8時、起床。某委員会のヒアリングで午前中から大学へ。指定された時刻に控え室に行くと、私より前の時刻を指定された他の論系やコースの主任たちがいた。時間が押しているようである。控え室の雰囲気は病院の待合室に似ている。お互いライバルではあるが、そこには同病相哀れむ者同士の連帯感のようなものがあり、名前を呼ばれて会議室に向う者に「頑張ってね」とエールを送ったりする。30分ほど待って、ようやく私の順番が来た。私が鈍感なだけだったのかもしれないが、とくに難しい質問はなく、思いの外あっさり終る。「メーヤウ」で昼食(インド風ポークカリーとラッシー)をとり、あゆみブックスで内田樹『村上春樹にご用心』(アルテスパブッリシング)を購入し、教員ロビーで紙コップの珈琲を飲みながら読む。
「村上作品ではつねに「ありえないこと」が起きる。村上文学に瀰漫するこの「ありえなさ」は小説がその誕生の瞬間から身に帯びた本態的性格なのだろうと私は思っている。
「ありえないこと」が起こる。
死者からのメッセージが届き、「かえるくん」が帰宅を待ち、羊男がやってくる。日常的な論理や算盤勘定や処世術では対応しきれないような不条理で破局的な状況に登場人物は投じられる。でも、主人公たちはかろうじてそれを生き延び、読者は安堵の吐息をつく。
私たちが安堵するのは、その「ありえないこと」が私たちの身にも起こりうることだということを実は私たちが知っているからである。私たちはそれを知っている。知らないようにふるまっているだけである。
私たちはふだんは「現実的な小説」と「奇想天外な小説」を大きく二分して「ありえないこと」はありえず、「ありえること」だけがありえるという安全だが退屈な予定調和のうちでまどろんでいる。
すぐれた小説はこの二つをいきなり接合してしまう。
日常性と非日常性が気づかないうちに架橋される、その技巧の妙に作家の才能は発揮される。村上春樹はその技術において天才である。
現実的な小説を書く人はたくさんいる。奇想天外な小説を書く人もたくさんいる。しかし、現実的でかつ奇想天外な小説を書く人はまれである。その中でも村上春樹の才能は突出しているといってよいと思う。」(249-250頁)
「現実的でかつ奇想天外な小説を書く人はまれである」と内田は書いているが、必ずしもそうともいえいない。村上春樹の影響でそういう若手の作家は確実に増殖している。しかし、村上春樹以前に話を限れば、たしかに日本の作家で「現実的でかつ奇想天外な小説を書く人」はまれであった。星新一は稀有な例外であったが、その作品の短さゆえに(ショート・ショート)、文学作品としての正当な評価を受けることがなかった。なぜ村上春樹が「現実的でかつ奇想天外な小説を書く人」になったかは作家論の範疇だが、なぜわれわれが「現実的でかつ奇想天外な小説」を受容するようになったかは読者論の範疇である。前者についてはひとまず措くとして、後者に関して言えば、われわれの現実の不安定さが増してきて、「ありえること」と「ありえないこと」の間の境界線(結界)にほころびが生じ、「ありえないこと」が頻繁に起こるようになってきたため、もはや知らないふりをする必要がなくなってきたためであろう。しかし、「ありえないこと」は災いとは限らない。それは「ありふれた奇跡」であることもある。不安な時代には、「ありえないこと」が起こってしまうことを恐れる気持ちだけでなく、それを待望するような気持ちも広がっていく。
2時からの文研委員会は1時間ほどで終了。高田馬場駅のみどりの窓口で金沢旅行の帰りの特急指定席券を購入してから、「新宿武蔵野館」でイザベル・コイシェ監督の『エレジー』を観た。メロドラマを観たのは久しぶりであるが、『エレジー』(原作はフィリップ・ロスの小説『ダイング・アニマル』)は、若い男女のメロドラマでもなく、中年カップルのメロドラマでもなく、初老の男と若い女のメロドラマである。男は大学教授で、女は学生である。両者の年齢差は30歳。「ありえないこと」ではないが、めったに「ありえること」ではない。立場上、このあたりの議論には踏み込まないでおきたい。私がこの映画を観ようと思ったのは、私が大学教授だからではなく、若い女を演じているのがペネロペ・クルスだからである。彼女の出演した作品は全部観ているというほどのファンではないものの、デビュー作の『ハモンハモン』(1992)や『ベルエポック』(1992)から近作の『ボルベール<帰郷>』(2006)まで、主要な作品はほぼ観ているから、彼女のファンを名乗ることに躊躇はない。本当に美しい女優である。彼女の魅力は箇条書きにすれば10個ほどあるが(コイシェ監督の『死ぬまでにしたい10のこと』に倣って)、その先頭には「美しい」というのがくる。もうそれだけで十分なのだが、二番目に「裸体を惜しげもなくさらす」というのがくる。本当にもう十分でしょ。だから三番目以下は省略。
蒲田に着いて、有隣堂で以下の本を購入。
津村記久子『ポトスライムの舟』(講談社)
