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日本一“熱い街”熊谷の社長日記

組織論の立場から企業の“あるべき”と“やってはいけない”を考える企業アナリスト~大関暁夫の言いっぱなしダイアリー~

金融商品のPB商品化として注目すべき信託・地銀提携

2014-09-05 | ニュース雑感
先週のことだったでしょうか。日経新聞の1面ヘソあたりで報じられた記事に思わず目が行きました。「三井住友信託銀行と横浜銀行が業務提携へ」というものでした。小職の出身企業に関わるネタが珍しく1面ネタになっていると言うことでまずは目を引いたのですが、中身を見て二度ビックリのたいそうなお話だったのです。これはけっこうなニュースになるのではないかと思って見守ったのですが、意外なほどに盛り上がらなかったのでちょっと解説しておきます。
◆日経新聞ニュース
http://www.nikkei.com/article/DGXLASFL27H64_X20C14A8000000/

大手の銀行同志が業務提携すると言うのは確かにそれだけでもニュースバリューがありそうですが、信託銀行と地方銀行が業務面で提携するというのは昔からちょいちょいあることで、そんなに珍しいことではありません。

何がたいそうなのかと言いますと、その提携の中身です。すなわち、投資信託業務で提携し、両行共同で運用会社を設立して、オリジナルの投資信託商品を作ろうという部分です。地方銀行はこれまで、国内外の大手の資産運用会社がつくったファンドを販売して、その販売手数料でビジネスを成り立たせていました。それを自社ブランドのファンドを作って売ろうじゃないのという、金融商品のOEM商品化をもくろんだものなのです。

もっと分かりやすく言いましょう。例えてみれば、ナショナルブランド商品ばかりを仕入れて陳列していたスーパーがPB商品の取り扱いで業界の流れを大きく変えたように、PB商品的投資信託を地銀が取り扱うということにあたります。自社グループだけでは、オリジナル投資信託の開発にノウハウも人材も足りない地方銀行が、大手信託銀行の協力を得ることで、オリジナル商品を開発する。当然、開発コスト、流通コストが圧縮できるので、顧客にとっては購入手数料の引き下げが期待できるわけです。

しかも、今回は横浜銀行との単独提携という形で報道されていますが、その後の情報によればこの記事を読んだ他の地銀からの問合せが殺到しているようで、早くも業務拡大の様相を呈しております。地方銀行同志は基本的にエリア競合がないので、商品の共同開発にはもってこいの環境にあります。この投資信託PB商品化の流れに、多くの地方銀行が相乗りするなら、より一層販売手数料が引き下げ可能になるでしょうから、ますます注目のお話なのです。

肝心の商品内容はどうなのか、という問題がありますが、報道によればバランス型の投資信託という、比較的リスク分散の度合いが高く設計しやすく初心者でも購入しやすい投信が中心になるようです。これはスーパーのPBブランドが、調味料や安定購入が見込める基幹商品からPB化を進めたのと同じ流れであると言っていいと思います。

そんなわけで、報道では意外にその後の扱いが小さいのですが、私は個人向け金融ビジネスにとって結構大きなニュースであると思うのです。投資信託を皮切りに金融商品のPB化が軌道に乗るなら、様々な業界連携によるPB化の流れが大きく動いてくるのではないかということもあります。加えて、金融ノウハウに不足する民営化郵政もこの流れには積極的に乗ってくる可能性も容易に想像できます。PB化による定型型商品の手数料低下が今後どのように金融商品販売の流れを変えていくのか、大いに注目したいところです。

高橋リーダー発言から分かる理研という無法地帯

2014-07-03 | ニュース雑感
理化学研究所でIPS細胞の実用化に向けた臨床研究をおこなっている高橋政代プロジェクトリーダーが、小保方さんをSTAP細胞実証実験に参加させたことに関連して、「理研の倫理観にもう耐えられない」とツイッターを使って理研の対応を批判し話題になっています。

まずは「倫理観」ってなんだろうか、ですね。「倫理」の辞書的な意味は、「人として守り行うべき道。善悪・正邪の判断において普遍的な規準となるもの。道徳。モラル」。「倫理観」はその考え方。一部報道によれば、「小保方さんの処分を先送りし、かつ指摘されている数多くの疑義について説明させないまま検証実験に参加させるなどの対応」がおかしいとおっしゃっているようです。

確かにそうでしょうね。STAP細胞存在の有無の話と、実験データの改ざん、それによる論文取り下げと理研の信用失墜に対する処分の話は別建てで考えるべきものです。高橋リーダーがおっしゃるように、そのことに対する本人の説明とそれを受けた処分の決定をまず何を持っても優先すべきであり、それをせずに小保方さんを実験に立ち会わせるのは、組織管理放棄とも言える行為で組織の権威を著しく損なわせるものであると思います。理研はこの指摘に対して猛省し、すぐにでも対処すべきであると考えます。高橋リーダーのご意見は至極正論。

ただちょっと待って下さいよ。高橋リーダーの意見がいかに正論であろうとも、組織批判の類をそこに所属し生活の糧を得て働いている者が公の伝達手段を使って堂々としていいのか、という問題がそこには別に存在すると思います。研究者の世界はそれぞれが個々で研究の責任を負っているのだからいいのだ、とこの意見に反論される方もあるのかもしれません。百歩譲って、自分の担当外の自社研究そのものに対して科学者として公に批判を加えることはあってもいいのかもしれません。しかし、今回の高橋リーダーの批判は研究そのものに対するものではなく、自身が所属する組織の運営に対して堂々と批判したものであり、組織管理の観点から言えば、その批判がいかに正しいものであったとしても、そのやり方は組織管理上絶対にやってはいけないことであり、厳罰に処されるべきものであると考えます。

