フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

2月17日(水) 曇り

2010-02-17 13:29:03 | Weblog

  7時、起床。フィールドノートの更新。
  10時ちょっと前に家を出て、ツヤタにDVD(ウッディ・アレン監督『それでも恋するバルセロナ』)を返却に行く。出かけたついでに「テラス・ドルチェ」のモーニングセットの朝食。単品だと400円のブレンド珈琲に、プラス150円で、厚焼きトースト(バター、イチゴジャム)、ゆで卵、コンソメスープ、サラダが付く。なかなかである。私はモーニングセット(あるいはモーニングサービス)というものが好きで、旅先の朝食はホテルの1000円~1500円もするバイキング形式のものではなく、ホテルの周辺の喫茶店でとることが多い。お金をケチっているわけではなく、その方が落ち着いて朝食がとれるし、珈琲も美味しいのだ。張江洋直・大谷栄一編『ソシオロジカル・スタディーズ』(世界思想社)を読む。来年度のゼミの社会学のテキスト(春期用)に予定している本である。子犬を連れた男性が店に入っていいかと店員に尋ねている。店員は、「かわいいワンちゃんですね」と言った後、「でも、ダメだと思います」と答えていた。「ダメです」ではなく、「ダメだと思います」という婉曲の表現が可笑しかった。「(店長に聞いてみましょうか)でも、ダメだと思います」という意味だろうか。


かわいいけど、ダメだと思います

  昼食は日清のチキンラーメン、半ライス(野沢菜のふりかけ)。昨日は天丼だったから今日は質素にというわけではなく、チキンラーメンというもの、たまにとても食べたくなるのだ。なんでだろう。食事をしながら、『龍馬伝』(録画)を観る。
  パソコンに向っているときに、ふと、「どこかに美しい村はないか」という詩の一行が甦る。誰の、なんという詩だったか。こういうときネット検索は威力を発揮する。たちどころにそれが茨木のり子の「六月」であることがわかる。

     六月

     どこかに美しい村はないか
     一日の仕事の終わりには一杯の黒麦酒
     鍬を立てかけ 籠を置き
     男も女も大きなジョッキをかたむける

     どこかに美しい街はないか
     食べられる実をつけた街路樹が
     どこまでも続き すみれいろした夕暮は
     若者のやさしいさざめきで満ち満ちる

     どこかに美しい人と人との力はないか
     同じ時代をともに生きる
     したしさとおかしさとそうして怒りが
     鋭い力となって たちあらわれる

                        茨木のり子『見えない配達夫』(1958年)より

  この詩を初めて知ったのは、高校生の頃、森田健作主演のTVドラマ『俺は男だ』を観ていたときである。森田や早瀬久美演じる高校生たちがこの詩を国語の授業のときに朗読していた。いい詩だ、と同じ高校生だった私は思った。いま考えれば、「どこかに○○はないか」というくり返されるフレーズは、○○の不在を前提として、それを激しく希求しているのだということがわかる。急速な戦後復興(それは高度成長に接続する)の過程で失われていったコミュニティと人と人との絆、それを当時のカウンターカルチャーであった社会主義的な(同時にヒューマニスティックな)まなざしの中でリニューアルしていこうとする意欲にあふれた詩だ。
  茨木のり子が「六月」を書いてから50年が経過した現在、コミュニティや人と人との絆を激しく希求するムードが再び高まっている。

  「これからの時代のコミュニティというものを考えていく上で無視できない要因として、少子・高齢化という人口構造の大きな変化がある。この場合重要な視点は、人間の「ライフサイクル」というものを全体として眺めた場合、「子どもの時期」と「高齢期」という二つの時期は、いずれも地域への〝土着性〟が強いという特徴をもっている点だ(これに対し現役世代の場合は、概して〝職域〟への帰属意識が大きくなる)。・・・(中略)・・・戦後から高度成長期をへて最近までの時代とは、一貫して〝「地域」との関わりの薄い人々〟が増え続けた時代であり、それが現在は、逆に〝「地域」との関わりが強い人々〟が一貫した増加期に入る、その入口の時期であるととらえることができる。」(広井良典『コミュニティを問い直す』19-20頁)

  夕方、散歩に出る。有隣堂で以下の本を購入し、「カフェ・ド・クリエ」で読む。持参した『神様のカルテ』は読了。夏川の次なる作品も出たら読んでみたいと思う。

  竹沢尚一郎『社会とは何か』(中公新書)
  西澤晃彦『貧者の領域』(河出ブックス)
  宮坂静生『季語の誕生』(岩波新書)
  山口瞳『行きつけの店』(新潮文庫)


