8時半、起床。朝食は炒飯。今日は10時半から教授会があったが、一部の議題が定足数を満たさず次回(3月2日)に持ち越しとなった。困ったものだ。その日は定年退職される先生方の挨拶がある。本来予定されていなかった議題で時間が押したらお気の毒である。教授会の後、那須先生、長田先生と早稲田社会学会の件で1時間ほど相談。それから「秀永」に昼食をとりに出る。定番の木耳肉(ムースーロー)定食を注文。今日は寒い上に、ちょっと風邪気味のせいもあって、コートを着たまま食事をする。椅子に座っていながら、立ち食い蕎麦屋で食事をしているような気分だった。大学に戻り、しかし研究室は寒いので、教員ロビーで食後の珈琲を飲みながら、加藤周一『私にとっての20世紀』(岩波現代文庫)を読む。すでに、単行本(2000年)で読んでいる本だが、加藤の死去を機に現代文庫として再刊されるあたって、2006年の講演会の記録、2008年(8月4日上野毛の自宅で)のインタビューの記録、そして成田龍一による解説が加えられたので、それが読みたくて購入した。インタビュー記録「加藤周一・一九六八年を語る―「言葉と戦車」ふたたびー」を興味深く読む。1968年とはパリでいわゆる「五月革命」が起こった年であり、世界中で同時多発的にスチューデントパワーが爆発した年である。「なぜ同時に世界で起こったのでしょう」という質問に加藤はこう答えている。
「なぜか。それを説明するのは難しい。いくらなんでも全然似ていない状況のもとで酷似した戦闘が起こるのはどうしてかという問題ですね。しかし、それははっきりした理由と論点のない、茫漠とした、しかし非常に強い閉塞の感情だと思いますね。閉塞感。それは資本主義の発展の波の中に、それは必然的に現われるんだと思います。ある時は景気が良く、ある時は景気が悪い、そして景気が悪い時は、その景気の悪さから生じるところの失敗、つまり困難は貧しい人に押しつけられて、金持ちはその時を何となく生き延びる。そういうわけで、漠然とした閉塞感の背景には新古典主義の自由市場主義、なんでもかんでも市場の問題だという考え方と、それだけではなく、経済的な構造があると思うんです。背景にそういう構造があるから感情が生じる。いろんな心理的要素がないまぜになって、そこに格差問題が生じる。なんとなく窒息するような、行き詰るような状態、そういうことが爆発したんじゃないかな。」(288-289頁)
加藤が体調不良をおしてインタビューに応じたのは、思い出話をするためでない。40年前と現在の状況の類似性を強く感じているからである。
「・・・今の日本の中でも将来閉塞感っていうのはあると思うんですね。だけど表現の方法を見出してないし、ちょっと仕方がないみたいになっている面が大きいと思うんです。それはどうなるか。ある時点でもって爆発する。あまり論理的じゃない面も出てくるわけですよ。気分の問題だから。・・・このままいってもどうにもならないし、よく親のこと言うことを聞いて、先生の言うことを聞いて、つまり会社の言うことを聞いて、よい労働者になって、それでどうするんだ、という。それで満足できないヤツが、ある雰囲気を醸成する、もう先がないという閉塞感。しかもそれが非常に広くシェアされる。それが現在の状態です。」(297-298頁)
それなのに、なぜ今の若者、学生たちの怒りは社会に向わないのでしょうか、という質問に加藤はこう答えている。
「ある意味で、明治維新以来の日本は、ずっと非人格化、非個人化、間化という代価を支払って、経済的発展や軍事的な力を持つようになったのです。総理大臣でさえ非個人化するわけですから。組織の動き方、組織の作用ということに変化してきたわけです。それで誰かが非常に儲かるかというとそうでもない。そのために大衆が迷惑しているとばかりは言えない。簡単にいえば、ミリタリー・インダストリアル・コンプレックス(軍産複合)ですね。このシステムの中に入ってしまえば、だんだん専門分野に関する細かい話になっていって、人間的に大きな方針や行く先を全体として指示できるような人はいなくなるということです。」(298-299頁)
インタビュアーは最後に未来に対する希望の可能性を尋ねている。
「それは、できるだけ人の話をよく聞き、しかし、なるほどそうかでおしまいにするのではなく、なんとか人間らしさを世界の中に再生させることを意識しなければならない。実際そういうものとして意識して戦うわけですが、戦う前になんだか分らないものと戦うわけにはいかないから、何が相手なのか、敵なのかを理解することが大事。それは広い意味で思想的な教育の問題ですね。だから、著作業にもし効果があるとすれば、少しでも、どんなに少しでも思想的影響を及ぼすということが大事。/それでその思想は第一部は事実認識です。それをはっきり理解しなければならないです。何が起こっているかということを。それが、私が思想といっているものです。だから第一部は、感覚的な事実の収集とその整理です。整理するにも、どうしようかという考えがすでに必要になる。人間的感情や空想というものの混在した一種の人間的感覚による世界の解釈の仕方ですね。」(299頁)
