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アイヌ民族情報センター活動日誌

日本キリスト教団北海教区アイヌ民族情報センターの活動日誌
1996年設立 

道内の3つの博物館にアイヌ民族の遺骨が

2016-11-07 13:48:20 | 日記

さる、11月3日に行われた札幌郷土を掘る会主催に参加したことを前回書きました。その補足です。

八幡智子さんの講演前に、今回の案内チラシの以下の一文に関して、主催者側からの謝罪と、「コタンの会」代表の清水裕二さんからの説明がありました。

その一文とは、以下。

「盗掘のアイヌ遺骨・装飾品問題は北大(他大学等にも遺骨保存)の謝罪のないまま、「金目」で解決しようとしています。」

 清水さんは、今回の遺骨返還に関して、知人から「いくらもらったんだ? ふところが暖かいだろう」などと、あたかも和解金が入ったかのような言われ方をする。今回の案内も「金目」が入ったかのような誤解を招く言葉で、昨夜にこの案内を読んで目玉が飛び出しそうにビックリした。今回の杵臼への「ご先祖様」の再埋葬に関しては、北大納骨堂から杵臼までの霊柩車運賃と墓地使用料、再埋葬のための工費は北大が負担したが、それ以外の一切の金銭のやりとりは全くない! 再埋葬は三日かけたが、数ヶ月前からの様々な準備から当日に至るまで多くの費用がかかった。80万円を超える費用は全て全国の賛同者のカンパでまかなったと説明されました。 

主催者側は、誤解を招くような文章を書いたことに謝罪しました。

 和解金をもらったのではないかと言う誤解があることに驚きました。和解条項は北大開示文書研究会のホームページ内にあります。その1にある「引き渡し場所(杵臼)までの搬送に要する費用は被告(北大)の負担とする」というところと、6の「墓地の使用料及び埋葬に要する費用106万7600円を・・・支払う」のところです。

さらに、8の「その余の請求をいずれも放棄する」、10の「訴訟費用及び和解費用は、各自の負担とする」とあるように、裁判費用も自己負担となったのです。わたしたちの杵臼までの往復交通費も自己負担でしたから、みんなで乗り合わせて行きました。わたしは小川隆吉さんと隆吉さんのお姉さんをお乗せして、再埋葬への喜びと緊張感を持ちつつ杵臼に向かいました。

 清水さんは、一週間ほど前にアメリカで行われた先住民族のある会議に参加され、遺骨返還の報告をされて来ましたが、その際に多くの先住民族から、「遺骨」という言葉をわたしたちは用いないで「ご先祖様」(ご本人が日本語でこのように紹介されたのでそのまま)と言うのだと聞き、自分もこれからそうすると言われていたことも印象的でした。

 当日に配布された『〈資料〉アイヌ差別証言—過去と現在の人権侵害』は、10頁ほどの重複がありますが、A3用紙で表裏の100頁という厚いもの。なんとアイヌ民族の皆さん22名の講演をまとめてあり、たいへん読みごたえのあるものでした。葛野次雄さん、熊谷カネさん、伊藤稔さん、楢本貴美子さん、横山むつみさんなど、はじめて知ることばかり。個々に了解を得られたら、ここでも紹介します。

 

函館アイヌ協会より、イチャルパのご案内を頂きました。文部科学省による「博物館におけるアイヌの人々の遺骨及びその副葬品の保管状況に関する調査」において、市立函館博物館にもアイヌ等の遺骨が保管されていることが明らかにされたこと、市教育委員会や博物館と協議の結果、11月13日(日)の午後1時より博物館横の函館公園にてイチャルパを開催するとのこと。

同封の資料「アイヌの人々の遺骨の保管状況」によると、アイヌ民族の遺骨と「考えられるもの」が10体。そのうち、出土場所が函館市3、樺太1、択捉島1、千島シュムシュ島3、十勝伏古1、不明1。シュムシュの3体は1994年に児玉コレクションの一部として寄託(1998年に寄贈)とあります。児玉作左衛門によって1937〜8年に発掘されたとあります。では、1994年までどこに「保管」されていたのでしょう。そして、寄託する側の責任、受け取る側の責任も発生するのではないでしょうか。わからないことだらけです。

 

さらに、リストにはアイヌの人々の遺骨か「特定できないもの」というのもあり、それが19体もあります。出土時期、場所、経緯、保管に至った時期、経緯には「不明」が目立って多く記入されています。中には1961年に「市立函館博物館・市内高校が発掘調査」「採集」し、同年に保管したものがあります。これらの詳しい情報も探せばあるのでしょう。

北海道新聞(7/2付)の記事によると、アイヌ民族の遺骨は大学以外に道内の3つの博物館に16体が保管されていると報じられていました。

道が運営する北海道博物館が5体を、函館市立函館博物館が10体(10人分に相当するか調査中で正確には「10件」)を、室蘭市民俗資料館が1体を、それぞれ収蔵室などで保管していると回答した。

3施設の遺骨は、寄贈などで外部から持ち込まれたり、前身施設から受け継いだりしていた。いずれも、身元や埋葬時期、発掘の経緯などについて詳しい調査は行われていなかった。また、遺骨返還の権利を有するアイヌ民族らに保管状況が広く知らされていなかった。

この記事がさほど問題になっていないような気がしますが、いかがなものでしょう。それらが「収蔵室などで保管している」とありますが、今まで「資料リスト」に記し、公にしてきたのでしょうか。

11月13日には参列できませんが、翌週の20日に八雲に出張ゆえ、数日、道南の各所を訪ねる予定です。函館アイヌ協会にもお訪ね出来ればと考えています。

 

もう少し、写真を大きくしたいのですが、難しい… 


八幡智子さんによる『アイヌ民族の現状と展望』講演

2016-11-04 11:00:31 | 日記

札幌郷土を掘る会主催で、八幡智子さんによる『アイヌ民族の現状と展望』講演を聞いて来ました。

昨年の7月にアイヌ文化振興・研究推進機構主催のアイヌ文化普及セミナー(前期)で一度お話を伺ったことがあり、杵臼での遺骨再埋葬の際もご一緒しました。

小学2年でお母様を癌で亡くされ、長女で兄弟が多かったので、母がわりをした。学校で先輩から「小川が二本足で歩いている」とバカにされたり、ドッチボールではいつもアイヌだけが標的になるなど、あからさまな差別があった。しかし、兄も弟も含めて小学校教師に助けられた。貧しくて弁当をもって行けなかったころ、担任の先生がだまって兄弟三人分のおにぎりを差し出してくれた。教師のおかげでアイヌとして生きてこられた、と。

千葉に引っ越しても差別がひどく、人一倍頑張った。妹も会社の同僚からお前が来るところではないと言われ、自殺未遂をした。東京でも差別された、と。

厚生労働省の委託でアイヌ電話相談員に選ばれて働きだし、3年目。

(そのお働きは北海道新聞でも取り上げられました。)

職員は電話を受けるアイヌが3名、和人の職員1名。相談は北海道だけではなく、全国から寄せられる。最近の相談では、小学生で画鋲を上履きに入れられたり、上履きを投げられたりといじめられ、引きこもっているというものがあった。自身のいじめられた体験談などを語り、対応した、と。

お働きに感謝しつつ、伺うことが出来ました。

 

相談窓口はフリーダイヤル(無料)

0120−771−208 平日・土曜日10時〜17時

 

この電話窓口は厚生労働省が公益財団法人「人権教育啓発推進センター」に委託したもの。

同センターでは、過去の相談事業報告を2年分だしています。ここをクリック→

 

2014年(平26)年度の報告書を見ました。4月から翌年3月末までの一年間(日祝日他、休みあり)の相談総数は666件。そのうちアイヌ民族からは426件。そのうち北海道内157件、道外269件。

相談内容は多い順から

「13.政府・自治体への要望等に対するもの」(122件)、

「2.身体に関する悩み」(109件)、

「1.暮らし向き」(105件)、

「19 その他」(104件)、

「16.アイヌであることを理由とした差別・いやがらせに関するもの」(93件)、

「3.心に関する悩み」(82件)、

「5.仕事・職場に関するもの」(62件)、

「8.アイヌ文化や学校での歴史教育・多文化理解等に関するもの」(58件)

などとなっています。「13.政府・自治体への要望等に対するもの」が一番多いのは、

「生活の困窮や将来への不安等から、アイヌ民族に対する民族年金制度の創設、生活費や教育費の支援などの要望が多いことによる ものと考えられる」

さらに、暮らしの中や学校、職場での差別への対応を政府に要望するなど、重複しているところもあると分析しています。

 

注目したのは、第6章総括において、「国際的な先住民族の視点からの分析」がされていること。

2007年の「先住民族の権利に関する国際連合宣言(以下「宣言」)から、今回の相談を取り上げ、「先住民族としてのアイヌの人々が抱えている問題が明らかとなった」と結論しています。

相変わらず、「アイヌ民族」ではなく、「アイヌの人々」と記述しているのは気になりますが、それは別にして、相談の「いずれも「宣言」で取り上げられている重要な権利に関連する問題でもある」とし、各相談に対し、「宣言」に照らしてのコメントをしています。たとえば、遺骨返還問題の下りでは、

相談には遺骨返還についてのものも含まれていたが、これに関連して、宣言には以下の規定が存在する。第12条では、「1.先住民族は、自らの精神的および宗教的伝統、慣習、および儀式を表現し、実践し、発展させ、教育する権利を有し、その宗教的および文化的な遺跡を維持し、保護し、そして私的にそこに立ち入る権利、儀式用具を使用し管理する権利、遺骨の返還に対する権利を有する。 2. 国家は、関係する先住民族と連携して公平で透明性のある実効的措置を通じて、儀式用具及び遺骨のアクセス及び/又は返還を可能にするよう努める。」と規定している。以上のように、今回寄せられた相談は、相談者の個人的な問題もあったが、相談者が先住民族アイヌとして直面している様々な人権問題が明らかにされた。これらの相談には、国連の先住民族宣言に規定されている主要な権利が関わっているといえる。その意味で、相談は目に見えることのない先住民族としてのアイヌの人々が抱える人権問題が浮き彫りになったことで、大変意味あるものである。