そもそも何を申し上げたいのかと言えば、こういう意見が内部から平気で出来てきてしまうような組織管理こそが大問題なのであり、理研はこういうザル管理をしているから改ざんも含めてやりたい放題の無法地帯状態になっているのではないか、と思われるのです。高橋リーダーに関して申し上げるなら、その行動は普通の組織なら絶対に許されません。これは内部告発ではなく、組織運営批判そのものですから。高橋リーダーが、ご自身の発言が自身が所属する組織、理研にとってさらなるマイナスを及ぼすということに気づかれていないとしたら、優秀な科学者であることとは裏腹に実に残念な方であると言わざるを得ないでしょう。

日本惨敗の原因はコーディネーターたる日本サッカー協会にあると思う件

2014-06-27 | ニュース雑感
サッカーワールドカップ日本代表は、1勝もできぬままグループリーグ敗退という大方の予想を大きく裏切る結果となりました。その原因を戦略マネジメント的な観点から分析を試みた原稿を別で掲載しておりますが、もう少し突っ込んでみたいと思います。
◆サッカー日本代表、早過ぎる敗退に学ぶマネジメント論
http://allabout.co.jp/gm/gc/444245/

原稿のポイントは、日本の敗因のひとつは大会前1か月における親善試合のレベルにあるというもの。一応ポイントだけ書いておくと、前回、南アフリカ大会との比較でその違いは一目瞭然なのです。(カッコ内は各国のその時点でのFIFAランキング)

■W杯南ア大会 岡田ジャパン(45)直前3試合対戦相手と成績
10・5・24 0-2負 韓国(47)
10・5・30 1-2負 イングランド(8)
10・6・04 0-2負 コートジボワール(27)

■W杯ブラジル大会 ザックジャパン(46)直前3試合対戦相手と成績
14・05・27 1-0勝 キプロス(143)
14・06・02 3-1勝 コスタリカ(28)
14・06・06 4-3勝 ザンビア(76)

大会前4連敗で散々な前評判にもかかわらず決勝トーナメント進出で大健闘だった前回と、大会前連勝なるも本大会でひとつも勝てなかった今回は好対照です。要は対戦相手のレベルの問題。強いチームと戦っていれば自然とチーム力も向上し、本番でそのもまれた効果が出ると言うもの。それが前回。弱い相手とばかり戦っていると、例え勝利していようとも弱い相手なりの動きで勝つことに馴れてしまうというマイナスに働く。それが今回です。日本チームの初戦コートジボワール戦での緩慢な動きはまさしくこの弊害であったと考えられます。先の原稿では、もう少し詳しく戦略マネジメントの観点で説明しています。

個々の選手が普段いかに海外の高いレベルで戦いスキルを磨いていこうとも、チームプレーの場が低いレベルの相手とばかり戦って何も実になるものもなくむしろ油断に陥るのがオチであるなら、それでは世界に通用するレベルには到底到達しえないのではないかと思われるのです。今大会は予選の段階で、日本はアジア1位、世界最速で代表を決めたという事実が誤った自信を植え付けることになり、それツケが結局最後の最後に回ってきたということなのでしょう。

今大会を見てもアジアのレベルの低さは目を覆いたくなるほどです。イラン、韓国、オーストラリアの3カ国も、すべて1勝もできず日本と同じく最下位でグループリーグ敗退です。4か国合計で0勝9敗3分。勝ち点3では、4か国束になっても決勝トーナメントに行けないレベルですから、本当に情けない。このレベルの低さになぜもっと早く日本サッカー協会は気がつかなかったのか。それこそが最大の問題であり、私は今回の惨敗の責任は選手や監督にあるのではなく、日本代表チームの本大会までのスケジュールをコーディネートする立場の団体、私は詳しくは存じ上げませんがそれが日本サッカー協会であるのなら、彼らにこそ最大の責任はあるのだと思います。

アジアのレベルの低さ、本大会に向けた日本のレベルへの疑問符を投げかけるチャンスは確実にあったのです。それは昨年、日本がワールドカップ出場を早々に決めアジア選手権覇者として臨んだ、コンフェデ杯で強豪相手にひとつも勝てなかったあの段階です。本田選手が「我々は優勝を取りに行く」と公言して、強豪相手にひとつも勝てずに惨敗したあの時です。それを受けて本番までの実践の場をどこに求めるのか、どこの胸を借りるべきなのか、そして直前の対戦相手については前回の教訓を踏まえてどう選択するべきだったのか、協会は代表決定後のスケジュールをマネジメントの立場からあらゆる分析を加えつつ、よくよく考える必要があったのではないかと今さらながらに思うのです。

■コンフェデレーション・カップ2013
2013・06・15 0-3負 ブラジル
2013・06・19 3-4負 イタリア
2013・06・22 1-2負 メキシコ

