静聴雨読

歴史文化を読み解く

様々な丸山真男論

2009-03-01 07:35:54 | 歴史文化論の試み
政治学者で政治思想史研究の第一人者・丸山真男が亡くなったのが1996年。生前からそうであったのだが、没後においても、丸山を論ずる論文は数多く、まさに枚挙にいとまがないほどだ。これは、現代の学者・思想家には見られない稀有の現象だ。

丸山は、「丸山学徒」と呼ぶべき信奉者に取り巻かれ、学界のカリスマとして君臨していた。信奉者は学界にとどまらず、ジャーナリズムや政界にも、少なからぬ「丸山学徒」が存在していた。

一方、そんな丸山をうらやましそうに、また、ねたましく、見ている一団が同時にあったことも事実である。
同僚の政治学者にそのような人が多いのはうなずける。また、「全共闘世代」の学生が、丸山を「東大エリート」の典型として徹底的に叩いたのは記憶に新しい。

さて、最近、二つの丸山論を読んだ。

竹内洋『丸山真男の時代』、2005年、中公新書
苅部直『丸山真男』、2006年、岩波新書

いずれも、同じ政治学者からの丸山論で、丸山の政治状況の分析に舌を巻きながらも、学者としての現実政治との関わり方に違和感を持つというスタンスが共通している。

丸山の学者としてのキャリアは、荻生徂徠などの日本政治思想史研究で始まったが、丸山の名を広めたのは、彼のジャーナリズム論壇での発言だった。その成果が、『現代政治の思想と行動』、1957年、未来社、として発表された。

丸山自身の説明によれば、戦前に軍国主義の跳梁跋扈を止められなかったという知識人しての苦い反省に立って、戦後の政治状況に深くコミットすることを決意した、ということだ。この丸山の意気が、学界・ジャーナリズム・政界を広く動かし、多くの共鳴者を輩出した。

さて、『現代政治の思想と行動』というタイトルに違和感を覚えないだろうか?

「現代」が戦前・戦後の昭和期を指すことは、丸山の問題関心から明らかだ。
だが、「政治の思想と行動」とは一体何を指すのだろうか? 通常は、「政治思想と政治行動」というのではないだろうか?

政治思想は、国家観・国民の政治意識・天皇観などのことであり、政治行動は、有権者の投票行動・政治家の大衆操作・大衆の示威行動・ロビイング活動などのことであるとすれば、省略せずに、「現代の政治思想と政治行動」とすべきであった。「現代政治の思想と行動」は、判ったようで判らない不思議なネーミングであった。

同様の不思議なネーミングが、丸山真男『日本の思想』、1961年、岩波新書、にも現われている。
「日本の思想」とは何だろう? 日本という国家に政治意思があるとでもいうのだろうか? それでは、丸山の忌み嫌う国体護持史観ではないか? おそらく、「日本人の政治についての思惟方式」のことを指しているのだろう。そうであれば、そういうべきだ。ちなみに、哲学者・中村哲には『東洋人の思惟方式』という著作があり、内容を十分推測できるネーミングだ。

丸山の文章はレトリックの巧みなことで知られている。例えば、括弧の使用によってことばを浮き上がらせる手法や傍点を振ることによって力点を明示する効果は目を見張らせるほどだ。

それに引き換え、本のタイトルのネーミングに現れる「漠然たるあいまいさ」は際立つように思う。

さて、元に戻ろう。

丸山真男は戦後政治にコミットしながらも、たえず自分の「本分」は日本政治思想史の研究であるとし、早く現実政治へのコミットメントから「足を洗いたい」と周辺に漏らしていたらしい。その姿勢が丸山一流の「知識人の韜晦」として反発するグループを生み、後に、東大紛争で学生のつるし上げに遭うという屈辱を経験することになる。

それが契機となって、東大教授を退官し、以後は日本政治思想史研究に沈潜する。その成果が、『忠誠と反逆』、1992年、筑摩書房、として発表された。(現在は、ちくま学芸文庫、に収録されている。)

そこでは、日本人の歴史意識に伏在する無意識的意識を探り出すことに精力が注がれている。音楽に造詣の深い丸山は、「歴史意識に伏在する無意識的意識」を「バッソ・オスティナート Basso Ostinato」に例えている。「通奏低音」のことで、主旋律とは独立に、たえず、執拗に、流れ続ける旋律のことで、バロック音楽ではチェンバロが担当することが多い。

