よく「見えている」ってことについて話していると思う。
たとえば、昔、淡水魚を、たくさんの水槽で何種類も飼育していた頃、淡水魚博士の夫や、淡水魚好きの息子には、あたりまえに「見える」らしき魚たちの状態が、わたしには彼らに指摘されるまで見えなかったってこととか。
サリエリのように、他人の才能とか能力を、必要以上に「見てしまう」人間の不幸だとか・・・。
最近だと、色んな人の立場や、色んな人の気持ちや、色んな考え方の非だけじゃなく是が「見える」と、何事も、簡単に否定できなくなっちゃうなぁ~って話なんかも。
ただ・・・自分より随分と年若い人と話していると思うのは、「見えている」ことの不幸は、見えなかったことが見えた瞬間の喜びから遠ざけられている気分かなと思ったりする。
真理の深遠は、分かったと思った瞬間に表面になってしまうと言うから・・・見えるものが増えれば増えるほど、さらに多くの見えないものの存在に気付かなくちゃいけないんだろうけど・・・・
実際には・・・っていうか、少なくてもワタシの場合には、何かが見えた瞬間、次の扉が開いて、新たな不可解が待っているなんてことにはならないなぁ。一つのことが見えたら、むしろそこで止まってしまう感じ。だから、「見つめる」というような一つのことを極めていく感じより、馴染んだ景色を捨てて、常に新しい景色を求めて移動しないと、そこで感覚がフリーズしてしまう感じかな。
なんとも、浅く広くなダメ人間だけど、一つの難問をクリアーしたら、次のステージが用意されているなんてことにはなってくれないわけだから、自分で新たなステージを見つけるか作るかしないと、その場所で腐っていきそうになる。うぉ~・・・なんだか常に動き続けていないと死んでしまう魚のようだわさ。
あえて、足のない鳥などとは言わないけどさ(爆)。
たとえば、昔、淡水魚を、たくさんの水槽で何種類も飼育していた頃、淡水魚博士の夫や、淡水魚好きの息子には、あたりまえに「見える」らしき魚たちの状態が、わたしには彼らに指摘されるまで見えなかったってこととか。
サリエリのように、他人の才能とか能力を、必要以上に「見てしまう」人間の不幸だとか・・・。
最近だと、色んな人の立場や、色んな人の気持ちや、色んな考え方の非だけじゃなく是が「見える」と、何事も、簡単に否定できなくなっちゃうなぁ~って話なんかも。
ただ・・・自分より随分と年若い人と話していると思うのは、「見えている」ことの不幸は、見えなかったことが見えた瞬間の喜びから遠ざけられている気分かなと思ったりする。
真理の深遠は、分かったと思った瞬間に表面になってしまうと言うから・・・見えるものが増えれば増えるほど、さらに多くの見えないものの存在に気付かなくちゃいけないんだろうけど・・・・
実際には・・・っていうか、少なくてもワタシの場合には、何かが見えた瞬間、次の扉が開いて、新たな不可解が待っているなんてことにはならないなぁ。一つのことが見えたら、むしろそこで止まってしまう感じ。だから、「見つめる」というような一つのことを極めていく感じより、馴染んだ景色を捨てて、常に新しい景色を求めて移動しないと、そこで感覚がフリーズしてしまう感じかな。
なんとも、浅く広くなダメ人間だけど、一つの難問をクリアーしたら、次のステージが用意されているなんてことにはなってくれないわけだから、自分で新たなステージを見つけるか作るかしないと、その場所で腐っていきそうになる。うぉ~・・・なんだか常に動き続けていないと死んでしまう魚のようだわさ。
あえて、足のない鳥などとは言わないけどさ(爆)。