私はサッカーの専門家ではありませんので、競技の専門的な立場からはご指摘いただく点も多数あろうかと思いますが、私なりに考えるマネジメントの観点から見た今回の敗因は、代表決定後の環境把握とコーディネーターのマネジメントの悪さに尽きると思います。前大会躍進の検証すら十分にできていないが故に、アジアの低いレベルでの「お山の大将」に甘んじたまま、かつ直前にレベルの低い相手(キプロス、ザンビアについては否ワールドカップ代表国)との対戦で勝ちを取りに行くという愚策に出てチームの戦闘水準を下げてしまった。日本チームのコーディネーターが日本サッカー協会であると言っていいのなら、真っ先に反省の弁や辞意を表明すべきはザッケローニ監督ではなく協会の幹部であると思うのです。

4年後に向けて日本サッカーが0からの再スタートを切るのなら、個々の選手や指導者を云々する前に、コーディネーターのマネジメントのあり方を反省し根本的に立て直す必要があると感じています。

孫氏「反骨の哀しみ」が透けて見えるSBロボット事業

2014-06-06 | ニュース雑感
私が子供の頃にはロボットを主役にした未来漫画が流行りました。その代表格が、「鉄腕アトム」と「鉄人28号」。この二つの正義のロボット・ドラマは似て非なるもので、私は幼いながらに「アトムは嫌い」「鉄人が好き」と思ったものです。

昨日ソフトバンクが、人間の感情を認識するという人型ロボット「ペッパー」の発売を発表しました。「ペッパー」は、周囲の状況を把握して行動をする独自のアルゴリズムや音声認識技術による“感情認識機能”を搭載しており、ユーザーの表情や声のトーンを 読み取って人の感情を推定して、感情に応じたさまざまな対応が可能になるといいます。予価198,000円。温かみを全く感じさせないルックスではありましたが、孫代表は、「将来的には愛を理解させたい」と熱く語っておりました。

ロボット事業はこれまでも、ソニーの犬型ロボット「アイボ」やホンダの二足歩行ロボット「アシモ」を代表として、他にもトヨタ自動車やグーグルなど、超有名企業がこぞって取り組んでいる事業分野でもあります。言ってみれば、将来への先行投資的な意味合いの強い事業領域であり、その事業への取り組みが社会貢献性を帯びてもいることから、一流企業の代名詞ともなりうるかのように感じられる分野でもあります。そんな観点から見てみれば、ソフトバンクのロボット事業参入には、孫代表お好みの一流の証を求める“反骨戦略”“成り上がり戦略”が見え隠れするわけです。

それはさておくとして、私が昨日の会見で一番気になったのは、温かみのかけらも感じさせないルックスの自社製ロボットに「将来的には愛を理解させたい」と言い放った孫代表の一言です。この一言から察するに、孫氏が「ペッパー」で夢想する先にあるのは、「鉄腕アトム」なのでしょうか。

「鉄腕アトム」は天馬博士によって開発された、人の心を持つロボットです。確かストーリー的には、交通事故で亡くした我が子の代わりとして開発されたのではなかったかと記憶しています。一方の「鉄人28号」は、その主題歌にあるように「良いも悪いもリモコン次第」という完璧な機械としてのロボットであり、感情や善悪の判断は全く持ち合わせていないものでした。そして幼少期の私の感情は、冒頭で申し上げた通り「アトムは嫌い」「鉄人が好き」だったわけなのです。

年端もいかない私の思いは、ロボットが「感情」を持つことへの拒否反応であったのかと今さらながらに感心します(笑)。そして今もその考えは変わることがありません。端的に言うなら私の思いは、人によって意図的に操作された機械の作られた感情で人の感情を動かして欲しくないということなのかもしれません。なんて夢のない穿った考え方なのだ、と思われる方もいるかもしれません。青臭いことを申し上げるようですが、私は機械は機械であるべきで、人の感情や愛情が純粋に機械で作りだせるもの、言いかえればカネで買えるものでは決してないと思います。さらに言えば、機械に人の思惑を刷り込ませた感情を持たせることは、SF映画の世界ではありませんが、その感情が人によってプログラミングされたものである限り悪意ある意思が入り込むリスクを否定できず、非常に危険なことではないのかとも思うのです。

孫氏の思惑の中に悪意はないとは思います。しかし、私の穿った見方かもしれませんが、氏の貧しさの苦労や差別への反骨が今の氏の地位を作り上げてきたように、今の氏の根底にあるものはその時代に培われた「やさしさ」や「愛情」への渇望感がそうさせているのではないかと思えてならないのです。そして、いかに多額の金銭的資産や、日本を代表する成功実業家の地位や、子供の頃から憧れたプロ野球団をその手にしようとも、どうしても得ることにできない周囲からの「やさしさ」「愛情」渇望に対する空虚感(あるいは、地位が上がれば上がるほどカネ目当てのヤツばかりが周りを取り巻く現状に対する空虚感)が、そうさせているのではないかと。

孫氏がロボットに「愛情を理解させたい」という気持ちは分からなくはないですが、それを現実にやろうとすることは間違っていると思います。福祉にロボットを役立てたいという思いがあるのならそれを否定する気持ちはありません。しかし、ことさらに「愛情を理解するロボット」を強調し、おカネで「愛情」が手に入るかのように喧伝するロボット事業の展開には賛成できないのです。孫氏が稀代の優れたビジネスパーソンであることに異存はありませんが、おカネですべてを手にできるかのような錯覚を感じさせるロボット事業への参入には、「それは違う!」と声を大にして申し上げたい気持ちになった訳なのです。