表面的な政治現象や政治意識の底に、大衆の、というか、国民の、原始的意識を探し出そうという試みである。丸山は、この大衆の原始的意識を、「原型」とか「古層」とか「執拗低音」とか、時によって様々に表現している。

「原型」は、マックス・ウェーバーの「理念型」を想起するように、一種の「型」を析出する方法の産物である。
「古層」は、考古学から出たことばで、何重にも重なった地層の下の方を指す。
「執拗低音」は「通奏低音」と同じだ。

このように、社会学・考古学・音楽の用語を援用しながら、大衆の原始的意識を析出しようとしたのが丸山の日本政治思想史研究の核心であったが、それを定義する政治思想用語が丸山から提案されることはなかった。この点について、丸山を批判し、丸山のライバルを自認する政治学者にも問うてみたいと思う。「あなたなら、どのような政治状況にあっても、たえず見られる大衆の原始的意識を何と定義しますか?」と。  (2008/3)


加藤周一が亡くなった

2008-12-08 07:46:15 | 歴史文化論の試み
風邪で更新を休んでいましたが、再開します。

加藤周一氏が亡くなった。89歳。

以前、「私のバックボーン」というコラムの中で、次のように述べた。
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加藤周一。西洋・東洋・日本の文化に普く通じている評論家です。「近代日本の文明史的位置」「芸術の精神史的考察」など、私の問題関心にフルに重なる仕事を残しています。ただし、私はまだ加藤周一を十分読みこなしていません。これから、『加藤周一著作集 全24巻』、平凡社、を精読したいと思います。
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加藤は広く歴史・文化・芸術・文学について深い教養を披露したが、その原点は、私の見るところ、ヨーロッパにおける滞在経験にあった。1951年から3年4ヶ月にわたるヨーロッパ滞在によって、日本文化を見る眼を養い、また、西洋と東洋とを比較する視座を獲得した。

このような「西洋経験」は加藤だけではなく、いわゆる「戦後知識人」に共通する知的経験だったことを思い起こす必要があろう。
伊藤 整(『ヨーロッパの旅とアメリカの生活』)、吉田秀和(『ヨーロッパの響き、ヨーロッパの姿』)、小澤征爾(スクーターを駆使してのヨーロッパ音楽祭への挑戦)、小田 実(『何でも見てやろう』)、中根千枝(『未開の顔・文明の顔』)などは、みな、ヨーロッパ文明にさらされ、それと格闘した精神の営みを記録した人たちだ。

加藤はこれら戦後知識人の中でもひときわ博識で、自らのヨーロッパ経験を日本の歴史・文化・芸術・文学の分析に活用して成果を残した点が際立っていた。

『加藤周一著作集 全24巻』を精読する作業はまだ進んでいないが、これから折りを見て、この作業を前に進めたいと思っている。

「BIBLOSの本棚」に、昨日から、加藤周一の『羊の歌』『続・羊の歌』『日本人の死生観 全2巻』(いずれも岩波新書)の注文が入っている。加藤を偲ぶ人が多いのだろう。  (2008/12)

石橋湛山の魅力

2007-07-23 02:14:14 | 歴史文化論の試み
分載していた「石橋湛山の魅力」をまとめて再掲載します。(長文です。)
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(1)人気の淵源

石橋湛山(1884年-1973年)の名を知っている人はどのくらいいるのだろうか?
明治・大正・昭和の三代にわたって、初めはジャーナリストとして、後には政治家として活躍し、総理大臣にまでなった人だが、派手に名前を売るような事績はなかったのではないか?
そう思っていたのだが、この湛山が識者の間でなかなか評判がいいらしい。

単なる保守政治家ではなく、気骨のある一言居士として、湛山の評価が高いのだ。その一例は、毒舌家として知られる佐高信の「湛山除名 小日本主義の運命」、2004年、岩波現代文庫、に解説を寄せているのが、細川護熙内閣で首相特別補佐を勤めた田中秀征であることにも表われている。右・左を問わずファンが多い。

「石橋湛山評論集」、岩波文庫、が1996年に20刷、「湛山回想」、岩波文庫、が1998年に9刷、というところからも、湛山の根強い人気がうかがえる。

さて、ひょんなことから、湛山を読んでみることになった。きっかけは、小島直記「異端の言説 石橋湛山 上・下」、昭和53年、新潮社、を古本屋の安売りワゴンで目にしたことだった。小島直記は馴染みのない名前で、いつもは馴染みのない人の本には手を出さないのだが、「湛山」のタイトルに惹かれて購入した。その後、小島直記が評伝作家で、経済人の評伝を多く手がけていることを知った。

