していますが、少なくとも自分の命を他人が決めるより、合理性があると思います。

 また7月には英国の著名指揮者夫妻がスイスの病院へいき、安楽死を果たしました。これはスイス安楽死ツアーとも呼ばれ、諸経費は500から1000スイスフラン(約4万3500円~8万7000円)で、支援団体があるそうです。国外で安楽死が可能となると費用を負担できる人にとっては現実の選択肢となり、日本だけが禁止してもその意味は薄れます。

 日本は宗教色が薄く、安楽死に対する抵抗感が比較的小さい筈ですから、「東洋のスイス」になって国際的な貢献をすることも可能だと思うのですが。

安楽死に殺人罪を適用すべきか

2009-12-10 09:46:24 | Weblog
 川崎協同病院で98年、気管支喘息の発作で意識不明状態だった患者の気管内チューブを抜き、筋弛緩剤を投与して死なせたとして、殺人罪に問われた医師の上告審で、最高裁は被告側の上告を棄却、殺人罪の成立を認め、医師の有罪が確定しました。

 この種の事件があるたびに「殺人罪」という罪名に対して違和感を覚えます。死期を控えた患者の苦しみを見かねた遺族が医師に懇願したケースが、利己的な動機のための殺人と同じ殺人罪で処断されるということに対する違和感です。両者はかなり異質なものに思えます。

 また、生命は今後数十年間生きられる命もあれば、あと数時間、数分の場合があります。残り数分の命を縮めても殺人となります。

 つまり両者の動機には質的な差があるうえ、絶たれた生命の状態にも大差があります。これを殺人罪という同一の法律で扱うのはやはり乱暴だと思います。

 殺人という行為の法的な定義を適用し、論理を積み重ねるとこのようになるのでしょうが、少し単純すぎはしないでしょうか。法の論理を厳格に貫徹することが最終目的ではありません。社会に役立つことが法の最終目的です。

 遺族が当人の苦しみを見かねて、医師に死を早めて欲しいと依頼することは珍しいことではありません。医師が依頼を承知する場合もあるでしょうけど、被害者がいるわけでなく、たいていは問題にならないと思います。昔はよくあったこと、という話を聞きます。

 今回、なぜ問題が表面化したのか知りませんが、たまたま医師が殺人罪に問われたとき、遺族は「依頼」の事実が判明すると自身も殺人罪に問われるので、「依頼」の事実を否定することになるといわれています。したがって医師だけが罰せられるという理不尽なことになる可能性があります。

 今回の川崎協同病院の事件でも遺族は依頼の事実を途中で否定したと聞きます。二審では依頼の事実は否定できないと消極的に認定されたようですが、もし一審のように否定されたままであれば、医師はさらに気の毒なことになっていたでしょう。

 医師が依頼もなく、患者を死に至らしめるということはたいへん考えにくいことです。そして依頼があったと推定される場合、依頼した遺族が罪に問われないことは論理的な整合性を欠くものです。この種の事件に問われる医師は、たいてい同情心が強く患者の信頼も厚いことが多いだけに、いっそう違和感が残ります。

 むろん、依頼者を罪に問うべきだと言うつもりはありません。このようなケースに殺人罪を適用することの是非を問いたいわけです。この判決によって、医師は末期患者の死に関してより慎重な姿勢になることと思われます。

 回復の見込みのない患者に対して、意味があるとは思えない延命処置、蘇生処置がしばしば行われることはよく知られています。生命を助けるという医療の使命ゆえのことですが、遺族の訴訟などに備えるためでもあると言われています。

 私自身、苦しくて回復が見込めない状態になれば、早く命を絶ってほしいと思っていますが、これは多くの人が望んでいることだと思います。医師が法的なリスクを避けるため延命処置、蘇生処置に懸命な努力をする間、悶え苦しむのは遠慮したいものです。それならば、むしろ世界の主流となっている薬殺による死刑の方が楽かもしれません。

 それはともかく、強盗殺人も安楽死も同じ殺人罪という現状は何とかならないものかと思う次第です。
 関連拙記事 終末期医療と安楽死

社民党レバレッジの迷惑度

2009-12-07 09:20:55 | Weblog
①社民党の党首選挙で、普天間飛行場の県外・国外移設を主張する照屋衆院議員を福島氏の対抗馬として擁立する動き。
②これを抑えるため福島氏は普天間飛行場の県外・国外移設を民主党に要請、拒否すれば連立離脱も辞さずと。
③社民党の「連立離脱」に仰天した民主党は即座に移転問題の先送り決定。
④米国との信頼関係に重大な懸念が発生。
⑤日米関係が深刻な事態に・・・・?