ここで「人間的感情や空想というものの混在した一種の人間的感覚による世界の解釈」と加藤が呼んでいるものは、私流に翻訳すれば、「物語」ということである。さて、ここからは「番宣」です(そうだったのか!)。4月からスタートする私のゼミ「現代人のライフストーリー」では、個人が自分自身の過去を回想し未来を展望するときの準拠枠としての「物語」だけではなくて、現代人が社会を、世界を認識するときの準拠枠としての「物語」についても研究の対象とする。心理学と社会学の二本立てで行きますと言っているのは、ゼミ生諸君、そういう意味だからね。
「なぜか。それを説明するのは難しい。いくらなんでも全然似ていない状況のもとで酷似した戦闘が起こるのはどうしてかという問題ですね。しかし、それははっきりした理由と論点のない、茫漠とした、しかし非常に強い閉塞の感情だと思いますね。閉塞感。それは資本主義の発展の波の中に、それは必然的に現われるんだと思います。ある時は景気が良く、ある時は景気が悪い、そして景気が悪い時は、その景気の悪さから生じるところの失敗、つまり困難は貧しい人に押しつけられて、金持ちはその時を何となく生き延びる。そういうわけで、漠然とした閉塞感の背景には新古典主義の自由市場主義、なんでもかんでも市場の問題だという考え方と、それだけではなく、経済的な構造があると思うんです。背景にそういう構造があるから感情が生じる。いろんな心理的要素がないまぜになって、そこに格差問題が生じる。なんとなく窒息するような、行き詰るような状態、そういうことが爆発したんじゃないかな。」(288-289頁)
加藤が体調不良をおしてインタビューに応じたのは、思い出話をするためでない。40年前と現在の状況の類似性を強く感じているからである。
「・・・今の日本の中でも将来閉塞感っていうのはあると思うんですね。だけど表現の方法を見出してないし、ちょっと仕方がないみたいになっている面が大きいと思うんです。それはどうなるか。ある時点でもって爆発する。あまり論理的じゃない面も出てくるわけですよ。気分の問題だから。・・・このままいってもどうにもならないし、よく親のこと言うことを聞いて、先生の言うことを聞いて、つまり会社の言うことを聞いて、よい労働者になって、それでどうするんだ、という。それで満足できないヤツが、ある雰囲気を醸成する、もう先がないという閉塞感。しかもそれが非常に広くシェアされる。それが現在の状態です。」(297-298頁)
それなのに、なぜ今の若者、学生たちの怒りは社会に向わないのでしょうか、という質問に加藤はこう答えている。
「ある意味で、明治維新以来の日本は、ずっと非人格化、非個人化、間化という代価を支払って、経済的発展や軍事的な力を持つようになったのです。総理大臣でさえ非個人化するわけですから。組織の動き方、組織の作用ということに変化してきたわけです。それで誰かが非常に儲かるかというとそうでもない。そのために大衆が迷惑しているとばかりは言えない。簡単にいえば、ミリタリー・インダストリアル・コンプレックス(軍産複合)ですね。このシステムの中に入ってしまえば、だんだん専門分野に関する細かい話になっていって、人間的に大きな方針や行く先を全体として指示できるような人はいなくなるということです。」(298-299頁)
インタビュアーは最後に未来に対する希望の可能性を尋ねている。
「それは、できるだけ人の話をよく聞き、しかし、なるほどそうかでおしまいにするのではなく、なんとか人間らしさを世界の中に再生させることを意識しなければならない。実際そういうものとして意識して戦うわけですが、戦う前になんだか分らないものと戦うわけにはいかないから、何が相手なのか、敵なのかを理解することが大事。それは広い意味で思想的な教育の問題ですね。だから、著作業にもし効果があるとすれば、少しでも、どんなに少しでも思想的影響を及ぼすということが大事。/それでその思想は第一部は事実認識です。それをはっきり理解しなければならないです。何が起こっているかということを。それが、私が思想といっているものです。だから第一部は、感覚的な事実の収集とその整理です。整理するにも、どうしようかという考えがすでに必要になる。人間的感情や空想というものの混在した一種の人間的感覚による世界の解釈の仕方ですね。」(299頁)
ここで「人間的感情や空想というものの混在した一種の人間的感覚による世界の解釈」と加藤が呼んでいるものは、私流に翻訳すれば、「物語」ということである。さて、ここからは「番宣」です(そうだったのか!)。4月からスタートする私のゼミ「現代人のライフストーリー」では、個人が自分自身の過去を回想し未来を展望するときの準拠枠としての「物語」だけではなくて、現代人が社会を、世界を認識するときの準拠枠としての「物語」についても研究の対象とする。心理学と社会学の二本立てで行きますと言っているのは、ゼミ生諸君、そういう意味だからね。