オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

主がお入り用なのです

2012-03-11 00:00:00 | 礼拝説教
2012年3月11日 主日礼拝(マタイ21:1-11)岡田邦夫


 「もしだれかが何か言ったら、『主がお入用なのです。』と言いなさい。そうすれば、すぐに渡してくれます。」マタイ21:3

 東日本大震災発生から一年が経ちましたが、まだまだ復興に時間がかかり、助けを必要としています。東日本の救いのため続けてて祈っていきましょう。発生当時、このニュースが世界に流れた時に、日本全体が沈没したと報道された国もありました。誤報、誤解でした。情報は正確さが求められます。

◇神への誤解
 さて、今日の聖書は城壁で囲まれたエルサレムの都にイエス・キリストが入城された時の出来事です。その前の章では、道ばたに座っていたふたりの盲人が通りかかるイエスに「主よ。あわれんでください。ダビデの子よ」と叫び求めた話がでてきます。「主よ。この目を開けていただきたいのです。」と言うものですから、イエスは深く憐れんでいやし、彼らは見えるようになったのです。そして、21:1の「それから…」と話は続くのです。イエスはご意志で、ろばの子に乗って入城されました。弟子が上着をろばの背に掛け、イエスがそれに乗る。群衆は上着やら、しゅろの木の枝を道に敷いて迎える。そして、賛美する。「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に」(21:9)。
 盲人も群衆もイエスを「ダビデの子」という救い主の意味で呼びました。盲人は救いを求めていたのであり、肉体の目が開かれたのは、ほんとうに救い主がわかるという、魂の目が開かれたことを象徴としています。しかし、この群衆はユダヤをローマ帝国の属国から解放するところのダビデの子・軍事的救い主(メシヤ)を期待したのです。それは自己中心から出た、神への誤解、曲解でした。今日のおいても、歴史においても、広くは政治のために宗教を利用してきた人間のエゴイズムがあります。私たちの日常でも、勝手な御利益で、神を求め、神を利用したりしているかも知れません。必要は必要ですから、盲人のように求めたいです。そして、救い主のこと、御国のこと、神の真理が見えるようになりたいものです。
 都中がこぞって騒ぎ立ち、「この方は、どういう方なのか。」と言い、群衆が「この方は、ガリラヤのナザレの、預言者イエスだ。」と言ったというのはあながち間違いではなさそうです。それは神が言わせたのかも知れません。私たちは必要があって、神を求め、必要が満たされるかも知れませんが、もっとも肝心なことはその先にイエス・キリストを迎えいれ、「この方は、どういう方なのか。」という問いとその答えを得ることなのです。

◇人への誤解
 なぜ、イエス・キリストが王として入城されるのに、馬でなく、ろばだったのでしょうか。前述のように軍事的解放者という誤解や期待を回避するためだったこともあります。しかし、聖書では預言の成就のためだったと記しています。「これは、預言者を通して言われた事が成就するために起こったのである」。「シオンの娘に伝えなさい。『見よ。あなたの王が、あなたのところにお見えになる。柔和で、ろばの背に乗って、それも、荷物を運ぶろばの子に乗って。』」(21:4ー5)。シオンの娘はエルサレムのこと。イザヤ書62:11、ゼカリヤ書9:9の救い主が王として来られるという預言でした。主は究極的な平和をもたらす王という意味で、軍馬ではなく、荷物運びのろばに乗られたのです。
 主をお乗せした子ろばに対するように、読者は『主がお入用なのです。』の言葉が心に迫ってきます(21:3)。私たちはつい、自分ひとりいなくても世間に影響はない、社会に必要のない人間ではないかと悲観してしまったりします。あるいは職場や学校で、あるいは家族の中で、必要のない人ではないかと誤解したりします。しかし、そうではないのです。創造者なる神はすべてをお造りになり、すべての人を作られたのですから、必要のないものはないのです。その存在が必要なのです。ジグソーパズルの一片でもなければその絵は出来上がらないのです。神にとって必要のないピースはない、それぞれ必要とされている。どの場所か判らない、真ん中も知れないし、端かも知れない、みな必要なものとして、神の手の中にはまっていくように造られているのです。
 また、有名なお祈りにある「平和の道具としてお使いください」とあるように、神は私たち一人一人を平和の道具として用いようとしておられるのです。あなたも神の平和の道具として『主がお入用なのです』。必要としている人のところにイエス・キリストをお乗せして、届けるのです。神の愛を届ける宅急便やさんです。受け取った人は届けた人より、荷物に感心を持ち、発送人に感心がいきます。どういう配送人だったかは不正な人でない限りあまり問題ではありません。関心は誰から、何をくれたかです。私たちは福音の運び屋です。私たちが出来ているかどうかは二の次です。私たちは運ぶだけです。内容が大事です。福音という内容、神の愛というプレゼント、これを運ぶのです。運ぶだけですから、難しいことではないのです。受け取られた方がこれは誰から来たのかに歓心を寄せてくれば、そして、「この方は、どういう方なのか。」と問うてくれば、実に幸いです。
 榎本保郎という先生は子ろばのことを方言でちいろばというので、証詞の著書のタイトルを「ちいろば」にされました。神はちいろばを必要としています。謙虚で目立たない、しかし、主を目立たせようとする人を必要としています。色んなことで必要とされています。教会の中でも目立つ奉仕もあれば、影の奉仕もあります。社会においてもキッとそうでありましょう。「主が」お入り用なのです。自分で自分を要らないと言ってはならないのです。
 私は一つ上の姉とは十才、一番上の姉とは二十才もはなれ、末っ子として生まれていたので、家ではそんなに役に立つ者でもなかったし、期待もされていませんでした。そして、キリスト者となって、また、牧師として召されて、東京聖書学院に入ったのですが、まわりは良い説教をするのに、自分はぱっとしないので悩んでいました。その時、「虫にひとしいヤコブよ、イスラエルの人々よ、…見よ、わたしはあなたを鋭い歯のある新しい打穀機とする。」のみ言葉が与えられました(イザヤ41:14ー15口語訳)。私は虫にひとしい者です。でも、必要な者としてこの世に存在させてくださって、そればかりではなく、こんな者をお救いくださって、血を流してくださって、命をかけてくださって、復活してくださって、福音の運び屋として、必要だから、召してくださったのです。私たちは虫けらかも知れない、でも、主が変えてくださって、用いられやすいようにしてくださるのです。
 あなたも神の平和の道具として『主がお入用なのです』。