天馬博士が自ら開発したアトムを手放した理由は、いかに感情を持たせようともやはりロボットはロボット、息子の代わりにはならないと思ったからではなかったでしょうか(すいません、正確なところは覚えていません)。ロボットは機械として人の手助けをするものであり、感情的な部分まで人の代わりを務めさせようとするのは、時代は変われど誤りは誤りであるのだと。アトムよりも鉄人。人にとって必要とされる役に立つロボットは、今もそうあるべきであると私は思っています。

ポール全公演中止に思う、ネット・オークション規制の必要性

2014-05-20 | ニュース雑感
今入ったニュース。ポール・マッカートニーの全来日公演が、本人の体調不良により中止になったそうです。理由がアーティストの健康上の問題では、チケットを購入して公演を楽しみにしていた皆さまにはお気の毒としか言いようがないのですが、さらに泣くに泣けないのはネット・オークションなどでプレミア・チケットを買った人たちでしょう。

買った人がお気の毒か否かは別議論に譲るところですが、大損になることは間違いなし。ちょっと前にヤフオクを覗いていた感じでは、国立競技場のアリーナ前方席17,500円のS席が普通に50,000円以上で取引されていました。仮に落札価格50,000円として、中止の場合の払い戻しは当然定価ですから1枚あたり32,500円の損失となります。ペアで購入していたなら65,000円の損失です。有価証券じゃなから塩漬けしても紙切れになるだけですしね。当事者が気の毒か否かではなくこういうことがまかり通る現実は、ネット・オークションでのプレミア・チケット売買そのものに問題があるような気がして参ります。

現実はこうです。プレミア・チケットを売るダフ屋からチケットを購入するのは違法で、ネット・オークションでプレミア・チケットを買っても違法ではありません。ダフ屋からチケット購入は暴力団への資金供給になるので、暴対法違反になるのでこれは完全アウト。ネット・オークションはどうかと言うと、相手が一般人であるなら買う側が法令違反に問われる心配は一切ありません。しかし、実は売る側には法令違反の懸念が存在しているのです。

どういうことかと言うと、販売枚数や個数に限りのある商品を転売目的で購入することは違法であるという考え方です。法律的には独禁法違反的な考え方が根底を支えているのでしょうが、極端な例をあげれば、チケット配給会社が一旦すべてのチケットを関連の会社に販売してその会社が一定のプレミアを乗せてチケットを販売するなら、定価は有名無実化して善意の第三者であるチケット購入者は不当に高いチケットを買わされることになるので、それはいかんと。

この「販売枚数や個数に限りのある商品を転売目的で購入する行為」は具体的には条例違反で、国立競技場のチケットの場合、東京都の迷惑防止条例がそれにあたるようです。そんなわけで、個人であろうとも転売目的でチケットを購入する行為は高く売ろうが売るまいが、その時点で違法になり御用なわけなのです。実際に、ネット・オークションにおいて明らかな転売目的でのチケット販売と思われる個人や団体は、頻繁に摘発されてもいるそうです。ご存じない方、転売目的で複数のチケットを購入して手が後ろに回らないようご注意ください。

この条例を踏まえて、ネット・オークションのチケット販売は本来何のために利用されるべきなのかと考えてみると、純粋に「自分が見に行くつもりで買ったけれども、所用で行けなくなった」という人向けの救済の場としての利用に限定されるのが本筋ということになるのではないでしょうか。であるなら、定価以上の価格でチケットを買ってもらおうというのは、そもそもおかしい訳でして、「買い手がつけば御の字、定価で買ってもらうなんて奇跡」ぐらいの考えで利用するのが本来のネット・オークションにおける個人チケット売買のあるべき姿勢なのではないでしょうか。結論としては、ネット・オークションでの定価を超える金額でのチケット売買は合理的な理由が存在せず不要。悪弊を考慮すれば禁止すべき、ということになるのです。

当然この措置は、迷惑防止条例違反を起こさせないとうことが名目上の目的にはなりますが、ネット・オークションでの定価を超える金額でのチケット売買の禁止には、利用者にとって付随的にもっと大きなメリットがあると考えます。それはチケット高騰化の波を抑えるという効果です。昨今、外タレを中心とした公演チケットはデフレかつ円高だった時代も含めて高騰の一途をたどっています。例えばイーグルスは04年S席9,800円が11年は12,000円、ポール・マッカートニーは02年のS席チケット代14,000円が17,500円と、軒並み20~25%アップなのです。

チケット高騰の理由は何か。ネット・オークションでのプレミア・チケットの落札額高騰が呼び屋さんのチケット価格設定に影響を与えていることは間違いありません。すなわち、人気アーティストのチケットに関しては、個人の“投資家”が転売目的で人気チケットを購入することにより大量のプレミア・チケットがネット・オークション上に発生することになり、それが最終的には他の人気アーティストのチケット定価設定に影響を及ぼしているのです。この悪循環を断つには、ネット・オークションにおけるの定価を超える金額でのチケット売買の禁止以外にありません。

ネット・オークションにおける定価を超える金額でのチケット売買の禁止は、本来の健全なチケット流通と価格設定を守る上からは、誰も困る人がいないどころかむしろそうあるべき流れであるのです。ネット・オークション管理会社は早急にルール変更をすべきであると、今回のポール・マッカートニーの公演中止騒動から考えさせられた次第です。