 つまり、照屋議員を擁立しようとする小グループの意向が回りまわって日米関係に重大な影響を与えるに至りました。FX並みの高いレバレッジ(てこ)が実現したというわけです。支持率が1%前後の小党の内部事情によって、対米外交の方針が大きく変更されるのは異常な事態と言わねばなりません。

 またこの間の動きは大変迅速でありましたが、日米関係の重要性を考えるとそんなに簡単にきめていいのかと思ってしまいます。また決断があまりお好きでない鳩山首相が珍しく即座に決断されたことには驚きました。「先送り」という決断だけは例外なのでしょうか。

 2大政党が拮抗しているとき、小政党がキャスティングボートを握り、大きい影響力を行使することがありますが、この場合は多数が決するということであり、合理性があります。しかし今回のケースは少し様相が違います。

 社民党の福島党首の目的は自党内の反対派を抑え、無投票で次の党首になることであったと考えられます。まあ早く言えば保身です。そして社民党が連立離脱をちらつかせた要求に早々と「無条件降伏」した鳩山政権も内閣の保身のためと言われています。

 この一連の過程では「風が吹けば桶屋が儲かる」式に小党の内部事情が結果的に大きい影響力を行使するというレバレッジが働いたわけですが、その理由は連立という政治構造だけではありません。社民、民主の両党主が国や国民の利益よりも自らの保身を優先させ、国や国民の利益のためという大局的な立場を放棄した結果であると言えるでしょう。

 逆に言うと、この一連の過程で国民の利益という観点から判断する部分がひとつでもあれば、このような事態は避けられていたと思われます。とすると現政権の統治能力に重大な問題があると思わざるを得ません。

 この状況を見る限り、双方とも「友愛精神」は何よりも自党や自分自身に向けられているように感じます。そろそろ看板の「友愛」を「自己愛」に書き換えられてはどうでしょうか。その方が言行一致でわかりやすいように思います。

 レバレッジを効かせた点では国民新党の方も同様です。こちらは財政支出の拡大を実現させました。ここで気になるのは国債発行の増額を主張しながら、その返済計画をまったく示さないことです。返済のメドも示さず借金をさらに重ねる、なんてふつうの世の中では通りません。

 責任のない野党としてのクセが抜けないのでしょうか。国債増発を主張するのならば概略でも返済できるという根拠を示すのがあたりまえです(民主党にも言えることですけど)。単に増発を主張するだけでは「あとは野となれ山となれ」の無責任な態度と言えるでしょう。

 国債増発に対し、その返済計画を求めないマスコミの見識も大きい問題です。権力の監視役を自称するのであれば、政府が借金を重ねる際には返済計画の提示を要求するのが当然です。返済計画の提示はマスコミが好んで口にする説明責任のひとつだと思えるのですが。

視聴者を安心させないでください

2009-12-03 09:48:37 | Weblog
視聴者を安心させないで

 荻野アンナ氏は11月30日の日経夕刊のコラム「あすへの話題」にたいへん興味深いことを書かれています。テレビの健康番組に関わった医師の話です。

 『(医師は)健康番組の打ち合わせで、テレビ局側に最初に念を押されたという。
「視聴者を安心させないでください」
 不安を覚えた視聴者はチャンネルを切り替えずに番組を注視し、続編を出せば飛びついて見てくれる』

 私は「マスコミが幸福感を蝕む」で、幸福感と報道の関係に言及しましたが、この話はそれを裏付けるものです。

 視聴者に不安を与えてまでも視聴率を上げることを優先するこの考えは、私にはとても不穏当なものに思われます。またこのような問題のあることを外部の人に臆面もなく話すテレビ局の人間にも驚きます。おそらくこの感覚は放送業界の常識なのでしょう。

