陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

236.山下奉文陸軍大将(16) 山下大将は吐き出すように叫んだ。「俺は郵便物じゃないぞ」

2010年10月01日 | 山下奉文陸軍大将
 だが、西山総裁が、ただ統制派、皇道派という旧式の軍閥類型を信じ、統制派、東條のあとは皇道派の天下と見込んで、山下大将の出馬応援運動を試みようとするのであれば見当違いだった。

 山下大将の観察では、軍部内の派閥に依存していては目下の困難は打開できず、だいいち、現状のように大量の将校が任用され、しかも昇進と移動が激しい環境にあっては派閥は構成しようがないのだった。

 「自分は、満州のおもしが一番似合っていると思います」。山下大将は首をふり、西山総裁は数回繰り返して意向を確かめるようだったが、そのうちにあきらめた様子で帰って行った。

 昭和十九年九月二十三日、山下大将はフィリピンの第十四方面軍司令官転補内命の電報を参謀長・四手井綱正中将(陸士二七・陸大三四恩賜)から受け取った。

 「そうか、きたか」。山下大将は、そう答えたが、その声には意外さの驚きがこもっていた。

 山下大将としては、すでに次々に南方に転出する指揮下師団の壮途を見送りながら、必ずや予期されるソ連との一戦に備える覚悟を固め、さもなければ梅津大将の練る重慶工作に渾身の手腕を振るうことを期待していたのだった。

 内命電は九月二十八日までに東京に着くようにと指示していた。山下大将の久子夫人は、前年八月、鈴木貞夫大尉に代わって副官となった樺沢寅吉大尉の夫人と共に、「内地に帰るよりは、牡丹江で留守を守る」と山下大将に申し出た。

 途端、山下大将は、ぎろっと双眼をむいて、低い声で久子夫人に「いかん。どうせ死ぬなら、親兄弟の土地のほうがよかろう」と言った。

 「えっ」と、久子夫人は、はじめて知らされる予想外の戦勢にびっくりしたが、大将の指示に逆らうわけにもいかなかった。久子は樺沢夫人とともに内地に引き揚げることになった。

 山下大将は樺沢副官とともに、九月二十七日午後一時、汽車で牡丹江を出発した。翌二十八日午前六時、新京に到着した。

 新京では、あわただしく満州国皇帝、梅津大将の後任の関東軍司令官・山田乙三大将(陸士一四・陸大二四)に挨拶をすませ、午前十一時、新京飛行場発のMC輸送機で立川に向った。

 立川飛行場に到着した山下大将は、出迎えの参謀、一戸公哉中佐(陸士三九)と田中光佑少佐(陸士四六・陸大五二)の二人と自動車で九段の偕行社に向った。

 車は青梅街道を走った。沿道の森に太鼓の音が鳴り響いていた。かねて勇名を聞き、初めて接する巨大な山下大将の風貌に圧倒されて、コチコチになっていた田中少佐が「今年からお祭りもにぎやかにやれるようになりました」と山下大将に話しかけた。

 「うむ・・・・・・祭りもやれんようじゃ、戦には勝てんよ」と、もそりと答えた山下大将は、気にかかっていた質問を田中少佐に尋ねた。「ところで、俺は何日くらい東京におれるんか」。

 田中少佐は「ハッ、十月一日ご出発の予定であります」と答えた。「なにィ」。ぐいっと身をねじ起こす山下大将の巨体の動きに、横に座っていた二人の参謀は、ごりっと窓際に押し付けられた。

 「十月一日・・・・・・それじゃ、あと二日しかないじゃないか。バカをいえ。俺は今度の戦さが始まって、初めて東京の土を踏むんだ。今度は二度と帰れん覚悟もしとる。二日じゃあ、打ち合わせも挨拶もできんじゃないか」と言い、山下大将は吐き出すように叫んだ。「俺は郵便物じゃないぞ」。

 車の中で山下大将は次の様に思った。

 「シンガポール攻略のあとの軍状奏上の機会消失は、東條の差し金とあきらめもしよう。だが、今の参謀総長は敬愛する梅津大将ではないか」

 「その梅津大将の決定だとすれば、梅津総長もまた、所詮は派閥のしこりを残して、わが最後の壮途を無味にしようとするのか」。

 山下大将は「よし、俺が話す。直接総長に話す」と、たぎる憤怒を抑えて言った。田中少佐はあわてて「わかりました。閣下のお心に添うよう善処致します。お任せ願います」と言った。山下大将はそれ以上何も言わなかった。

 九段の偕行社に着くと、三階の応接室で山下大将は樺沢副官に「オイ、樺沢、ウイスキーをくれ」と言って飲み始めた。

 第二十五軍当時の部下であり、再び大本営派遣参謀として山下大将の指揮下に入ることになった朝枝繁春少佐(陸士四五・陸大五二)が訪ねてきた。また、参謀本部の部長、課長も次々に訪れた。

 ところが、むすっとしてウイスキーのグラスをなめる山下大将は不機嫌だったので、皆、早々に退散した。

 だが、その翌日、三長官への挨拶を済ませ、参謀本部で服部卓四郎作戦課長(陸士三四・陸大四二恩賜)の説明を聞いて帰ると、田中少佐が、十月四日に出発延期の朗報をもたらした。

 それを聞くと、山下大将の顔は血色をとりもどした。さらに田中少佐は翌日の九月三十日、親補式挙行の通知もたずさえてきた。