陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

542.源田実海軍大佐(2)源田と柴田は、空中戦闘思想の相異から深く対立するようになる

2016年08月12日 | 源田実海軍大佐
 源田実の著書は、「海軍航空隊始末記・発進編」(文藝春秋新社)、新版「海軍航空隊始末記、戦闘篇」(文藝春秋新社)、「指揮官 人間掌握の秘訣」(時事通信社)、「真珠湾作戦回顧録」(読売新聞社)、「源田実 語録」(善本社)、「統率力 源田実の経営戦略」(読売新聞社)、「敗中勝機を識る」(善本社)、「風鳴り止まず」(サンケイ出版)、「海軍航空隊 発進」(文春文庫)などがある。

 「海軍航空隊 発進」(源田実・文春文庫)によると、広島県広島市水主町の県立病院の裏には、立派な庭園があった。庭園の中央には大きな池があった。

 海軍兵学校合格通知を受けた直後の、大正十年七月の初め、源田実は友人と二人で、この池のまわりを歩きながら自分の将来の道について考えた。

 海軍兵学校を志したのは小学生時代からであったが、いよいよ海軍に入るとなると、源田実は「何をやったらよいであろうか」と次の選定の問題にぶつかった。

 現実問題としては、何もこの時期に決定する必要はなかった。海軍兵学校に入ってからでもよいし、海軍兵学校を卒業後、遠洋航海を済ませ、海上勤務の実際に携わってからの方がむしろよいだろう。

 この時期、二十歳から二十五歳位の成人の域では自分の希望する職業に適しているか、あるいは思いもかけなかった方向に自分の適性を見出すかもしれない。

 海軍兵学校入校前の、いわゆるティーン・エィジャーの間は、正確なことは判らない。しかし、当時の源田には、そんな思慮はなかった。

 “速やかに方針を定め、その方針に従って、驀進する”という方法が、最も効果的であると源田は考えていたので、海軍に入ってからの専門について深く考えた。
 
「海軍に入りたい」という熱意は強いものだった。「海軍がダメなら陸軍とか、高等学校を受ける」あるいは「今年駄目でも、来年がある」という代案は源田には全くなかった。

 ほのかに頭の一角にあった考えは「もし駄目だったら、同文書院にでも行こうか」というようなものだった。源田の兄弟は、ほとんど高等学校から大学という途を歩いている。

 従って、源田がそういう途を希望しても、源田の父は、そうしてくれただろう。だが、源田は海軍兵学校受験を一本勝負として取り組んだ。「もし駄目なら、大陸にでも行こう」という考えだった。

 源田は病院の裏の大きな庭園で池の周りを歩きながら、ふと頭に浮かんだことがあった。イギリスから来た飛行将校の一群が、霞ヶ浦の海軍飛行場で、日本海軍の飛行将校達に、操縦教育をやっている、ということだった。

 新聞を通じて、源田の脳裏に残っていたのである。このことが電光のように源田の頭を走ると同時に、「そうだ、飛行機だ、飛行機にしよう」「これから最も将来性のあるのは飛行機だ」という着想と決心が即座にまとまった。

 源田が実際に飛行機関係に入るのは、それから七年後であるが、その間、この時決心して定めた目標を、ただの一度も変更したことは無かった。
 
 昭和五年二月源田実中尉は、空母「赤城」乗組になった。その前の昭和五年一月、源田実と海兵同期の柴田武雄中尉(海兵五二・大佐)が空母「加賀」乗組みになっている。

 「赤城」の源田中尉と、「加賀」の柴田中尉、二人はともに若き有為な戦闘機乗りだった。この二人にとって、向こう一年間に及ぶ母艦生活は、彼らの人生でも最も充実した楽しい時期であった。
 
 だが、その後、この二人、源田と柴田は、空中戦闘思想の相異から深く対立するようになる。

 空母「加賀」には、戦闘機操縦の達人と言われた、先任分隊士・岡村基春(おかむら・もとはる)大尉(高知・海兵五〇・岡村サーカス・試験飛行中<左手の中指・薬指・小指>を根元から切断・第一二航空隊飛行隊長・中佐・第三航空隊司令第二〇二海軍航空隊司令・第五〇二海軍航空隊司令・神ノ池航空隊司令・大佐・第三四一航空隊司令・上層部に特攻を進言・特攻兵器桜花部隊である第七二一海軍航空隊(神雷部隊)司令・戦後鉄道自殺)がいた。

 「鷹が征く」(碇義朗・光人社)によれば、この岡村大尉を一番機に、霞ヶ浦の操縦学生課程で一番と二番の成績を分かち合った、柴田武雄中尉と井上勤中尉(神奈川・海兵五二・少佐)を列機とした豪華メンバーの士官小隊は空母「加賀」の華だった。

 息の合ったこの三人は、普段の飛行訓練中はもちろん、戦技などでも常に行動を共にして、その水際立った編隊飛行ぶりに磨きをかけ、世に「岡村サーカス」の別名で呼ばれた、編隊特殊飛行の基礎を作り上げた。

 昭和五年十二月一日、海軍の定期異動が行われた。「海軍航空隊発進」(源田実・文春文庫)によると、当時空母「赤城」飛行隊の戦闘機パイロットであった源田実中尉も横須賀航空隊附に移動した。