ちなみに2013(平25)年度の報告書を確認しましたが、この視点からの分析はなされていませんので、画期的なことですね。

アイヌ民族への差別はまだまだあるのです。

アイヌ語トランプを購入しました。白老にて。

このBlogは、行間隔が勝手に変わったり(修正方法がわかならい)、写真がアップロード出来なかったりとぷららのに比べると面倒です。


沖縄派遣の大阪府警機動隊員による市民に対する差別的言動

2016-11-02 21:39:54 | 日記

さる、10月18日、沖縄県東村高江における米軍基地ヘリパッド移設工事周辺で抗議活動をしている市民に対して、大阪府警巡査部長および巡査長が「どこつかんどんじゃ、ぼけ、土人が」と唾を吐きかけるように発し、別のところでは「黙れ、こら、シナ人」と暴言を吐くなどの差別的言動をとり、翌日にその内容がインターネットで流されました。ネット流出日の夜、松井一郎大阪府知事は、「表現が不適切だとしても、大阪府警の警官が一生懸命命令に従い職務を遂行していたのがわかりました。出張ご苦労様」とネット上の情報サービス「ツィッター」でつぶやきました。さらにその翌日20日、記者団の質問に、松井知事は「沖縄の人の感情があるので言ったことには反省すべきだと思う。・・・そのことで個人を特定され、あそこまで鬼畜生のように叩かれるのはちょっと違うんじゃないか。相手もむちゃくちゃ言っている」と主張しました。ネット上では、抗議活動をしている市民たちの「暴言」などが流されることもありました。

大阪府警巡査部長らの暴言は、沖縄の人々を劣った民族と見下し、さらに威嚇したものです。このような暴力を機動隊という圧倒的な公権力を持つものが、公務執行中に行うとは断じてゆるされることではありません。「沖縄市民もひどいことを言った」と言うような擁護もされますが、市民と公権力の違いは重要です。

さらに、そこで使われた「土人」「シナ人」との用語は、アイヌモシリ(北海道)や沖縄等に対する日本の植民地支配の歴史の中で、被支配者に対する侮蔑や嫌悪を煽る文脈で使われて来たもので、明らかに相手を見下して貶める差別用語に当たります。

アイヌ民族を「土人・旧土人」と蔑む呼び方は1997年まで「旧土人保護法」(1899年制定)によって使われていました。この法は貧困に追いやられたアイヌ民族に対する保護を名目としてつくられましたが、結果的には法的に土地を奪い、「旧土人=アイヌ」であることは恥ずかしいことだと同化教育によって劣等感を植え付けるものでした。

沖縄においても琉球処分官の松田道之が処分後に出した「沖縄県下士族一般に告諭す」という布告において、政府の命令に従わない琉球人は「土人」であり、職業も権利も失う。だから、言うことを聞いて琉球処分への反抗をやめなさい、という趣旨の脅し文句が公文書にあるとし紹介されています(沖縄タイムス琉球大学名誉教授 比屋根照夫さんインタビュー)。

これらの差別用語をどうして機動隊員が使ったのかに対し、たまたま二人が差別思想をもっていたという話ではなく、警察組織では聞くに耐えない侮蔑語が飛び交っており、研修などでは市民運度やマイノリティなどを「社会の敵」とみなす教育が徹底的に行われていると報じているものがありました(リテラ2016.10.26)。組織ぐるみで差別を教育していることの偏向教育は見直すべきです。

この差別発言に対し、国の対応として鶴保庸介沖縄担当相が31日、「発言したこと自体は許されないが、本当に差別かどうかというと、いろいろな問題が出てくる」と述べました。また「許されないことをした、謝った、それを受け止めたという(お互い)冷静な関係であっていただきたい」と、なんともあやふやな表現をしたことが報じられました(沖縄タイムス2016年11月1日記事)。

その後の松井知事の発言同様、機動隊員らの発言が差別煽動発言であり、職務中の公務員が絶対に行ってはならない言動であるという認識がまったくないことは大問題です。

これら言動は歴史的、マイノリティに対する構造的差別に基づく言動による攻撃、すなわちヘイトスピーチといえます。

 CMでおなじみの『お父さん」犬のこども「ゆめ」ちゃん。お座りしてくれました。白老博物館にて。

2014年8月に、国連人権条約機関による日本政府定期報告書の審査があり、人種差別撤廃委員会による日本審査においてヘイトスピーチは重大な問題とされました。ヘイトスピーチを行った個人および団体を捜査し、適切な場合には起訴する事、また、ヘイトスピーチをした公人および政治家に対する適切な制裁を追求することが勧告されました。この度の「土人」発言に当てはめると、これは単なる「言葉の暴力」ではなく、捜査や起訴の対象となる「犯罪」であり、発言者が大阪府警巡査部長らであるゆえに「制裁」の対象になります。対応しなければならない沖縄担当相ら政府であり、大阪府知事ら地方政府にあります。それらが揃いもそろって、対応しないのは国際法的にも大問題です。大阪府知事の発言は、公人が人種差別を助長、扇動することを認めない人種差別撤廃条約第4条 (c) 項の違反にもなっています。

さらに、2014年7月の国連自由権規約委員会による日本審査は、その総括所見に「人種差別に対する啓発活動に十分な資源を割り振り、裁判官、検察官、警察官が憎悪や人種差別的な動機に基づく犯罪を発見するよう研修を行うようにすべく、更なる努力を払うべきである」と勧告しています。本来、犯罪を発見する努力を払うべき立場にあるはずの機動隊員が、今回、真逆の言動をとったことになります。さらに、付け加えると「締約国はまた、人種差別的な攻撃を防止し、容疑者ら(今回は機動隊員)を徹底的に捜査・訴追し、有罪の場合には適切や処罰がなされるよう必要な全ての措置を取るべきである」と勧告されています。その勧告を重く受けとめ、必要な全ての措置をとるべきです。

これらの問題に、人種差別撤廃NGOネットワーク等が呼びかけ団体となり、国や警視庁、そして大阪府に対し、要望書を送る動きがあり、わたしたち日本キリスト教団北海教区アイヌ民族情報センターも賛同団体に加わりました。

国や地方自治が人種差別を行わず許さないよう機能するように、警察組織が差別教育をしないように、国民が人権意識をより豊かにするために、まだまだ課題がおおいことを感じます。

加えて、「酋長(しゅうちょう)」という言葉にも言及したいと思います。過日、わたしが管理している別のBlogに「先住民族関連ニュース」があります。そこにはネット上のアイヌ民族・世界の先住民族関連のニュースを紹介しているのですが、その記事の中に「酋長」という言葉が入っていました。知り合いの指摘を頂き、「酋長」も「土人」と関連する差別用語だということを伝えるべきと思い、以下の文を挿入することにしました。

「酋長(しゅうちょう)とは、主に未開の部族の長をいう。そもそも「未開」という認識そのものが差別であり、侮蔑的な語であるとして、現在では使用が忌まれる傾向にある。wikipedia「酋長」より

 

明日は、八幡智子さんの講演が午後1時半よりエルプラザであります。ぜひご一緒しましょう。

(写真は登別のクマ牧場にて)

 


集団的権利は認めない?? 

2016-11-01 11:48:48 | 日記

もう10年近く前のBlogに書きましたが(ここ)、国連では各決議の際に単に賛否の決をとるだけではなく、どういった意図で賛否の投票をするかを各国が演説をして表を投じるそうです。2007年の先住民族権利宣言が決議された時にも各国の演説があり、日本政府は賛成票を入れたものの、以下の演説をしたと某大学教授の講演で聞きました。

①自決権は分離独立権を含まない。

②土地権とその行使は、国法に従い、第三者の権利及び公共の利益と調和するように合理的な制約を受ける。

③集団的権利は認めない(webcastで流れた)

このことから、日本政府はアイヌ民族という集団的な権利を認めないことを最初から条件づけ、主張を続けるのだろうと考えていました。

2008年には国会決議でアイヌ民族を日本の先住民族と認めたにも関わらず、日本政府は相変わらず集団的権利を認めず論議すらしません。新たなアイヌ民族に関する法律をつくると言う話も出ていますが、そこにも触れられていないようです。

丸山博さんの言葉を借りれば、日本のアイヌモシリの植民地主義は「福祉植民地主義から文化植民地主義へと形を変えてつづいていると言わざるを得ない」ということでしょう。

上記は直前のBlogで紹介したさっぽろ自由学校「遊」の講演で配布された丸山さんの文章「世界基準のアイヌ政策を求めて」(『問題と人権』2016年2月号)からのものです。

11頁ほどの短い文章ですが、他にも紹介したい部分が満載です。いくつか紹介します。

先住民族として認められたアイヌ民族は、国連を中心に長い時間と労力をかけて構築された国際社会の人権保障システムからも保障されるべきだと述べます。

1966年には法的拘束力を有する二つの国際人権規約である

・「市民的および政治的権利に関する国際規約(自由権規約 ここ)」、

・「経済的、社会的および文化的権利に関する国際規約(社会権規約 ここ)」

を採択し、さらに、

・「難民の地位に関する条約 ここ」(1951) 日本は1982年発効

・「人種差別撤廃条約 ここ」(1965) 日本は1995年

・「女性差別撤廃条約 ここ」(1979) 日本は1985年

・「先住民と種族民に関するILO169号条約 ここ」(1989) 日本は未批准

・「障がい者の権利に関する条約 ここ」(2006) 日本は2014年

・「先住民族に関する国連宣言 ここ」(2007) 日本は賛成票を投じた

と、マイノリティの人権を守るための条約や宣言をつくって来た、と。それらはすべて「集団的権利」だ、と。 

そして、それらの条約には、定期的に日本政府は国連の監視機関に報告書を出さなければならないが、常に国連から人権侵害に対する懸念と改善への勧告がなされている、と。

具体的にいくつかの監視委員会からのコメントが紹介されていますので、ピックアップします。

・「(自由権規約)27条の下で守られる権利は個人の権利であるが、それらはマイノリティの集団がその文化、言語あるいは宗教を維持する能力にも依存する。したがって、マイノリティのアイデンティティを守るとともに、そのメンバーが仲間と一緒に自らの文化と言語を享有し発展させ、宗教を実践する権利を守るためには、締約国による優遇策が必要となるだろう。」 すなわち、集団的権利が必要だと述べている!