 これだけですべてのテレビ局や番組が同様の考えであるとは断定できませんが、放送の現状を見ると、不安を与えて視聴率を稼ぐという「手法」はマスコミ業界に広く定着しているという印象を受けます。

 食品の消費期限、農薬混入、ダイオキシン、環境ホルモン、これらは実害がほとんどないにもかかわらず大きな社会問題になりました。不安を煽ることによって初めて大きな社会問題となり得たわけです。出版業界もこの不安を巧みに利用し、「不安本」というユニークな市場を作り恩恵を受けています(参考拙記事)。残念なことに「不安本」のほとんどは不安を鎮めるものでなくさらに不安を増幅するものです。そしてこれらの本が大量に販売される結果、不安に駆られた読者は健康食品や電磁波防止グッズなどに向かいます。これらは「不安ビジネス」と呼んでもいいでしょう。

 ダイオキシンなどの不安材料があったとき、不安を小さく報道すると、それが誤りであった場合に報道の責任を問われる可能性があります。過大に報道すれば、そのリスクがない上に、読者・視聴者を惹きつけることができるので、報道は不安を誇張する誘惑に駆られます。しかし過度の誇張は社会に不安を蔓延させ、無視できない負の影響を与えます。

 新型インフルエンザが流行し始めた5月、異様なマスク姿が街に溢れたのは日本だけの特異な現象だといわれました。日本人が感染に対して過大な不安を持ったからだと考えられます。むろんその不安は自然に発生したものではなく、日本のマスコミ報道の反映に過ぎません。日本のマスコミは不安を煽るという点に於いて、世界でもっとも優れた能力をもっていると思われます。

 新型インフルエンザによる5月以降の経済的損失は関西の2府5県だけで2383億円とされています(秋以降の本当の流行期を含まず)。関西の経済規模は約2割ですから、全国の経済的損失は単純計算でこれの約5倍、1兆2000億円ほどになる可能性があります。マスコミの不安報道が観光、輸送に与えた打撃は大きく、日本航空の危機にも一役買ったことと思われます。報道が幸福感の減少だけでなく経済的実害をもたらした例と言えるでしょう。しかしながらマスコミが過剰報道を反省したという話はまだ聞きません。

 テレビや新聞は娯楽を提供してくれます。しかし同時に不安も押しつけてきます。差し引きするとプラスになるかマイナスになるかわかりませんが、ともかく最優先の動機が視聴率(購読数)で、視聴者・読者の不安や幸福感には「関知せず」では困ります。

 ブラジルではニュースキャスターが視聴率を上げようと、警察より早く到着して生々しい現場を生放送するために5件の殺人を指示していた疑いがもたれています。これは極端な例ですが、視聴率という魔物は国の内外を問わず存在するようです。

外交問題を感情で解決したい朝日新聞

2009-11-30 09:00:03 | Weblog
 普天間基地の移設が外交・防衛の問題として注目を集めているさなか、11月11日付の朝日新聞の天声人語は以下のように述べています(要約)。

 『ある日、沖縄戦後の日本人収容所の前に男が現れ「残った者が元気でないと死んだ人が浮かばれぬ。命(ヌチ)のお祝いをしよう」。だが、命のリレーはままならず、彼らの子どもらを再び悲劇が襲う。市立宮森小に米戦闘機が落ち、児童11人を含む17人が死亡、200人超が負傷して50年になる。戦争で踏みにじられた後も、この島は異国の戦に酷使されてきた。度重なる墜落事故や性犯罪で流された血涙は、同盟のコストといった乾いた言葉ではくくれない。普天間飛行場の問題も積年の我慢と怒りの先にある』

 「度重なる墜落事故や性犯罪で流された血涙」「積年の我慢と怒りの先にある」。激しく感情に訴えるという点では見事な、煽動文の模範のような文章なのですが、複雑な外交・防衛の問題が議論されているとき、50年前の事故まで出して沖縄の犠牲を感情に訴えるような新聞記事は果たして適切でしょうか。沖縄の犠牲を軽視するつもりはありませんが、犠牲をあまりに強調すれば、冷静さを奪い、最終的に判断を誤るという懸念があります。