この評伝がなかなか面白い。よく「○○とその時代」というタイトルの評伝があるが、これはまさに「石橋湛山とその時代」を描写したもので、前提となる知識の少ないものにも、湛山と時代との係わりが理解できるようになっている。湛山没後5年で出た評伝として出色のものだろう。湛山の特質をすべて「異端の言説」として括っているのがわかりやすい。

どのように「異端」だったのか? 湛山に則してみてみよう。 (2007/1)

(2)ジャーナリスト・湛山

石橋湛山は、その名前から推測できるように、仏門に生まれ、18歳で得度した。しかし、早稲田大学を卒業した後、東京毎日新聞社に入った。ジャーナリストとして身を立てる決心をしたのだ。
その後、兵役を経て、東洋経済新報社に入社し、「東洋時論」の編集に携わり、後に「東洋経済新報」の記者になった(1912年=明治45年、28歳)。ここからが、本格的ジャーナリストとしての湛山のキャリアが始まる。

わが国の近代には、時の政府や権力と一定の距離をとりながら、持論を展開するジャーナリズムの伝統があった。その、最も大きな、時代に影響力を発揮した例として、福沢諭吉と「時事新報」がある。諭吉は、他国のいいところはどしどし取り入れようという合理主義を「時事新報」誌上で展開して、明治政府の政治家や官僚にも支持者を多く持った。しかし、政権に入ることはなく、在野を貫いた。その拠り所が「時事新報」だった。
後に、諭吉は「脱亜入欧」を唱えてミソをつけたが、それはまた別のこと。

さて、湛山の拠った「東洋経済新報」は、大正時代から昭和時代にかけて、時の政府や権力と一定の距離をとるスタンスを保ちながら、持論を展開した。その持論とは、小島直記が「異端の言説」と名づけたように、現在の我々から見ても、驚くようなものだった。

二つ、例を挙げよう。

その1。金解禁論争に対するスタンス
1917年に停止された「金本位制」を、いつ解禁するか、その際の円-金交換レートをどう設定するかについて、経済界で大きな論争があった。
第一次世界大戦による好景気・円高が現出したことを受けて、湛山は直ちに金解禁を実施すべしとの論陣を張った。しかし、時の政府は金解禁に踏み切らなかった。

昭和初頭の金融恐慌により、一旦金解禁論争は頓挫したが、その後、1930年に政府は金解禁に踏み切る。国際圧力に押されたためである。
その際、政府の採用した円-金交換レートは旧平価によるものであったが、「東洋経済新報」は実勢レートを主張した。実勢レートが円高にふれていたためである。
果たして、金解禁が実施されるやいなや、外国のファンド勢力が、実勢レートで円を買い、公定の円-金交換レートで円を売り抜けるという「差益取り」の動きに出たため、わが国の収支は短期間で多大な損失をこうむることになった。

現在の為替政策にも教訓となる事例で、湛山らの主張する「直ちに金解禁を実施せよ」と「円-金交換レートは実勢レートとすべし」を時の政府が容れる器量があれば、という感懐を持たざるを得ない。

その2。植民地領有に対するスタンス
湛山は1915年の「東洋経済新報」社説で、「青島は断じて領有すべからず」と断じた。それまでドイツが領有していた山東半島の権益を奪った行為が、単純に考えて、帝国主義諸国間の権益の移動に過ぎず、中国国民の反感を高めるのみならず、アメリカ・イギリスからも領土的野心を指弾されると湛山は指摘する。

湛山はさらに1922年の「東洋経済新報」社説で、「大日本主義の幻想」を論じた。ここでは、持論をさらに進めて、わが国は一切の植民地(朝鮮・台湾・樺太・支那・シベリア)を放棄すべしと論じている。
その理由は、外交政策上得策でないだけでなく、経済上、膨大な植民地を維持するコストはわが国の利益に見合わない、という大胆なものだった。「自由主義者」湛山の面目躍如である。国中が海外への膨張に浮かれている最中に、冷静なコスト・効果比の論調を展開する合理的思考は時代を飛びぬけていた。 (2007/4)
   
(3)政治家・湛山

第二次世界大戦後、石橋湛山は政界に進出する。戦前から計画していた転身のようだが、奥深い真意はわからない。いきなり、吉田茂内閣の大蔵大臣として入閣して、得意の財政政策に邁進する。

衆議院議員にもなり、さらに飛躍しようとするときに、占領軍による「公職追放」に遭う。戦前の自由主義ジャーナリストとしての実績から見て、誰もがいぶかる決定だったようである。ライバルを叩く吉田茂の策動があったとする論調もあったようだが、真相はわからない。