・「(社会権規約15条a の全ての者の文化的生活権に関して)先住民族の文化的生活に関する集団的特徴は、彼らの存在や幸福、完全な発達にとって不可欠であり、彼らが伝統的に所有し、占有もしくは使用し、獲得した土地、領土、そして資源への権利をも包括する。先祖の土地や自然との関係とかかわる先住民族の文化の価値や文化的権利は、敬意をもって認められ、保障されなければならない。締約国はしたがって、先住民族がその共有する土地、領土、資源を所有し、開発し、管理し、使用する権利を認め、保障するための施策を講じるべきである。(中略)締約国は、先住民族の特別な権利にかかわるすべての事柄について、彼らの“自由意志に基づき、事前に十分な情報を与えられた上での合意の原則”を尊重しなければならない。」 (経済的、社会的および文化的権利に関する委員会による一般コメント21より。2009)

長い文でしたが、先住民族という集団への権利内容がよく分かるいい内容です。

う〜ん。2009年に出されたアイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会の報告書(ここ)にも、アイヌ政策は一般の日本人国民へのアイヌ民族に対する「正しい理解と知識の共有が不可欠である」(P.25)と、述べています。アイヌ政策推進会議は、もっともっと、この努力をするべきです。そして、集団的権利についてもすすめるべきです。

日本語で読める丸山さんの論文が入っている『アイヌ民族の復権』(2011 法律文化社)を早速、注文しました。

 

過日、所用で二風谷をお訪ねした際、貝澤輝一さんのところからはミニトマト(アイコ)を袋一杯に頂き、大喜び。まわりにもおすそ分けしました。また、貝澤耕一さんのところからは、なんと新米を頂戴しました。感謝感謝! もう5年ほど前から日曜日のお昼は近所のこども達を無料で招いての食事をしています。このような差入れはいろいろなところからあって、たいへん助かっています。

やっとリンクの貼り方を使えるようになりました。が、「ここ」はまずいでしょうか・・・。


さっぽろ自由学校「遊」後期講座 市民とともに考える これからのアイヌ民族政策のあり方-新法制定に向けた動きを踏まえながら

2016-10-29 17:53:07 | 日記

さる10月27日、28日と連続で遊の講演を聞きました。

27日は「市民とともに考えるアイヌ政策」の第1回「先住民族政策と国際人権法」。講師の丸山 博さんのお話を伺うのははじめて。丸山さんは環境と先住民族政策の研究を2006年より北欧を拠点にされており、現在、アイヌ政策検討市民会議世話人。 

先住民族の権利を国際的に訴えていくべきだと力説。また、日本の研究者は「ムラ社会をつくり、学際性に欠け、国際的に孤立している」と痛烈に批判。ご自身が近々発表すると紹介された論文『国際人権法アプローチによる先住民族政策の定義』は、ぜひ、日本語訳で読みたいです。その中で以下を主張。

・国家が近代化と称し、植民地支配によって先住民族に加えた歴史的不正義に対して補償をおこなうこと。

・先住民族が自らの言語や文化を維持・発展できるような是正措置を国際人権法に基づき促進すること。

・先住民族の言語や文化が土地や自然資源と不可分な関係にあることを認識すること。

正しい歴史認識と補償、先住民族自らが発展するための促進協力など、どれも必要なものです。

しかし、日本のアイヌ政策を見ると2009年のアイヌ政策有識者懇の報告書からも分かるように、歴史観がいまだに植民地主義を克服していないことを指摘。また、権利保障に対して消極的、否定的と批判。

それらの中で、日本国憲法98条に触れました。

第九十八条

この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。

日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。

日本国憲法は最高法規だから守らなければならない。それと同時に国際法規も「誠実に遵守しなければならない」のだが、日本は国内法のみを守り、国際法を誠実に遵守していない、と。

そこで、ノルウェーのサーミ政策を比較的に紹介。日本では二風谷ダム裁判が争われていた同時期の1970年代にノルウェーでもアルタ・ダム闘争が起きていた。国は1980年に「サーミの権利に関する委員会/サーミ文化委員会」を発足させ、‘84年の報告書にはサーミ議会の開設を含むサーミ法の制定とともに以下の文言を憲法に追記することを提言。「国はサーミ民族が言語、文化、生活様式等を維持・発展させるための条件整備の責任を有する」。’89年には上記の提言がノルウェー議会で可決・承認するに至った、と。

日本の動きとは大違いですね。サーミ法(1987)もピックアップして紹介して下さいました。

第1条1項「本法の目的はノルウェーのサーミ民族がその言語、文化、生活様式を守り、さらに発展出来るようにすること」

第1条2項「この目的を達成するため、サーミ民族は選挙で選ばれた議員からなるサーミ議会を有することとする」

第1条5項「ノルウェー語とサーミ語は同等の地位が与えられる」

さらに、1997年10月、ハラルド5世国王は第3回サーミ議会の冒頭でサーミに対して過去にノルウェー統治下に苦しみを与えたことを謝罪。‘99年には、国際人権規約自由権規約(ここ)、同社会権規約(ここ)等をノルウェーの人権法に組み入れるなど、積極的な動きがあったとのこと。

(スウェーデン政策は遅々としているが、キリスト教会が頑張っているとも紹介があり、励まされました)

国際人権法、先住民族の権利に関する国連宣言などを使って先住民族アイヌの先住権をもっとすすめるべきだ、そのために市民が国を動かせるべきだ、と。さらに、日本政府を動かすには国際的な働きかけをし、日本を動かせるのがいい、と。たいへん、勉強になりました。

28日は、別講座「レイシズム(人種差別)を放置しないまちをつくろう」の第3回「アイヌ民族とヘイトスピーチ」の講演を聞きました。

講師の香山リカさん(精神科医・立教大学教授)は、みなさんもご存知の通り、月刊誌「創」で、小林おしのりとの対談が話題になっていました。また、ネット上のヘイトスピーチに対して積極的に発言を続けて来られていることでも感心していましたが、お話もとてもよかったです。

印象に残ったのは、身近の「学者」たちは、紙面では批判しあうが、面と向かっては言わない。行動をしない!ヘイトスピーチに対しても言わない、と。確かに、机に向かって現場に出ない学者さん、国の御用学者さんと、批判したくなる学者さん達がわたしの知っている中にもいます。

が、わたしの身近の「学者」さんは、たとえば北大開示文書研究会の榎森進さん、そして植木哲也さん。お二人とも必ず裁判には足を運び、会合も参加され、たいへん行動的で、かつ、主張もしっかりとされます。植木さんは7月の杵臼でのアイヌ遺骨再埋葬の際には駐車場係もして、労を惜しまず動いてくださっています。よく連絡を下さる遠方の教授も、常に国際的な視点で日本のアイヌ民族政策に批判的に発言し、多くを学ばせて頂いています。闘う「地理学者」もおられるし、市民とともに活動する文化人類学者もおられる。たいへん恵まれています。

 

風景は美しくていいんだけれど・・・


紋別遺骨返還訴訟和解の延期

2016-10-27 11:53:40 | 日記

さる、10月21日、紋別の遺骨返還訴訟の和解の日として、午前10時15分に札幌地裁に集まりました。しかし、紋別の和解は不成立。理由は、北大の理事会の決済ができていないということで、延期の連絡が前日の午後5時過ぎに弁護士事務所に入ったとの事。

このことは事前にわかっていたはずですが、前日のドタキャンとは、こちらを困らせるためかと疑念を抱きます。この和解のために、遠路はるばるご不自由な体で(車椅子)で前日から札幌入りされていた原告の畠山さんは、1日前に連絡をくれればよかったと怒りの言葉を述べておられました。無理をさせて交通費もかけさせた北大の対応に怒りです。

弁護士会館でその後に予定していた記者会見は急きょ、記者レクに変更となり、市川弁護士による説明と、原告の畠山敏さん、差間正樹さん(浦幌訴訟原告)、小川隆吉さんのコメントが行われました。

市川弁護士の説明の中で、北大にある紋別の遺骨4体はいずれも「寄託」とあり、道路工事等で出てきた遺骨で、第3者(当時の自治体?)があいだに入って、北大に渡されたものであり、杵臼や浦幌のように北大が「発掘」して持っていったものでないと説明。しかし、そこには第3者が遺骨を渡した責任があり、それを受け取った北大の責任がある、と。遺骨は4体とも頭骨のみで1941年9月5日に北大の手に渡っています。手書きの『アイヌ民族人体骨発掘台帳』(医学部解剖学第2講座)には、持参者も記されているのですが、黒塗りされていました。

次回の和解は11月25日(金)13時から。この日に紋別の和解は確実となります。その後、記者会見。

同日、午後6時より杵臼での遺骨再埋葬の報告会が北海道クリスチャンセンターにて行われます。

以下の「北大開示文書研究会」ウェブ頁にもチラシを掲載しています。

http://hmjk.world.coocan.jp/symposium/2016sapporo/sapporo20161125.html

コタンの会の第1回学習会もあわせてご案内いたします。

http://hmjk.world.coocan.jp/symposium/2016shizunai/shizunai20161113.html

 

過日、所用で二風谷、登別、白老、苫小牧、石狩と回ってきました。

白老ポロトコタンでは「お父さん」の娘の「ゆめ」と会い、2020年にはどのような「空間」ができるだろうと考えていました。いくつか気になるニュースを添付します。

「象徴空間」運営で合併へ…アイヌ関連2団体  読売新聞 2016年10月26日

http://www.yomiuri.co.jp/hokkaido/news/20161026-OYTNT50049.html

白老町のアイヌ慰霊施設 モニュメント17年度末までに完成  苫小牧民報(2016年 10/12)

http://www.tomamin.co.jp/20161043524

※いずれも「先住民族関連ニュースBlog」に掲載しています。

http://blog.goo.ne.jp/ivelove

なかなか更新が出来ずにいる中、沖縄の「土人」差別発言や、遺骨返還に伴う問題が次々とおこり、どうにか以前のように頻繁に更新出来ればと願っています。こんな状況にも関わらず、多くの方が訪問して下さり感謝です。近いうちにまた更新します。


チャールズ・ウィルキンソン氏の講演「先住民にサケを獲る権利はあるか?」

2016-08-01 13:02:47 | 日記

さる7月30日に、コロラド大学ロースクール教授チャールズ・ウィルキンソン氏の講演「先住民にサケを獲る権利はあるか?」を聞きました。

チャールズ氏は、インディアン法と自然資源法について全米をリードする学者として有名、かつ、大学の枠を越え、100以上のインディアンリザヴェーションを訪れ、トライブと連邦政府との間の複雑な問題を解決し、立法にかかわり、トライブの代理人として大きな訴訟に関わるなど、多彩な活動をされておられる方。

 

