オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

罪のゆるし

2013-09-01 00:00:00 | 礼拝説教
2013年9月1日 主日礼拝(コロサイ2:8-15)岡田邦夫


 「神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。」コロサイ2:13-14

 ある時、礼拝でバイオリンを弾いていただいた時の感動が忘れられません。選曲されたのが聖歌222番「疲れし者よ」。ヘンデル作曲の「メサイア」20番アリアを編曲したもので、ウィリアム・ディックが、歌詞をつけたものです。(イギリス民謡グリーンスリーブに讃美歌の歌詞をつけたのもディック・新聖歌86「み使いのたたえ歌う」)聖歌の歌詞は…
  「疲れし者よ 来て休め」と 優しくイエスは 招かせたもう
  今なが身を 重荷のあらば あるままにて 罪の都を 振り返らず
  イエスのみ許に とくとく来ずや今」
 メサイヤの方は「彼は羊飼いのように…優しく導かれる(He shall feed His flock like a shepherd)。重荷を背負って苦しむ者は誰でも彼のもとに来なさい。彼はあなた方を休ませて くださるであろう。…」であり、イザヤ書40:11、マタイ11:28~29の聖書をもとにしています。このイザヤ書の言葉は救いを知らせる預言で、「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」で始まります(40:1)。
 イザヤという預言者は世界情勢を見渡し、弱小国ユダは北から侵略してくる帝国に滅ぼされるのは目に見えていることは識者として判ってはいましたが、預言者として神の前に出ました。そこで啓示を受けたのが上記のユダは救われる、補囚から解放される、その慰めの福音が伝えられるという預言でした。預言の前半は神による裁き、中央は実際の出来事が入り、後半は神による救いです。端的に言えば、救いとは福音による慰めなのです。苦しむ者に最も必要なのは慰めなのです。詩篇もそう言っています。「死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです」(23:4)。

◇「罪の赦し」を広げてみれば
 このこの慰めに満ちた福音はどのようにもたらされるのか、その壮大な人類に対する神のドラマがイザヤ書40~66章に描かれております。また、「慰めよ」で始まるヘンデルのオラトリオ(聖(せい)譚(たん)曲(きよく))、メサイヤも良く知られた作品の一つでしょう。単なる気休めではなく、真の慰めにいたるには「罪の赦し」がなければなりません。人が死ぬ時、地位も名誉も財産もいっさい、向こうには持っていけません。天国に持っていけるとしたら、イエス・キリストによる罪の赦しであります。罪責感にとことん苦しめられたダビデはこう述べています。「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は」(詩篇32:1ー2)。
 その様な意味で第1に、救いの本質は、神の御前で罪の赦しが得られたことです。
 第2に、それは罪と死の奴隷であったものがイエス・キリストの命で贖われ、奴隷から解放され、本来あるべきお方のものになったことです(救いの状態)。
 第3に、十字架において、主イエスがなだめの供え物となってくださったので、神に対して反逆の罪を犯し、神の怒りの下におかれていた私たちは神との和解を受け、平和をいただいているのです(関係における救い)。
 第4に、神の律法を犯した罪人の私たちはその法に基づいて神に裁かれ、滅びが宣告されているのですが、「私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです」(ローマ4:24-25)-法における救い。
 実にイエス・キリストによる救いはこれほど多様で完璧なものです。これらをまとめると、冒頭の聖句げ言い表せるでしょう。「神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです」(コロサイ2:13-14)。

◇「罪の赦し」を掘り下げてみれば
 私たちは厳然とした事実から目を背けるわけにはいきません。「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている。」ということです。聖書に記されていますが、私たちの魂もそれを否定できません。しかし、その聖書の前後に厳然とした救いの事実が述べられています。「キリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように 、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです」(ヘブル9:26ー28)。
 罪の赦しというのは「罪の審判からの救い」をもたらすものです。それはイエス・キリストが私たちの罪を負って神に裁かれてくださった「代理のよる救い」なのです。「いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました」(コロサイ2:14-15)。私たちは信じるだけで救われたのです。また、再臨の時に完全にキリストによって救われるのです。
 その救いの保証は神の聖霊がしてくださるのです。「あなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです」(エペソ1:13ー14)。私たちをおとしめる不利な証書が無効にされたばかりか、御国に入れるキリストの証書をいただき、そこに聖霊の証印が押されているのです。今、生きているこの時に、信仰によって、聖霊による救いの確証をいただきましょう。
 洗礼がまた、見える形での救いの確証となるのです。「あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました」(コロサイ2:12-13)。教会における洗礼は一度限りですが、霊的には生涯にわたって、キリストとともに葬られ、キリストとともによみがえらされたと信じ続けていくのです。しかし、原点は父と子と聖霊との名によって、また信仰によってなさた洗礼式です。見える洗礼証書が象徴しています、見えない洗礼証書こそ、罪の赦しの洗礼証書こそ、天の御国にもっていくものです。その証書の発行者は最も権威のある方です。「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです」(コロサイ2:9-10)。