乃木少佐は「よし、さらば。これが兄弟の一世の別れだ。永別の盃をしよう」と手を叩いて酒肴を命じた。老僕は乾鰯に酒を添えて持ってきた。
それを見て、乃木少佐は「酒じゃいけん、水を持て」と命じた。兄弟永別の盃は氷よりも冷たい水であったが、その盃の底には燃えるような温かい愛情が籠もっていた。
真人は「じゃこれでお別れします」と言い、立ち上がった。「しっかりやれ、立派に死ね」。これが一人の弟を送る乃木少佐の餞別(はなむけ)だった。
「兄さんもしっかりおやりなさい。勝利は必ず官軍にあると極まっちゃいません」と言って、真人は悄々と出て行った。乃木少佐はその背姿を見えぬようになるまで見送った。
そのあと、直ぐに乃木少佐は陸軍省へ電報を打った。前原一誠が急に反旗を翻す旨を報告したのだ。乃木少佐の心中は憐れであった。
乃木少佐は真人が自分の説得を聞き入れないのを知ると、せめて武士らしく最後を立派にするようにと申し渡して義絶したのだった。
明治九年十月二十八日萩の乱が勃発、前原一誠が挙兵すると、ただちに萩に、広島鎮台の兵と大阪鎮台の兵が鎮圧に向った。
乱は間もなく鎮定され、前原一誠ら首謀者八名は斬首の刑に処せられた。玉木正諠(真人)は萩の防衛に当たり、押し寄せてくる官軍に立ち向かい、奮戦して戦死した。また、玉木文之進は門弟の多くが萩の乱に加わったことの責任をとって自刃した。
萩の乱が勃発したとき、乃木希典少佐は、連隊を率いて秋月の乱の鎮圧に向かい、これを鎮圧したので、萩には行かなかった。
明治十年二月に西郷隆盛が挙兵して西南戦争が起きると、二月十九日乃木希典少佐は第一四連隊を指揮して久留米に入り植木町で西郷軍との戦闘を行った。
乃木少佐の連隊は二〇〇名だったが、これに立ち向かった西郷軍は四〇〇名で、激戦の末、乃木少佐の連隊は退却した。
退却のとき、連隊旗を保持していた連隊旗手の河原林雄太少尉が敵の不意打ちによって斬られ、戦死し、西郷軍に第一四連隊の連隊旗を奪われた。
河原林雄太少尉を切ったのは西郷軍の第四番大隊第九小隊(伊東祐高小隊長)所属の押伍岩切正九郎だと言われている。
向坂で両軍入り乱れて激戦となった。夜中に岩切正九郎が一人で進んでいると、畑の中の藪の中に身を潜めている一人の敵が見えた。
後ろから岩切正九郎が刀を構えてソット近寄った。待ち受けているとも知らずに、その一人の敵の男は、頭をもたげた。その瞬間、岩切正九郎はヤッと、気合をかけて斬りつけた。
ふいに斬ったので、たった一刀で、相手は声も出さずに、ドサッと倒れこんだ。よく見ると敵は士官で少尉か中尉か判らなかったが、刀をぶん取り、腹に旗を巻いていたので、ついでにその旗もぶん取った。
岩切正九郎は、その旗を大したものと思っていなかったので、ちょうどそこへやって来た村田隊の兵卒に渡した。
そこでその旗は、村田隊の隊長である村田三介の分捕り品ということになったが、その旗が敵の連隊旗だと分かったので、西郷軍の士気は大いに上がった。
西郷軍は奪ったこの連隊旗を竹竿の先に着けて、熊本城の前に持っていって打ち振り、官軍に見せびらかした。
あとで、連隊旗を西郷軍に奪われたと知った乃木連隊長は、「自分と一緒に戦死しようと思う者はついて来い。敵中に突入する。そして軍旗を取り戻す」と叫んで、敵陣の方へ突入して行こうとした。
だが、乃木連隊長は二人の屈強な下士官により、阻止され、突入を止めた。その後も乃木連隊長は敵と遭遇すると、真っ先に突撃して行った。