予定時間を1時間も越えると言うハプニングもありましたが、特に後半はアメリカ先住民族とアイヌ民族とをつなげて権利回復への道を示してくれました。

詳しくは、北大開示文書研究会のウェブサイトで紹介されるでしょうから、心に残った一部を要約して紹介します。

チャールズ氏は、2007年の国連によって採択された先住民族権利宣言(以下、「権利宣言」)の重要性を訴えました。以下、講演の内容です。

*********

1970年代後半にアメリカの弁護士たちは国際法に関しては知識が皆無に等しかった。但し、彼らは国際的な宣言を欲して動き始めた。権利宣言に向けた努力は、先住民族ではないアメリカの弁護士たちによって、そして、このような先住民族の権利確立を強く望んだトライブのリーダーたちによって行われた(1960年代の土地権の争いの延長上)。喜ばしいことに十数年のうちに他国の先住民族がこの動きに共鳴して運動に拍車をかけた。 

権利宣言は詳細に書かれていないという批判もあるが、わたしからみれば非常に詳細に述べられている。つまり、自己決定の権利、言いかえれば主権を求めることによって様々なことが可能になることは明らかだ。主権、自立の概念は集団的権利に適用出来ないという批判もあるが、自己決定権はこの権利宣言に何十回も記述されている。

権利宣言の真髄は自己決定権だとわたしは受けとめている。

江戸時代に北海道は日本の管轄下にありながら、政府によって調整をされていたのはアイヌ民族との交易関係のみであった。当時の各コタンは「蝦夷のことは蝦夷まかせ」と言うように独自の政府機関であり、集団的権利が行使されていた。そして当時の国際法においては、このような状況においてアイヌ民族は土地の所有権があった。つまり、入植者はそこでは住んだり土地開発をしてはならないし、アイヌ民族の漁業権は存分に行使することが可能だったのだ。

明治政府は入植者が移り住み土地を所有し、それを開発することを明治政府は可能にしたが、その際、土地の権利や漁業権を保護するための条約が結ばれなかったと言う破壊的な欠如があった。アメリカにおいては先住民族との間に条約が結ばれ、入植者の土地の開発を阻止する機能をはたした。 

まず、わたしたちは日本政府がアイヌ民族の皆さんに対して、やってはならない不正義を行ったことをきちんと認めさせるべきだ。ポイントは個人を批判することではなく、歴史的に起った不正義を認めさせることだ。先住民族の権利が回復している他国の事例を見ると、このような歴史的不正義を謝罪することは見られる。このような謝罪はその後の活動基盤にもなる。

次に必要なことは、過去の不正義に対し、なんらかの埋め合わせをさせることだ。それは道理にかなったものでなくてはならず、幸いにわたし達は、この度の遺骨返還に見る事ができた。コロラド州の先住民族が白人たちの墓に入り、遺骨を掘りおこしたことことがかつてあった(同じく酷い行為をして、自分たちがやったことを知らせる)。アイヌ民族がそのような行為をしなかったことに感心するし、建設的な対応だったと考える。これから目標とすべきは、アイヌ民族とアイヌ遺骨を保管している大学や博物館とが共同で、アイヌのもとに返還されるよう努力すべきだ。それはアイヌ民族が先祖を敬うという主権の行使にもなるからだ。

道理的対応と言うとき、アイヌ民族の3つの領域があるとわたしは考える。

まず、漁業権。ボルド判決(注)のように、捕獲量の50%をアイヌ民族に渡すとは過剰かもしれないが様々な判決が出ているので審議することは可能だ。

次に土地の返還。現在、住みついている和人を追い出すわけにはいかないが、国有林などは返還可能だ。

三つめは教育。多くのアイヌ民族の若者は学校教育において差別を受けてきた。そのような歴史的待遇を埋め戻すために特別なアイヌ教育はあるべきだ。歴史的なことをしっかりと踏まえた上で、アイヌ民族のこども達青年たちがよい成績をあげることがポイントだ。そして、アメリカのようにアイヌ民族の大学の設立も可能なはずだ。また、アイヌの教育に関する委員会設置も可能のはずだ。

最後にわたしは日本政府と北海道が昔あってはならない酷いことが起ったことを認め、アイヌ民族がいきいきと発展出来るよう努力することを望む。

注:ボルド判決:先住民族が慣習的場所で捕れるサケの全漁獲高の50%を捕る権利を認めた1974年の判決

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自己決定権の重要性を訴えていた内容に納得が行きました。

さて、北海道新聞7月29日付の紙面に、アイヌ民族に関する「新法」制定検討作業部会についてのニュースがありました。以下に記事があります。北海道新聞  http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/politics/politics/1-0298294.html

当センターニュースBlog http://blog.goo.ne.jp/ivelove/e/4e69b9c7864059e91cbd9e566e7c9c83

 この「新法」は、あくまでアイヌ民族の生活・教育支援を目的としたものであり、自己決定権は論外ということになるのでしょうか。

 

外観だけですが、やっと行くことができた蝦夷三官寺のひとつ 、様似の澍(とうじゆ)院。


85年ぶりにコタンの土に遺骨再埋葬 報告

2016-07-22 05:11:36 | 日記

さる、2016年7月15日(金)、北海道大学医学部の駐車場のすみに設置されている「アイヌ納骨堂」の前に、北大の職員とコタンの会、遺骨返還裁判原告、弁護士、北大開示文書研究会(以下、文書研)のメンバー、そして、マスコミの60人ほどが集まりました。

11時15分より、北大側とコタンの会メンバーであり裁判原告の小川隆吉さん、そして小川さんの姉、弁護団とわたしが納骨堂に入り、12箱の中のご遺骨と一箱の副葬品を一つひとつ資料に照らし合わせて確認。新たにこちらで用意した白布で丁寧に包む作業を12時頃まで行い、霊柩車に乗せました。

その後、小川さん姉弟をお乗せし浦河杵臼へと車を走らせ、午後3時半に杵臼生活館に到着。

午後4時に霊柩車が到着し、ご遺骨を生活館内におさめ、北大からコタンの会へと引き渡しの時を持ちました。ほどなく、マスコミの北大への記者会見が行われ、引き続き、コタンの会や弁護団へのインタビューが続きました。

午後5時より、ご遺骨を野外テントの中にお持ちし、囲炉裏を囲んで「お帰りなさいを申し上げるカムイノミ」を行いました。北大側も参列し、葛野次雄祭司(コタンの会副代表)により、総勢100名を越える方々が静かに祈るときを持ちました。

 翌日の16日(土)、スタッフメンバーは10時に集合し、前日の報道を観て、その日の予定をミーティング。昼食をはさみながら、ゆったりしつつも緊張の中、諸準備をしました。

午後1時より、再度、ご遺骨を野外テントの中にお持ちし、清水裕二コタンの会代表の挨拶。その後、「80年あまりを耐えられたことをねぎらうカムイノミ」の儀式。午後3時半より、記者会見。その間、コタンの会静内地区の皆さんが準備して下さったラタシケプ(シケレペ=キハダの実やかぼちゃを煮たお菓子)が一般参拝者に振舞われました。

 

午後4時より、参加者70名ほどが車座に座って「語りあう会」を開催。参加者と共にこの度の遺骨返還の意義や想いを語り、傾聴しました。

始めに、地元杵臼の老人会Y会長より挨拶がありました。Yさんはこの場に招かれたこととご遺骨が帰って来られたことを大変喜ばれながら、ご自身の父親が親方に命じられて遺骨を掘り起こし大学に渡したことを一度だけ聞いたと証言されました。

続いて、遺骨返還された想いを清水裕二コタンの会会長より、遺骨返還に至るまでの経緯を殿平善彦開示研共同代表より発言がありました。その後、文書研メンバーの榎森進さんの「アイヌがこのように自分たちの権利を自ら勝ち取ったことは歴史上なかった、はじめてのことだ」との発言、植木哲也さんからは「北大は学問の自由を盾にしているようで学問の自由を尊重していない」との発言、市川守弘弁護士からは今回の裁判の意義はアイヌの先住権を認めた有意義な和解だったと、それぞれの立場から語られました。

さらに、朝鮮半島からの強制連行で犠牲になった方の遺骨返還にたずさわったチョン・ビョンホさんと、アラスカ州クリンギット族カーグワンタンリーダーのボブ・サムさんからも体験談が語られました。ボブさんは自らの民族の遺骨返還30年の体験を語り、皆の胸を打ちました。侵略者たちは自分の先祖の遺骨を荒らし、その上に建物を建てた。遺骨返還の闘いは大変な30年だったが、その間に自分たちの言葉が戻って来た、歌が戻って来た、若者たちに踊りが戻って来た、喜びが帰って来た、と(わたしの記憶)。

会場からは、小川隆吉さんの姪で、千葉在住のYさんが、ずっと引っかかっていた悔しさ憎しみがあったがこんなにうれしいことはない、また墓参りに来たいと証言されました。

もうお一人の女性も、アイヌとして和人を憎み続けて来たし、ある時からアイヌとして行動を起こして来なかったが、今回はほんとうにうれしい、小川さんに感謝すると発言。

北大に籍をおく研究者が、個人的に謝罪する場面もありました。北大が倫理に違反をし、それを見過ごして申し訳なかったと。

最後には、この間カムイノミとイチャルパを司る葛野次雄祭司の日本政府への批判を含む発言、続いて、最年少の参加者である葛野大喜さんの参加出来たことの喜びと父への尊敬の言葉が語られ、閉会となりました。

 

17日(日)は、午前9時より、ご遺骨とお墓に建てる男女用2本のクワ(墓標)と共に、「あらためてゆっくりお休みくださいと申し上げるカムイノミ」が行われました。その後、闘い半ばにして召された城野口ユリさんとユリさんのお母様の遺影を先頭に、クワ、ご遺骨がコタンの会のメンバーの手によって墓地へと運ばれました。

墓地では、すでに12箱が収められるよう広く掘られている中に遺骨がおさめられるところに葬儀に使う短く切った紐を置いて、遺骨をおさめ、着物を12箱それぞれに被せ、たくさんの供え物をささげて土をかけました。最後に2本のクワを建て、一同は後ろを振り向かず、静かに生活館へと戻りました。

 

その後、イチャルパ(供養祭)が行われましたが、わたしは次の働きの場へと向かい、その場を離れました。

連日、スタッフや協力者の60人と一般参列者、マスコミで100名から120名ほどが集まりました。

わたしは微力ながら全体の進行係と、2日目夕方の「語りあう会」の司会をさせて頂きました。

歴史に残る時間をご一緒出来たのは感謝でした。

 

