昭和11年12月、小沢治三郎(海兵37・海大19)は海軍少将に昇進し、再び海軍大学校教官に発令された。だが、二ヵ月後の昭和12年2月、連合艦隊参謀長兼第一艦隊参謀長に補された。前任の連合艦隊参謀長の岩下保太郎少将(海兵37・海大20)が病気のため、その後任として発令された。
当時の連合艦隊司令長官は永野修身大将(海兵28・海大8)だった。永野大将は、米国駐在勤務、軍縮全権などを勤め、赤煉瓦の中央勤務を歩んできた軍人で、連合艦隊勤務はほとんどなかった。
したがって、連合艦隊の演習や訓練計画、指導などは、万事小沢参謀長にまかせた。
ある日、永野司令長官が、「主力艦を持って、青島の砲台を攻撃してはどうか」と言いだした。(昭和11年12月7日に、支那事変が勃発した)。
小沢参謀長は「それはいけません」と、永野司令長官に反対した。小沢参謀長の反対があまり強いので、永野司令長官は、今度は先任参謀の中沢佑大佐(海兵43・海大26)をくどいた。
中沢大佐は小沢参謀長に泣きついた。仕方なく小沢参謀長は一策を案じた。
「それでは艦隊を佐世保に入港させ、主力艦の弾薬を陸上攻撃用のものに積み換えることにしよう」。
艦隊は佐世保に入港し、軍需部長に交渉して火薬庫を開けさせた。同時に、海軍大臣宛に搭載弾薬変更の申請電報を打った。案の定、大臣から不許可の返電があり、この計画は中止となった。
永野司令長官は、主力艦で青島を砲撃して、将兵の志気を鼓舞し、論功行賞にあずからせようという意図があった。
だが、小沢参謀長は、主力艦の弾薬はそんなことに使うべきではなく、東の敵に備えて、猛訓練に励むことが本務であると考えていた。
<小沢治三郎海軍中将プロフィル>
明治19年12月2日宮崎県児湯郡の風光明媚な城下町、高鍋町に生まれる。
明治37年県立宮崎中学校退校処分。
明治38年東京・成城中学に編入学。
明治39年第七高等学校へ入学。11月海軍兵学校に入校(37期)。
明治42年11月海軍兵学校卒業。179人中45番。
明治43年12月海軍少尉。
明治45年海軍砲術学校普通科学生。
大正元年8月水雷学校学生。12月海軍中尉。
大正3年「比叡」乗り組み。第一次世界大戦従軍。
大正4年「千歳」乗り組み。12月海軍大尉。
大正5年12月海軍大学校乙種学生。
大正6年水雷学校高等科学生。8月石蕗と結婚。12月水雷学校教官。
大正8年12月海軍大学校甲種学生(19期)。
大正10年海軍大学校卒業。12月海軍少佐。
大正14年「第三号」駆逐艦長。11月「金剛」水雷長。
大正15年連合艦隊参謀。
昭和2年12月水雷学校教官兼砲術学校教官。
昭和4年12月海軍軍令部第一班長。
昭和5年2月~12月欧米各国に出張。12月海軍大佐。第一駆逐隊司令。
昭和6年1月第四駆逐隊司令。7月海軍水雷学校長。10月第十一駆逐隊司令。12月海軍大学校教官兼海軍技術会議議員兼陸軍大学校兵学教官。
昭和9年11月第一艦隊「摩耶」艦長。
昭和10年10月「榛名」艦長。
昭和11年12月海軍少将。海軍大学校教官。
昭和12年2月連合艦隊参謀長。11月第八戦隊司令官。
昭和13年11月海軍水雷学校長。
昭和14年11月第一航空戦隊司令官。
昭和15年11月第三戦隊司令官。海軍中将。
昭和16年9月海軍大学校長。10月南遣艦隊司令長官。
昭和17年11月第三艦隊司令長官。
昭和19年3月第一機動艦隊司令長官兼第三艦隊司令長官。11月軍令部次長兼海軍大学校長兼大本営海軍通信部長。
昭和20年5月海軍総司令長官兼連合艦隊司令長官。8月15日終戦。10月予備役。11月旭日大綬章受賞。戦後、戦争を一切語らず、清貧の生活を送る。