メガバンク最高益?東電破綻処理は「今でしょ!」

2014-05-16 | ニュース雑感
1~3月のGDPが年率5.9%増、トヨタは6期ぶりの最高益、3メガバンクもそろって最高益更新、と景気の良い話が連日報じられています。その一方で、先の見えない福島第一原発処理と原発再稼働の可否問題。漫画「美味しんぼ」の一件を見るにつけても、景気回復報道を援軍に原発問題の見通しづけをお座なりにしたまま集団的自衛権問題に躍起になる首相の姿には、疑問符を感じざるを得ません。

私は当ブログで過去に何度も申し上げてきていますが、福島第一原発処理と原発再稼働の可否問題の道筋だては我が国における政治的最優先課題であり、この問題の道筋だてには我が国の長期的なエネルギー政策の策定が何よりも必要であると考えています。そしてそのためにまず何をなすべきかと考えるなら、東京電力の破綻処理によるゼロベース思考化が不可欠なのです。

今敢えてまた申し上げます。政府は一刻も早く東京電力を即刻破綻処理し、長期エネルギー政策の基本をゼロベースから立ち上げ、原発のあり様をどのようにしていくのかをまず明確化するべきであると。原発被災地を巡る様々な問題は、長期エネルギー政策不在の出口が見えない閉そく感に由来しているといっても過言ではないのです。まずは先を見通すための基本となる考え方が存在しなければ、国のどんな言い訳や慰めも空虚なモノに聞こえてしまうのです。

なぜ今このタイミングで東電の破綻処理なのかと言えば、冒頭に記した日本の主要産業の業績回復が数字の上で明確化されてきているからです。特に主要大手企業やメガバンクは、東京電力の大株主あるいは取引先銀行であり、これまで政府との政治的癒着関係に支えられて東電問題の株主責任および貸し手責任を免れてきているのです。言い方を変えれば、政府と大企業、メガバンクとの癒着関係があったが故に、東電は破綻処理を免れ我が国の長期エネルギー政策のゼロベースからの再構築はなされずに、原発問題は既得権の闇の中で放置されて来たのです。

メガバンクが東電の株主責任、貸し手責任を負うことなく過去最高益を計上しているなどと言うのは、電気料金値上げの形で利用者負担を強いられている者の一人として、絶対に許しがたいことであります。その最高益は企業利益としてステークホルダーで山分けするのでなく、東電破綻処理資金として貸金の損金処理に使われるべきではないのかと。私は元金融機関勤務の立場からも、原発問題が何ひとつ解決を見せぬ現状を尻目に貸し手責任を免れたメガバンクが史上最高益を貪っているという事実を、本当にいたたまれない気持ちで受け止めています。

東電の破たん処理は問題なくできます。この問題が取り上げられるたびに多くの有識者の皆さんが言っているように、飛行機を従来通り飛ばしながら再生処理を実現した日航方式で破たん処理をおこなえばよいのです。電気は止まることはありません。一部で懸念される被災者の保護は、破たん処理とセットで保護立法をおこない、破たん再生スキームの中で国が引き受けることで問題なくすすめることができます。何よりメリットは、約4.5兆円ある銀行債務が破綻処理されることで、政府出資の1兆円と差し引きしても3.5兆円は国民負担および利用者負担が軽減されるのです。今こそ金融機関に貸し手責任を全うさせ、景気浮揚による過去最高益を国民のために使うべきではないのでしょうか。円安メリットで利益をかさ上げした東電大株主企業もまた同じです。破綻処理による株主責任全うで、アベノバブル利益は国民に還元すべきなのです。

現在の料金値上げ頼みの利用者負担による東電延命策で、一番の被害を被っているのは中小零細企業です。景気回復の実感が大企業にとどまり、製造を中心とした中小企業に景況回復感が浸透しない大きな理由の一つに電力コストの高止まり問題があるのです。つまり、東電破綻処理による電力の一層の自由化、低価格化は中小企業を元気づける最大の武器にもなるのです。アベノミクスの成長戦略の成功に向けては、我が国経済の根底を支える中小企業の活性化が不可欠です。東電の破綻処理はアベノミクス推進の観点からも、重要なカギを握っているのです。

原発問題、景気問題にからむすべての元凶は東京電力が今の形のままで、経営責任、株主責任、貸し手責任を負わせることなく生きながらえていることにあります。東電は破綻処理により企業文化を根本から変え例えば分割再生することで、今までのような大企業優先ではなく一般利用者にもメリットを供与できる流れが形成できるでしょう。そして新たな電力供給体制のあり様を含めて、長期的な国のエネルギー政策を早期に構築し原発処理の呪縛から国民経済を解き放つべき時に来ているのではないでしょうか。

まずは東電破綻処理。皆さん、原発問題は実はここが1丁目1番地であること、東電問題の責任をとらずにのうのうと利益を貪っている連中が山ほどいることを忘れてはなりません。アベノバブル効果が続いている今の間に、一刻も早い決断に向け世論の盛り上がりに期待します。

