オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

始めに、神が

2015-04-12 00:00:00 | 礼拝説教
2015年4月12日 主日礼拝(創世記1:1-5、26-31)岡田邦夫

「初めに、神が天と地を創造した。」「そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。」(創世記1:1、31)

 江戸末期に新島七五三太(しめた)という青年が西洋文化を学びたいと思いを抱き、アメリカに渡航したいと思っていました。しかし、それは国禁を破ることでした。18歳のある時、友人から借りた書の中に漢文訳の聖書をみつけます。目に飛び込んできたのが「創世記」の天地創造の物語。“この世界には真の神がおられて、この天地万物をお造りになり、それらを支配しておられる神がおられるのだ。”それで決心がつき、密航。その船旅で、新島襄と名を改め、アメリカで学び、帰国後、ミッションスクール、同志社を設立するのでした。

◇「始めに、神が」そこから始まる
 話は変わりますが、もし、車に乗っていたとします。おおむね安全だと思って乗っています。タイヤがパンクしないだろうか、ガソリンがもれて爆発しないだろうか、道路が地割れしたり、電線が切れて落ちてこないだろうか等々、心配したり、確かめたりはしません。車のメーカー、道路公団を信頼して、絶対と言うわけではないのですが、おおむね安全だと思って乗っているわけです。
 この絶対確かだと言ってるのが、創世記1章の天地創造の神です。「初めに、神が天と地を創造した。」なのです。森羅万象、すべて世界にあるものの造り手は神。その神は間違いなく確かなお方なのです。この宣言から始まるのです。すべては神から始まったのです。私という存在も、私を取り巻く世界も、神によって存在しているのです。
 もともとは何もなく、混沌としていました。神が「光と。あれ。」と仰せられ、光ができました。こうして夕があり、朝があった。第一日。光が存在へと呼び出されたのです。そうして、“神が「何々」と仰せられた。するとそのようになった。「神はそれを見て、よしとされた」。こうして夕があり、朝があった。”と第六日まで、同じ言い方で、綴られていきます。六日目、人は神のかたちに創造され、神と交われる特別な存在として、造られたことが明記されています。人については次週お話します。最後は「そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。」で結ばれます。すべては等しく、価値あるもの、非常によいものであるという世界観を示します。すべての人が差別なく、神のお声によって、生へと、存在へと呼び出され、「見よ。それは非常によかった」と神が見ておられるのです。ですから、人はこの創造者に自分の存在を任せ、生きる道をみ言葉、み声に従っていくのが、最も確かなのです。「始めに神は」で歩んでゆく人生(歴史)でありましょう。

◇「始めに、神が」そこに帰る
 人は「始めに神は」でスタートするようにと話しましたが、また、「始めに神は」に戻ってくることも重要なことです。人ははなはだ良く造られたのに、神に反逆し、罪の歴史をたどっていく、しかし、神の御手が伸ばされ、救いの歴史も展開されます。初めがあったのですから、終わりがあります。聖書正典の最終の書、ヨハネ黙示録において、終わりが来て、救いが完成し、現れる新天地はエデンの園のようだと預言されています。エデンの園の回復です。イエス・キリストは最終章で言います。「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである」(黙示22:13)。
 さまざまな問題に遭遇する時、「初めに、神が天と地を創造した。」に戻ってくるのです。ヨブは財産も家族も健康も失い、なぜ、義人が苦しまなければならないかを問いに問い続けます。ついに創造者なる神がヨブに現れ、誰が世界のあらゆるものを創造したかと、恵みをもってと迫ると、ヨブは目が開かれ、出会いの祝福に与ります。試練の中に創造者が現れたのです。
 伝道者(ソロモン)は人生のあらゆる経験をすのですが、結局、何をしても「空の空」、虚しいのです。人も獣も死んだら同じ所に行く、虚しいことだと。そして、自分が信仰経験をしたことから、メッセージします。神なしの人生は虚しい、だから、「あなたの若い日にあなたの造り主を覚えよ」と。虚無の中から、創造者に目を向ける時、魂が満たされるのです。
 ユダの国にバビロン帝国が押し寄せて、滅ぼそうしている、民族として絶望の危機にある。そのような時、たとえ補囚されても、またエルサレムに帰って来れますとイザヤが預言します。「目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。この方は、その万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって、呼ばれる。この方は精力に満ち、その力は強い。一つももれるものはない」(40:26)。絶望の中から、創造者に目を向ける時、希望と力が与えられるのです。
 新約においては復活と重ねて、望みのない者への福音が告げられます。「アブラハムは私たちすべての者の父なのです。このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、『あなたの子孫はこのようになる。』と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした」(ローマ4:17-18)。私たちは無から有に呼び出され、生きているのです。さらに、死という「無」から復活の「有」へと呼び出され、創造者、救い主のお声に導かれ、信仰を持ってお答えして生きていくのです。救い主を信じた者として、帰るべき所に帰ろうではありませんか。
 「初めに、神が天と地を創造した。」「そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。」(創世記1:1、31)