日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

〈70年代の100枚〉№95~「(プログレ+ポップ)×ロック=STYX」

2009-11-29 | 洋楽
70年代から80年代の架け橋的存在であるのがスティックス。一介のアメリカン・ロック・バンドからアメリカン・プログレッシブ・ロック的展開を経て、80年代初頭の産業ロック的大ブレイクに至る変遷は、まさしく70年代から80年代へのアメリカン・ロックのひとつの系譜を象徴しているかのようであります。

№95   「コーナーストーン/スティックス」

スティックスの名が初めて一般に知れ渡ったのは、75年にセカンドアルバム収録の「レイディ」が全米で6位を記録したタイミングでした。この時新進気鋭のアメリカン・ロックバンドとして注目を集めながら、彼らは聞き手の興味とは裏腹にマニアックなコンセプト・アルバムを中心とした創作活動を展開。カンサスなどとともに、アメリカン・プログレッシブロック・バンドとして一部での根強い人気を得ますが、商業的な大成功は逃してしまいます。そんな中、76年にギターのトミー・ショウが加入し、バンドは大きく方向転換をします。オリジナルメンバーのデニス・デ・ヤング(Key)の大仰な作風に、トミーのポップ感覚あふれるロック・スピリットが加味され、バンドはブレイク向けて走り出す訳です。

77年のデニスの大仰さとトミーのロック・スピリットがいい形で結実した「カム・セルアウェイ」(全米8位)の大ヒットにより、スティックスの快進撃はスタートします。「カム・セルアウェイ」を収録したアルバム「グランド・イリュージョン」(77年6位)、続く「ピーシーズ・オブ・エイト」(78年6位)が連続ヒット。シングルも「ピーシーズ…」からはトミー色の濃い「ブルー・カラー・マン」「レネゲイド」がリリースされ、それまでのマニアックなバンドのイメージを払しょく。このブレイク・ポイントでリリースされたアルバムが、79年の本作「コーナーストーン」なのです。

本作ではアルバム・ジャケットこそ、どこかコンセプチュアルな香りがするデザインと特殊な作りでしたが、中身は全9曲過去にないほどポップ感覚あふれる佳曲揃いで、どの1曲がシングル・カットされてもおかしくないほどの出来栄えに仕上がっています。特にA1「ライツ」B1「虚飾の時」はデニスとトミーの共作であり、両者の個性が微妙に入り混じった、スティックスの新たな展開を示唆するにふさわしいナンバーとなっています。さらに特筆すべきは、アルバムに収められたデニス作の2曲の珠玉の正統派バラードです。A3「ベイブ」B2「ファースト・タイム」がそれですが、「ベイブ」はアルバムに先駆けてシングル・カットされ、バンド初でその後も含め唯一の全米№1ヒットとなります。一方の「ファースト・タイム」も「ベイブ」に負けず劣らずの佳曲で、トミーはこの曲のシングル・カットを切望していたそうですが、レコード会社の方針で実現せず、知る人ぞ知る彼らの隠れた名曲になっています。2曲ともにデニスの曲作りの才能と、トミーのバンド・アレンジメントが融合してこそなし得たまさに頂点を極めた素晴らしい仕事であったと思わせられます。

アルバムは過去最高位である2位を記録、遂に大ブレイクを果たしたのでした。その後81年リリースの「パラダイス・シアター」では、「コーナーストーン」で確立したポップ路線を、従来のコンセプチュアル路線にかぶせる形で昇華させ全米№1を獲得しますが、やや華美に流れ行き過ぎた傾向も出始めます。そんな彼らは、次第に「産業ロック」のくくりで語られることも多くなり、83年の「ミスター・ロボット」では「♪ドモ・アリガト・ミスター・ロボット・ドモ・ドモ…」と日本語でサビを歌うなど、遂に堕落した“産業化”の流れにどっぷりと浸かってしまうのです。こうして“80年代的金満バンド化”したスティックスは、デニスとトミーの覇権争い等バンド内の抗争を産み、バンドは崩壊に向かってしまいます。

その後90年代に再結成されたものの、再びデニス、トミーの軋轢が生じ、現在ではトミーを中心として“片肺飛行”を続けているという状況のようです。やはり、中心メンバー2人の調和と融合があってこその70年代的魅力「(プログレ+ポップ)×ロック=STYX」のスティックスになりうるのであり、今のバンドには残念ながら魅力は感じられないのです。