オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

光は片隅から

2013-12-22 00:00:00 | 礼拝説教
2013年12月22日 クリスマス礼拝(ルカ2:1-7)岡田邦夫


 「すべての人を照すまことの光があって、世にきた。彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。」
ヨハネ1:9-10

 姉妹教会である豊中泉教会は今は蛍池に新会堂が建ち、引っ越しましたが、以前は、阪急岡町駅をおり、商店街をぬけて8分ぐらいのところにありました。その商店街の並びに岡田ビルという小さなビルがあり、その一階に「かたすみ」という小さな喫茶店がありました。間口の狭い、奥に長い珈琲店、私はこの店の名前が気に入っていて覚えています。しかし、今の時代、そのような店名では続かないのでは思っていましたら、最近、テレビで紹介されていたようです。今から38年前、喫茶店が好きで入り浸って、大学受験を失敗した息子に、母親が店舗を見つけてきて、町の片隅で喫茶店をやらせたのが始まりだとか。「かたすみ」は今は三店舗になっているといいます。
 庭の片隅によくはえる野草で、カタバミという、葉はクローバーによく似てはいますが全く別の種類のものです。雑草として引いてしまうのですが、小さくて、きれいな黄色や紫色の花を咲かせるので、私は好きです。カタバミの花言葉は「輝く心」「心の輝き」です。古代の女性が真鍮の鏡をカタバミの葉で磨いたことからつけられているそうです。
 人が片隅に生きている、しかし、心の輝きがあるなら、素敵な人生だと思います。

 クリスマスは世界的に祝われています。しかし、元はといえば、世界の片隅に起こったイエスという方の誕生が始まりです。歴史の表舞台ではローマ皇帝アウグスト(BC31-14)が税金を集めるために住民登録をさせようと勅令をだしたところです。皇帝の一言で、住民は先祖の町に帰って、登録をしたのです。そのようなローマ帝国の片隅にユダヤという属国があり、その中でも、パンの家の意味をもつベツレヘムという小さな町に、名もない二人が来ていました。それはヨセフとマリヤ。登録のために帰ってきている人たちで、宿屋は満席。泊まれません。しかし、マリヤは月が満ちて、赤児が生まれてしまいます。家畜小屋でした。優しく布にくるんで飼い葉桶に寝かせたのです。実に片隅での出来事でした。
 しかし、ヨセフにも、マリヤにも、神からのみ告げを受けていました。この子が聖霊によって生まれてくる。その子の名を「主は救い」という意味のイエスと名付けなさい。その方はイスラエルを治め、世界の救い主、メシヤとなるというものでした。この救い主誕生は世界を揺るがす大事件なのですが、表向きは実に片隅の出来事でした。この救い主誕生の知らせを地の民を言われていた社会の底辺に生きていた羊飼いたちでした。羊の夜番をしていると、み使いが現れ、主の栄光が周りを照らし、告げます。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです」(ルカ福音書2:10-12)。み使いといっしょに天の軍勢が賛美します。
 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。
  地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
 羊飼いたちはベツレヘムに行き、飼い葉桶に寝かせてあるみどり子を探し当て、賛美しながら帰って行きました。見た目は飼い葉桶のみどり子です。何の輝きもありません。家畜の臭い、わらの臭いの立ちこめる、人間の居場所とも思えない場所です。身の置き所もないような片隅です。しかし、羊飼いたちは天の栄光を見ました。その輝く所から、自分たちのような、家畜やわらの臭いにまみれた世界に、神の御子、救い主がくださったのだと知ったのです。それで嬉しくなって賛美したのです。
 ヨハネという使徒はこれをこう言いました。「すべての人を照すまことの光があって、世にきた。彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた」(ヨハネ1:9ー10口語訳)。
 そうして、救い主イエス・キリストはユダヤでは辺境の地、ガリラヤのナザレ村で育ち、三〇になってから、ガリラヤを中心に伝道を始めら
れ、首都エルサレムに向かいます。多くの人を救いに導きますが、祭司長、律法学者、パリサイ人の妬みや反感を買い、ついにエルサレムの片隅のゴルゴダの処刑場で十字架にかけられ、殺されていきます。しかし、復活されて、天に帰られます。一人の熱心な宗教家が海の藻屑と消えていったようですが、そうではありませんでした。人類を救うために、私たちの罪、神に対して、人に対して、自分に対しての罪をあがない、赦すために、十字架で身代わりとなられたのです。これを信じるだけで救われる道が開かれたのです。
 これを福音と言います。それから、世界の片隅で始まった福音の光は世界の広がっていったのです。この福音の光は、神の愛の光は世界のどの片隅にも届くのです。