陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

249.山口多聞海軍中将(9)チョイト、多聞さん! そんな失礼な言い方ってありますか!

2010年12月31日 | 山口多聞海軍中将
 「父・山口多聞」(山口宗敏・光人社)によると、著者の山口宗敏は山口多聞の三男だが、幼い頃の法事の思い出を記している。

 山口多聞の父、山口宗義と母、貞子の間には八人の子があり、法事の時には多数の親戚が東京・小石川の傳通院で顔をあわせることが多かった。

 ある日、法事のあとで貞子が多聞に向かって「お坊さんの方は、ちゃんと済ませましたか?」と尋ねた。お坊さんへの御礼とか、おもてなしは全て無事に済ませたかの意味だった。

 すると、多聞はいとも無造作に「ハイ! 坊主は片づけました」と、ケロリとして答えた。全て、ちゃんと滞りなく処理いたしましたの意味だ。

 貞子はこの言に、特に咎め立てはしなかったが、たまたま側にいてこの言を聞いていた女中頭が「チョイト、多聞さん! そんな失礼な言い方ってありますか!」と多聞に注意しようとしたが、多聞はためらいもなく、みんなの集まっている部屋の方へさっさと行ってしまったので、女中頭は呆れ顔をして多聞の後ろ姿を見送っていた。

 この女中頭は、長く拂方町の山口家本家に奉公しており、上のほうの兄弟は別にして多聞以下の兄弟のほうは小さい頃から面倒をよく見てもらっているので、さすがの多聞もこの人には頭が上がらなかったようである。

 山口宗敏は「父は、上手、下手で云うなら、字は決して上手な方ではなかった」と記している。多聞の字は徹底して右肩下がりの字で、皆から変な字だ変な字だ、と云われたらしい。

 そんな事から、他の人から揮毫を求められたりすると、多聞は次の様に言って断ったという。「僕は、親父の遺言で、他人のためには絶対に字を書かないことにしているんだ。悪しからずに、な」。

 宗敏は「無骨一点張りの父ではあったが、少しばかり練習してでも書き残して置いてくれたならなあ、と思うこともあるが、軍務繁多の身ではそれも叶わなかったのであろう」と記している。

「勇断提督・山口多聞」(生出寿・徳間書店)によると、昭和十五年一月十五日、山口多聞少将は、まったく畑違いの第一連合航空隊司令官に補された。

 これは連合艦隊司令長官・山本五十六大将と、第二連合航空隊司令官・大西瀧治郎少将が、海軍の航空化を促進するために、山口少将を航空畑に転じさせようとして、海軍省人事局を動かしたと言われている。

 当時の海相は山本大将と兵学校同期の吉田善吾中将(海兵三二・海大一三)だったので、この人事が実現した。

 五月十一日、第一連合航空隊の陸攻隊常用・補用全四十八機が漢口基地に進出、蒋介石政権を壊滅させるため、重慶爆撃を開始した。

 漢口基地には、山口少将と兵学校同期の大西瀧治郎少将の指揮する第二連合航空隊の陸攻二十七機と補用数機が展開していた。

 また、五月二十一日には、同じく山口少将と兵学校同期の寺岡謹平少将の指揮する第三連合航空隊の陸攻二十七機が漢口市外の孝感飛行場に到着した。

 山口少将、大西少将、寺岡少将の三人は、海軍兵学校四十期の同期で、くしくも第一から第三までの連合航空隊の司令官を同期生が勤めていた。

 ある夜、山口少将、大西少将、寺岡少将、それに特務機関長・左近允尚正(さこんじょう・なおまさ)大佐の四人が、漢口の曙荘というクラブに集まり、海軍兵学校四十期のクラス会を開いて飲んだ。四人のうち、左近允尚正だけは大佐だった(翌年の昭和十七年十月に少将に昇進)。

 その席上、中国の強い酒を飲んでいるうちに、だんだん理性が失われてきた。重慶爆撃の方法について、山口少将と大西少将が議論になった。

 先任の山口少将が、中央からの指令を受けているので「重慶爆撃は各国大使館もあることだし、慎重にやらないといかんぜ」と念を押した。

 これが大西少将の癇に障った。「なにをいうか」と、大きな目を光らせた。「おい、多聞!貴様は、重慶爆撃は慎重にしろと言っているが、日本はいま戦争をしているんだ。イギリスだってヨーロッパで敗けかかっているじゃないか。アメリカも戦争に文句はあるまい。絨毯爆撃をするべきじゃないか」と言った。

 山口少将が「大西、馬鹿なことを言うんじゃない」と言うと、大西少将は「ふん、へっぴり腰め。それでも武人か。だいいち、貴様のところのあの飛行機はなんだ。古くてガタガタじゃないか」と皮肉を言った。

 ここで、山口少将が盃を投げつけ、徳利をつかんで大西少将に打ちかかった。寺岡少将と左近允大佐が止めようとしたが、二人は取っ組み合いの大喧嘩になった。

 そのあと二人はなんとか和解をしてまた飲みなおした。山口少将は「おれも徹底的に叩きたいのだが、中央が重慶は慎重にやれというんだ」と告白すると、大西少将が「それが戦争だよな、山口」と言って、ひっきりなしに盃を干していた。