同 『ミュージック・プレス・ユー!!』(角川書店)
柴田元幸『それは私です』(新書館)
黒岩比佐子『編集者国木田独歩の時代』(角川書店)
鷲田清一『「待つ」ということ』(角川書店)
岩田正美『社会的排除』(有斐閣)
東浩紀・北田暁大編『思想地図』Vol.2(NHK出版)
馬場悠男『「顔」って何だろう?』(NHK出版)
「村上作品ではつねに「ありえないこと」が起きる。村上文学に瀰漫するこの「ありえなさ」は小説がその誕生の瞬間から身に帯びた本態的性格なのだろうと私は思っている。
「ありえないこと」が起こる。
死者からのメッセージが届き、「かえるくん」が帰宅を待ち、羊男がやってくる。日常的な論理や算盤勘定や処世術では対応しきれないような不条理で破局的な状況に登場人物は投じられる。でも、主人公たちはかろうじてそれを生き延び、読者は安堵の吐息をつく。
私たちが安堵するのは、その「ありえないこと」が私たちの身にも起こりうることだということを実は私たちが知っているからである。私たちはそれを知っている。知らないようにふるまっているだけである。
私たちはふだんは「現実的な小説」と「奇想天外な小説」を大きく二分して「ありえないこと」はありえず、「ありえること」だけがありえるという安全だが退屈な予定調和のうちでまどろんでいる。
すぐれた小説はこの二つをいきなり接合してしまう。
日常性と非日常性が気づかないうちに架橋される、その技巧の妙に作家の才能は発揮される。村上春樹はその技術において天才である。
現実的な小説を書く人はたくさんいる。奇想天外な小説を書く人もたくさんいる。しかし、現実的でかつ奇想天外な小説を書く人はまれである。その中でも村上春樹の才能は突出しているといってよいと思う。」(249-250頁)
「現実的でかつ奇想天外な小説を書く人はまれである」と内田は書いているが、必ずしもそうともいえいない。村上春樹の影響でそういう若手の作家は確実に増殖している。しかし、村上春樹以前に話を限れば、たしかに日本の作家で「現実的でかつ奇想天外な小説を書く人」はまれであった。星新一は稀有な例外であったが、その作品の短さゆえに(ショート・ショート)、文学作品としての正当な評価を受けることがなかった。なぜ村上春樹が「現実的でかつ奇想天外な小説を書く人」になったかは作家論の範疇だが、なぜわれわれが「現実的でかつ奇想天外な小説」を受容するようになったかは読者論の範疇である。前者についてはひとまず措くとして、後者に関して言えば、われわれの現実の不安定さが増してきて、「ありえること」と「ありえないこと」の間の境界線(結界)にほころびが生じ、「ありえないこと」が頻繁に起こるようになってきたため、もはや知らないふりをする必要がなくなってきたためであろう。しかし、「ありえないこと」は災いとは限らない。それは「ありふれた奇跡」であることもある。不安な時代には、「ありえないこと」が起こってしまうことを恐れる気持ちだけでなく、それを待望するような気持ちも広がっていく。
2時からの文研委員会は1時間ほどで終了。高田馬場駅のみどりの窓口で金沢旅行の帰りの特急指定席券を購入してから、「新宿武蔵野館」でイザベル・コイシェ監督の『エレジー』を観た。メロドラマを観たのは久しぶりであるが、『エレジー』(原作はフィリップ・ロスの小説『ダイング・アニマル』)は、若い男女のメロドラマでもなく、中年カップルのメロドラマでもなく、初老の男と若い女のメロドラマである。男は大学教授で、女は学生である。両者の年齢差は30歳。「ありえないこと」ではないが、めったに「ありえること」ではない。立場上、このあたりの議論には踏み込まないでおきたい。私がこの映画を観ようと思ったのは、私が大学教授だからではなく、若い女を演じているのがペネロペ・クルスだからである。彼女の出演した作品は全部観ているというほどのファンではないものの、デビュー作の『ハモンハモン』(1992)や『ベルエポック』(1992)から近作の『ボルベール<帰郷>』(2006)まで、主要な作品はほぼ観ているから、彼女のファンを名乗ることに躊躇はない。本当に美しい女優である。彼女の魅力は箇条書きにすれば10個ほどあるが(コイシェ監督の『死ぬまでにしたい10のこと』に倣って)、その先頭には「美しい」というのがくる。もうそれだけで十分なのだが、二番目に「裸体を惜しげもなくさらす」というのがくる。本当にもう十分でしょ。だから三番目以下は省略。
蒲田に着いて、有隣堂で以下の本を購入。
津村記久子『ポトスライムの舟』(講談社)
同 『ミュージック・プレス・ユー!!』(角川書店)
柴田元幸『それは私です』(新書館)
黒岩比佐子『編集者国木田独歩の時代』(角川書店)
鷲田清一『「待つ」ということ』(角川書店)
岩田正美『社会的排除』(有斐閣)
東浩紀・北田暁大編『思想地図』Vol.2(NHK出版)
馬場悠男『「顔」って何だろう?』(NHK出版)