アイヌ民族情報センター活動日誌

日本キリスト教団北海教区アイヌ民族情報センターの活動日誌
1996年設立 

提訴、シンポジウム報告 その3

2012-09-22 08:59:19 | インポート
昨日、カナダ合同教会の人事幹事が道北入りしたので、懇談のために旭川に向いました。
その後、川村カ子トアイヌ記念館をお訪ねしたら下記の新しいチラシを頂きました。

今日は神居古潭にてカムイコタン祭が開催されます。
今回も依頼されましたのでムックル作りコーナーにてお手伝いをしてきます。
なにやら、チプ(丸木舟)も浮かべて乗るとのこと。舟を掘るお手伝いをさせて頂いた者として、水に浮かんでいる勇ましい姿を是非とも拝見したい! 乗りたい! でも、神居古潭で沈んだら上がって来ないという噂が・・・。

川岸に奇岩怪石が連なる神居古潭の景観は、多くの伝説を生んでいます。その最も代表的なものが、「ニッネカムイとサマイクルの戦い」です。
  むかし、神居古潭にニッネカムイという凶悪な魔神が住んでおり、アイヌの人々を苦しめていた。あるとき、ニッネカムイは大岩を石狩川の川幅のいちばん狭いところに投げ込み、アイヌの人々を溺死させようと企む。これを見ていたヌプリカムイ(山の神)のクマは、アイヌの人々を救おうとその岩を取り除いて水を流した。ニッネカムイは怒ってヌプリカムイに襲いかかるが、文化神サマイクルが駆けつけ、格闘となる。劣勢となったニッネカムイは逃げ出すが、泥に足を取られたところをサマイクルの刀で切り殺される。
2006年の過去ブログ参照 http://pub.ne.jp/ORORON/?entry_id=399289




さて、遺骨返還訴訟の訴状内容にふれます。
過去に遺骨返還の動きがなかったかというと、そうではありません。
戦後も学者におけるアイヌ民族への差別的研究が続く中、アイヌ民族は抗議、抵抗を行っています。
1953年、人類学会における河野広道「アイヌ人食い人種説」に対し、知里真志保が反論。
1972年、札幌で開催された第26回日本人類学会・日本民族学会連合大会に対し、結城庄司・山本太助らがアイヌを動物扱いしている研究を批判、雪の中ハンガーストライキ。
1985年、チカップ美恵子さんが更科源蔵らアイヌ研究者を相手に「アイヌ肖像権裁判」をおこすなど、遺骨問題以外においても様々な動きがありました。

1980年に海馬沢博氏が北大に対して、その保管する遺骨をアイヌへ返還することを要求します。北海道大学と海馬沢氏との複数のやりとりは開示請求によって明らかになっています。注目するべきは北大の次の文。
「人体骨については、全て台帳に記載し現在厳重に保管してあり、貴重な標本として本学はもとよりわが国の学術研究進展のため充分に役立たせていただいております」
「お申し越しの方々のご遺体に該当する記録」
はない。
以上の理由から遺骨の返還を拒否。「全て台帳に記載」「厳重に保管」「貴重な標本」のことばに疑問だらけです。

その後、1982年になってアイヌを主体とする任意団体である(社)北海道ウタリ協会(現在の北海道アイヌ協会)が、北大に対し、遺族あるいは地域が遺骨の返還を希望した場合には、その返還を要望するとの文書を提出。のちの協議により、①北海道大学内に納骨堂を設け人骨を納骨する、②人骨返還を希望する同協会支部は協会本部を通して被告北海道大学にその返還を申し入れ、被告北海道大学は責任を持って対処する、などの取り決めを結び、今日まで35体が諸支部に返還されています。

訴状では、この申し合わせは、
「北大と任意団体との申し合わせでしかなく、北大が拘束されるものでもない上、ウタリ協会がアイヌを代表するわけでもない。しかも、当時のウタリ協会は各支部に遺骨返還希望の問合せをしたようであるが、多くのアイヌはそのことを知らなかった。もちろん原告らもそのような問合せが支部にあったことを知らなかった。また遺骨が返還された場合にもその埋葬等は支部が行なうことになっていて墓をあばいて遺骨を持ち去った被告北海道大学は埋葬等の金銭的負担を負っていなかった。このような返還は、被告北海道大学の誠意ある返還手続きであったとは言いがたく、反面では財政的に余裕のない多くの支部は返還の希望があっても声を挙げることはできなかった。」

と指摘します。(続)


秋の海岸


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