陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

532.永田鉄山陸軍中将(32)東條少将は、真崎大将に一泡吹かせる意気込みだった

2016年06月03日 | 永田鉄山陸軍中将
 昭和九年三月五日、永田鉄山少将は、第一師団歩兵第一旅団長から、陸軍省軍務局長に就任した。五十歳であった。

 林大将は陸軍大臣になって二ケ月目に永田少将を本省に呼び戻した。一方、小畑敏四郎少将は、中央に戻さず、近衛歩兵第一旅団長から、陸軍大学校幹事にして(三月五日)、遠ざけた。

 だが、真崎大将と林大将はもともと親友だった。また、大正十五年、林中将が東京湾要塞司令官で待命を覚悟していた時、真崎少将が武藤信義教育総監に頼み込み、林中将を陸軍大学校長にしてもらったのだ。

 その真崎大将に配慮して、林陸軍大臣は、真崎派の柳川平助中将を陸軍次官として留任させ、山岡重厚少将を整備局長に、山下奉文大佐を軍事課長として留任させた。

 東條英機(とうじょう・ひでき)少将(岩手・陸士一七・陸大二七・歩兵第一連隊長・参謀本部編制動員課長・少将・陸軍省軍事調査部長・陸軍士官学校幹事・歩兵第二四旅団長・関東憲兵隊司令官・中将関東軍参謀長・陸軍次官・陸軍航空総監・陸軍大臣・大将・首相兼内務大臣・兼軍需大臣・兼参謀総長・予備役・A級戦犯で死刑)は、当時陸軍省軍事調査部長をしていたが、陸軍士官学校幹事に転出した。

 東條少将は、反荒木・真崎派で、永田鉄山少将らの「一夕会」の会員である。東條少将は、陸軍士官学校幹事として中央を離れるのだが、勇躍して陸軍省を出た。士官学校は、真崎甚三郎大将の領地だ。東條少将は、真崎大将に一泡吹かせる意気込みだったという。

 ところで、荒木大将から林大将へ陸軍大臣の更迭があった直後、まだ歩兵第一旅団長だった永田鉄山少将を原田熊雄(はらだ・くまお・学習院高等科・京都帝国大学卒・日本銀行・宮内省嘱託・加藤高明首相秘書官・元老西園寺公望の私設秘書官・貴族院議員・男爵)が訪ねてその意見を聞いた。永田少将は次のように語った。

 「まず、荒木大将自身はまことに神様のような立派な人だ。けれども、大将にはいわゆる股肱と頼むような部下があり、また荒木でなければならんとどこまでも主張する頗る偏狭な人が比較的多く取り巻いているため、ある意味からいうと、取り巻きによってまた他から誤解されやすい」

 「簡単に言えば、軍人以外の人でも極右の連中が荒木さんに近づく傾向がある。次に、林大将には股肱と頼むような人は無く、相談相手にするような誰と決まった人も無い」

 「またよくわかる人で、人の言をよく容れる。ただ、惜しむらくは、やはりその周囲に集まる者は政治ブローカーが非常に多い。そのため非常に誤られやすいが、しかし、非常にものの良く分かる人で、実に立派な大臣だと自分は思う」

 「林大臣が大臣になったらば自分なども中央に持っていかれるというように……つまり、自分が林派であるかのように言う人がある」

 「自分は林大将には一度しか会ったことがない。しかも、それも三十分ばかり話したきりで、その後近づいた事は無い」

 「最後に、真崎大将に至っては全く子分の無い人である。しかし、この三大将のいずれが大臣になっても、陸軍が動揺することは決して無い。すなわち、三大将の中の一人がなればいいのだ」。

 これが、永田少将が林大臣に迎えられる以前の感想である。だが、永田少将は林陸軍大臣のもとに軍務局長となり、「林大将には股肱と頼むような人は無く、相談相手にするような誰と決まった人も無い」欠点を永田少将自身が補って、その人となり、「永田軍政」を築いていく。

 軍務局長に就任して以来、永田鉄山少将が、最初にやったのが、国策の研究である。国内政策を整備し、国家総動員的な体制にしようという狙いだった。

 もともと、永田少将は国家改造方式を研究しており、陸軍大学校出身の優秀な幕僚将校を集めて、これに当たらせた。外国留学の経験のある者五名、東大派遣学生の経験のあるもの四名という構成だった。その主要な三名は次の通り。

 陸軍省軍務局課員・池田純久(いけだ・すみひさ)少佐(大分・陸士二八・陸大三六・東京帝国大学経済学部・企画院調査官・歩兵大佐・歩兵第四五連隊長・奉天特務機関長・関東軍参謀・少将・関東軍参謀第五課長・関東軍参謀副長・中将・内閣総合計画局長官)。

 陸軍省軍事調査部・田中清(たなか・きよし)少佐(北海道・陸士二九・陸大三七・東京帝国大学文学部・関東軍参謀・長崎要塞参謀・西部防衛参謀・歩兵大佐・台湾軍参謀・中部軍司令部附・予備役)。
  
 参謀本部支那班長・影佐禎昭(かげさ・さだあき)中佐(広島・陸士二六・砲工二三恩賜・陸大三五恩賜・東京帝国大学政治科・上海駐在武官・陸軍省軍務局軍事課満州班長・砲兵大佐・参謀本部支那課長・陸軍省軍務局軍務課長・少将・南京政府最高軍事顧問・第七砲兵司令官・中将・第三八師団長)。