 外交・防衛は重要かつ難しい問題で、周辺諸国との将来の関係まで見通すことが必要です。関係諸国の将来にわたる政治的安定性や方向性の変化、軍事力の変化などの予測が判断の要素になるでしょう。多くの要素のそれぞれにウエイトつけをする必要もあります。詳しいことはわかりませんが、一時の感情によって素人が判断していいような簡単なものでないことだけは確かだと思います。

 感情に訴えることにより政策への影響を意図することは、この新聞では珍しいことではありませんが、複雑な問題に感情的なバイアスを与えることによって生じる危険をきちんと予測しているのでしょうか。個人的な署名記事ならまだしも、公器を自称する新聞の一面に掲載されるのは疑問です。コラムといっても署名はなく、朝日新聞の意見として受けとられる可能性が高いと思われます。

 この記事は基地の県外・国外移設を主張する人々を勇気付けることになります。その延長線上には米国との緊張状態が生じることも考えられます。まあそうなれば朝日は中国に感謝されるでしょうが。

 「反日」というレッテルを何枚も貼られている朝日新聞がどんな意図を持っているかは知りませんが、政治に影響が及ぶ煽動記事は、中立を看板に掲げた公器としてふさわしいものとは思えません。逆に冷静な議論を呼びかけることが公器の役割です。このような泥臭い姿勢は洗練されたジャーナリズムとは言えません。

 一昨日(11/28)の朝日夕刊の記事「昭和史再訪」には第一次石油危機について書かれています。トイレットペーパーの買付け騒ぎによって店頭から商品が消えつつあるとき、朝日は「2年分を買いためた主婦を大きな写真入で掲載した」と恥じることなく紹介しています。

 どのような色付で書いたものかわかりませんが、普通に書けば騒ぎを促進する方に作用するのは明らかです。まあ報道の結果に責任を持たない姿勢はブレていませんけれど。

 天声人語といえば元執筆者・栗田亘氏が「新聞社の方針」に基づく記事の作り方について興味深い「告白」をされています。(参考拙記事 「街の声」の欺瞞)

マスコミが幸福感を蝕む

2009-11-27 09:19:09 | Weblog
 温暖な気候と四季の変化に恵まれた自然条件、犯罪の少ない安全な社会、世界の中では高水準の所得や医療体制、トップレベルの平均寿命、これらは日本の特色と言えるでしょう。国連開発計画(UNDP)が発表した国民の豊かさを示す指標では、09年日本は8位から10位になったものの、まだまだ上位にランクされています。

 イザヤ・ベンダサンは「日本人は水と安全はタダだと思っている」と言いましたが、これは世界における日本の恵まれた状況を表しています。灼熱や酷寒の国、生命が危険にさらされている国、世界には厳しい条件の国がいっぱいあります。

 ところがOECDのFactbook2009によると、日本人の主観的幸福度は34カ国中、下から9番目という低さです。ヨーロッパ諸国が上位を占めるのはわかりますが、日本はロシア、韓国、ブラジルにも及びません。また別の調査もあります。

 「33カ国の人に、自分の国の評判はいいと思うか、と自己採点してもらった。すると困った日本。最下位である。ロシアも中国も南アもみんな上だ」。

 これは10月9日の毎日新聞「発信箱」の米レピュテーション・インスティテュート社の調査を紹介した福本容子氏の記事です。記事中の「自分の国の評判はいいと思うか」というのは他国から見た評判と誤解しそうな表現ですが、自己採点とあるので、日本人は日本国をもっとも低く評価しているという意味だと思われます。

 これらの調査結果は、日本は主観的幸福度も、国に対する評価もたいへん低いということを示しています。この両者は密接に関係していると考えられます。

 国民の豊かさを示す客観的な豊かさの指標と主観的な幸福度・国に対する評価になぜこんなに大差があるのか、実に不思議です。主観的な幸福度は言語の差もあって、所得統計などに比べると客観性に劣りますが、それでもこの大差は注目に値します。

 日本の経済が低迷する一方、貧困率が高くなり、閉塞感が社会を覆っている。腹黒い官僚や大企業が甘い汁を吸い、正直な一般国民は割りを食わされている。こんなイメージが広く浸透しているのではないでしょうか。