2月16日(火) 曇り

2010-02-17 08:59:44 | Weblog

  7時、起床。ハムトースト、紅茶の朝食。
  昼食は食べに出る。前から入ってみたいと思っていた天ぷら屋「天味」へ行く。駅前の商店街からは外れた場所にあって、散歩の途中で、「こんなところに天ぷら屋が・・・」と思った店であるが、こじんまりとした店構えがいい雰囲気をかもし出していた。カウンターの席に座って、ランチの上天丼(1000円)を注文する。エビ、キス、アナゴ、カボチャ、ナス、シシトウの6品が乗っている。タレの色は濃い目で、味は甘め。ご飯にかかった部分が美味しい。蕎麦屋で食べる天丼(天重)は天ぷらを天つゆにくぐらせただけということがあるが、それではダメで、やはり天丼専用のタレがかかっていないと(そしてそのタレがご飯にまでしみこんでいないと)天丼を食べた気がしない。ご主人は背筋が通っていて人当たりはいい。通うに値する店であることがわかったので、今度は目の前で揚げてくれるのを間髪を入れずに食べる天ぷら定食を注文して、塩で食べてみたい(かき揚げは小天丼にしてもらえるらしい)。


「天味」の文字がいい

  食後の珈琲は「シャノアール」」で。ところが珈琲を注文してすぐにマフラーがないことに気がついた。「天味」を出るときは確かに首に掛けたことを覚えているから、途中の道のどこかでずり落ちたことになる。たぶん、あの時だ。小さな女の子が母親が自転車を止めている隙に歩道から車道へよちよち歩き出したので、思わず、「危ない!」と声を出して制止した。母親も慌てて女の子に駆け寄って事なきを得た。立ち去る私に母親が何か声を掛けたが、お礼をいっているのだろうと思い込んで、ちょっと振り返って会釈をしただけで来てしまったが、いま考えると、たぶんあのとき母親は「マフラーを落としましたよ」と言っていたのに違いない。珈琲を三口ほど飲んでから店を出て(財布じゃないから拾われて持っていかれることはないだろう)、いま来た道を引き返す。思った通り、マフラーはその場所に、正確には、その場所の近くのビルの軒下にあった。たぶん女の子の母親は私が戻ってくると考えてそこに置いたのだろう。「あれっ?」と思ったのは、マフラーの中にカギが入っていたことだ。これは私のカギではない。どうやら私がマフラーを落としたあたりには別の誰かがカギを落としていたらしい。女の子の母親はそのカギもマフラーと一緒に私が落としたものと思い込んだのだろう。カギはその場所に置いておいたが、こちらは持ち主が戻ってくるとは思えない。
  「シャノアール」に戻ってまた珈琲を注文するのもおかしなものなので、東口の「カフェ・ド・クリエ」に行って、『神様のカルテ』を読む。営業の人と思しき男性が飲み物を注文し、それをトレーに乗せたまま、ケータイ電話をかけて、「いま、この前のカフェにいます」と話している。ところが先方は別の場所を指定したようで、その男性は飲み物を一口も飲まないままトレーを返却口に置いて、店を出て行った。店員さんが怪訝そうな目で男性を見送った。さきほどの私のように、ちょっとは口をつけてから店を出た方がよかったのではなかろうか(五十歩百歩か)。
  「カフェ・ド・クリエ」で『神様のカルテ』の第二話「門出の桜」を読んでから、ひさしぶりのジムへ行く(家を出るときからその仕度はしてきた)。負荷を軽めにした筋トレを2セットこなしてから、60分のウォーキングで500キロカロリーを消費。マシンのパネルには「牛丼一杯分」と表示されているが、その牛丼は「並」であろう。3時間前に食べた上天丼はおそらく800キロカロリーはある。それでも差し引き300キロカロリーで、それはドトールのジャーマンドッグに相当する。実際には上天丼を食しながら、実質はホットドッグ1本のカロリー摂取で済んでいるわけで、美味しいものを食べながら太らないためには運動が欠かせない。ちなみに2月1日から始めた「計るだけダイエット」はちゃんと続けていて、この2週間で1キロの減量である。ジムが加わって「計るだけ」ではなくなるが、これから新学期の授業開始(4月6日)までの7週間で、あと3キロの減量をするつもりだ。
  くまざわ書店で新書を5冊購入。駅ビルの「カフェ・ド・クリエ」でアイスカフェ(砂糖抜き)を飲みながら目を通す。広井の本はゼミで読んでもいいかもしれない。

  猪木武徳『戦後世界経済史』(中公新書)
  広井良典『コミュニティを問いなおす』(ちくま新書)
  原田曜平『近頃の若者はなぜダメなのか』(光文社新書)
  今柊二『定食学入門』(ちくま新書)
  半藤一利『15歳の東京大空襲』(ちくまプリマー新書)