陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

681.梅津美治郎陸軍大将(21)いま機密費を送るのは、狂人に刃物を与えるようなものだからネ

2019年04月12日 | 梅津美治郎陸軍大将
 昭和十二年八月中旬夜、陸軍省人事局の便所で、私(人事局補任課高級課員・額田担中佐)は、軍務局長・後宮淳中将と偶然一緒になった。

 私が、少くとも「太原・済南の線に進出するの要あり」と述べると、「そんなことをするためには、五個師団も出さねばならぬではないか」と叱り飛ばされたことがあった。

 軍務局長・後宮淳中将は確かに不拡大派であった。

 軍事課長・田中新一大佐は、単なる拡大派ではなく、たびたび小競合いの起こらぬよう、この際短切なる相当な一撃を加えてすぐ退く案のようであった。

 私は、陸軍次官・梅津美治郎中将は、概ね、軍事課長・田中新一大佐と同様な考えだったと思う。

 私の想像では、軍務局長・後宮淳中将は少し足りない、参謀本部第一部長・石原莞爾少将は俊敏、果断に過ぎて少し危ないと、陸軍次官・梅津美治郎中将が感じられていたことが、二人の転出に起因していたと思う。

 以上が、当時、陸軍省人事局課員だった額田担元中将の回想である。

 諌山春樹(いさやま・はるき)元中将(福岡・陸士二七・陸大三六・参謀本部庶務課長代理・歩兵大佐・参謀本部庶務課長・兼大本営副官兼管理部長・独立歩兵第一一連隊長・少将・東部軍参謀長・第二五軍参謀長・第一五軍参謀長・第二六歩兵団長・公主嶺教導団長・中将・第一四軍参謀長・台湾軍参謀長・第一〇方面軍参謀長・終戦・平成二年死去・享年九十六歳)は、当時参謀本部庶務課高級課員(中佐)だった。

 諌山春樹元中将は、当時の陸軍次官・梅津美治郎中将について次の様に回顧している。

 ある本で見た記憶ですが、梅津陸軍次官の机の上は常にきれいに片づけられ、ただ停年名簿が一冊置いてあったという記事を思い出します。それだけ人事には、深い関心を持っておられたのだと思います。
 
 私が参謀本部の庶務課で参謀の人事を取り扱っていた際、一般から右翼と見られていた長勇君を在京のある職に転任させる案を補任課に差し出した折、当時の補任課長・青木重誠さんが来られて、この案を考慮するよう申されましたが、私は上司の承認を受けたもので、受け容れることは出来ない旨を告げ断ったのですが、その後またやって来られ、実は陸軍次官から考え直すよう云われたとの理由を申され、更に次官のところへ来てくれとのことで行ったのですが、その時のお言葉は忘れましたが、次官の考えは、過激な思想の持主は中央部には置きたくないと云う事のようでした。

 勿論、参謀の人事は従来から参謀本部で取り扱い円満に運んでいたのでありますから、帰って上司に申し東京への転任を取止め、京都の第一六師団に転任させた事があります。

 梅津将軍は、権謀術数などとは全く縁遠い方で穏健中正、それですから、その頃、統制派だの皇道派だのと申す派閥的権力闘争があったように思われますが、将軍はそんな事には全く無関係で、何派にも偏せず、ことに、はったりなどと云うものは微塵もなく、筋を通して中道を信念を持って邁進された方という印象が残っております。

 昭和十二年七月七日、盧溝橋事件が勃発した。当時陸軍省経理局主計課長は、栗橋保正(くりはし・やすまさ)主計中佐(茨城・陸軍経理学校五期・陸軍省経理局建築課長・経理局主計課長・主計大佐・臨時東京経理部長・主計少将・関東軍倉庫長・第二一軍経理部長・南支那方面軍経理部長・朝鮮軍経理部長・陸軍省経理局長兼大本営野戦経理長官・主計中将・関東軍経理部長)だった。

 戦後、栗橋保正元陸軍省経理局長は、盧溝橋事件勃発直後の陸軍次官梅津美治郎中将について、次の様に回想している。

 盧溝橋事件勃発の直後であったが、北支現地軍から機密費送金の要請があり、時の陸軍次官・梅津中将がこれを承認したとの説明が軍務局からあった。

 経理局では、軍務局の要求手続きに基き、さっそく送金の処置をした。

 しかるにその翌朝、私が出勤すると間も無く次官が呼ぶので行ってみると、頗る不機嫌で、「金銭の出納は長官の命令なくしてはできぬと聞いているが、昨日送金した機密費は誰の命令でやったか」との質問である。
 
 気の短い私は癪にさわったがじっとこらえて、「私は次官が承認されたとの軍務局の説明により実施しましたが、直接次官の承認は得ていません。私は弁明はいたしません。御処分を願います」と述べた。

 中佐の階級であった私としては、不遜のそしりは免れないが、次官は怒りもせず、かえって静かな態度になって、「君を責めるわけではない。実はいま少し現地の情勢を見てからにしようと思っていたのだ。いま機密費を送るのは、狂人に刃物を与えるようなものだからネ……」と言った。