~Agiato で Agitato に~

再開後約20年になるピアノを通して、地域やほかの世代とつながっていきたいと考えています。

凡人の尺

2012年02月17日 18時48分35秒 | 見る・読む

以前ここに書いた通り、『文藝春秋』を買って、田中氏の受賞作品を読みました。

性的かつ血なまぐさい作品で、自分の中の「血」や、自分のおかれた「環境」への筆力が凄かったので、

何世代か前の「重たい小説」を感じたのですが、

どうも氏は、パソコンで書かれているわけではなく、原稿は手書きらしい。この『共喰い』は最初、10~20枚ほどの下書きをしたのだけれど、途中で「あ、これはだめだ」とほぼ全部捨て、全部で3回書き直しをされたとのこと。

この「質量」はなるほど、手書きのものであるな・・・・と妙に納得。

別に手書きでないと軽いとかいうわけではないのですけど、なんとなく違うんですよね。どこがと言われるとものすごく困るんですけど(汗)。

また、「これだけ暴力的な描写があるということは、どれだけヒドイ人生を送ってこられたのだろうか~・・」とつい凡人の発想をしてしまうのですけど、氏はこう語っておられます。

<・・・・自分のなかにないものを書いていきたいですね。暴力を描くにしても、決して自分のなかに暴力が内包されているわけじゃないし、周りに暴力を振るう人間もいない。無理に意識して書こうという気もありませんが、自分のなかにあるものでなく、ないものに対して目を向けていきたいと思っています。>

・・・・・そうなのか、なるほど。経験したことでないと書けないとなると、書けることはだんだん狭まってくるわけで。

この小説では、細かい釣りの描写がやたら出てくるので、「どれだけ釣り好きなん?」と思ってたのですが、実際は釣りはまったくされないそう(子どものころはやっていたそうなのだけど)。

もちろんよく調べたり、詳細に想像されてこそのリアルな表現なのでしょうけど、「経験してしまうからこそ逆に表現がつまらなくなる」ことも、もしかしたらあるのかもしれません。

 

私はある時期からどちらかというと経験主義というか現場主義で(笑)、

それは、恋愛にしても、結婚にしても、出産にしても、子育てにしても、

「もし経験していなかったらわからなかったかも」ということだらけだったからなんですけど、

それはとりもなおさず、自分が想像力と感受性の乏しい人間であったからなのであろう・・・と最近では思っております。

早い話が「痛い目にあわないとわからない」(殴)。

なので、病とか死とかこれから経験するであろうことについても、「なってみないとわからない」。

 

ここのところ、文学や音楽について考える機会が多いです。

作者や作曲家の生活史を調べて「・・・だからこういう作品を残したのだ」とついつい考えてしまうのですが、

テキは(いや敵じゃないけど)、そんなモノサシで測れる程度の人間ではあるまい、

生活と無関係とはいわないけれど、個人の経験値を超えたものでなければ、何百年いや何千年の時を生き続ける作品は残せないはず・・・とも思うわけです。

 

・・・・・と、芸術に仕えるしもべですらない、一愛好家としては、あらためて畏怖の思いを禁じ得ません。 



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