7時、起床。フィールドノートの更新。
10時ちょっと前に家を出て、ツヤタにDVD(ウッディ・アレン監督『それでも恋するバルセロナ』)を返却に行く。出かけたついでに「テラス・ドルチェ」のモーニングセットの朝食。単品だと400円のブレンド珈琲に、プラス150円で、厚焼きトースト(バター、イチゴジャム)、ゆで卵、コンソメスープ、サラダが付く。なかなかである。私はモーニングセット(あるいはモーニングサービス)というものが好きで、旅先の朝食はホテルの1000円~1500円もするバイキング形式のものではなく、ホテルの周辺の喫茶店でとることが多い。お金をケチっているわけではなく、その方が落ち着いて朝食がとれるし、珈琲も美味しいのだ。張江洋直・大谷栄一編『ソシオロジカル・スタディーズ』(世界思想社)を読む。来年度のゼミの社会学のテキスト(春期用)に予定している本である。子犬を連れた男性が店に入っていいかと店員に尋ねている。店員は、「かわいいワンちゃんですね」と言った後、「でも、ダメだと思います」と答えていた。「ダメです」ではなく、「ダメだと思います」という婉曲の表現が可笑しかった。「(店長に聞いてみましょうか)でも、ダメだと思います」という意味だろうか。
昼食は日清のチキンラーメン、半ライス(野沢菜のふりかけ)。昨日は天丼だったから今日は質素にというわけではなく、チキンラーメンというもの、たまにとても食べたくなるのだ。なんでだろう。食事をしながら、『龍馬伝』(録画)を観る。
パソコンに向っているときに、ふと、「どこかに美しい村はないか」という詩の一行が甦る。誰の、なんという詩だったか。こういうときネット検索は威力を発揮する。たちどころにそれが茨木のり子の「六月」であることがわかる。
六月
どこかに美しい村はないか
一日の仕事の終わりには一杯の黒麦酒
鍬を立てかけ 籠を置き
男も女も大きなジョッキをかたむける
どこかに美しい街はないか
食べられる実をつけた街路樹が
どこまでも続き すみれいろした夕暮は
若者のやさしいさざめきで満ち満ちる
どこかに美しい人と人との力はないか
同じ時代をともに生きる
したしさとおかしさとそうして怒りが
鋭い力となって たちあらわれる
茨木のり子『見えない配達夫』(1958年)より
この詩を初めて知ったのは、高校生の頃、森田健作主演のTVドラマ『俺は男だ』を観ていたときである。森田や早瀬久美演じる高校生たちがこの詩を国語の授業のときに朗読していた。いい詩だ、と同じ高校生だった私は思った。いま考えれば、「どこかに○○はないか」というくり返されるフレーズは、○○の不在を前提として、それを激しく希求しているのだということがわかる。急速な戦後復興(それは高度成長に接続する)の過程で失われていったコミュニティと人と人との絆、それを当時のカウンターカルチャーであった社会主義的な(同時にヒューマニスティックな)まなざしの中でリニューアルしていこうとする意欲にあふれた詩だ。
茨木のり子が「六月」を書いてから50年が経過した現在、コミュニティや人と人との絆を激しく希求するムードが再び高まっている。
「これからの時代のコミュニティというものを考えていく上で無視できない要因として、少子・高齢化という人口構造の大きな変化がある。この場合重要な視点は、人間の「ライフサイクル」というものを全体として眺めた場合、「子どもの時期」と「高齢期」という二つの時期は、いずれも地域への〝土着性〟が強いという特徴をもっている点だ(これに対し現役世代の場合は、概して〝職域〟への帰属意識が大きくなる)。・・・(中略)・・・戦後から高度成長期をへて最近までの時代とは、一貫して〝「地域」との関わりの薄い人々〟が増え続けた時代であり、それが現在は、逆に〝「地域」との関わりが強い人々〟が一貫した増加期に入る、その入口の時期であるととらえることができる。」(広井良典『コミュニティを問い直す』19-20頁)
夕方、散歩に出る。有隣堂で以下の本を購入し、「カフェ・ド・クリエ」で読む。持参した『神様のカルテ』は読了。夏川の次なる作品も出たら読んでみたいと思う。
竹沢尚一郎『社会とは何か』(中公新書)
西澤晃彦『貧者の領域』(河出ブックス)
宮坂静生『季語の誕生』(岩波新書)
山口瞳『行きつけの店』(新潮文庫)