そのうち乃木連隊長の足を敵の弾が貫き、乃木連隊長は部下によって野戦病院に入院させられた。だが、乃木連隊長は病院を脱走し戦場に戻った。
それを見て、乃木少佐は「酒じゃいけん、水を持て」と命じた。兄弟永別の盃は氷よりも冷たい水であったが、その盃の底には燃えるような温かい愛情が籠もっていた。
真人は「じゃこれでお別れします」と言い、立ち上がった。「しっかりやれ、立派に死ね」。これが一人の弟を送る乃木少佐の餞別(はなむけ)だった。
「兄さんもしっかりおやりなさい。勝利は必ず官軍にあると極まっちゃいません」と言って、真人は悄々と出て行った。乃木少佐はその背姿を見えぬようになるまで見送った。
そのあと、直ぐに乃木少佐は陸軍省へ電報を打った。前原一誠が急に反旗を翻す旨を報告したのだ。乃木少佐の心中は憐れであった。
乃木少佐は真人が自分の説得を聞き入れないのを知ると、せめて武士らしく最後を立派にするようにと申し渡して義絶したのだった。
明治九年十月二十八日萩の乱が勃発、前原一誠が挙兵すると、ただちに萩に、広島鎮台の兵と大阪鎮台の兵が鎮圧に向った。
乱は間もなく鎮定され、前原一誠ら首謀者八名は斬首の刑に処せられた。玉木正諠(真人)は萩の防衛に当たり、押し寄せてくる官軍に立ち向かい、奮戦して戦死した。また、玉木文之進は門弟の多くが萩の乱に加わったことの責任をとって自刃した。
萩の乱が勃発したとき、乃木希典少佐は、連隊を率いて秋月の乱の鎮圧に向かい、これを鎮圧したので、萩には行かなかった。
明治十年二月に西郷隆盛が挙兵して西南戦争が起きると、二月十九日乃木希典少佐は第一四連隊を指揮して久留米に入り植木町で西郷軍との戦闘を行った。
乃木少佐の連隊は二〇〇名だったが、これに立ち向かった西郷軍は四〇〇名で、激戦の末、乃木少佐の連隊は退却した。
退却のとき、連隊旗を保持していた連隊旗手の河原林雄太少尉が敵の不意打ちによって斬られ、戦死し、西郷軍に第一四連隊の連隊旗を奪われた。
河原林雄太少尉を切ったのは西郷軍の第四番大隊第九小隊(伊東祐高小隊長)所属の押伍岩切正九郎だと言われている。
向坂で両軍入り乱れて激戦となった。夜中に岩切正九郎が一人で進んでいると、畑の中の藪の中に身を潜めている一人の敵が見えた。
後ろから岩切正九郎が刀を構えてソット近寄った。待ち受けているとも知らずに、その一人の敵の男は、頭をもたげた。その瞬間、岩切正九郎はヤッと、気合をかけて斬りつけた。
ふいに斬ったので、たった一刀で、相手は声も出さずに、ドサッと倒れこんだ。よく見ると敵は士官で少尉か中尉か判らなかったが、刀をぶん取り、腹に旗を巻いていたので、ついでにその旗もぶん取った。
岩切正九郎は、その旗を大したものと思っていなかったので、ちょうどそこへやって来た村田隊の兵卒に渡した。
そこでその旗は、村田隊の隊長である村田三介の分捕り品ということになったが、その旗が敵の連隊旗だと分かったので、西郷軍の士気は大いに上がった。
西郷軍は奪ったこの連隊旗を竹竿の先に着けて、熊本城の前に持っていって打ち振り、官軍に見せびらかした。
あとで、連隊旗を西郷軍に奪われたと知った乃木連隊長は、「自分と一緒に戦死しようと思う者はついて来い。敵中に突入する。そして軍旗を取り戻す」と叫んで、敵陣の方へ突入して行こうとした。
だが、乃木連隊長は二人の屈強な下士官により、阻止され、突入を止めた。その後も乃木連隊長は敵と遭遇すると、真っ先に突撃して行った。
そのうち乃木連隊長の足を敵の弾が貫き、乃木連隊長は部下によって野戦病院に入院させられた。だが、乃木連隊長は病院を脱走し戦場に戻った。