しかし、この「公職追放」は思わぬプレゼントをわれわれにもたらした。湛山は、この閑暇の機会を利用して、「東洋経済新報」に「湛山回想」を連載したのである。

さて、「公職追放」が解け、湛山は鳩山一郎率いる自由党の領袖になり、さらに保守合同後の自由民主党の第二代総裁になり、ついには、1956年内閣総理大臣にまで登り詰めた。しかし、病を得て、翌1957年に総理大臣を辞任する。わずか2ヶ月の短命内閣で、当然、内閣総理大臣としての業績は湛山にはない。

しかし、政治家・湛山はこれで終わらなかった。

湛山を継いだ岸信介内閣がアメリカとの安全保障条約の改定にかかりきりになり、その後の池田勇人内閣が所得倍増計画にうつつをぬかして、いずれも外交をおろそかにした。特に、ソ連・中国との国交回復の外交をする政治家が不在であった中、湛山は、病が癒えたあと、積極的に対ソ連・対中国外交に心血を注ぐようになる。

この対ソ連・対中国外交が政治家・湛山の真骨頂であった。それを可能にした背景を考えると、共産主義国(当時はそう呼ばれていた)に対する曇りない・偏見のない見方が大きな役割をはたした。そのルーツは、ロシア革命後のソ連政府を承認せよという「東洋経済新報」社説(1919年)や、中国国民の立場から領有の是非を考えよという「東洋経済新報」社説(1915年)にあることが確認できる。 (2007/5)

(4)家庭人・湛山

湛山は家庭人としても、時代の先を行っていた。
戦前から、外で食事をとるときには、いつも夫妻同伴だった。それは、政治家に転身した戦後になっても変わらず、政治家の女性観を覆す模範を気取りなく示して見せた。

その前兆は、東洋経済新報社に在籍した時すでにあった。
1912年の「東洋時論」の社論で、職業婦人の増加した現在に「良妻賢母主義」を押し付ける不合理を説き、女性の自立を支える施策の必要性を力説している。

また、1925年の「東洋経済新報」の社説では、女性に参政権を与えることは当然だと述べた上で、それ以外にも、小中学校の教育を実質上担っている女子を形式上でも参加させる法制を作ることや購買組合などへの女性参加を促進する法制を作ることなど、女性の社会参加を促す法整備の必要を説いている。

湛山はこのような考えを自らの家庭でも気負わず実践してきたのである。時代の数十年も先を行く女性観であり家庭観である。 (2007/5)

(5)湛山の肖像

岩波文庫「湛山回想」の巻頭に、石橋湛山の肖像写真が1枚掲載されている。1955年頃の撮影とあるから、鳩山内閣の通産大臣であったころ、自宅で写したものである。丸顔で、どこか子供のような稚気をたたえた面影とともに、国士のような風貌も読み取れる写真である。

実は、私は生前の湛山に会ったことがある。
病気で首相を退いた後、静養のため、湛山は神奈川県大磯に滞在していた。1957年か1958年の夏のことである。ちょうど、私は親に連れられて、大磯の「海の家」に泊りがけで来ていた。ある朝、海岸に出ると、湛山が家族と散策しているところに遭遇した。

ジャーナリストのはしくれである父が私にカメラを宿から持ってくるように命じた。発売になったばかりのヤシカの二眼レフで、ポートレートを撮るにはピッタリのカメラである。
湛山に、写真を撮らせていただきたいと頼むと快諾してくれて、私は必死になって写真を撮った。

後日出来上がった写真を湛山に送ったところ、書生の方から懇切な礼状をもらった記憶がある。
今でも、その時の湛山のポートレートはどこかにあるはずだ。岩波文庫「湛山回想」の巻頭写真を見ながら、はるか50年前の朝の光景が一瞬よみがえった。

だが、硬骨漢・石橋湛山を知ったのは、初めに述べたように、ごく最近のことだ。
湛山は自らのモットーを「個人主義・自由主義・民主主義」と標榜していたが、私はこれに加えて、「女権尊重主義・柔軟な思考」を湛山の思想の真髄として挙げたいと思う。

湛山の思想と人柄を知るには、次の2冊がよい導き手となる。
「石橋湛山評論集」、1984年、岩波文庫
「湛山回想」、1985年、岩波文庫
湛山の文章は、今ではやや時代がかっているものの、明解で、人をぐいぐい引き付ける魅力をたたえている。 (2007/6)