 多分、十数年前の国による国民生活調査だったと思いますが、国民の幸福感は景気の悪いときに上昇し、逆に景気の良いときに下がるという結果が出ていました。これは景気の悪いときには暗い話が多く報道されるために、自分の境遇が比較的恵まれたものに感じられることから説明できると思います。他人の不幸は蜜の味というわけです。景気の良いときは逆のことが起ると考えられます。

 幸福感は絶対的な生活水準によって決まる部分もありますが、相対的に決まる部分が大きいと思われます。自分自身の過去との比較、周囲の人間との比較、他国との比較によって規定されるわけです。それに加え、我々がどんな国、どんな社会に住んでいるかという認識も大きい要素だと思われます。

 我々が社会の状況を直接認識している部分は僅かで、大部分はマスコミ報道を通じた認識です。つまり我々が認識しているものの大部分はマスコミが制作したイメージです。例えば治安の問題では、犯罪が大きく減少しているにもかかわらず、そのような報道はほとんどされません(関連拙記事)。

 教育や福祉の問題では、常に引き合いに出されるのはフィンランドやスウェーデンといった最上位の国々であり、日本の「惨めな」状況が語られます。不幸の多くは国の施策の問題とされますが、そこではこれらの国の国民負担率が70%前後であることはあまり触れられません。

 食品偽装が問題となったとき、不安を煽る過熱報道が続き「いったい何を食べたらよいのでしょうか」といった食への不安が国全体を覆いました。ところが実際のリスクは交通事故などに比べると遥かに小さいものであり、海外では日本の食品は高価でも買われているように高い安全性が認められています。

 政府や企業に対する非難を繰り返し聞かされる読者は政治や社会に対する信頼性を徐々に失います。それは国に対する低評価の要因となることでしょう。

 すべてとは言いませんが、客観的な条件に比べ幸福感が異常に低い大きな理由はマスコミの姿勢にあると考えられます。自民党は選挙で大敗を喫しましたが、敗因のひとつはマスコミが長年ばら撒いてきた不満の種がついに結実した結果であると考えることができます。

 先に紹介した毎日新聞の記事には「(日本が最下位なのは)日本の新聞が悪い事ばっかり書いてるせいか。(中略) 悪い悪い病に益なし。復元の自信も勇気もまひさせる。もういいとこ目覚めましょ」と「自己批判」しています。でも福本氏のような人はごく少数で、大勢は「悪い悪い」と報道することが使命と心得ているようです。

 あたりまえのことですが、幸福感を高めることは最大の目標のひとつと言ってもよいでしょう。経済の豊かさが一定水準あるとき、幸福感の重要度は言うまでもないと思います。「悪い悪い」と言い続け、幸福感をひたすら下げる仕事は、すなわち国民を不幸に陥れる仕事であり、まことに罪深いことと言わねばなりません。

 マスコミは幸福度が低いことをまともに取り上げることすらしませんが、自らの報道のひとつの結果として、真面目に受け止めるべきでしょう。

 是は是として褒めることも必要です。非を指弾するばかりでは「坂の上の雲」はどこにも見えず、暗い日本の未来が見えるばかりです。

仕分け人の態度と監獄実験

2009-11-23 09:51:28 | Weblog
 相手の言葉を平気でさえぎる、質問に対する簡単な答え以外の発言を許さない。事業仕分けのテレビ映像には、容疑者に対する訊問と見紛うような光景が見られます。このところの官僚バッシングを素直に信じ、官僚を悪と考える人たちにとって、仕分け人はたいへん頼もしく映ることでしょう。民主党の支持率が落ちないところを見ると素直な人が多いのかもしれません。

 一方で専門知識があるとは思えない人が極めて短時間に判断をするのを人民裁判にたとえたり、人気取りのための政治ショーと見る向きもあります。まあこちらの方があたっているように感じます。

 まあそれはともかくとして、私には仕分け人達の傲慢とも思える攻撃的な態度が印象に残りました。訊問された側の人たちはかなりのストレスをため込んだことでしょう。ところで、仕分け人となった人たちは元々あのような「非紳士的」な方々ではなかったと思います。なぜあのように変身したのか、手がかりになるのがスタンフォード監獄実験と呼ばれる心理学の実験です。

