フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

5月16日(火) 小雨、夕方には上がる

2006-05-17 00:29:44 | Weblog
  告別式で喪主として挨拶。実際の挨拶はもっと短いものであったが、事前に考えていた内容は以下のようなものであった。

  本日は、父、大久保泰助の葬儀にご会葬いただきまして、ありがとうございます。遺族・親族を代表いたしまして、御礼申し上げます。
  父は去年の11月頃から体調を崩し、年末からはほぼ寝たきりの状態になりました。ヘルパーさんの助けを借りながら、自宅で看病・介護を続けてまいりましたが、先週の金曜日の夜から意識がはっきりしなくなり、13日(土)の夜8時頃、静かに息を引き取りました。母、私、私の妻、孫たちに看取られながらの最期でした。82歳という享年は、いまの時代では、必ずしも長生きとはいえないかもしれませんが、過不足のない寿命をまっとうできたのではないかと思っております。
  父は大正12年、東京の浅草の生まれで、生まれてすぐに関東大震災を経験し、兵隊にも取られ、終戦のときには22歳でした。ですので、父の20代は昭和20年代、30代は昭和30年代というふうに、昭和という時代とともに人生を生きてきた人でした。長く千代田区役所に勤務しており、公務員だからというわけではないのでしょうが、まじめな人柄で、いわゆる「飲む打つ買う」という方面の才能のまったくない、大変家族思いの父親でした。父親抜きの夕食の食卓という記憶が私にはほとんどありませんし、父から大声で怒鳴られたりした記憶もありません。若い頃は、カメラや俳句に凝ったこともあったようですが、年をとってからは、カラオケが唯一の趣味で、老人会などで、「大久保さん、お上手ですね」と言われると、まんざらでもないようでした。父の介護をしているときに、一度、私がベッドのわきで、昭和20年代の流行歌、「白い花の咲く頃」「リンゴ村から」「別れの一本杉」などの曲を口ずさみましたところ、「あなた、上手だね」といって、デュエットをいたしました。父と一緒に歌を歌ったのはあのときが最初で最後でした。半年間の自宅での看病・介護はなかなか大変でしたが、こういう楽しい思い出もできました。
  父は、いわゆる立身出世とは無縁な人生を送った人でしたが、人と人との絆に恵まれた幸せな人生を送った人であったことを、この度の葬儀を通して、十分にうかがい知ることができました。父は亡くなってしまいましたが、どうかみなさま方、私たち残された家族とも末永くお付き合いをさせていただきたいと願っております。とくに母は、この半年間、ずっと父の看病・介護にあたっておりまして、たまには気晴らしに外出したらと私が申しましても、やはり父のことが気になるようで、外出しても、早々に引き上げてきてしまうのです。これからは、ぜひみなさまに、自宅の方にお越しいただいて母の話相手になってやっていただきたい、また、母を家から引っ張り出していただきたい、そう切にお願い申し上げます。
  本日は、ご多用の中、また、小雨の降る中、ご会葬いただきまして、どうもありがとうございました。