さて、この度、杵臼コタンの墓地に返還されたご遺骨は、小川さんの母方の伯父である小川カイイチロウさんの全身骨(大箱)と、お名前も性別すらも不明とされる10人の方の頭骨のみ(小箱)、さらに、もう一つの中箱というのは北大の説明によると「杵臼から発掘された遺骨を形質人類学的に個人ごとに一体化する作業を行った際に、特定の個人に属すると断定出来なかった遺骨を集めて「杵臼不明1」の骨箱に収めたもの」であり、杵臼から発掘された遺骨であることには間違いないとのこと。分かりにくいが、それは一人分か複数分かは不明ということ。いかに管理がずさんであったかがここでも分かります。 

杵臼から過去に掘り出したご遺骨は他にも4人分があり、いずれの方も個人特定可能の女性1名と男性たち(ただし、出土等の経緯は不明で1931年9月4日から6日の間に掘られた)。この4名は北大が開設するウェブサイト上に情報公開を一年をかけて行い、祭祀承継者が名乗りをあげた場合は返還、そうでない場合は再度コタンの会に返還し再埋葬を行うことも和解条項に記述されています。

故城野口ユリさんも喜んでおられるでしょうか。ユリさんが生前に北大総長宛に書いた要請書には以下のくだりがあります。

杵臼の墓地には、私の祖先である原天計万右(母方の曽祖父の父)、原加番多意(母方の曽祖父)、原ラフリ(母方の曾祖母)、原久比知通富(母方の祖父)、原フツムムキ(母方の祖母)、富菜エノヌテキ(父方の祖母)、富菜アタアム(富菜エノヌテキの妹)、富菜以加之牟加流(父方の曽祖父)たちが埋葬されていたことがわかりました。 (2012年1月6日付)

今回、名前が不明のご遺骨の中に、ユリさんのご遺骨があるのでしょうか。それとも、今後、開示する4名のご遺骨の中にその名が刻まれているのでしょうか。あるいは、当時「研究材料としては価値のない」ものとして、または、記録すらされずに無造作に持ち去られ忘れ去られた結果、「不明」の箱に収められた中にあるのかも知れません。

国が進め、学者たちが行った問題はいまなお深刻な課題を突きつけています。


アイヌ民族遺骨返還訴訟 一部和解 その2 

2016-05-27 05:51:29 | 日記

前回に一部和解の事を書きました。

和解内容をくわしく書いていきます。今回の和解で返還されるのは、故人の特定可能な(つまり、どなたのご遺骨か資料によってわかる)5人のうち、原告の小川隆吉さんのご遺族おひとりのご遺骨、そして、特定不可能なご遺骨11人のご遺骨です。小川隆吉さんのご遺族は全身骨で大きな箱におさめられています。過日、隆吉さんが確認にいったところ、頭蓋骨にご遺族のお名前が黒いマジックで書かれており、実験材料として粗末に扱われていた事に怒っておられました。11人分は頭骨のみが10人、他のおひとりは、どの部分か分かりませんが一部の「体部骨」のみ。これらは小箱におさめられています。

12名は北大から戻って来られるための儀式が行われる杵臼生活館に迎えられます。その「搬送」費用は北大が負担します。

杵臼から、盗み取られたご遺骨は、北大の資料によると、16名おられます。小川隆吉さんのご遺族以外の、故人が特定できるご遺体4名については、「被告(北大)が開設するウェブサイト上にて以下の情報を書くこと(公告)も和解条項に記されています。

1.祭祀承継者を特定する上で必要かつ合理的な情報

2.公告の日から一年を経過するまでの間に限り、当該祭祀承継者(返還希望のご遺族)から遺骨の返還の申出を受ける事。

この「公告」がどのようなものか気になります。なぜなら、いままで北大側は恐らく個人情報保護の名目で、開示請求された資料を黒塗りしてきました。それゆえ、個人認定ができずご遺族に知らせる事も出来ませんでしたし、ご遺族が気付くこともなかったのです。それをこの度、インターネットを見る事の出来るご遺族がご自身の関係者のご遺体であることの分かる情報を出すということは、どうするのでしょう。

そもそも、ご遺体を奪って持っていき、不当に保持していた研究者や大学側が真摯に資料を調査するべきですし、個人が特定出来るご遺体のご遺族を捜し出し、謝罪とともにお返しする努力をするのが筋だと思うのですが。

1年待って、4名のご遺体の引き取り手であるご遺族が名乗りをあげたなら返還し、ご遺族がインターネットを見ておられなかったり、知らないまま1年が終わった場合、また、ご遺族の希望があった場合は今回同様、再埋葬の儀式と埋葬をします。

和解条項には、「引き渡しを受けた遺骨及び副葬品」をコタンの墓地に埋葬し、「将来にわたり尊厳ある態様で維持管理する」ことが記されています。この度の返還訴訟の原告の皆さんは、尊厳あるアイヌプリ(アイヌ民族の伝統)で、供養したいと願い、返還請求と、ご遺体を盗まれたために「供養」が出来なかったその苦痛が今日まで続いていることを慰謝料請求しました。この和解で慰謝料請求はとり下げましたが、遺骨の返還が実現し、やっと供養できると原告の皆さんは喜んでおられます。

 

来る7月15日(金)より、17日(日)にかけてご遺骨を迎え入れる儀式を行います。

遺骨返還訴訟ニューズレターNO.13号(2016/04/17)に、和解条項全文、和解日の共同記者会見での原告のお話、ご遺骨を迎え入れる儀式のご案内を載せています。ご覧下さい。

http://hmjk.world.coocan.jp/newsletter/kokanu_ene013.pdf

 

今日はアイヌ民族情報センタースタッフ会が札幌であるので、いくつかの教会や手作りウタラの会を訪ね、夜はさっぽろ自由学校「遊」の2016年度前期アイヌ民族関連講座「北海道をもっと知ろう! アイヌ入門講座」を受講してきます。

http://blog.goo.ne.jp/sakura-ive

明日は、旭川の嵐山にて「第41回チノミシリカムイノミ」(聖なる地でのお祈り)に参列します。 

イヴェント情報ブログも充実させて行きます。

 

2009年に見た黒い狐「シトゥンペカムイ」。でも、いづれも冬にみているので単に冬毛なのでしょうか。

いやいや、5月23日に見たのも写真にはおさめきれなかったものの黒色でした。ん?冬毛から変わっていないだけ? この冬は、エゾクロテン、イイズナとも会えました。

 


アイヌ民族遺骨返還訴訟 一部和解へ

2016-05-26 11:56:21 | 日記

 先祖の墓地から遺骨を盗掘され、持ち去られたままになっている浦河町杵臼コタン出身の故城野口ユリさん、小川隆吉さんら3人の遺族が北海道大学に遺骨の返還と慰謝料を求めた裁判の和解が2016年3月25日に成立しました。

 1930年代から戦後にかけて北海道大学医学部の歴代教授らが研究名目で各地のアイヌ墓地を「発掘」して千人以上の遺骨を収集し、現在もなお保管しています。2012年9月14日、小川隆吉さんらは北海道大学に遺骨の返還と1人当たり300万円の慰謝料支払いを求めて、札幌地方裁判所に提訴しました。

 その後、2014年1月、畠山敏さんがモベツコタン(北海道紋別市)由来の遺骨4体の返還などを求めて北大を提訴。さらに、2014年5月27日、浦幌アイヌ協会(差間正樹会長)が遺骨64体の返還などを求めて北大を提訴し、これらの訴訟は併合され、同じ法廷で審理が行なわれました。三地域の訴訟のうち、この度、浦河から持ち去られた遺骨について和解が成立しました。

 持ち去られた遺骨は、浦河町杵臼コタン(集落)の墓地から1931年から35年ごろにかけて当時の医学部解剖学第1・第2講座の山崎春雄・児玉作左衛門教授らが掘り出したもので、小川隆吉さんの先祖のご遺骨1体と特定不可能なご遺骨11人分がこの夏(7月15日~17日)に地元に返還されます。

 原告のおひとりの城野口ユリさん(1933年生)は、闘いのさなか昨年3月に召されました。母親から「頼むから北大にあるオラの先祖のお骨を杵臼コタンに返してほしい。なんとか努力してくれ!」と頼まれ、遺骨返還を「おまえが仇をとってくれ」との言葉にうながされての原告としての思いでした。ユリさんの亡き後、その意思を引き継がれた弟の山崎良雄さんは和解成立を受けて、「姉は裁判ではなく話し合いで解決したかったが応じてもらえずにやむなく裁判を起こした。今日の和解の日をなんとしても姉が生きているうちにしてほしかった」と涙を流しつつ話されました。

また、原告の小川隆吉さん(80歳)は、「本当にうれしい。裁判長に感謝したい」と述べ、さらに裁判の支援をしている北大開示文書研究会のメンバーには、「コタンへ返還を求める遺骨はまだまだある、これからも頑張る」と、強い意志を表明されました。

※ブログ「さまよえる遺骨たち」より当日の記者会見の映像を見る事が出来ます。

http://hokudai-monjyo.cocolog-nifty.com/blog/

 

 今回の和解は、歴史的に重要な結節点になると原告代理人の市川守弘弁護士は述べます。それは、アイヌ民族の先住権にのっとって遺骨が返還され、元の場所に再埋葬することが認められたからであり、世界の先住民族の権利回復の流れに乗ったからだ、と。アイヌ民族は、各コタン(集落)が埋葬地を管理していたので、この度もコタンへの返還を求めていたのですが、日本政府及び北大は、日本民法に則って祭祀承継者への返還を閣議決定しました。この政府の基本を覆し、コタンの受け皿としての現在における継承団体(コタンの会)へ返還させるということは、先住権への大きな一歩になったのだ、と。

 今後は、浦幌より持ち去られた64体、紋別の4体のご遺骨もそれぞれ埋葬する準備がすすめられています。

 この裁判を支援して来た北大開示文書研究会は、アイヌ人骨および副葬品盗掘問題の告発と今回の裁判の記録を「アイヌの遺骨はコタンの土へ―北大に対する遺骨返還請求と先住権」(緑風出版)として出版しました。ぜひご購読ください。

「さまよえる遺骨たち」ブログより、「アイヌの遺骨はコタンの土へ」目次 

http://hokudai-monjyo.cocolog-nifty.com/blog/2016/04/post-a6b9.html

  

話題になっているマンガ『ゴールデン・カムイ』の7巻に、黒い狐「シトゥンペカムイ」のことが記されていました。黒い狐「シトゥンペカムイ」は人の病気を癒したり、海に漁へ出て時化(シケ)にあったときは助けてくれたりするとありました。上の写真は黒い狐でしょうか。わたしは数年前に2回、そして、3日前(5/23)にも山のなかで出会っています。(写真は2年ほど前の冬に撮影)