 1971年、スタンフォード大学で行われたもので、一般募集で集められた21人を看守役と受刑者役にわけ、2週間の予定で模擬刑務所内でそれぞれの役を演じることになりました。ところが看守役が凶暴化し、危険な状態になったため、実験は6日目で中止せざるを得ませんでした。演じる筈が実際の刑務所のような状況に陥り、看守役は囚人役を虐待し、禁止されている暴力まで振るって、囚人役は精神的にも危険な状況にまで追い詰められたとされています。

 実験の結果として、強い権力を与えられた人間と力を持たない人間が、狭い空間で常に一緒にいると、次第に理性の歯止めが利かなくなり、暴走してしまうことが示されました(Wikipedia)。またこの実験からは、演じる人間がその役にふさわしい人間に変化することが読み取れます。役へのはまり具合には個人差があったようで、これは本来の人格が影響していたのでしょう。役に適した人はより過激に演じたものと思われます。

 とすると仕分け人たちの攻撃的な態度は主として「役」を演じたことによって出来上がったものかもしれません(むろん元々の人格の影響は少なくないでしょう)。悪しき官僚を成敗するというシナリオを誰が用意したのかは知りませんが。

 一方、こちら裁判員制度の話です。裁判員のなかには、被告を諭した、あるいは被告を叱った、などという言動が見られるように、ここには被告に対する裁判員の優越意識が感じられます。上からの目線といってもよいでしょう。

 裁判員は一般の人ですが、裁判が開かれる数日間だけは被告の運命を左右する権力をもっています。判事の「役」が優越意識をもたらしたと考えてもよと思います。

 裁判を経験した裁判員に対するアンケートでは「良い経験と感じた」が97.5%と圧倒的多数を占めるそうです。むろん裁判員制度を壊さないための裁判所の配慮も影響していると思いますが、肯定的な評価の裏には、演じた「役」が不愉快なものでなかったことがあるように感じます。

 上のスタンフォード大学の実験では、囚人役が報酬を返上してでも中止を望んだのに対し、看守役は続行を求めたそうです。僅かな期間であってもやはり権力は蜜の味なのでしょうか。

*ドイツ映画「es(エス)」はこの実験を元に作られました。

砂上の楼閣

2009-11-20 10:36:40 | Weblog
砂上の楼閣

 先日、京都の知恩寺で恒例の古本祭りが開催されました。広い境内には多くのテントが設置され、幅広い年齢層の客で賑っていました。興味を惹かれたのは古ぼけた仏教関係書が置かれた一角です。分厚い本が多く、数千点はあろうかと思われるその量の多さに驚きました。

 むろん、ここに展示されている仏教関係書は一部であり、他にも多数ある筈です。多くはこの100年くらいに書かれたものでしょうが、著作のために使われたエネルギーはまことに膨大なものです。それを経済的に支えたものは多くの信者であったことでしょう。私のような門外漢にとって、それは同時に膨大な無駄の集積と思われます。

 いかに精緻な論理で構築されたものであっても、それが妄想の上に築かれたのであれば砂上の楼閣に過ぎません。妄想を持たない者、異なる妄想を持つ者にとってはなんの意味もありません。一般に仏教書が無心論者やキリスト教徒にとって意味を持つことがないように。つまり教義はその宗教内でだけ意味があるローカルなものにならざるを得ません。

 中世のキリスト教神学者トマス・アクィナスは神学大全を著し、キリスト教世界に大きな影響を与えた人物とされていますが、彼は死ぬ前年、自分が生涯、命を懸けて書いたものはすべて藁くずにすぎない、と述べたと言われています。

 世界には数多くの宗教があり、さらに多くの宗派があります。それぞれが正統を主張している姿は外部の目からは滑稽なものに映ります。正統がいくつも存在することは論理矛盾であり、ひとつだけ正統があるとすれば他はすべて嘘を言っていることになります。

 なぜこのようなものに夥しい努力が払われてきたか、というところに私は興味を惹かれます。仏教といっても多くの宗派があり、それぞれに教義があって、さらにそれらに対して複数の解釈がなされる、といった具合に対象が分散してきたことがひとつの理由でしょう。

