「人物陸大物語」(光人社)によると、昭和12年7月7日に起きた盧溝橋事件は、支那駐屯歩兵第一連隊第三大隊第八中隊に対し、中国側から発砲したというものだった。報告を受けた第一連隊長・牟田口廉也大佐は、躊躇することなく直ちに攻撃開始の命令を出したという。これが日華事変の発端となった。
その後、牟田口廉也は少将になって、陸軍大学校で講演を行った。その時、「日華事変はオレがはじめた」と、見得を切ったが、学生の失笑をかったという。
昭和19年3月に開始されたインド攻略のインパール作戦では、指揮官の第十五軍司令官・牟田口廉也中将に対して、隷下の第三十一師団長・佐藤幸徳中将(陸士25・陸大33)が抗命問題を起こした。実は牟田口中将と佐藤中将の対決は、それ以前に根深いものがあった。
戦後発見された佐藤幸徳中将の回想録によると、昭和8、9年ころから、陸軍は皇道派の暗躍が猛烈を極めており、皇道派は勢いを得て人事まで動かすようになっていた。
当時、佐藤幸徳は中佐で、永田鉄山少将(陸士16首席・陸大23次席)や東条英機少将(陸士17・陸大27)のグループ、いわゆる統制派であった。
昭和9年、佐藤中佐は広島の歩兵第十一連隊付から陸軍省人事課の課員となることになった。ところが転任の内達があり、申し送り事項まで受けていたのに、最後の確定の直前に熊本の第六師団作戦参謀に変更された。
皇道派から勢力拡張の妨げになると、地方に飛ばされたのである。同じころ東條英機少将も久留米の第二十四旅団長に左遷された。
佐藤中佐が第六師団に着任して間もなく、師団の次級参謀が更迭され、岩屋中佐が着任した。ところが、佐藤参謀が汽車に乗ると、「佐藤参謀が上京せり」と陸軍省に電話する者がいた。
そのころ佐藤中佐は、東条少将と呼応して皇道派の策謀と対抗しようとしていた。すると「東條と佐藤会談せり」という電報が陸軍省に送られた。それが岩屋中佐だった。
その後、佐藤中佐が調べていくと、その岩屋中佐と連絡をとっていたのが、参謀本部庶務課長の牟田口廉也大佐であることが分かった。牟田口大佐は皇道派だった。牟田口軍司令官と佐藤師団長の対立は、この当時からあった。
「全滅」(文春文庫)によると、インパール作戦は、第十五軍(牟田口廉也軍司令官)隷下の第三十一師団、第十五師団、第三十三師団の三個師団が、ビルマからインドへ、国境山脈を越えて急進し、三週間で英軍の基地、インパールまで進攻するというものだった。
ところが、速い進撃と山脈を越える作戦で、補給困難の問題があった。それで、反対する幕僚や指揮官が多かった。だが、牟田口軍司令官は確信に満ちており、反対者を退け、上層部の作戦承認を得た。大本営は全般的に敗勢の中で、インパール作戦に期待したのだ。
だが、結果的には、4月下旬までに、三個師団は損害を多く出し、攻撃は挫折した。食糧は三週間分しか持っていかなかったので、食糧が不足してきた。武器、弾薬も足りなくなった。その後は悪戦苦闘の連続となった。
「抗命」(文春文庫)によると、インパール作戦は、もともと牟田口廉也中将による起案ではなかった。ビルマ平定の余勢をもって一挙にインドに進入し、インドの支配権を握ろうと昭和17年8月6日、インド進攻計画を決定したのは、南方軍総司令官・寺内寿一元帥(陸士11・陸大21)とその幕僚だった。
この計画は二十一号作戦と呼ばれた。大本営が同意したので、南方総軍は同年9月1日、第十五軍に対し、二十一号作戦の準備を命じた。
当時の第十五軍司令官であった飯田祥二郎中将(陸士20・陸大27)は驚いた。第十五軍の兵力でやりこなせる作戦ではなかった。
9月3日、飯田軍司令官は、ビルマ東部のシャン州タウンジーまで出向き、当時隷下の第十八師団長であった牟田口廉也中将を訪ねて意見を求めた。
すると、牟田口師団長は、「作戦の実施は困難である」と、インド進攻作戦に反対した。第三十三師団長・桜井省三中将(陸士23・陸大31恩賜)も反対した。
