八咫烏の声

神社の行事、社務などの日記です。

曇り空

2010年05月26日 14時15分33秒 | 神職所感

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今日の午前中は雨が降ったり止んだり、また空気も「ヒィ~ンヤリ」して肌寒い日です。

こんな日は身体の外も中も冷え冷えしてしまいそうです。(私だけ~ぇ?でしょうか?)

しかし神職たる者、少なくともいつも笑顔を忘れることなく前向きな心持で過ごして行かなければ参拝者の願いをお神様に伝える事は難しく思えます。(あくまで自論ですけど・・・)

でも本当に「病は気から」という言葉があるように心の持ちようというのは大事な事の様に思います。

ですから、もし心が曇り空の様な人は前向きな気持ちで進み、時には一休みをしながらほんの少し、何かの切っ掛けで晴れやかな心に成れれば良いですね。

何かの切っ掛け、例えば・・・本日は初宮の御祈願がありました。

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お子さんが授かりお母さんのお腹の中で成長し元気に生まれて来る。

神秘的で幸せな事です。

そして、その生まれ来たお子さんを幸せにしたい、護ってあげたい、そういった思いが心の中に芽生えてくる、この様な事などが心を晴れやかに、前向きにする切っ掛けになるのでは?

時には下(足元)を見るのも必要でしょう、でも下ばかり見ずに回りも良く見て視野を広げましょう気付かなかった所に切っ掛け(前向きになれる小さな幸せ)はあるかも知れませんよ。

皆さん笑顔をお忘れなく。T権禰宜でした。


三条実美⑥

2010年05月25日 07時35分00秒 | 黒崎・岡田宮ゆかりの人物

今日も天気はともかく・・・・過ごしやすい日ですね。こんにちわ。いつものI権禰宜です。

さて本日も実美卿のお話です。

維新回天がなり、寓居先の安楽寺から晴れて中央政界への復帰を果たした実美卿は、政府の要職を歴任することとなります。

以降の履歴を簡単に記すと

慶応3年12月に従三位に復し議定となり

慶応4年1月に政府副総裁・外国事務総督

同年2月大納言

同年4月左近衛大将および輔相・上局議定となり従一位

同年5月右大臣

明治4年6月神祇伯を兼

同年7月太政大臣

以上のように復帰以降の卿は政府の要職に次々と就任し、ついには「太政大臣(律令制下とは別物)」という政府の最高役職の座に就いて、役職上政府のトップに立つことになりました。

このように明治初期の政府は実美卿をトップとして、岩倉具視・西郷隆盛・大久保利通等の維新の実力者たちが運営を行うという形でスタートしたのでした。

しかし、この実美卿を首班とする政府運営は、とある政策をめぐって閣僚内の対立が激化。ついには明治政府を危機的状況へ追い込むことになるのです。~つづく~


薫風・・・・・・?

2010年05月24日 13時09分23秒 | 神職所感

雨の次は風ですか・・・。こんにちわ。I権禰宜です。

今日は久しぶりに晴れました。ここ数日は雨や曇りの日が多かったので、身心ともに気持ち良かったのですが・・・・風が強いです・・・・。

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せっかく朝境内を掃除しても、この風では木の葉や埃が舞って「あ~あ・・・・」な状態。

それでも今日は戌の日ということや、久しぶりの晴れ間と言う事もあって、普段の平日と比べれば社頭はだいぶ賑わいました。

風が止めば雨が降り、雨が止めば風が吹く・・・・天候の事ですからどうしようもないのでしょうけど、なかなか上手い具合に「風薫る五月」といかないものですねぇ。

I権禰宜


五月雨は

2010年05月23日 12時53分39秒 | 神職所感

緑色・・・・・・。そんな歌い出しで始まる往年のヒット曲がありましたね。

え?私はまだ(なんとか)20代ですよ?こんにちわI権禰宜です。

さて本日も

・・・・・・・です。

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せっかくの日曜日だったのに・・・。

まぁ、それでも10件以上の社頭祈願がありましたので、雨の日の割には神社が賑わいましたね。

しかし最近はだんだんと雨の日が多くなってきている様な気がします。まさに「五月雨」。

尤も、本来の五月雨は旧暦五月の雨の事ですので、実は「五月雨」って「梅雨」の事なんですが。

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でも今日の様な日だと「嗚呼・・・五月雨だなぁ」としみじみ思ってしまいますね。

以上、毎度ながら年齢に疑惑を持たれるI権禰宜でした。


三条実美⑤

2010年05月22日 12時45分05秒 | 黒崎・岡田宮ゆかりの人物

今日は昨日とかわって微妙な天候。しかし涼しくて過ごしやすい一日です。こんにちわ。I権禰宜です。

さて久しぶりの実美卿のお話です。

黒崎の街を経て太宰府に至った実美以下5人の公卿達は、数年の月日を太宰府で過ごすことになりました。

その間、中央情勢は変転著しく移り変わっていきました。この間の出来事は有名ですので詳細には語りませんが、特に不倶戴天の怨敵としていがみ合った鹿児島藩と萩藩が共に手を携えて討幕運動へと歩みだした事の影響は大きく、再度幕府は長州を討とうと軍を起こしましたが(第二次長州征伐)今度は幕府が敗北してしまいました。この敗戦以降幕府は次第にその求心力を失っていきます。やがて将軍・徳川慶喜は政権を朝廷へ返還し(大政奉還)、王政復古の大号令がなされたのでした。

これによって太宰府に流されていた実美らは政界に復帰することとなり、新政府内の要職に就きました。一方、大政奉還後の政治情勢も予断を許さず、政治的実権を返上したとはいえ依然最大最強の大名として存続している徳川家と、それを危険視する新政府は対立を深め、ついに鳥羽伏見で両者は激突。これに勝利した新政府軍は一気に優勢となり、逆に北へ北へと敗走を重ねた「江戸幕府」はついに箱館(函館)で崩壊しました。

こうして「幕府」を完全に倒した新政府は欧米列強に習って「強い国家」の建設に着手することになり、ここに明治維新の幕が開かれたのでした。そしてその最高官に任命されたのが、誰あろう三条実美その人だったのです。~つづく~

I権禰宜