日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

〈70年代の100枚〉№79~元祖“美形シンガー”の出世作

2009-08-16 | 洋楽
今回はどう転んでも名盤の類に入るアルバムではありません。ただ70年代の洋楽を語る時に外せない女性アーティストの代表作であることだけは確かではあるのですが…。彼女、今では洋楽ファン以外でも、多くの人がその名を知る大物です。この作品は、そんな彼女が時代を代表する世界的スターへの足がかりを作った記念碑的アルバムなのです。

№79        「そよ風の誘惑/オリビア・ニュートン=ジョン」

オリビアはイギリス生まれオーストラリア育ちで、71年祖国イギリスに渡りディランの「イフ・ノット・フォー・ユー」でデビュー。この曲がアメリカでスマッシュ・ヒットしたことからカントリー路線での売り出しを余儀なくされ、74年にはカントリー一直線の「レット・ミー・ビー・ゼア(全米6位)」「イフ・ユー・ラブ・ミー(同5位)」の連続ヒットで、“カントリー界の美形ニューフェイス”として俄然注目を集めます。連続ヒットに気を良くしたレコード会社は、アルバム「イフ・ユー・ラブ・ミー」から実験的にバラード・シングル「愛の告白」をシングル・カット。これが意外にも全米№1に輝くことになり、活動の拠点をイギリスからアメリカへ移すと同時に“カントリー娘”からの路線変更をおこなうという一大プロジェクトが敢行されました。その結果リリースされた“脱カントリー”の第一弾が、75年のこのアルバム「そよ風の誘惑」だったわけです(実はアルバム全体としては適度なカントリー臭を残していて、その後もドリー・パートンの「ジョリーン」のカバーやジョン・デンバーとの共演など、70年代一杯は“カントリー出身”を多少意識した活動が展開されます)。

タイトル・ナンバーA1「そよ風の誘惑」は、従来のカントリー路線の“いなたさ”を全く感じさせない軽めの都会的ポップ・ナンバーに仕上げられています。この曲は、第一弾シングルとしてアルバムと同時リリースされ、チャートをぐんぐん上昇。あっという間に全米№1を獲得しました。さらに日本でも大ヒットを記録。それまで一部の洋楽ファンの間でしか知られていなかった彼女の名前は、ルックスの良さと相まって一般的なレベルにまで広く知られる存在となりました(洋楽音痴の同級生が、このアルバムを買って持っていたのには驚きましたね)。米国ではアルバムから、第2弾B5「プリーズ・ミスター・プリーズ(全米第3位)」B3「フォロー・ミー」がシングルとしてカットされ、アルバムも初の全米№1を記録。オリビアは彼女の第一期黄金時代と言える活躍を展開したのです。

その後、彼女は映画界にも進出。ジョン・トラボルタとの「グリース」や「ザナドゥ」に主演しつつその挿入歌をヒットさせ、女優兼歌手としてショウビズ界の“大物”への道を歩みますが、「グリース」以外の映画はことごとく失敗に終わります。そこで80年代には一転セクシー路線での専業歌手回帰を果たし、「フィジカル」の10週連続№1ヒットなどによって見事に第二期黄金時代を築くとともに、歴史にその名を残す一大アーティストにのぼりつめたのです。彼女の全キャリアを振り返るとき、華やかさでは80年代の大活躍に一歩譲る感があるものの、70年代半ばにこのアルバムを引っ提げてメイン・ストリームに登場したそのインパクトは、かなり鮮烈なものがありました。特にその強力なルックス的魅力と歌唱力を併せ持った女性シンガーの登場は、マドンナやセリーヌ・ディオンらに引き継がれる、80年代以降のミュージック・シーンにおける女性アーティストのプロトタイプのひとつを作り上げたと言っていいと思います。

冒頭にも申し上げたように、このアルバムは作品として決して音楽的に語り継がれるようなものではありません。ただ、ロック・ミュージックとは一線を画しながらも全米を制覇した商業音楽の最高峰であり、カーペンターズやアバと同列に評価される大衆音楽的大物の代表作として、リアルタイムで経験した私たちにとっては忘れることのできない作品であることは間違いありません。そんな観点から、「70年代の100枚」にふさわしいアルバムであると思うのです。