陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

64.南雲忠一海軍中将(4) 「けしからん」と、火鉢をひっくり返した

2007年06月08日 | 南雲忠一海軍中将
「悲劇の南雲中将」(徳間書店)によると、南雲忠一は明治41年、海軍兵学校を5番の成績で卒業した。
 
 首席は佐藤市郎だった。佐藤市郎は戦後の岸信介、佐藤栄作の兄弟宰相の長兄。

 南雲忠一の兵学校二年終了時の成績は、航海340(満点350)、砲術330(350)、水雷327(350)、運用265(300)、機関340(350)、普通学659(750)、合計2193(2400)点だった。ちなみに首席の佐藤市郎は2295点だった。

 大正9年12月、南雲忠一は海軍大学校甲種を優等で卒業し、海軍少佐に昇進している。

 その後、海軍大学校教官や艦長を歴任し、昭和10年、海軍少将に昇進した。続いて第1水雷戦隊司令官、第8戦隊司令官、水雷学校校長などを歴任し、昭和13年第3戦隊司令官になった。

 南雲少将が第3戦隊司令官で戦艦金剛に載っていたときの話である。

 艦隊が別府に入り、司令部も「なるみ」で宴席をもうけた。この時、美津丸という年増の芸者が島田を結って客席に待っていた。

 南雲少将は美津丸の酌で茶碗酒をやっていた。別席では、若い士官達が宴席を張っていた。

 廊下に出た美津丸は、顔なじみの中尉と出会った。「おい美津丸、どこの席に来ているんだ」と色白で、長身の中尉は聞いた。「司令官の席やし」美津丸は答えた。

 すると中尉は「なに、あのカニの司令官か、よせよせ。それよりこちらへこい。生きの良いのが揃っているぞ」「でも、面白いよ、司令官も」「いなかものだよ、ほとけほっとけ」

 若い中尉にひきずられた美津丸はそのまま若手士官の席に入り、歌を歌って騒いだ後、途中からその中尉と姿を消してしまった。

 一方、南雲少将は、待てど暮らせど、気に入りの芸者が帰って来ないので、いらいらし始めた。

 美津丸が姿を消したと聞くと「けしからん」と、火鉢をひっくり返した。そして、もうもうたる灰神楽のなかで寝てしまった。

 南雲忠一は昭和14年海軍中将に昇進し、海軍大学校校長から昭和16年4月に 第1航空艦隊司令長官に就任した。

 昭和16年10月、軍令部は真珠湾の攻撃において、山口多聞少将率いる二航戦の飛龍、蒼龍の飛行機を、五航戦と加賀の三隻に移して作戦を行う案を機動部隊指揮官で第一航空艦隊司令長官・南雲忠一中将に提案した。

 二航戦の飛龍、蒼龍は航続距離が短い。12ノットの巡航速力で、加賀が13800マイル、翔鶴が15500マイルである。

 一方、飛竜型は12200マイルである。それで補給の問題が争点となったのである。軍令部は飛龍、蒼龍を作戦からはずす案を南雲長官に提案したのである。

 「山口多聞」(PHP文庫)によると、10月中旬、徳山沖で、戦艦陸奥を宿泊艦として真珠湾攻撃の図上演習が行われた。

 その席で連合艦隊の航空参謀・佐々木彰中佐が軍令部の意向だとして、驚くべき発言をした。

 「南方作戦の為に、航続距離の短い赤城、飛龍、蒼龍は、フィリピン作戦に使い、ハワイは距離の長い加賀、瑞鶴、翔鶴、でやっていただきたいのですが。そのかわりパイロットは、従来通りハワイに行ってもらう。とにかう、あっちも足りない、こっちも足りない、それで戦争をしろというんだから、無茶な話です」。航空参謀としては大胆な発言だった。

 「それは絶対にできない」。源田中佐が即座に言った。

 山口多聞少将も怒った。「何だと、それは誰の考えだ。艦は南方に行け、可愛い搭乗員はハワイに行けだと。馬鹿なことを言うな。よろしい。この山口に自決せよと言うんだな。おお、死にもしよう。だが、死ぬなら真珠湾を叩いてから死ぬ。ほかでは死なぬ。誰がなんと言おうと、他のところでは死なん。この山口は絶対に行くぞ!」血相を変えて詰め寄った。

 山口が喧嘩っ早いのは有名である。佐々木中佐は知らないわけではなかったが、南雲司令長官も了解しており、航空参謀としては、考慮しなければならない立場にあった。

 山口はどこか、南雲中将とそりが合わなかった。山口は父親は島根だが、生まれも育ちも東京である。開成中学という洒落た学校で幅をきかせ、海軍兵学校でもすべてを仕切った。なんでも自分でやらないと気がすまない。

 対する南雲司令長官は、なにせ質素倹約で名高い上杉鷹山の米沢である。米沢なまりが抜けないため、時々、何を言っているのか分からなかった。「訓示は英語でやった方が、まだいいですなあ」副官がポツリと漏らしたほどである。