ひさしぶりで大学へ。午前中に最初の会議を終えて、「五郎八」で昼食(天せいろ)。次の会議まで3時間ほどあったので、中央図書館へ行って調べもの。本部の生協でノートを一冊購入してから、文学部に戻り、戸山図書館で調べもの。午後3時から現代人間論系の会合。新学部では基礎講義はオンデマンド形式で行うのだが、そのコンテンツについて話し合う。午後5時から新学部の基礎演習のあり方についての検討会。先日の教授会でわれわれの原案が了承されたので、具体化に向けての詰めの作業に入る。午後7時、終了。生協文学部店で以下の本を購入。
ジョン・アーリ『社会を越える社会学』(法政大学出版局)
石原千秋『学生と読む『三四郎』』(新潮選書)
高橋哲也『戦後責任論』(講談社学術文庫)
小森陽一『村上春樹論』(平凡社新書)
「ごんべえ」でカレー南蛮うどんを食べながら『学生と読む『三四郎』』を読む。石原はいま早稲田大学(教育学部)の教員だが、ちょっと前まで成城大学の教員で、本書はその頃の一年間の授業(演習)の記録だ。もっともカレー南蛮うどんを食べながらだから、まだ最初の方しか読んでいない。そこには「いまどきの大学生」や「いまどきの大学教員」のことが書かれていて、それがなかなか面白かった。
「最近の大学生は勉強しなくなったと言われはじめてから、もうどのくらいの年月が経つだろう。僕は「学生が勉強しなくなった」という見方は、半分当たっていて、半分はずれていると思う。いまの学生は、僕たちの時代とは、勉強する場所が違っているのではないかと思っている。
一九五〇年代生まれの僕たちの世代までは、学生は教室の外で勉強するものと相場が決まっていた。文学部(正確には、文芸学部)の学生だった僕は、喫茶店に行っても、飲み屋に行っても、文学の話ばかりしていた。たとえば、友達が「処女であり、生気にあふれ、美しい、今日・・・・」などと呟く。その時に、「ああマラルメだね」とすぐに答えられなければ、もう対等な「仲間」だとは見なして貰えなかった。そうやって、友達同士がお互いを厳しく値踏みし合っていた。
それに、ちょうど構造主義が入ってきたところで、ロラン・バルトやレヴィ=ストロースなどを滅茶苦茶な読み方で読んでいた。ところが国文系の教員はそういう本にはまったく無関心だったから、僕たちははなっから相手にしていなかった。そこで、ますます教室の外で勉強することになった。そのくらい、生意気だった。
…(中略)…
ところが、いまは違う。多くの学生にとって、大学は高校や予備校の延長であって、勉強は教室でするものらしいのだ。なにしろ、多くの学生は自分を「生徒」と言うのである。自分が「学生」になったという自覚さえないのだ。だから、僕たちの世代には想像もできないことだが、大学の教師に何かを「期待」しているらしいのである。」
最後のセンテンスは笑えた。石原は1955年の生まれで、私とは同世代である。だから彼の活写する当時の文学部の学生の生態は、大学は違うものの、同じ文学部の学生だった私には馴染み深いものである。ホント、生意気だった。数々の生意気な発言と態度、申し訳ございませんでしたと言いたい気持だ(言わないけど)。
下の写真は生協文学部店で購入した本をいれてくれた手提げ袋。可愛すぎて、電車の中で恥ずかしかった。こんな袋を手に提げて家路を辿るなんて、私も素直になったものである。
ジョン・アーリ『社会を越える社会学』(法政大学出版局)
石原千秋『学生と読む『三四郎』』(新潮選書)
高橋哲也『戦後責任論』(講談社学術文庫)
小森陽一『村上春樹論』(平凡社新書)
「ごんべえ」でカレー南蛮うどんを食べながら『学生と読む『三四郎』』を読む。石原はいま早稲田大学(教育学部)の教員だが、ちょっと前まで成城大学の教員で、本書はその頃の一年間の授業(演習)の記録だ。もっともカレー南蛮うどんを食べながらだから、まだ最初の方しか読んでいない。そこには「いまどきの大学生」や「いまどきの大学教員」のことが書かれていて、それがなかなか面白かった。
「最近の大学生は勉強しなくなったと言われはじめてから、もうどのくらいの年月が経つだろう。僕は「学生が勉強しなくなった」という見方は、半分当たっていて、半分はずれていると思う。いまの学生は、僕たちの時代とは、勉強する場所が違っているのではないかと思っている。
一九五〇年代生まれの僕たちの世代までは、学生は教室の外で勉強するものと相場が決まっていた。文学部(正確には、文芸学部)の学生だった僕は、喫茶店に行っても、飲み屋に行っても、文学の話ばかりしていた。たとえば、友達が「処女であり、生気にあふれ、美しい、今日・・・・」などと呟く。その時に、「ああマラルメだね」とすぐに答えられなければ、もう対等な「仲間」だとは見なして貰えなかった。そうやって、友達同士がお互いを厳しく値踏みし合っていた。
それに、ちょうど構造主義が入ってきたところで、ロラン・バルトやレヴィ=ストロースなどを滅茶苦茶な読み方で読んでいた。ところが国文系の教員はそういう本にはまったく無関心だったから、僕たちははなっから相手にしていなかった。そこで、ますます教室の外で勉強することになった。そのくらい、生意気だった。
…(中略)…
ところが、いまは違う。多くの学生にとって、大学は高校や予備校の延長であって、勉強は教室でするものらしいのだ。なにしろ、多くの学生は自分を「生徒」と言うのである。自分が「学生」になったという自覚さえないのだ。だから、僕たちの世代には想像もできないことだが、大学の教師に何かを「期待」しているらしいのである。」
最後のセンテンスは笑えた。石原は1955年の生まれで、私とは同世代である。だから彼の活写する当時の文学部の学生の生態は、大学は違うものの、同じ文学部の学生だった私には馴染み深いものである。ホント、生意気だった。数々の生意気な発言と態度、申し訳ございませんでしたと言いたい気持だ(言わないけど)。
下の写真は生協文学部店で購入した本をいれてくれた手提げ袋。可愛すぎて、電車の中で恥ずかしかった。こんな袋を手に提げて家路を辿るなんて、私も素直になったものである。