相変わらず元気である。それが唯一の救いである。かつての様な、はち
切れる明るさと元気はないが年歳相応の健康さである。ほっとする。恒例の1
週間1度の母との面会である。行きの車中、あれこれ思いを巡らす。元気がな
く萎れていないか、何かの病気で不元気ではないか、咳き込んでいないか、寝
たきりでベッドの上で放心状態になってはいないか、・・・と悪い方へ悪い方へと
想念は悪循環する。着いて顔を観るまで気が気でならない。顔を見た瞬間、健
康状態が、直ぐ分かる。頬に張りがあり眼が明るいと、ほっとする。今日も無事
で元気だ、やっと落ち着いて、何時もの定番の会話を交わす。「どこも痛くな
い?」、「ご飯は食べた?美味しかった?」・・・“どこも痛くない”、“もう、ご飯、
食べたはず”??時計を見ると食事時間ではない。「まだだよ、今から食べる
んだよ」と言うと、“ああ、そうか”、と怪訝そうに答える。・・・面会時のそれも何
時もの定番風景である。健康を確認すると、過去の喜びそうな事例を持ち出し
時間を過ごす。今先、言った文言は、とっくに忘れ何を言ったのか思い出せな
いが遠い過去の健常時の頃の体験は生々しく生き生きと語る。その時が私の
至福の時だ。その文言が聴きたくて母に会いに行くのを楽しみにしている位
だ。健康が確認できるからである。特に幼少時の童謡・唱歌は生き生きと歌
う。三線を弾くのも上手い。既に故人となった親戚の事も生き生きと事例を語
り、現実に生きているのである。故人となった事は知らないのである。母の弟も
既に故人、妹も故人である。にも拘らず、母の中では未だ、彼等は生きてい
る。聴く私は複雑な思いで頷きながら真剣に聴く。それが子の私の精いっぱい
の現実の役目だ、そう自分に言い聞かして時を過ごす。生き生きと語る母の様
子は、かつての健常時の頃と少しも変わらない。この母の子としてこの世に生
を受けた私は世界一の果報者だと心からそう思い自覚する。『お母さん、あり
がとう!』。・・・1週間後、また来るから・・・万感の思いを込めて心の中で、そう
呟き施設を後にした。