 宗派が多くあるということは中核にあるものが曖昧で、いろんな解釈が可能ということを示しています。さらに言葉の定義の不完全性が考え方の違いを生むこともあったかもしれません。結局、数多くのローカルな袋小路が作られ、空しい努力が続けられたのでしょう。科学が高い普遍性を持ち、有効に機能していることと対照的です。

 出発点を十分吟味せず、論理の展開にばかり心を奪われるという傾向は宗教に限りません。どうやら我々にはそのような性質が備わっているようです。世に不毛な論争が絶えないのはそんなところにもあるのかもしれません。

これは蓮実重彦元東大総長の入学式式辞(1999)とも通じるように思います。
「そうした混乱のほとんどは、ごく単純な二項対立をとりあえず想定し、それが対立概念として成立するか否かの検証を放棄し、その一方に優位を認めずにはおかない性急な姿勢がもたらすものです」

 難解なものは深遠で価値あるものだ、とわれわれは考える傾向があります。わざと難しく書かれた文章、聞いてもさっぱりわからないお経など、その傾向につけ込んだものと言えるでしょう。また空疎な内容を隠すために難解にしているということもあります。難解なものには空っぽなものが少なくないと疑ってみることも必要でしょう。

 難解なものを理解していると人に思わせることは知的な装飾品を身につけることでもあります。難解な数学用語を多用した理解困難な文章が特徴であるフランス現代思想、ポストモダニズムは知的な装飾品といった趣があります(リチャード・ドーキンスは高級なフランス風エセ学問と呼びました)。その「装飾性」が普及に一役買っていることは間違いないと思います。

 ふつう物は高いほど売れにくくなりますが、宝飾品などは高いほど売れる場合があります。これは顕示的消費、ヴェブレン効果などと言われていますが、難解なものが普及する現象と少し似ています。

 ニューヨーク大学物理学科教授のアラン・ソーカルがフランス現代思想の欺瞞性を暴露した「ソーカル事件」はたいへん興味深いものです。
(参考) Wikipedia ソーカル事件
    アラン・ソーカル、ジャン・ブリクモン著 『「知」の欺瞞』

 このように砂上の楼閣が築かれる理由はいろいろあり、それに向けた努力はなかなか絶えそうにありません。

新聞の科学リテラシー

2009-11-16 11:22:41 | Weblog
 電気自動車は環境負荷が小さいということで、脚光を浴び、新聞にもその解説記事は数多く見られます。11月2日の日経には「転換点の自動車産業」という編集委員によって書かれた記事が載りました。そこにガソリンとリチウムイオン電池のエネルギー密度を比較する記述があります。

「ガソリン1リットルが持つエネルギー量は電力換算で9300ワット時。これに対し、電気自動車に搭載されるリチウムイオン電池は同体積で200ワット時しかないエネルギー密度の差は航続距離などクルマの性能を規定する」→(エネルギー密度の比は46.5倍と計算されます)

 ガソリンエンジンと電池のエネルギー効率を無視しているので、この説明は誤りと言ってよいでしょう。ガソリンを燃やしてできるエネルギーは9300ワット時で正しいのですが、ガソリンエンジンは20%程度の効率しかなく、残りは熱となって無駄になります。それに対し、電池でモーターを駆動する場合は90%以上の効率が期待できます。

 従って両者の比較は9300と200ではなく、それぞれに効率をかけた1860と180とで行わなければなりません。実用的なエネルギー密度の比は約10.3倍となり、46.5倍とは大きな違いが生じます。

 私はここで日経新聞や記事を書いた編集委員(=優秀な人?)の揚げ足を取りたいわけではありません。この程度の科学の基礎知識のなさはどこの新聞社でもほぼ共通しているからです(私の印象では日経は他紙よりマシです)。これは新聞の理解力を象徴する事例として挙げただけです。

 理科の時間が約半分に減らされた「ゆとり教育」世代が社会に多くを占めるとき、この懸念はさらに強くなると思います。NHKのクロ現では、ゆとり教育を受け理科を十分理解できなかった教員が生徒にうまく理科を教えられないという問題を扱っていました。科学的理解力の低い人間の再生産が起こっているわけです。