飯田軍司令官は南方軍に第二十一号作戦の再考を促す意見具申をした。南方軍は大本営に報告した。東条英機首相もインド進攻には自信がなかった。そのうちガダルカナル島の戦況が悪化した。
その後、牟田口廉也は少将になって、陸軍大学校で講演を行った。その時、「日華事変はオレがはじめた」と、見得を切ったが、学生の失笑をかったという。
昭和19年3月に開始されたインド攻略のインパール作戦では、指揮官の第十五軍司令官・牟田口廉也中将に対して、隷下の第三十一師団長・佐藤幸徳中将(陸士25・陸大33)が抗命問題を起こした。実は牟田口中将と佐藤中将の対決は、それ以前に根深いものがあった。
戦後発見された佐藤幸徳中将の回想録によると、昭和8、9年ころから、陸軍は皇道派の暗躍が猛烈を極めており、皇道派は勢いを得て人事まで動かすようになっていた。
当時、佐藤幸徳は中佐で、永田鉄山少将(陸士16首席・陸大23次席)や東条英機少将(陸士17・陸大27)のグループ、いわゆる統制派であった。
昭和9年、佐藤中佐は広島の歩兵第十一連隊付から陸軍省人事課の課員となることになった。ところが転任の内達があり、申し送り事項まで受けていたのに、最後の確定の直前に熊本の第六師団作戦参謀に変更された。
皇道派から勢力拡張の妨げになると、地方に飛ばされたのである。同じころ東條英機少将も久留米の第二十四旅団長に左遷された。
佐藤中佐が第六師団に着任して間もなく、師団の次級参謀が更迭され、岩屋中佐が着任した。ところが、佐藤参謀が汽車に乗ると、「佐藤参謀が上京せり」と陸軍省に電話する者がいた。
そのころ佐藤中佐は、東条少将と呼応して皇道派の策謀と対抗しようとしていた。すると「東條と佐藤会談せり」という電報が陸軍省に送られた。それが岩屋中佐だった。
その後、佐藤中佐が調べていくと、その岩屋中佐と連絡をとっていたのが、参謀本部庶務課長の牟田口廉也大佐であることが分かった。牟田口大佐は皇道派だった。牟田口軍司令官と佐藤師団長の対立は、この当時からあった。
「全滅」(文春文庫)によると、インパール作戦は、第十五軍(牟田口廉也軍司令官)隷下の第三十一師団、第十五師団、第三十三師団の三個師団が、ビルマからインドへ、国境山脈を越えて急進し、三週間で英軍の基地、インパールまで進攻するというものだった。
ところが、速い進撃と山脈を越える作戦で、補給困難の問題があった。それで、反対する幕僚や指揮官が多かった。だが、牟田口軍司令官は確信に満ちており、反対者を退け、上層部の作戦承認を得た。大本営は全般的に敗勢の中で、インパール作戦に期待したのだ。
だが、結果的には、4月下旬までに、三個師団は損害を多く出し、攻撃は挫折した。食糧は三週間分しか持っていかなかったので、食糧が不足してきた。武器、弾薬も足りなくなった。その後は悪戦苦闘の連続となった。
「抗命」(文春文庫)によると、インパール作戦は、もともと牟田口廉也中将による起案ではなかった。ビルマ平定の余勢をもって一挙にインドに進入し、インドの支配権を握ろうと昭和17年8月6日、インド進攻計画を決定したのは、南方軍総司令官・寺内寿一元帥(陸士11・陸大21)とその幕僚だった。
この計画は二十一号作戦と呼ばれた。大本営が同意したので、南方総軍は同年9月1日、第十五軍に対し、二十一号作戦の準備を命じた。
当時の第十五軍司令官であった飯田祥二郎中将(陸士20・陸大27)は驚いた。第十五軍の兵力でやりこなせる作戦ではなかった。
9月3日、飯田軍司令官は、ビルマ東部のシャン州タウンジーまで出向き、当時隷下の第十八師団長であった牟田口廉也中将を訪ねて意見を求めた。
すると、牟田口師団長は、「作戦の実施は困難である」と、インド進攻作戦に反対した。第三十三師団長・桜井省三中将(陸士23・陸大31恩賜)も反対した。
飯田軍司令官は南方軍に第二十一号作戦の再考を促す意見具申をした。南方軍は大本営に報告した。東条英機首相もインド進攻には自信がなかった。そのうちガダルカナル島の戦況が悪化した。