理研は広報戦略の立て直しこそ急務であると感じる件

2014-04-02 | ニュース雑感
STAP細胞に関する昨日の記者会見。やはりどうしてもシックリこないのです。前回拙ブログでもお話したように、問題の「幹」はSTAP細胞の有無であり、改ざんや捏造の話はいかにそれが責を負うべきものであっても「枝葉」に過ぎません。「幹」であるSTAP細胞存在の有無がこれから約1年を経なければ分からないという段階での昨日のようなトーンでも会見は、大きな違和感を禁じえないのです。
■STAP細胞騒動は、ヘタクソな会議運営を見る思いである件
http://blog.goo.ne.jp/ozoz0930/e/5345b60bacfb336112926c6f60d33e2c

昨日の会見のトーンは、小保方さん叱責一色といっていいでしょう。前回の会見時に「未熟な研究者」と言い放ったトーンそのままに論文の「改ざん」「捏造」を殊更に糾弾するというものでしたが、私はすべてこれらの扱いを理研は「STAP細胞は存在しない」という立場に立って言っているものであると受け止めました。

もし仮に昨日の段階で「STAP細胞は存在する」という結論があった場合、理研は果たして同じトーンの会見をしたでしょうか。恐らく、いや確実にこのような会見はしなかったハズです。「STAP細胞は存在する」ということが証明されたなら、それ自体が大変な出来事であり、発表過程における写真の扱いに関する問題は仮に責めを負うべきものであるとしてもこんなに大きな存在にはなり得ないからです。

「小保方さんに悪意があったのか否か」ということも昨日の会見では論点にされていましたが、理研側は「悪質性を認定するのは難しい」「我々の立場では答えられない」と言いながら、「改ざん」はともかくとしても理研が使っている「捏造」という言葉は確実に「悪意」を含んだ行為を指し示しています。すなわち、理研は小保方さんの「悪意」を現段階ですでに認定しているのであり、それは「STAP細胞は存在しない」という立場をとればこそ、「悪意」認定を可能たらしめていると言えるのです。

お断りしておきますが、私は小保方さんを擁護しているわけではありません。物事はフェアに判断されるべきであるとの立場から申し上げています。その立場から申し上げて、現状で出されている「枝葉」の議論はどれも「幹」であるべき「STAP細胞の存在」を否定する状況証拠に過ぎず、「STAP細胞存在の有無」が科学的に検証されない限りにおいて、論文が「捏造」であるか否かは本人以外には知る由なしだと思うのです。

理研は論理性を旨とする科学者先生の集まりでありながら、つくづく広報戦略が分かっていない組織であると思います。昨日の段階で「捏造」という言葉を使ってまで小保方さんを糾弾するのであれば、その論拠となるべき「STAP細胞存在の有無」に関して、例え状況証拠に過ぎないものであってもそれらを体系建てて明示し「STAP細胞は存在しないと考える」という立場を明確にした上で、状況証拠が教える論拠の正当性を説明しなくていけません。それがないから、昨日の会見は「小保方さんに全ての罪をなすりつけたトカゲのシッポ切り」という批判を免れ得ず、理研の組織イメージは著しく傷つくことになるのです。

理研の広報に関して言えば、当初のSTAP細胞発表時にも誰もが違和感を感じた、必要以上に強調された割烹着やら実験室のムーミンに対する報道は、単にマスメディアの偏った報道姿勢ばかりに責任があるのではなく、マスコミ発表をよりセンセーショナルなものにしようとする理研サイドの行き過ぎた広報戦略にこそ大きな責任があったと感じています。そして今回の、先を急ぎ論拠を隠したままの責任回避と受け取られかねない会見姿勢。昨日の会見一問一答を見るに、理研は論文のチェック機能向上とともに広報姿勢の立て直しが急務なのではないかと感じた次第です。

消費増税報道で忘れてはならない大切なこと

2014-04-01 | ニュース雑感
本日より消費税が8%に引き上げられました。

昨夜からこの関連のテレビのニュースは、なんとも違和感あるものでした。夜のNHKニュースでは、まずは駆け込み需要報道。スーパーの売り場で家庭用品品薄の状況レポです。それに続いては、レポーターによる居酒屋突撃レポート。「あとわずかで消費税が上がりますが、今の気分はいかがですか?」って妙な質問に、答える方が窮して「いや別に取り立ててないです…。今までどおり飲むと思います」。取材記者氏曰く「飲み屋街への影響は少ないようです」との結び。消費税がらみは以上で終了。いずれにしましても、増税に際しての公共メディアの報道姿勢としては首をかしげたくなるものでした。

消費税が上がるというと、世間はどうしても価格上昇の現象面にばかり目を奪われがちです。もちろん、国民一人ひとりの立場で生活に直結する値上げの話が気になるのはやむを得ないことではありますが、ワイドショーならともかく公共メディアのニュースまでが一緒になって、今回の消費増税の本質的な部分を忘れた報道ばかりに走ってしはいけません。増税の本質をしっかりと見る者に意識させる報道が必要だと思うのです。

では増税の本質とは何でしょう。それはすなわち増税の目的です。今回の消費増税の目的説明につながる記述が、財務省のホームページにあります。

Q なぜ所得税や法人税ではなく、消費税の引上げを行うのでしょうか?
A 今後、少子高齢化により、現役世代が急なスピードで減っていく一方で、高齢者は増えていきます。社会保険料など、現役世代の負担が既に年々高まりつつある中で、社会保障財源のために所得税や法人税の引上げを行えば、一層現役世代に負担が集中することとなります。特定の者に負担が集中せず、高齢者を含めて国民 全体で広く負担する消費税が、高齢化社会における社会保障の財源にふさわしいと考えられます。
(財務省ホームページ https://www.mof.go.jp/faq/seimu/04.htm より)