 理科を軽視したゆとり教育を主導したのはきっと科学的理解力の低い連中であったのでしょう。またゆとり教育に対して有効な批判をし得なかったメディアにも同じことが言えると思います。教育という極めて重要なものが無知によって曲げられることはたいへん残念なことです。それにしてもこの時代に、理科の時間を半減するという無茶なことがどうして生まれたのか非常に不思議です。

 東京女子医大事件では「物理学の初歩もわきまえてない」と検察が強く批判されましたが、検察の低学力が重大な結果を招いた例です。

 50年前なら政治やマスコミは中学生レベルの科学的理解力でも十分であったでしょうが、現在はエネルギー、環境、教育、産業など科学的な理解力が必要な分野は数多く、支配的・指導的な部分を文系の人間がほぼ独占する旧態依然の体制では十分な対応ができるか疑問です。

関連記事:電動アシスト自転車の補助動力への誤解

(09/11/17 お詫びと訂正) 訂正前の記事ではエネルギーの単位を「ワット」とすべきであるとしたのですが、それは私の間違いで、「ワット時」が正しい単位です。

「申告漏れ」という軽さ

2009-11-12 09:04:20 | Weblog
 「申告漏れ」という言葉はうっかりして漏らしたという響きがあり、意図的・積極的に税を逃れるという意味は感じられません。軽い響きの言葉に呼応するように、大勢の方々が「漏らして」いらっしゃるようです。

 今年6月までの1年間に税務調査を受けた法人の申告漏れ総額は1兆3255億円。業種別で不正発見割合が多かったのは7年連続1位のバー・クラブ(56.1%)、2位パチンコ(46.4%)、3位は廃棄物処理(37.0%)の順です。大阪国税局では12年連続でパチンコ業が1位を守っているそうです。はたしてこれらは「うっかり漏れ」なのでしょうか。

 かつては金融業も上位の常連であったのですが、グレーゾーン金利が否定されてから元気がなさそうです。申告漏れ法人とは別ですが、代わって目立ったのが一部の弁護士・司法書士です。調査対象804人の内、697人(86.7%)に申告漏れがあったとされています。不正発見割合は上記の上位3業種に比べても全く遜色ない「成績」です。

 その背景には消費者金融への過払い金返還請求がおいしいビジネスとなった事情があります。債務者への返還・取消し額は大手4社だけで5200億円(07年度)といいますからたいした金額です。金融屋が取っていた金の一部が弁護士と司法書士のポケットに移ったわけですが、元々この金は借りた人達から集めたものです。

 調査対象を選ぶ基準が同じでないかもしれませんが、法曹の一角がこのように最上位を占めることにはいささかの「感慨」を覚えます。調査対象だけで言えば「漏れまくり」状態です。「法」を商売のタネにしている方々ですが、税法には少し弱いようです。

 私が子供の頃、「弁護士って、どんな仕事をするの」と父に尋ねたことがあります。父は「弁護士とは曲がったものを真っ直ぐに見せる仕事をする人たちだ」と答えました。

 ということもあって、弁護士に対し高いモラルを期待しているわけではありませんが、この「成績」は想像以上です。これでは業界のイメージが損なわれ、真面目に仕事をしている人達がやりにくくなるのではないかと、他人事ながら心配になります。

 今をときめく脳科学者の茂木健一郎氏は約4億円の無申告が発覚しました。こちらは申告漏れではなく、もともと茂木氏の脳から「納税」という機能が漏れていたようです。

 深夜の公園で裸になった草薙剛氏は逮捕されただけでなく、社会的制裁を受けました。その片棒を担いだのはマスコミの大報道です。それに比べると茂木氏の件の報道は遥かに小さく、社会的制裁も僅かです。さて、どちらが悪質だと思われますか。

 他人の不正行為には苛酷なまでの厳しさを見せるマスコミですが、申告漏れ、つまり所得隠しに関しては何故か不思議なほど寛大であります。この疑問を解く鍵は以下の事実に・・・。

  朝日新聞09年2月 所得隠し約5億1800万円
  毎日新聞08年5月 所得隠し約4億円
  読売新聞07年4月 所得隠し約4億7900万円
   ・・・・・・
   ・・・・・・
    (以下略)

 「罪なきものは石もてこの女を打て」は聖書の一節ですが、さすがのマスコミも砂粒を投げるのが精一杯、というところでしょうか。