政治学者で政治思想史研究の第一人者・丸山真男が亡くなったのが1996年。生前からそうであったのだが、没後においても、丸山を論ずる論文は数多く、まさに枚挙にいとまがないほどだ。これは、現代の学者・思想家には見られない稀有の現象だ。
丸山は、「丸山学徒」と呼ぶべき信奉者に取り巻かれ、学界のカリスマとして君臨していた。信奉者は学界にとどまらず、ジャーナリズムや政界にも、少なからぬ「丸山学徒」が存在していた。
一方、そんな丸山をうらやましそうに、また、ねたましく、見ている一団が同時にあったことも事実である。
同僚の政治学者にそのような人が多いのはうなずける。また、「全共闘世代」の学生が、丸山を「東大エリート」の典型として徹底的に叩いたのは記憶に新しい。
さて、最近、二つの丸山論を読んだ。
竹内洋『丸山真男の時代』、2005年、中公新書
苅部直『丸山真男』、2006年、岩波新書
いずれも、同じ政治学者からの丸山論で、丸山の政治状況の分析に舌を巻きながらも、学者としての現実政治との関わり方に違和感を持つというスタンスが共通している。
丸山の学者としてのキャリアは、荻生徂徠などの日本政治思想史研究で始まったが、丸山の名を広めたのは、彼のジャーナリズム論壇での発言だった。その成果が、『現代政治の思想と行動』、1957年、未来社、として発表された。
丸山自身の説明によれば、戦前に軍国主義の跳梁跋扈を止められなかったという知識人しての苦い反省に立って、戦後の政治状況に深くコミットすることを決意した、ということだ。この丸山の意気が、学界・ジャーナリズム・政界を広く動かし、多くの共鳴者を輩出した。
さて、『現代政治の思想と行動』というタイトルに違和感を覚えないだろうか?
「現代」が戦前・戦後の昭和期を指すことは、丸山の問題関心から明らかだ。
だが、「政治の思想と行動」とは一体何を指すのだろうか? 通常は、「政治思想と政治行動」というのではないだろうか?
政治思想は、国家観・国民の政治意識・天皇観などのことであり、政治行動は、有権者の投票行動・政治家の大衆操作・大衆の示威行動・ロビイング活動などのことであるとすれば、省略せずに、「現代の政治思想と政治行動」とすべきであった。「現代政治の思想と行動」は、判ったようで判らない不思議なネーミングであった。
同様の不思議なネーミングが、丸山真男『日本の思想』、1961年、岩波新書、にも現われている。
「日本の思想」とは何だろう? 日本という国家に政治意思があるとでもいうのだろうか? それでは、丸山の忌み嫌う国体護持史観ではないか? おそらく、「日本人の政治についての思惟方式」のことを指しているのだろう。そうであれば、そういうべきだ。ちなみに、哲学者・中村哲には『東洋人の思惟方式』という著作があり、内容を十分推測できるネーミングだ。
丸山の文章はレトリックの巧みなことで知られている。例えば、括弧の使用によってことばを浮き上がらせる手法や傍点を振ることによって力点を明示する効果は目を見張らせるほどだ。
それに引き換え、本のタイトルのネーミングに現れる「漠然たるあいまいさ」は際立つように思う。
さて、元に戻ろう。
丸山真男は戦後政治にコミットしながらも、たえず自分の「本分」は日本政治思想史の研究であるとし、早く現実政治へのコミットメントから「足を洗いたい」と周辺に漏らしていたらしい。その姿勢が丸山一流の「知識人の韜晦」として反発するグループを生み、後に、東大紛争で学生のつるし上げに遭うという屈辱を経験することになる。
それが契機となって、東大教授を退官し、以後は日本政治思想史研究に沈潜する。その成果が、『忠誠と反逆』、1992年、筑摩書房、として発表された。(現在は、ちくま学芸文庫、に収録されている。)
そこでは、日本人の歴史意識に伏在する無意識的意識を探り出すことに精力が注がれている。音楽に造詣の深い丸山は、「歴史意識に伏在する無意識的意識」を「バッソ・オスティナート Basso Ostinato」に例えている。「通奏低音」のことで、主旋律とは独立に、たえず、執拗に、流れ続ける旋律のことで、バロック音楽ではチェンバロが担当することが多い。
表面的な政治現象や政治意識の底に、大衆の、というか、国民の、原始的意識を探し出そうという試みである。丸山は、この大衆の原始的意識を、「原型」とか「古層」とか「執拗低音」とか、時によって様々に表現している。
「原型」は、マックス・ウェーバーの「理念型」を想起するように、一種の「型」を析出する方法の産物である。
「古層」は、考古学から出たことばで、何重にも重なった地層の下の方を指す。
「執拗低音」は「通奏低音」と同じだ。
このように、社会学・考古学・音楽の用語を援用しながら、大衆の原始的意識を析出しようとしたのが丸山の日本政治思想史研究の核心であったが、それを定義する政治思想用語が丸山から提案されることはなかった。この点について、丸山を批判し、丸山のライバルを自認する政治学者にも問うてみたいと思う。「あなたなら、どのような政治状況にあっても、たえず見られる大衆の原始的意識を何と定義しますか?」と。 (2008/3)