ここにもあるように、今回の消費増税の直接的な目的は、直間比率の調整であるとか、国家財政の立て直しだとか、ではなく、ズバリ「福祉財源の確保」なのです。そしてこのことは安倍政権が掲げる「社会保障と税の一体改革」のまさに肝部分であり、消費増税による「福祉財源の確保」がはかれないなら、増税はまやかしの国民相手のかっぱらいにすぎなかったいうことになるのです。

となると重要なことは、おカネに色をつけて、消費増税で確保された財源が福祉予算に対してどのような使われ方をするのかについて、国民はしっかりと監視する目と意識を持たなくてはいけないということ。そのためにはメディアは、「消費税が上がった⇒景気への影響はどうだ⇒10%への第二弾上げはどうする」という増税前と変わらぬ論理展開だけでは困るのです。「消費税は上がった⇒福祉財源はこうなった⇒福祉関連収支はどうか」という論理展開で、消費税上げが福祉財源として予定通り活用され、その流れの中で来年秋の第二弾10%上げの正当性を判断する必要があるのです。

つまりこうです。もし消費増税1年後に政府財務省が予定した福祉予算収支が未達であるとするなら、その理由はどこにあるのか。他予算への流用なのか、予想外の低い税収であったのか、それに対して慎重な検証が必要になるでしょう。そういった問題がもし発生するなら、来年10月の第二弾増税は景気動向に関係なく、当初の予定を一旦棚上げしないといけません。さもなくば、今回の増税が目的から考えて無意味な増税となり、この先政府の無策による「福祉財源確保」名目での当初目的達成のための再増税にもつながりかねないからです。

増税における消費動向を中心とした景気注視的視点と福祉財源における財務的視点は、コンサルティング手法的に言うところのいわゆる「虫の目」「鳥の目」というものの見方の話です。私は増税という国民生活にとって大変重要なテーマについて、導入前夜の公共メディアが消費現場レポートという「虫の目」という偏ったものの見方でネタを追いかけていることに非常に不満を感じた次第です。今回のような目的がはっきりした増税スタートのタイミングでは、少なくとも国民の立場からの増税に関する目的達否判断に向けどういう「鳥の目」的な視点が必要であるのか、報道の皮をかぶった民法ワイドショーはさておくとしても、せめて公共放送のNHKぐらいはその視点での報道を盛り込むことを忘れて欲しくなかったのです。

「虫の目」ばかりに流されてしまえば、増税の景気への影響は少ないかったから10%への増税問題なし、と短絡的な結論に導かれかねないリスクを負うことになります。「鳥の目」として、増税の結果として福祉財源はどうなったのか、その点こそが来年秋の第二弾増税に向けた重要な判断材料であることを忘れてはならないのです。

マスメディアには「震災復興屋」を見分ける慎重さが欲しいと思う件

2014-03-11 | ニュース雑感
東日本大震災から今日でちょうど三年。いろいろなメディアでこの三年間を検証する試みがなされていますが、私は私の周辺でこの三年間に起き今も続いている、懸念を感じることに関して書き留めておきます。

東北の地は個人的には学生時代を送った場所でもあり、人並み以上の親近感を持って震災復興を見つめてきたつもりではおります(とりわけ何をしたというわけではありませんが)。ビジネスやそれに派生する場面場面で何かお役に立てることがあればと思い、人間関係を紡いだり、微々たるものでも復興のお手伝いになるならと積極的な支援を申し出たり、機会あるごとに様々な形で前向きな対応はさせていただいてきたつもりではおります。

そんな中で、非常に気になることがあります。それは復興支援の名を借りて自己の利益追求を第一にビジネスを展開するいわゆる「復興屋」のことです。復興事業を本業とする民間事業者の方々がすべて悪であると申し上げてしまうのは暴論でしょうが、私が知る限りにおいてはその中における一定の比率の人たちが「復興」を食い物にして慈善事業ならぬ“偽善事業”で私腹を肥やしていると実感しています。

これはあくまで今回の震災復興を私なりに見てみた感想としての持論ですが、復興民間事業とはそもそも震災によって職を失った方々が、新たな生活の糧を得ようと立ち上げたものを除いては、“偽善事業”と言っていいものがかなり多く存在していると思っています。他地域から被災地に乗り込んでここぞとビジネスを立ち上げた人、被災地域の近隣在住で自身は被災により職を失ったわけでもないのに被災地をネタにしてあたかも自身も被災者であるかの如く振舞って商売をしている人。

さらには、被災地の名産品や被災者が仮設住宅などで制作したグッズに大きな利幅を載せて全国販売したり、或いは全く別の場所でそれらを安価に製造して被災地の名を付して全国民の善意につけ込み大量販売して巨額の利益を得ようとしている人…。私はこの三年間で、そういった詐欺師まがいのビジネスを展開している人たちをたくさん見、彼らが近づいて来てはそれが分かるたびごとに決別してきました。私の知り合いで関西で中堅企業を経営される方は、「阪神淡路大震災後の神戸界隈も全く同じであった」と言っています。

