陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

221.山下奉文陸軍大将(1)将軍のなかでも山下大将ほど武術に関心を示さなかった人も珍しい

2010年06月18日 | 山下奉文陸軍大将
 「シンガポール・山下兵団マレー電撃戦」(アーサー・スウィンソン・宇都宮直賢訳・サンケイ新聞出版局)によると、山下奉文は一時、父のように医者になりたいと考えたが、学業はけっしていいほうではなかった。

 結局、奉文の両親は彼にいちばん向いているのは軍人だと決め付けた。その決定について、山下将軍は後に次のように語った。

 「それはおそらく、わたくしの運命だったろう。わたくしはこの経歴を自分で選んだわけではなかった。おそらく父は、わたくしが、図体がでかく健康だったので、その考えをほのめかしたのだろう。母は、ありがたいことに、競争の激しい入学試験にとても合格すると信じなかったので本気になって反対しなかった」

 だが、山下はやすやすと合格し、明治三十三年、広島陸軍幼年学校に入校した。中央幼年学校も士官学校も優等で卒業、陸軍大学校も優等で卒業した。

 後年、「マレーの虎」と呼ばれ、武人的軍人の象徴にまつりあげられた山下大将だが、医者志望だったことからわかるように、本質は決して軍人至上主義の人ではなかった。

 並みいる将軍のなかでも山下大将ほど武術に関心を示さなかった人も珍しい。軍刀にしても銘などにはまったく拘泥しなかった。

 山下奉文の家庭の日常は、閑な時は大抵昼寝をしていたと言われている。時々、大工道具を揃えて、修繕仕事みたいなことをしたかと思うと、夜店をひやかして、盆栽を買ってきて楽しむ無邪気で平凡な生活だったという。子供がないので、兄の子を養子に迎え、子供とのんきに遊んでいた。

 山下奉文の居眠りは有名だった。軍務の会議の最中でも居眠りをして鼾をかいたといわれている。実際は扁桃腺が悪くのどを詰まらせるから鼾のような音を出すのだと本人は弁解する。だが、居眠りすることは事実だった。

 <山下奉文(やました・ともゆき)陸軍大将プロフィル>

明治十八年十一月八日高知県香美郡香北町出身。山下佐吉(医師)の次男。三歳年上の兄、奉表は海軍軍医少将。
明治三十二年(十四歳)四月海南学校(高知市)入学。
明治三十三年(十五歳)九月広島陸軍地方幼年学校入校(二年まで首席、その後も2~3番の成績)。
明治三十六年(十八歳)七月広島陸軍地方幼年学校卒業。九月東京の陸軍中央幼年学校入校。
明治三十七年(十九歳)十一月陸軍中央幼年学校卒業。十二月陸軍士官学校入校。
明治三十八年(二十歳)十一月二十五日陸軍士官学校卒業(一八期)。広島の歩兵第十一連隊附。
明治三十九年(二十一歳)六月二十六日歩兵少尉。
明治四十年(二十二歳)六月清国駐屯軍歩兵中隊附(中国大陸)。
明治四十一年(二十三歳)十二月歩兵中尉。広島の歩兵第十一連隊附。
明治四十三年(二十五歳)十二月戸山学校教導隊附。
大正二年(二十八歳)十二月陸軍大学校入校。
大正五年(三十一歳)五月歩兵大尉。十一月二十五日陸軍大学校卒業(二八期・恩賜)。歩兵第十一連隊中隊長。
大正六年(三十二歳)二月元陸軍少将、永山元彦(陸士一)の長女、久子と結婚。八月参謀本部附。
大正七年(三十三歳)二月参謀本部部員(ドイツ班)。
大正八年(三十四歳)四月駐スイス大使館附武官補佐官。スイス公使館附武官・佐藤安之助大佐(陸士六)、補佐官・東條英機大尉(陸士一七・陸大二七)、河辺正三大尉(陸士一九・陸大二七)と交流。
大正十年(三十六歳)七月ドイツ駐在。
大正十一年(三十七歳)二月ドイツから帰国、歩兵少佐。七月二十二日陸軍技術本部附兼陸軍省軍務局軍事課編成課長。
大正十四年(四十歳)八月歩兵中佐。
大正十五年(四十一歳)三月十六日陸軍大学校教官(兼任)。
昭和二年(四十二歳)二月二十二日オーストリア大使館兼ハンガリー公使館附武官。
昭和四年(四十四歳)八月一日歩兵大佐。陸軍兵器本廠附(軍事調査部軍政調査会主任幹事)。
昭和五年(四十五歳)八月一日歩兵第三連隊長。
昭和七年(四十七歳)四月十一日陸軍省軍務局軍事課長。
昭和九年(四十九歳)八月一日陸軍少将。陸軍兵器本廠附。
昭和十年(五十歳)三月十五日陸軍省軍事調査部長(東條英機少将の後任)。
昭和十一年(五十一歳)二月二十六日、2.26事件で青年将校らと交渉。三月十日歩兵第四十旅団長(朝鮮へ)。
昭和十二年(五十二歳)八月二十六日支那駐屯混成旅団長。十一月一日陸軍中将。
昭和十三年(五十三歳)七月十五日北支那方面軍参謀長。
昭和十四年(五十四歳)九月二十三日第四師団長(北支・満蒙)。
昭和十五年(五十五歳)七月二十二日航空総監兼航空本部長(東京)。十二月十日ドイツ派遣航空視察団長としてドイツ・ベルリン訪問。
昭和十六年(五十六歳)六月九日軍事参議官。七月十七日関東防衛軍司令官(満州)。十一月六日第二十五軍司令官。十二月八日マレー作戦の指揮官としてコタバル上陸。
昭和十七年(五十七歳)二月十五日シンガポールを陥落させる。七月一日第一方面軍司令官(満州)。
昭和十八年(五十八歳)二月十日陸軍大将。
昭和十九年(五十九歳)九月二十六日第十四方面軍司令官(フィリピン)。
昭和二十年(六十歳)一月第十四方面軍はバギオ山中に移動。九月三日バギオで米軍に降伏し調印。十二月八日マニラ軍事法廷で死刑判決。
昭和二十一年(六十歳)二月二十三日マニラ郊外ロス・パニョスで刑死(絞首刑)。享年六十歳。