オアシスインサンダ

~毎週の礼拝説教要約~

幸いなるかな

2010-05-23 00:00:00 | 礼拝説教
2010年5月23日 伝道礼拝(マタイ福音書5:1~31)岡田邦夫


  「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」(マタイ5:3)

 「お幸せに」というあいさつはいいものだと思いますが、結婚の時におくる以外はあまり使いません。また、「ご多幸をお祈りします」も時に応じて使いますが、それほど、多くはありません。たいていの人や家族が幸せでありたいと願っているのにもかかわらず、不思議なことです。それは多分、自分や家族や身内の幸せを思う思いに傾いていて、自分は不幸になっても、他人が幸せなってほしいとは、普通思わないからではないでしょうか。時には他人の不幸を喜んだりするエゴイズムが顔を出します。なかなか、世界中の人が幸せでありますようにと祈らないものです。
 それは幸せという状態をそれぞれがイメージしているからでしょう。金や家がないより、あった方が幸せ、美貌がないより、あった方が幸せ、結婚をしないより、した方が幸せ、子供がいないより、いた方が幸せ、学歴とか名誉とかないより、あった方が幸せ…、どれも、人と比べた自分のことです。それでも、幸せを求めることで、自分を向上させ、心が豊かになっていくなら、その人は幸せです。
 わが家にいただいたもので、あいだみつお氏の言葉のある小皿があります。その一つが「しあわせはじぶんできめるもの」。金があっても、幸せと思わない人もいれば、金がなくても、生きていられるだけで幸せと思う人もいます。幸せは心の持ちようだと言われます。どういう状況でも、幸せと思える心の豊かさを持てるならその人は幸せです。

◇幸せ<祝福
 しかし、イエス・キリストが山の上での教えは、八福の教えと呼ばれている八つの幸せで始まりまり、「心の貧しい者は幸いです。」が冒頭にきます。それだけを見ますと何か逆説的に見えて、理解しにくい言葉です(マタイ5:3)。しかも、後に続く言葉「天の御国はその人のものだからです。」とどう結びつくのか、考えさせられるる詩文です。
 「幸い」は英語ではブレッセド(祝福)と訳されています。祝福は聖書の重要テーマです。神が天地を創造され、ご自分のかたちに人を創造された時、「生めよ。ふえよ。地に満たせ。」と仰せられて、祝福されました(創世記1:27-28)。私たちは創造者に祝福されて生まれてきたのであり、創造者に祝福されて生きているのだということです。しかし、人は神のようになろうと高慢になり、創造者に背き、罪を犯し、神から離れてしまいました。そこで、神は人を罪の滅びから救い、本来的な祝福を与えようと、アブラハムという人を選び、祝福し、祝福の源としました(創世記12:2)。そして、神は私たちを罪からの救い主イエス・キリストを遣わし、十字架において、私の罪の身代わりに死んでくださり、神の懐に帰る道を開いてくださいました。その救い主イエス・キリストの祝福の言葉がこの山の上の言葉です。

◇天の門<針の穴
 ですから、この一節一節の後半が救いの言葉であり、救いのドラマがあるのです。「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。」の慰めはただの慰めではなく、神の慰め、救いの慰めのことです。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」も救いのドラマがあるのです。イエス・キリストのもとに、若い金持ちの役人が「先生、永遠の命を得るにはどうしたらよいでしょうか。」と聞いてきました。十戒の倫理を守っていると言いますので、財産を売って、貧しい人に施すよう、イエスは命じます。それはできないと、その青年は悲しんで去っていきました。そこで、イエスは弟子たちに「金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方がもっとやさしい。…それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」と言われました(マタイ19:16-26)。
 この青年、地位も財産も名誉もあって、品行方正、豊かな生活で幸せであったでしょう。しかし、その延長線上に神の国があるのではありません。別の所にあるのです。一方、弟子たちは彼のようなものをどれも持っていなかったかも知れませんが、イエスにささげた生き方を選びました。それで、イエスは彼らに神の国で永遠の命が与えられること保障されました。神の国の門は狭く、人の努力ではらくだが針の穴をとおるより難しいのですが、へりくだり、悔い改めて、信じて、まかせる時に入れるのです。なぜなら、イエス・キリストが十字架において罪のあがないをなしてくださって、神の国の門となってくださったので、イエス・キリストによって、すっと入れるのです。人にはできないことですが、神にはできることなのです。
 神のみ前で、心が貧しいと思う人は幸いです。天の御国はその人のものだからです。

◇ゴルゴダ<パラダイス
 イエス・キリストの周辺には心の貧しい者がたくさん出てきます。イエスの十字架の両どなりに犯罪人がかけられました。ひとりはイエスに悪口を言いますが、ひとりはそれをたしなめ、イエスの向かってこう求めます「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(ルカ23:42新共同訳)。イエスのお答えはお前のような犯罪人、心の貧しい者が御国にはいけないとは言いません。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園(パラダイス)にいる」と救いの言葉を告げました。楽園としての天の御国を約束されました。今日だと言われました。この男の人生は不幸でした。どこで道を間違えたのか、犯罪を犯してしまい、十字架の極刑を受けなければならなかった。人からは呪われて死んでいく。多分、先は地獄しかないだろう。しかし、不幸ではなかった。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」。十字架のキリストに「わたしを思い出してください(リメンバーミー)。」と悔い改めて、祈ったら、楽園の幸福が与えられたのです。

 木田仁逸(じんいち)という牧師さんの書いておられることです(百万人の福音02年2月号別冊より)。私の育ての父が進行性筋萎縮症という難病をもっておりました。20歳のころ発病し、67歳で天に召されるまで、病気ゆえのさまざまな苦しみや葛藤がありました。最後はガンに冒されて、病苦と経済苦からは一生逃れられない人生でしたが、臨終に近いある日、母にこう言ったそうです。
 「オレの人生、幸せだった」
 父はかつて共産主義者で、神の存在を否定して、幸福な社会を熱心に求めていました。しかし、聖書の教えに触れ、イエス・キリストに出会ったのです。人の不幸の根源である罪を身代わりに背負い、むごい十字架にまでかかって死んでくださったキリスト。そのキリストの愛に、父は生かされてきたのでした。ある時、私は父にあえてこんな質問をしたことがあります。「もし、神さまが病気を治してくださると言ったら、どうする」。私は当然、父が、「治してもらう」と即答すると思っていました。しかし、父はしばらく考えてから言いました。「どちらにしたらいいのか分からない。どうしてかというと、この病気になったからこそ、神さまを信じることができたから…」と。父のことばに驚くと同時に、キリストの愛とは、不治の病さえ克服させるものなのかと、深く考えさせられました。
 身体のハンディ、貧しさ、心の葛藤…、そのすべてを越えてなお、「幸せだった」といえる人生。すべての人に、そう、あなたにも、「生きるって、すばらしい」と言える人生が用意されています。少し心を開いて、神の愛にふれてはいかがでしょうか。