彼は自身の経験の中から、「まともな企業家は、自己の本業の中で震災復興に対して何ができるかを考えるでしょう。ボランティア活動は別として、直接の被災者でもない人間が、復興を本業にして生活の糧を得ようなどということ自体が邪な考え方であると、私も震災後のビジネスの中で出会った多くの輩を見て実感しています。復興事業に対する国の援助金目当ての詐欺師も多い。ところが、そんなこともよく調べずに、邪なビジネスを「美談」として祭り上げるマスコミもあり、それがまた新たな“被害者”生むことになるのです。」と話してくれました。

震災から三年、メディアを通じて民間の復興支援活動の数多くが被災地を支援する「美談」として紹介されていますが、大手メディアが報じたその中で私が具体的に知る濁った「復興屋」のビジネスも取り上げられています。「美談」を報じたがる大手メディアの姿勢を真っ向批判するつもりはありませんが、なぜその人がそのビジネスに手を染めているのかという観点からよくよく考えてみれば、怪しいものは自ずと分かるはずなのです。大手メディアの影響力ははかりしれません。復興支援者の善意を踏みにじる「復興屋」の片棒担ぎにならないよう、大手メディアは細心の注意を払って取材をしてほしいと思う所存です。

森元首相発言からオリンピック・パラリンピックの統合を考えてみた

2014-02-24 | ニュース雑感
ソチで行われていた冬季オリンピックが無事閉幕しました。浅田真央選手がらみの発言でも物議を醸した東京オリンピック・パラリンピック組織委員会会長の森喜朗元首相が、またまた誤解を招くような発言をされたとか。

「もう一遍、またこれ3月に入りますと、パラリンピックがあります。このほうも行けという命令なんです。オリンピックだけ行ってますと、組織委員会の会長は健常者の競技だけ行って、障害者のほうをおろそかにしてるんだと。こういう風に言われるといけませんので。ソチへまた行けと言うんですね。今また、その日程組んでおるんですけど、「ああ、また20何時間以上も時間かけて行くのかな」と思うと、ほんとに暗いですね」

御年76歳ということを考え合わせてあげれば、そのお気持ちまったく分からんでもないのですが、でもその立場の方がこの物言いはいかがなものかと言われるのも致し方のないところではあるでしょう。ただ個人的には、森さんの発言の是非はどうでもよろしくて、私がこの発言を聞いて思ったことは、オリンピックとパラリンピックという2つのものを統一してオリンピックの枠組みの中でできないものだろうか、ということです。私は、以前にも同じようなことを書いたことがあるのですが、森さんが2回ソチにいくのは辛いとおっしゃるので、統一されてひとつになっていればこんな発言もなかったろうに、と再びこの問題を考えさせられた次第です。

私の発想は、パラリンピックをオリンピックの中の「ハンデキャップ部門」として位置づけたらどうかというものです。すなわち、従来の「男子」「女子」という区分けの他に、「ハンデキャップ男子」「ハンデキャップ女子」という部門を設け、4部門で競技を争うというやり方です。ですから一例をあげればスキー大回転などでは、「男子大回転」「女子大回転」「ハンデキャップ男子大回転」「ハンデキャップ女子大回転」という4つの競技が行われることになります。もちろん、開会式、閉会式は一緒。開催期間は長期化することにはなるでしょうが、上手にやりくりすれば開会式、閉会式が合同になる分だけ、コストは削減できるようには思います。

もちろん、コスト削減は二の次です。目的は、パラリンピックにもっとスポットライトを当てる工夫をしたらどうかということ。もちろん今更、パラリンピックの扱いがマイナーで障害者差別であるなどと、申し上げるつもりはありません。ただ、今や障害者の皆さんのスポーツにおける技術水準たるや健常者のそれと見劣りしないほどのものがあるのであり、もはやパラリンピックがスタートした1960年当時のような存在ではなく、健常者と並べても恥ずかしくない水準にある競技の一部門としてもっともっと光の当たるものにして、その栄誉をたたえるべき存在になっているのではないかと思っているのです。

オリンピックとパラリンピックが別の団体によって運営され、その歴史的背景から勘案しても統合が私のような素人が言うほど容易ではないであろうことは想像に難くありません。しかし、2000年のIOCとIPC(国際パラリンピック委員会)との協定により、オリンピック開催都市でオリンピックに続いてパラリンピックを行うこととIPCからのIOC委員を選出することが両者間で約束され、オリンピック開催都市でのパラリンピック開催が正式に義務化された時点で、障害者スポーツのレベルアップに関係なく一層の歩み寄りの動きはストップしてしまったように思うのですが、本当にそれでいいのでしょうか。

きれい事を申し上げるようですが、スポーツの祭典の意義というものは、決して単なる記録争いや順位争いではないはずで、スポーツを通じて出るものの努力をたたえ、調和であったり友好であったりといった何かを学ぶ場としての一層の発展を視野に、運営されていくべきものなのではないかと思うのです。特にオリンピックは「参加することに意義がある」の考え方を精神的な支柱として運営されているのであり、その観点からもパラリンピック代表選手の“参加”は歓迎してしかるべきなのではないかと思うのです。

森さんの発言はそういう意味では、個人的には非常に有意義な一石を投じてくれたのではないかとすら思っています。ならば森さん、ご自身の“失言”挽回策として、2020年東京オリンピック・パラリンピック組織委員会会長として、その統一開催に向けて動かれてみてはいかがでしょう。あと6年あれば、東京大会をこの観点から後世に語り継がれるエポック・メイキングな大会にできるのではないかとも思うのですが。