 


「北の大地に夢を追え~“北海道”誕生の秘密~松浦武四郎」

2015-08-20 14:17:35 | 日記

さる、6月24日にNHK歴史秘話ヒストリアで放送された松浦武四郎(1818 -1888)を紹介した番組を録画しました。

全国1万キロの旅をしたといいますが、その資金調達方法がおもしろい! 武四郎のふるさとには伊勢神宮があり、日本中から伊勢参りの旅人がきていた。伊勢の住民はその参拝者に食事をふるまったり、時にはお金を渡すなど、手厚くもてなしていた。武四郎が旅先で伊勢から来たというと、伊勢の人には大変お世話になったと、そのお礼としておもてなしを受けたのだそうです。

蝦夷地での旅のこと、北海道命名のはなしなど三部に分かれて、分かりやすく解説していました。You Tubeでも観ることが出来るのですね。お勧めします。https://www.youtube.com/watch?v=ydekmiuw44E


留萌の北に隣接する小平町の観光名所「旧花田家番屋」の海岸側駐車場に武四郎さんの像が建っています。

武四郎さんについてはこれをお読みの方はよくご存知でしょうが、少し紹介します。江戸時代、幕末から明治時代にかけて活動した日本の探検家で、小柄ながら(145㌢)、北海道には6回にわたって、隅々まで調査に出かけた人物です。

 伊勢国(現在の三重県松阪市)で生まれ、若い頃からよく旅をして、1844年に蝦夷地探検に出発し、択捉島や樺太にまで足を伸ばします。1855年に蝦夷御用御雇に抜擢され、再び蝦夷地を踏査し、「東西蝦夷山川地理取調図」を出版。明治に入った1869年には開拓判官となり、蝦夷地に「北海道」の名を与えたり、アイヌ語の地名をもとに国名・郡名を選定。

武四郎はアイヌ民族の姿をありのままに伝えようと、調査で出会ったアイヌの人びとのことを見たまま、聞いたままに記し、日誌類を書きました。たいへん筆まめで、見たもの聞いたものをすぐにメモしたり描いたりしたことは過去Blogでも紹介しました。その中で、アイヌ民族との出会いだけをまとめて取り上げて「近世蝦夷人物誌」を執筆。3編99話の話の中で、勇敢な男性や、親孝行な女性、聡明な長老などとともに、松前藩の役人や商人たちによって苦しめられるアイヌの人びとの姿を克明に記しています。ありのままに記すという方法を貫き、ひどい行いをする役人や商人をも実名で記したためか、1858年に出版の許可を願い出ましたが、幕府の箱館奉行はその出版を許可しませんでした。現在、『アイヌ人物誌』という書名で現代語訳が出版されています。                 

2年前に、武四郎の活躍を絵本にした『北加伊道−松浦武四郎のエゾ地探検』(関谷敏隆著・絵 ポプラ社)が出版されました。こどもにも分かりやすい内容で、絵も版画で味深く、とても気に入っています。アイヌ民族の道案内でけわしい蝦夷地を探検し、多くのアイヌ民族と出会い、アイヌが自然と共生して伝統文化を継承していることに感心したことや、驚いたこと(たたみ二畳もの巨大ガレイ漁)、また、和人から酷い仕打ちを受けたことなどが紹介されています。アイヌ民族情報センター所蔵。

武四郎関連の資料は、ほかにも、『蝦夷漫画』(多気志楼著 国書刊行会)、『蝦夷日誌 上・下』(時事通信社)、『竹四郎廻浦日記 上・下』(北海道出版企画センター)、『三航蝦夷日誌 上・下』(吉川弘文館)、『アイヌ人物誌 松浦武四郎原著「近世蝦夷人物誌」』(更科源蔵 農文協)、『松浦武四郎とアイヌ』(新谷行著 麦秋社)、『静かな大地』(花崎皋平著 岩波書店)、『北海道の名付け親 松浦武四郎』(山本命著十楽選よむゼミNO14)、『松浦武四郎とアイヌ』 (新谷行著 麦秋社)、『松浦武四郎蝦夷への照射』(更科源蔵著 淡交社)、『松浦武四郎(漫画)』(凛々著 松浦武四郎記念館)、『北加伊道:松浦武四郎のエゾ地探検』(関谷敏隆 ポプラ社)などあります。

さて、6月2日に開催された、第6回アイヌ政策推進会議の議事概要と配布資料がHPにUPされています。その配布された資料1「「民族共生の象徴となる空間」の整備及び管理運営手法について」の(アイヌの人々の遺骨及びその副葬品の慰霊及び管理)を引用します。http://www.kantei.go.jp/jp/singi/ainusuishin/dai6/siryou1.pdf

「先住民族にその遺骨を返還することが世界的な潮流となっていること並びにアイヌの人々の遺骨及び付随する副葬品(以下「遺骨等」という。)が過去に発掘及び収集され現在全国各地の大学において保管されていることに鑑み、関係者の理解及び協力の下で、象徴空間に遺骨等を集約し、アイヌの人々による尊厳ある慰霊の実現を図るとともに、アイヌの人々による受入体制が整うまでの間の適切な管理を行う役割を担う。」 

返還することが前提となっており、それが出来ないのはアイヌの人々による受入体制が整っていないとのニュアンスは、間違っていますし、「適切な管理」と言いつつ、その遺骨を今後も「研究材料」に扱うことに関しては記述されていないことも問題だと考えます。

過日、遺骨返還裁判の原告である小川隆吉エカシが、北大の納骨堂に入り、返還を訴えているご遺族の遺骨と面会したところ、その頭蓋骨にマジックで名前が書かれていたのを見て、大変ショックだったと言われていました。研究者側にとっては「研究材料」に過ぎないゆえに、間違わないように名前を書いたのでしょうが、遺族にとってみればたいへんな屈辱です。隆吉さん曰く、ほかの頭蓋骨にも名前が書かれていた、と。数週間前に、敬意と畏敬の念と真摯なる責任をもってお預かりしていると言われた北大総長はこの事実をご存知なのでしょうか。

遺骨返還に関し、さらに、別のアイヌ協会が返還を求める行動に出たと、今朝、情報が入りました。真摯に対応されることを願います。

 

北大キャンパス内にある「遺跡保存庭園」内にある「アイヌ居住跡」。久しぶりに行きましたが、相変らず手入れされていません。

過去Blogの写真が消えているのがあります。写真の容量が不足しているために削除しました。


第32回北海道大学アイヌ納骨堂におけるイチャルパ

2015-08-14 09:18:28 | 日記
この数ヶ月、かなりの制約があるものの、いくつかの会に出ることができました。

5月から開かれている自由学校「遊」の前期講座のテーマは「若者が発信する初心者へのアイヌ入門講座」。月一の金曜夜の時間帯ゆえ、一度しか行けていません。6月26日の第2回目は川上容子さんのお話でした。パワーポイントで写真を写しながらご家族、ご先祖のお話や2012年度アイヌ語弁論大会口承文芸部門で優秀賞を受賞した『ユカラ スマサム ピューカ』(英雄叙事詩―魔性の村)の一部を披露して下さいました。2008年の「先住民族サミット」のあとにZIZI時代の歌を容子さんが歌うのを聞いて上手だなと思いましたが、2010年2月5日に行われた第16回インカルシペアイヌ民族文化祭でイフンケ(子守唄)を歌った時は感動して鳥肌(さぶいぼ)が立ちました。さらに、弁論大会でのユカラは目眩がしたほどです。我が家は親子(次男)ともにファンです。

「遊」講座は、参加して講師の生のお話を傾聴したいですが、今年はなかなか出来ず、テープ受講を申し込んでいます。また、紹介出来ればと願っています。遊講座の内容は以下。
http://www.sapporoyu.org/modules/sy_course/index.php?id_course=441

アイヌ文化振興・研究推進機構主催の2015年度アイヌ文化普及セミナー(前期)に申込み、7月28日の八幡智子さんによる『私とアイヌ文化―刺しゅうを心のよりどころにー』を受講しました。差別と貧困の中で育ち、1965年に千葉に就職のため引っ越し(千葉でも差別を受けた)。関東ウタリ会に入り、一昨年までアイヌ職業相談員を勤められたとのこと。職業に関する相談だけではなく、なんでも相談を受け、差別に関する悩みについても言われていました。「アイヌの方々からの様々なご相談をお受けします」という十k年教育啓発促進センターのチラシも今回の資料に入っていましたが、この件に関しては、わたしの過去Blog、『アイヌの人々に対する相談のあり方に関する 調査研究事業報告書』(2014年4月25日UP)にも書きました。
関東ウタリ会は今年の2月に35周年記念としてアイヌ文化と人権の集いを開催。お子さん達がアイヌに関わる仕事をしていることを感謝されていました。

 当日、配布された資料に『関東ウタリ会のあらまし』、『関東ウタリ会のあゆみ』があります。それによると、当会は「首都圏在住のアイヌ民族のため、差別撤廃と地位向上にむけて、1980年に発足し活動を続けている団体」で、現在、69世帯が加盟(注:「現在」の日付がないので2015年かは分からず)。
「1989年に東京都の予算で東京在住のアイヌ民族実態調査が行われ、統計的に約2700名が在住していることが判りました。けれども北海道での結婚、就職、学校内で日常化している差別を逃れて来た者が多く、アイヌを名乗りにくいのが現状で、会員は多くありません」と「あらまし」に書かれています。差別から逃れるために北海道を離れても、差別の現実は変わらず、苦しんで来た八幡さんと同じように、差別の中を歩まれたウタリが団結して差別撤廃、地位向上を訴えて来られている。当然のことながら、アイヌ民族差別は北海道だけの問題ではなく、日本の問題であり、政府が政策をもって取り組んで行かなければならないことです。
 くわしく紹介したいところですが、今回はじめてテープ録音禁止と言われ、聞くのに懸命でメモはほんの少しでしたので、後日、推進機構から出るのをお待ち下さい。以前から推進機構のサイトからダウンロードもできるので、わたしも残りの聴けなかった講座を楽しみにしています。
http://www.frpac.or.jp/application/files/h27_keihatsu_sapporo.pdf

