日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

村上春樹のノーベル文学賞受賞は永久にないと思う件

2012-10-12 | その他あれこれ
今年のノーベル文学賞が発表され、中国の莫言氏が中国人として初めて受賞しました。下馬評で最有力候補と言われていた村上春樹氏の受賞は今年も叶わず、早くも「来年こそ受賞」に期待する声が聞かれています。

以下はあくまで個人的な感覚ですから、村上春樹ファンの皆さまは気を悪くなさらないで欲しいのですが、どうも私にはいくら最有力候補と言われようとも村上春樹氏がノーベル文学賞というイメージが全然湧いてこないのです。そもそも村上氏の著作が文学?もとい、文学って何でしょう。音楽は私を含めどんなド素人が作曲しても音楽ですが、文学はそうではありません。ある一定の基準をクリアしたもののみが文学の評価を受け、文学としてこの世に存在するのではないでしょうか。だとすれば、より文学らしい作品がノーベル賞を受賞するのではないかと。もちろん、その一定の基準は個人の感覚に依るところも大きく、ノーベル賞選考委員の方々の感性にかかっているのかもしれませんが。

日本人として初めてノーベル文学賞を受賞した川端康成や、川端の受賞はこの人の受賞辞退宣言のお陰と言われた本来の初受賞最有力候補者三島由紀夫の作品は、確かに文学と言われるにふさわしい何かがあったと思いませんか。彼らの作品群を、川端文学、三島文学という言葉で語られることも、ごく自然におこなわれることであり何の違和感も感じないところです。

日本人として二人目のノーベル文学賞受賞作家である大江健三郎はどうか。社会派であるか否かは別としても、ノーベル賞受賞の理由のひとつにもあげられたその独自の散文的な表現方法はやはり文学と言われるにふさわしい匂いがそこにあるようには思われませんでしょうか。いささか個人的な感覚ではありますが、大江文学と言う言葉で表現してみても特に違和感ははなくさらりと受け止められる印象に感じられるところです。

村上氏はどうか。「ノルウェーの森」「風の歌を聞け」「1Q84」等々、文学の定義は不明なままあくまで感覚的な物言いでありながら、氏の代表作にいわゆる文学作品的な匂いに満ち溢れているかと言えばノーかなと。村上文学という言葉も、どこか耳馴染みが悪くピンとこないのが正直なところでもあるわけです。さらに、村上春樹ファンからの叱責を恐れずに言ってしまうなら、氏はどうしても文学者とは程遠いところに位置し流行作家の域を脱していないという気がするのです。

今回のオッズメーカーによる村上氏の本命予想も、その作品に込められた文学的な色合いを取り上げてのものと言うよりは、受賞の大きな要件とされる世界各国語への翻訳件数の多さによるものと言われています。一方、受賞の栄冠を勝ち取った莫言氏はと言えば、むしろその現実と幻想の入り混じった独自の作風が高い評価に値するとの見地から、対抗馬と目されていたと。結果はやはり、より「文学賞」にふさわしい作品が選ばれたのではないかと思えるわけです。

こうやって考えてくると、毎年毎年候補者に挙げられながら、落選を続けている氏の作品に対する評価は、この先もそんなに大きく変わることがあるのだろうかという疑問が頭をもたげてきませんか。すなわち、村上春樹氏は我々日本国民の期待とは裏腹に未来永劫ノーベル文学賞を受賞することはないのではないかと。ノーベル著作賞だったら受賞できたかもしれないのに文学賞は無理かなとか。やはり私には来年以降も、村上春樹氏がノーベル文学賞受賞というイメージが全然湧いてこないのです。