丸山は、「丸山学徒」と呼ぶべき信奉者に取り巻かれ、学界のカリスマとして君臨していた。信奉者は学界にとどまらず、ジャーナリズムや政界にも、少なからぬ「丸山学徒」が存在していた。
一方、そんな丸山をうらやましそうに、また、ねたましく、見ている一団が同時にあったことも事実である。
同僚の政治学者にそのような人が多いのはうなずける。また、「全共闘世代」の学生が、丸山を「東大エリート」の典型として徹底的に叩いたのは記憶に新しい。
さて、最近、二つの丸山論を読んだ。
竹内洋『丸山真男の時代』、2005年、中公新書
苅部直『丸山真男』、2006年、岩波新書
いずれも、同じ政治学者からの丸山論で、丸山の政治状況の分析に舌を巻きながらも、学者としての現実政治との関わり方に違和感を持つというスタンスが共通している。
丸山の学者としてのキャリアは、荻生徂徠などの日本政治思想史研究で始まったが、丸山の名を広めたのは、彼のジャーナリズム論壇での発言だった。その成果が、『現代政治の思想と行動』、1957年、未来社、として発表された。
丸山自身の説明によれば、戦前に軍国主義の跳梁跋扈を止められなかったという知識人しての苦い反省に立って、戦後の政治状況に深くコミットすることを決意した、ということだ。この丸山の意気が、学界・ジャーナリズム・政界を広く動かし、多くの共鳴者を輩出した。
さて、『現代政治の思想と行動』というタイトルに違和感を覚えないだろうか?
「現代」が戦前・戦後の昭和期を指すことは、丸山の問題関心から明らかだ。
だが、「政治の思想と行動」とは一体何を指すのだろうか? 通常は、「政治思想と政治行動」というのではないだろうか?
政治思想は、国家観・国民の政治意識・天皇観などのことであり、政治行動は、有権者の投票行動・政治家の大衆操作・大衆の示威行動・ロビイング活動などのことであるとすれば、省略せずに、「現代の政治思想と政治行動」とすべきであった。「現代政治の思想と行動」は、判ったようで判らない不思議なネーミングであった。
同様の不思議なネーミングが、丸山真男『日本の思想』、1961年、岩波新書、にも現われている。
「日本の思想」とは何だろう? 日本という国家に政治意思があるとでもいうのだろうか? それでは、丸山の忌み嫌う国体護持史観ではないか? おそらく、「日本人の政治についての思惟方式」のことを指しているのだろう。そうであれば、そういうべきだ。ちなみに、哲学者・中村哲には『東洋人の思惟方式』という著作があり、内容を十分推測できるネーミングだ。
丸山の文章はレトリックの巧みなことで知られている。例えば、括弧の使用によってことばを浮き上がらせる手法や傍点を振ることによって力点を明示する効果は目を見張らせるほどだ。
それに引き換え、本のタイトルのネーミングに現れる「漠然たるあいまいさ」は際立つように思う。
さて、元に戻ろう。
丸山真男は戦後政治にコミットしながらも、たえず自分の「本分」は日本政治思想史の研究であるとし、早く現実政治へのコミットメントから「足を洗いたい」と周辺に漏らしていたらしい。その姿勢が丸山一流の「知識人の韜晦」として反発するグループを生み、後に、東大紛争で学生のつるし上げに遭うという屈辱を経験することになる。
それが契機となって、東大教授を退官し、以後は日本政治思想史研究に沈潜する。その成果が、『忠誠と反逆』、1992年、筑摩書房、として発表された。(現在は、ちくま学芸文庫、に収録されている。)
そこでは、日本人の歴史意識に伏在する無意識的意識を探り出すことに精力が注がれている。音楽に造詣の深い丸山は、「歴史意識に伏在する無意識的意識」を「バッソ・オスティナート Basso Ostinato」に例えている。「通奏低音」のことで、主旋律とは独立に、たえず、執拗に、流れ続ける旋律のことで、バロック音楽ではチェンバロが担当することが多い。
表面的な政治現象や政治意識の底に、大衆の、というか、国民の、原始的意識を探し出そうという試みである。丸山は、この大衆の原始的意識を、「原型」とか「古層」とか「執拗低音」とか、時によって様々に表現している。
「原型」は、マックス・ウェーバーの「理念型」を想起するように、一種の「型」を析出する方法の産物である。
「古層」は、考古学から出たことばで、何重にも重なった地層の下の方を指す。
「執拗低音」は「通奏低音」と同じだ。
このように、社会学・考古学・音楽の用語を援用しながら、大衆の原始的意識を析出しようとしたのが丸山の日本政治思想史研究の核心であったが、それを定義する政治思想用語が丸山から提案されることはなかった。この点について、丸山を批判し、丸山のライバルを自認する政治学者にも問うてみたいと思う。「あなたなら、どのような政治状況にあっても、たえず見られる大衆の原始的意識を何と定義しますか?」と。 (2008/3)