8月7日は第32回北海道大学アイヌ納骨堂におけるイチャルパに参列しました。黙祷、献花の後、北海道アイヌ協会理事長と北海道大学総長の挨拶があり、納骨堂内においてカムイノミ、お堂東側にてヌサオンカミ(御幣礼拝)、イチャルパ(供養)と続きました。
アイヌ協会理事長挨拶の一部を紹介。
北海道大学をはじめ、道外の大学に対しても、アイヌの人骨収集を重大なる人権問題と捉え、慰霊施設に集約された後においても、当事者の責任において、将来への禍根を残すことなく、返還・保管のあり方を求めて参りたいと思っております。
さる5月17日に開催しましたアイヌ協会の総会においても、慰霊および管理のための施設、その周辺環境の整備について、決議され、それをもって国に対して訴えを続けていくこととしております。現在、その整備のあり方について、検討されております。一刻も早く、一刻も早く、全国の1600……1600人ですよ。1600体と言うから、体だと思うかも知れませんが、1600人……1636人の……を超える先祖の御霊を懇ろに慰めることが、私たちの責務であると思っております。

山口佳三北大総長挨拶一部も紹介。
…北海道大学は穏やかなる心を持って、厳粛に受け止めたいと……。この納骨堂は昭和59年4月に建立され、それ以来、わたくしどもは、先住民族であるアイヌ民族の歴史と文化に深い敬意を有するものとして、心からの畏敬の念と、真摯なる責任を持って、アイヌの人々のご遺骨をここでお預かりして参りました。北海道大学は、これまで、北海道アイヌ協会のみなさまとの間に、長年にわたって築いてまいりました友好的な関係を継承し、この納骨堂建立の趣旨に沿ったご遺骨の管理と、御霊の供養を行なうために、今後とも、できる限りの努力を行ない、誠意を込めて、ご遺骨の管理を厳正に行なう所存でございます。

敬意と畏敬の念と真摯なる責任をもってお預かりしているなら、遺骨返還請求裁判で訴えられなかったはず。誠意のかけらも感じられなかったがゆえに、小川隆吉エカシらが最終手段として裁判と言う形で返還を訴えたのです。是非とも、出来る限りの努力を行い、誠意を込めてご遺骨を返還して頂きたい。
納骨堂には過去に小川隆吉エカシに連れられて何度か入り、写真も撮らせて頂いたのですが、この度、増築後のを見ると、過去にあったいかにも「資料倉庫」的なステンレス戸棚はなく、清楚に木枠を作って置かれていました。「医学部標本保存庫」からやっと納骨堂らしくなったように感じました。

『新・先住民族の「近代史」植民地主義と新自由主義の起源を問う』(上村英明著)5章

2015-03-14 13:20:04 | 日記
『新・先住民族の「近代史」植民地主義と新自由主義の起源を問う』(上村英明著 法律文化社)の5章を読みました。
序文にあるように、本書は2001年4月に出版した『先住民族の「近代史」―植民地主義を越えるために』の復刻版として出版。
この第5章「尖閣諸島」問題は2014年2月の新論文を掲載された部分です。
4章にあるように、「北海道」も「沖縄」も植民地政策が行われ、現在も未解決である中、1984年5月にアイヌ民族の最大組織である北海道ウタリ協会(現在、アイヌ協会)が総会で採決した「アイヌ民族に関する法律案」の「本法を制定する理由」に以下のように書いていることを紹介しています。
 北海道、樺太、千島列島をアイヌモシリ(アイヌの住む大地)として、固有の言語と文化を持ち、共通の経済生活を営み、独自の歴史を築いた集団がアイヌ民族であり、徳川幕府や松前藩の非道な侵略や圧迫とたたかいながらも民族としての自主性を固持してきた。
 明治維新によって近代的統一国家への第一歩を踏み出した日本政府は、先住民であるアイヌとの間になんの交渉もなくアイヌモシリ全土を持主なき土地として一方的に領土に組み入れ、また、帝政ロシアとの間に千島・樺太交換条約を締結して樺太および北千島のアイヌの安住の地を強制的に棄てさせたのである。
 土地も森も海も奪われ、鹿をとれば密猟、鮭をとれば密漁、薪をとれば盗伐とされ、一方、和人移民が洪水のように流れこみ、すさまじい乱開発が始まり、アイヌ民族はまさに生存そのものを脅かされるにいたった。

こうした植民地化に対するアイヌ民族の訴えは、「北方領土」問題にもつながっていることを、1991年4月ロシアのゴルバチョフ大統領の来日に対してアイヌ民族から出された陳述書にも記されている、と紹介。陳述書には北方領土に対して日露両政府とも「固有の領土論」を放棄し、先住民族であるアイヌ民族の権利を尊重しながら、ロシアの新島人、日本の旧島人の代表も含めて共存の道を探るよう提案が書かれていた。しかし、日本政府は無視。その理由はアイヌ民族は同化政策によって「消滅」したというフィクションが長年作り上げられ、メディアも取り上げず、国民の多くも関心を払わなかったからだ、と。さらに、2008年に国がアイヌ民族を日本の先住民族と認めても「植民地支配の事実は認定されておらず、アイヌ民族の権利はまったく認められていない」と。

『2「尖閣諸島」問題に潜む植民地主義:日本政府の論理の検証』では、日本政府の見解である1895年1月に近代国際法上の「無主地(terra nullius)」・「先占(occupation)」の法理により日本領土に編入された。1884年に古賀辰四郎が「探検」し、1885年9月から沖縄県当局がどの国家の管轄下にもないこと(いわゆる国際法上の「無主地」)であることを確認した後、1895年1月の閣議決定により「固有の領土」として日本に編入したとのこと。
しかし、①歴史的領土論を展開していない(1884年以前の言及はなし。むしろ中国の方がある)。②「日清戦争」の最中であり、侵略戦争によって収奪された土地への領土権は現在の国際法上では認められない。と、上村さんは批判。
また、「無主地(terra nullius)」・「先占(occupation)」の法理が21世紀のこの東アジアで用いられることの批判。そして、「発見者」の古賀は、そもそも商売の取引相手だった琉球漁民によって情報を得たのであり「探検」と呼べるものでもなく、発見者はむしろ琉球王国の漁民だった、と。さらに、歴史的にこの島は1880年に日本政府によって中国領とする提案・調印をしたという事実を日本政府は隠蔽していること、加えて、琉球王国の存在とその植民地化という歴史的事実を隠蔽している、と指摘。
そもそも「琉球併合」は侵略による植民地化であり、国際法上違法なのだ(4章も参照)、と。
(「4.中国政府の論理構造とその問題」は略します)

「5.琉球人と「ユクン・クバシマ」:新たな解決に向けて」では、尖閣諸島を沖縄のことばで「ユクン・クバシマ」と呼ばれて来た名前の由来を紹介。「クバ」はヤシ科に属する常緑高木(日本ではビロウ)で、葉で屋根を葺いたり、伝統的な小舟(サバニ)の帆、笠、蓑、ロープなどに、みきは家の柱や床材に、新芽は食材にと生活用品の重要な供給材だった。さらに、「クバ」は、神々が地上に降りる際に使う「神木」であり、「御嶽(ウタキ:聖拝所)」を囲む森となる場合が少なくない。「クバ」が茂げる島々は琉球人にとって聖なる土地であった可能性もある、とのこと。そして、「ユクン」は糸満漁民のこと。彼らは高級食材のフカヒレ、するめ、イリコ(海鼠)の乾物を取り、琉球は中国へ輸出していた。
また、「ユクン・クバシマ」は、荒天時の「風待ちの場所」で、まさに、歴史的かつ実効支配の主体、あるいは生活圏とした住民のアイデンティティは琉球人民・民族であると推測出来る、と。
ただし、台湾の伝統的な漁民タウ民族なども黒潮に乗って伝統的に利用していた可能性も否定出来ないことから、
「ひとつのアイディアは、琉球人民・民族と台湾先住(原住)民族の領土権を確認しながら、日本、中国、台湾の各国政府が従来の領土論をとり下げ、先住民族の権利を尊重し、地域の琉球人や台湾人などを主体として、共存・共生の空間あるいは平和の空間を想像することである。この論理によってこそ、日中(台)間の国家的緊張は正当かつ合理的にあるいは「成熟した知恵」を使って回避することができるのではないだろうか」
と結んでいます。

いい勉強になりました。できるだけ分かりやすく『ためしてガッテン』のように紹介したいと思いつつ、理解不足でよけい分からなくさせてかも知れません。わたしもより深めて行きます。


さて、イヴェント案内Blogもこのところ、再開させています。http://blog.goo.ne.jp/sakura-ive
最新イヴェントのご案内です。
「アイヌ民族否定論に抗する」刊行記念トーク
日時 3月29日(日)18:00~20:00
内容:札幌市議の「アイヌ民族、いまはもういない」発言。ネット上にあふれ、街頭にも飛び出したアイヌへのヘイトスピーチ。これらに多様な論者が「NO」を突きつける一冊の緊急刊行を記念して札幌ではじめてのトークイベントを開催します。この本が生まれた経緯と内容の紹介等を執筆者の皆さんが語るトークショーです。
出演:香山 リカ 氏(精神科医)、丹菊 逸治 氏(言語学・北海道大学アイヌ・先住民研究センター准教授)、大野徹人 氏(ペウレ・ウタリの会会員)マーク・ウィンチェスター 氏(アイヌ近現代史研究・神田外国語大学日本研究所専任講師)
参加費 千円(簡単なドリンク付)  定員40名(申込必要)
会場 くすみ書房大谷地店 2F 〒004-0041 札幌市厚別区大谷地東3-3-20 キャポ大谷地
tel:011-890-0008 fax:011-890-0015  email:kusumi-b@bz03.plala.or.jp

わたしも申し込みましたが、日曜日であることと、翌日から二風谷にてバプテスト同盟のティーンズ研修を協力するので行けるか不安です。それと、このBlogでご紹介した榎森さんと上村さんの文しかまだ読んでいないので、頑張って準備をして行きたいと思います。

最近、読みたい本も読めていないで積読状態なのに、気になって買った漫画も机の上に平積みになっています。『王道の狗1、2』(安彦良和 中公文庫)、『ゴールデンカムイ1、2』(野田サトル 集英社)、『シュマリ上,下』(手塚治虫 三栄書房)。さらに、アイヌ民族関連ではないですが、息子が持って来てくれた『聲の形 全七巻』(大今良時 集英社)も。


斜里入口にある「オシンコシンの滝」 夜はライトアップがされているのですね。
アイヌ語で「そこにエゾマツの群生するところ」の意味。
過日の道東の旅の途中、中標津の友人牧師を見舞いに行った帰りに知りました。