昭和30年防衛庁顧問。下村定元陸軍大将らと郷友連盟を結成。
昭和39年前立腺肥大症で入院。
昭和41年11月9日死去。享年81歳。
当時の連合艦隊司令長官は永野修身大将(海兵28・海大8)だった。永野大将は、米国駐在勤務、軍縮全権などを勤め、赤煉瓦の中央勤務を歩んできた軍人で、連合艦隊勤務はほとんどなかった。
したがって、連合艦隊の演習や訓練計画、指導などは、万事小沢参謀長にまかせた。
ある日、永野司令長官が、「主力艦を持って、青島の砲台を攻撃してはどうか」と言いだした。(昭和11年12月7日に、支那事変が勃発した)。
小沢参謀長は「それはいけません」と、永野司令長官に反対した。小沢参謀長の反対があまり強いので、永野司令長官は、今度は先任参謀の中沢佑大佐(海兵43・海大26)をくどいた。
中沢大佐は小沢参謀長に泣きついた。仕方なく小沢参謀長は一策を案じた。
「それでは艦隊を佐世保に入港させ、主力艦の弾薬を陸上攻撃用のものに積み換えることにしよう」。
艦隊は佐世保に入港し、軍需部長に交渉して火薬庫を開けさせた。同時に、海軍大臣宛に搭載弾薬変更の申請電報を打った。案の定、大臣から不許可の返電があり、この計画は中止となった。
永野司令長官は、主力艦で青島を砲撃して、将兵の志気を鼓舞し、論功行賞にあずからせようという意図があった。
だが、小沢参謀長は、主力艦の弾薬はそんなことに使うべきではなく、東の敵に備えて、猛訓練に励むことが本務であると考えていた。
<小沢治三郎海軍中将プロフィル>
明治19年12月2日宮崎県児湯郡の風光明媚な城下町、高鍋町に生まれる。
明治37年県立宮崎中学校退校処分。
明治38年東京・成城中学に編入学。
明治39年第七高等学校へ入学。11月海軍兵学校に入校(37期)。
明治42年11月海軍兵学校卒業。179人中45番。
明治43年12月海軍少尉。
明治45年海軍砲術学校普通科学生。
大正元年8月水雷学校学生。12月海軍中尉。
大正3年「比叡」乗り組み。第一次世界大戦従軍。
大正4年「千歳」乗り組み。12月海軍大尉。
大正5年12月海軍大学校乙種学生。
大正6年水雷学校高等科学生。8月石蕗と結婚。12月水雷学校教官。
大正8年12月海軍大学校甲種学生(19期)。
大正10年海軍大学校卒業。12月海軍少佐。
大正14年「第三号」駆逐艦長。11月「金剛」水雷長。
大正15年連合艦隊参謀。
昭和2年12月水雷学校教官兼砲術学校教官。
昭和4年12月海軍軍令部第一班長。
昭和5年2月~12月欧米各国に出張。12月海軍大佐。第一駆逐隊司令。
昭和6年1月第四駆逐隊司令。7月海軍水雷学校長。10月第十一駆逐隊司令。12月海軍大学校教官兼海軍技術会議議員兼陸軍大学校兵学教官。
昭和9年11月第一艦隊「摩耶」艦長。
昭和10年10月「榛名」艦長。
昭和11年12月海軍少将。海軍大学校教官。
昭和12年2月連合艦隊参謀長。11月第八戦隊司令官。
昭和13年11月海軍水雷学校長。
昭和14年11月第一航空戦隊司令官。
昭和15年11月第三戦隊司令官。海軍中将。
昭和16年9月海軍大学校長。10月南遣艦隊司令長官。
昭和17年11月第三艦隊司令長官。
昭和19年3月第一機動艦隊司令長官兼第三艦隊司令長官。11月軍令部次長兼海軍大学校長兼大本営海軍通信部長。
昭和20年5月海軍総司令長官兼連合艦隊司令長官。8月15日終戦。10月予備役。11月旭日大綬章受賞。戦後、戦争を一切語らず、清貧の生活を送る。
昭和30年防衛庁顧問。下村定元陸軍大将らと郷友連盟を結成。
昭和39年前立腺肥大症で入院。
昭和41年11月9日死去。享年81歳。