花邑の帯あそび

1本の帯を通して素敵な出会いがありますように…

「印度更紗」について~その2~

2011-09-07 | 更紗について

presented by hanamura


台風の影響で、雨が降ったり止んだりと、
不安定な天気がつづいていますが、
ゆっくり進んだ台風とともに、夏も遠ざかり、
ここ東京では、秋の気配が日増しに感じられるようになりました。

さて今日は、前回に引き続き、
ただいま花邑銀座店にて開催している「更紗の帯展」にちなみ、
更紗の発祥地であるインドでつくられている
印度更紗についてお話ししましょう。

紀元前 3000 年前からインドでつくられていた更紗は、
染色技術が進むにつれて、
さまざまな柄行きのものがつくられ、
16世紀には、ムガル王朝の支配下で
最高の水準に達しました。

そして 15 世紀中頃~17 世紀中頃の
大航海時代になると、
世界各地に広められました。

大航海時代のヨーロッパの各国は、
インドやインドネシアの島々に
東インド会社などの自国の貿易の拠点を設け、
アジアにおける利権を拡大していました。

インドやインドネシアには、
当時のヨーロッパでは貴重品とされていた香辛料が豊富にあったのです。
さらには、インドでつくられる更紗も珍重品とされ、
金や銀などと交換されていました。

ヨーロッパには、それまでインドのような染色の技術がほとんどなく、
布地に文様をあらわすには織物か刺繍に頼るしかありませんでした。
そのため、印度更紗の染色による鮮やかな色彩や斬新な文様、
木綿布の堅牢性が瞬く間に評判となったのです。

更紗の熱狂的な人気は、ヨーロッパの社会問題にもなりました。
絹織物の需要が少なくなり、
国内の絹織物を生産する工場がひっ迫し、
さらには国外に多額の資本が流れることになったのです。
そのため、フランス、イギリスは 1686 年に
印度更紗の輸入を禁止してしまいました。
それでも印度更紗の人気は衰えず、
密輸によってヨーロッパ各国に出回り、
とくにブルジョア階級などが買い求めました。

やがてインドでは、
ヨーロッパ人の好みに合わせた
華やかで流麗な花柄の更紗も多くつくられるようになりました。

オランダやイギリスは、
インドの南東部の海岸、コロマンデルコーストに
更紗の製作拠点をつくり、
輸出先の注文に応じた更紗の制作も手がけ、
ヨーロッパを中心として、各国に輸出しました。

一方、インドと近隣するインドネシアの島々とは、
昔から貿易や文化交流が盛んに行われ、
インドでつくられた更紗は、
14 世紀には交易品として
インドネシアの島々に輸出されていました。
インドネシアにもたらされた印度更紗には、
印度産の高級な絹織物である
パトラの絣文様を模して
格子や菱文を組み合わせた花柄の意匠のものも
多く見受けられます。



上の写真は、格子に花文様が意匠化された印度更紗からお仕立てした名古屋帯です。おそらく、インドネシアにもたらされた印度更紗かと思われます。

日本にはじめて更紗がもたらされたのは、
16世紀中頃です。

当時の日本でも木綿そのものがめずらしく、
異国からもたらされた更紗は、とても珍重されました。

17世紀になって南蛮貿易がはじまると
更紗の輸入は年々増加し、
とくにインド茜で染められた更紗は、
活力の旺盛な武将らにもてはやされました
こうした更紗は、戦国時代に入ると、
戦さのときに羽織る陣羽織などにも用いられたようです。
また、茶の湯の仕覆(しふく)としても多く使われました。

日本では、この更紗を名物裂(めいぶつぎれ)として、
小さな欠片のようになったものまでも見本帳などに貼り、
大切に保管していました。

ちなみに、当時のインドでつくられた更紗は、
世界中のいたるところで残されていますが、
日本にもたらされた更紗は、
その中でも一番保存状態が良いようです。

古の時代に遠く離れたインドから海を渡り
日本に届けられた印度更紗を眺めるとき、
それをつくった当時の人々のスピリットはもちろん、
そうした更紗を現代まで大切に保存してきた人々の想いが
印度更紗の深い茜色をさらに美しいものにしているように思えるのです。

上の写真の印度更紗は「更紗の帯展」でご紹介している名古屋帯です。

花邑のブログ、「花邑の帯あそび」次回の更新は9月14日(水)予定です。

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