『新・先住民族の「近代史」植民地主義と新自由主義の起源を問う』4章

2015-03-13 14:07:06 | 日記
『新・先住民族の「近代史」植民地主義と新自由主義の起源を問う』(上村英明著 法律文化社)の4章を読みました。
いつものように興味深く読んだ部分を紹介します。
4章では「日露交渉」について詳しく書かれています。当時のロシア政府の論理はヨーロッパを主体とする「国際法」(日本では万国公法)に基づいたものであったこと、それに対し、日本政府はこの論理の展開に極めて巧妙にアジア型の国際秩序の論理を組み込んでいった。その中核となる考え方は、日本に対し「朝貢関係」にあったアイヌ民族を日本の「(従)属民(vassal people)」とする論理。アイヌ民族が松前藩に「介抱」あるいは「撫育」されているゆえに「従属民」であり、スメレンクル人(現在のニブフ民族を指すアイヌ民族による呼称)は「満州江貢之皮類持渡り、人別之増減等申立」てるから中国に帰属する、また、カラフト島中北部に生活するウィルタ人、報告書にいうオロッコ人は、こうした行動をしないのでどこにも帰属していない、と。「従属民」が居住する範囲には、日本の「領土権」を主張。
日本政府が日露交渉で得た最大の利益は北海道本島の領有だった。交渉がカラフト島、千島列島のみを対象にしたため、北海道本島はその論理に従って、そのまま日本の固有の領土とされた。
「日露和親条約」締結後、日本政府はこの領土権主張の根拠に弱点を感じ、これを隠すためにアイヌ民族の民族性を抹殺する(エスノサイド)ための同化政策を強行。「蝦夷地」を直轄地とし、それまで使っていた呼称「夷人・異人」を、もともと日本の領土内で土地の人を表す「土人」に変え、日本語や日本の風俗の奨励、仏教布教などを推し進めた。
明治政府のもとに1869年7月「開拓使」が設置されると、入墨、耳輪、家屋焼送(亡くなった人の家を燃やす)などのアイヌ民族の伝統、習慣、文化を禁ずる強制同化政策が1871年より組織的、徹底的に行われるようになる。さらに地名呼称の日本的変更、「国郡制」の実施も行った。   なるほど納得がいきます。

ここで興味深いことが書かれていました。このように名目的なことをしても、日本政府の本音は「北海道」は「日本」の外という認識があった、と。その典型的な例は1873年に「徴兵令」が施行され、国防は「国民皆兵」の原則のもと、各地に軍隊が配置される中、「北海道」だけは「第7軍管区」という名称があたえられただけで、いわば、日本の防衛圏の「枠外」に置かれた、というのです(「屯田兵」を母体に第七師団が編成されたのは1888年)。

「日露国境交渉」が近代日本の北方における国境画定だとすれば、南方における国境画定は1872年の「琉球併合」の経緯を見ることによって理解できるとし、その前に1871年12月の「琉球宮古島民遭難事件」(牡丹社事件)に端を発し、1874年5月の「台湾出兵」を考察。超簡単に言うと、中国は琉球をわが国の「属国」であり、台湾原住民族は中国政府の支配がおよばない「化外」だと述べたところから、国際法的に「化外の地」には「先占」が可能との理論を実践する形で「台湾出兵」が実行された、と。
(久しぶりに難しい文章を読んだので正しく理解しているか不安・・・。)
しかし、中国政府はその後、台湾を「属地」と言い直し、「撫育」を通しての同化政策と支配をおよぼし始める。いずれにせよ、原住民族の権利は一切無視されて大国同士の領土権争いが展開された、ということです。

さて、「琉球処分」ですが、琉球国は1609年の薩摩藩の侵攻以来、薩摩藩の「附庸」となっているのだから、日本に固有の「領土権」があるという論理で1972年に琉球王国を廃して「琉球藩」を設置させた。
上村さんは薩摩藩の「附傭」=従属国の検証をして、琉球王国は「外交政策を駆使して、中国にも日本にも帰属しない固有の国家とし領土を維持して来たとみなすことができる」と。そして、事実、琉球は闘ったと、その内容を書き連ねます(ここは省略)。
しかし、1879年3月27日、琉球処分(罰)案を持った処分官と武装啓作間160余人、そして、熊本鎮台兵400人他が首里城に押し入り、同意を強制させた。
「ここに、日本政府に対する大不敬に罰を与える「処分官」によって、「琉球藩」は廃止され、「沖縄県」が設置されたが、廃止されたものは「琉球藩」ではなく、本章で検討してきたように、「琉球王国」であったことは明らかである。そして、この一連の事件は、「韓国併合」と同じレベルで「琉球併合」と呼ぶことにする」と、上村さん。

最語に、「5 日本の植民地の原型としての「北海道」と「沖縄」 」の章にて、日本政府は、幕末以来今日まで、「北海道」と「沖縄」を「植民地」と認めたことはないが、アイヌ民族や琉球・沖縄民族の視点に立てば明らかだ、と共通点を羅列しつつ述べます。
それは、中華帝国をまねたアジア的な支配―従属体制をヨーロッパ的な「実行支配」と言い張って、主権・領土権を確保する方法。しかし、「従属国(民)」のほうには「日本人」としての意識はなく、実効支配は行われていなかった。そのため、実際におこなわれた同化政策や支配は、実質的に「植民地政策」であった。そして、一番おさえたいこととして、先住民族の権利の視点の欠如と、そのために「北海道」「沖縄」を植民地問題のスコープからはずし、いまだに「植民地政策」や「同化政策」が続行中であるという事実に向き合うことも忘れ去られている、と。

これらの動きで光となるのが韓国の動きだと上村さんは希望を与えてくれています。1910年の「韓国併合」が国際法的視点から無効であったと論証し、日韓関係に新しい歴史解釈を行う動きがある。同じく「アイヌモシリ併合」と「琉球併合」の歴史を再解釈し、その中からアイヌ民族、琉球民族の本来の権利回復への道を模索することが不可欠の作業だと。
(5章は次回に!)

今週号の『週刊金曜日』に、この本が平田剛士さん(フリーランス記者)によって紹介されましたね。

知床から見る流氷

過日、道東に出かけ、北方民族博物館、網走市立郷土博物館、モヨロ貝塚館、ところ遺跡の館を見学してきました。夜は酋長の家で宿泊し、オーロラファンタジーを観ました。1958年2月に知床の空に突如オーロラが出現したそうです。そのことを再現しようと光の演出がとてもよかったです。光を映すために漁師さん達が藁を燃やして煙を出してくれます。ご苦労さまです。
旅の途中に網走湖でワカサギを52匹釣って天ぷらにして食べたり、サロマ湖近くの店で牡蛎を美味しく頂きました。北方民族博物館では体験コーナーで知恵の輪に苦労していると職員の方が分かりやすく教えて下さいました。ところ遺跡の森では同行した息子の手に野鳥がとまり、そのフレンドリーさに驚きました。網走には流氷はきていませんでしたが、知床で見られてよかったです。

カナダ・レポート『マシュー・スティヴンズに聞きました』

2015-02-19 14:24:12 | 日記
わたしたちアイヌ民族情報センターは、年に2回(6月・12月)に、機関紙『ノヤ』(アイヌ語でよもぎ)を編集発行し、道内の超教派のキリスト教会(12月号は全国1700近くの日本キリスト教団の教会含)や、支援をして下さっている個人へ送らせて頂いています。紙面上の都合もあり、諸活動の詳細は当Blogのほうが詳しいことが多いですが、カナダの先住民族や台湾原住民族の情報など、『ノヤ』にのみ掲載しているものもありますから、今後、時々、それらの紹介をさせて頂こうと思います。

今回は、最新号第47号(2014年12月発行)に、カナダに帰国中のスタッフのロバート・ウイットマーさん(カナダ合同教会宣教師)が寄せて下さったレポートを紹介します。


熱く語るマシューさん(2011年)

カナダに来て、2ヶ月が経ち、先住民族で、元ロンドン教区スタッフであり、2011年に北海道を訪ねたマシュー・スティヴンズさんに再会し、とても嬉しい時間を持ちました。彼にカナダの先住民族の現状と課題について聞きました。その話を少し編集しながらみなさんに紹介します。彼の熱い息と思いが力強く伝わってきました。

Q:先住民族の過去と現在はどう違いますか
A:私が子どもだった時に、母のように寄宿学校に行かされないように家族で先住民族の土地を離れる決意をし、トロントに移りました。その時から見たら状況がずいぶん改善しましたが、支配的文化(the dominant culture)とあまりにも差がありすぎて、生活レベルはまだまだ低く、居留地で教育を受ける一人ひとりの子どもにあてられるお金は公立学校より約30%少ないです。

Q:他にどのような差がありますか
A:居留地に住んでいる子どもの4人に一人は貧困家庭で、高等学校を卒業するよりも刑務所に入る確率の方が高いです。非先住民族の青年に比べて自殺率は5倍です。居留地に住んでいる先住民族の結核で死ぬ確率は全国平均の31倍です。カナダは世界の中で、水の資源が豊かな国でありながら、居留地の多くの水が汚染されていて、そのまま使えない状態です。まだまだありますが...。

Q:カナダ政府と先住民の議会によって設置された「真実と和解委員会」の働きについては
A:とても重要な働きで、これによって過去の間違いと現在の課題についての意識が高められていると思います。私も積極的にその働きに参加し、支援しています。しかし、一般の人がこれで差別の問題が解決されたと思ったらそれは大きな錯覚です。今のカナダ政府は次々と表にでない形で先住民族に対する支援金をカットしています。問題は山積みです。

Q:アイヌ民族の遺骨裁判のパンフレットを読んだ印象はどうですか
A:カナダに「学者の破損」に対して先住民族の権利を守る法律がありますが、盗まれた物を取り戻すのに時間とお金がかかります。大学や博物館にあることを証明するのに令状をとらなければならないこともありますし、副葬品などを取り戻す場合それを保管する設備と条件を整えた博物館か資料館を居留地に建てないと帰してもらえないことがあります。お金のない居留地にとってそれは負いきれない負担です。アイヌ民族のみなさんを応援します。

Q:未来への希望は 
A:最近「相応しい関係」(right relations)を作るための集会がありました。南西オンタリオの広範囲から100名の人々が集まり、勉強会をしました。教会、また公や民間の組織の人々の関心がとても高かったです。これからもこのような勉強会を続けましょうという声で終わりました。支配的文化のこのような意識の変化を見ることが何よりもの励まし、希望だと思います。
以上。



最近、当Blogの訪問者の多さに驚いています。今後も諸情報を頻繁に出せるよう努めます。どうぞよろしくお願いします。