オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

神の逆転

2014-08-03 00:00:00 | 礼拝説教
2014年8月3日 主日礼拝(マルコ福音書11:1-11)岡田邦夫


 「家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。」マルコ12:10

 先々週の金曜に会議で猛暑の中、東京に日帰りで行ってきました。この会議がまたしんどい会議だったので、疲れ果てました。しかし、日曜はそーめん流しの楽しいイベントでホッとしました。続いて、先週の水、木、金と奥琵琶湖キャンプ場での小学生キャンプに参加。、最後の集会のメッセージをさせてもらいました。子どもは好きですが、一日中、子どもの甲高い声とスタッフの指示や注意の声につきあうのはさすがに相当疲れた。年のせい。でも良い疲れでした。
 今日の聖書箇所はイエス・キリストがエルサレムに入場し、受難の一週間の始まるところです。その一週間、疲れ果てるまで、すべてを注ぎ込んで、神の救いのみ業を成し遂げられたのです。

 「ルーズヴェルト・ゲーム」という小説がありますが、その言葉の由来ははこうです。アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領がこのようなことを言った。「終盤、4-7から逆転して決着がつくゲームが一番面白い」。彼の言葉から「8-7」で逆転する野球の試合のことをルーズヴェルト・ゲームというようになったということです。神の救いのみ業ということからすると、逆転の逆転の展開をなしていくのがイエス・キリストの受難の出来事です。
 イエスはご自分が救い主であることを人々にはあからさまには言わず、わかる人にはわかる「人の子」という言葉を使われました。ダニエル書にある「人の子が雲に乗ってくる」の人の子です。しかし、時が熟したので、行動で示し始めます。それがエルサレム入場です。ゼカリヤ書に救い主・メシヤはオリーブ山に現れるとの預言があり、「彼らがエルサレムの近くに来て、オリーブ山のふもとのベテパゲとベタニヤに近づいたとき、イエスはふたりの弟子を使いに出」すのです(11:1)。イエスは弟子に向こうの村で乗ったことないろばの子を調達して来るように、なぜときかれたら、「主がお入り用なのです。」すぐ返すからと言うようにも指示します。その通り、ろばの子を連れてくると、弟子は上着を掛け、イエスはそれに乗られたのです。
 こうして、イエス・キリストは軍馬に乗ってではなく、ろばの子に乗って平和の君としてエルサレムに登場されたのです。多くの人が上着をぬいで道に敷く。ほかの人は野原から木の枝を切ってきて、それを道に敷く。その上をろばに乗ったイエスは進み行く。前に行く人も後からついて行く人もどうぞ救ってください=ホサナと叫んだ(11:10)。
 「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。祝福あれ。いま来
た、われらの父ダビデの国(=メシヤ王国)に。ホサナ。いと高き所に。」
 この光景はあきらかにゼカリヤ書9:9の預言の成就です。
 「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜(たま)わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに」。
 しかし、この「ホサナ」と叫びイエスを歓迎した人々が、数日後には「十字架にかけろ」と叫ぶようになるのです(15:13-14)。人というのは何とも罪深い者なのだろうか。
 おとなしく入城された主イエスですが、エルサレム神殿に入られた時は激怒します。「イエスは宮にはいり、宮の中で売り買いしている人々を追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒し、また宮を通り抜けて器具を運ぶことをだれにもお許しにならなかった」(11:16)。そして、メッセージします。「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです」(11:17、イザヤ56:7)。実に厳しいお言葉です。今日の私たちにあてはめ、教会は祈りの家だということを心したいと思います。
 こうして、真実を告げ、みこころを行う主イエスを良くは思わない、神殿側の人たちがいます。「祭司長、律法学者たちは聞いて、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。イエスを恐れたからであった。なぜなら、群衆がみなイエスの教えに驚嘆していたからである」と。主イエスは祭司長、律法学者たちの反発、殺意、計画を想定しての行動でした。それを受けて立つ決意はゲッセマネで固まっていたからです。
 このような神殿や宗教家、民衆の信仰的腐敗を嘆き、その象徴として実のならないいちじくの木をのろい、枯らしたのです(11:12-16,21)。しかし、弟子たちには前向きなメッセージをされました(11:22-25)。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」。先ほどの神殿浄化の時も祈りの重要さを告げられましたが、ここでも、祈りの力、その素晴らしさを教えています。
 そして、祈っているとこのことに突き当たります。赦しです。赦すということは山を動かすほど大変なことです。そうではありませんか。主イエスはこう告げます。「また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます」。祈りは山を動かすのです。この祈りが紛争の絶えない今日の世界に広がってほしいものです。また、私たちは身近な所から小山を動かしていきたいですね。

 陰でイエスを殺そうかと相談していた連中、祭司長、律法学者、長老たち(宗教家のトップであり国会議員)が主イエスに何の権威によって、神殿浄化をしたのかと尋問します。逮捕して死刑にでもしようかとのもくろみです。しかし、主イエスの見事な切り返しで、つけいる隙がありませんでした(11:27-33)。今は負けるわけにはいかないからです。
 しかし、これから起ころうとしていること、それは人間のどろどろした悪意と行動、それさえも足がかりに神の救いの業が展開されていくことを預言的たとえで主イエスは話されました(12:1-12)。ある人は神、ぶどう園はイスラエル、農夫は宗教的指導者、愛する息子はイエス・キリスト。彼らは、このたとえ話が、自分たちをさして語られたことに気づいたので、イエスを捕えようとしたが、やはり群衆を恐れた。それで、イエスを残して、立ち去ったのです。そのたとえとは、
 「ある人がぶどう園を造って、垣を巡らし、酒ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。季節になると、ぶどう園の収穫の分けまえを受け取りに、しもべを農夫たちのところへ遣わした。ところが、彼らは、そのしもべをつかまえて袋だたきにし、何も持たせないで送り帰した。そこで、もう一度別のしもべを遣わしたが、彼らは、頭をなぐり、はず
かしめた。また別のしもべを遣わしたところが、彼らは、これも殺してしまった。続いて、多くのしもべをやったけれども、彼らは袋だたきにしたり、
殺したりした。その人には、なおもうひとりの者がいた。それは愛する息子であった。彼は、『私の息子なら、敬ってくれるだろう。』と言って、最後にその息子を遣わした。すると、その農夫たちはこう話し合った。『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。』そして、彼をつかまえて殺してしまい、ぶどう園の外に投げ捨てた。ところで、ぶどう園の主人は、どうするでしょう。彼は戻って来て、農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます。あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。』(詩篇118:22)」。
 十字架に大逆転があるのです。私たちのユダヤ人と同罪です。十字架にかけよと言って、愛する御子を殺してしまったのです。しかし、その見捨てた石が建築でいう礎石、土台になったのです。主イエスこそ恨みをはらそうとはしませんでした。赦したのです。殺害計画を不当な裁判を起こし、まんまと実行した祭司長、律法学者、長老たち、ホザナと言った口が「十字架につけろ」と叫んだ群衆、のろいを浴びせる群衆ととなりの強盗、刑を執行した総督、実行した兵士たち、ただただ、恐れて遠巻きにしていた弟子たち、それらの人たちを赦し、父よ、彼らをお赦しくださいと取りなされたのです。私たちもそこにいたのです。私たちがイエス・キリストを見捨て、殺したのです。イエス・キリストは私たち罪人を恨んでも恨んでも、永遠に恨み続けられるはずなのに、その大山を海に捨てたのです。父なる神の御前に自分を犠牲にして赦したのです。捨てられたように見えて、私たちの永遠の救いの土台となられたのです。実に不思議千万です。