ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

「野生の正義」 フィリップ・マーゴリン

2008-05-23 15:46:16 | 
また乗り過ごしてしまった。

今年に入って2回目だ。1月に宮部みゆきでやらかして以来、久々に乗り過ごした。原因はマーゴリンだ。

自分で言うのもなんだが、私はそれほど不注意なほうではない。忘れ物は少ないし、降りるべき駅を忘れて読書に夢中になることも滅多にない。ないと言いつつ、半年で2回もやっているようでは、返す言葉もない。

弁護士大国アメリカは、作家にも弁護士が多い。やはり法廷での緊迫の場面や、法の裏をかいくぐる連中を描く様は、弁護士ならではと感じる。しかし、マーゴリンは違う。20年以上刑事訴訟を主に第一線で活躍する弁護士であるにも関らず、その作品では、そのことが強調されない。

よく取材した作家や記者でも、マーゴリンの描く法廷でのやりとりや、訴訟の実態などは書けると思う。もちろん、マーゴリンは書こうと思えば、もっと詳しく書けるのだろう。でも書かない。

マーゴリンの書きたいのは、ストーリーだ。そこに徹しているからこそ面白い。私はマーゴリンを「どんでん返しのマーゴリン」と密かに呼んでいる。展開が二転三転あたりまえ。読者の意表をつく驚愕のストーリーを提示してくる。

読むに従い、そのストーリーに引きずり込まれる。その結果が、降りるべき駅の乗り過ごしなわけだ。見事にマーゴリンにしてやられたわけだ。

それにしても、マーゴリンは弁護士の癖に法廷の正義を信じていないのか。タイトルの野生の正義は、エンディングで見事に実現する。やはり法は万能ではないのか。ふと、そう思ってしまった幸福な週末でした。
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「メリーちゃんと羊」 竹田エリ

2008-05-22 16:09:34 | 
仕事上の喧嘩は気疲れするから嫌だ。

喧嘩といっても、別に殴り合うわけじゃない。平静を装いながら、時には笑顔を浮かべつつ、丁寧な言葉で断固として議論するだけだ。ただ、互いに目が笑っていない。拳を握り締めていることもあるし、肩が震えていることもある。

私の仕事の特徴は、税務署と交渉をすることにある。納税者に代わって、税務当局とやり合うことになる。お客さんに言わせれば、用心棒であるらしい。ま、確かにそのような性格はある。

法令解釈でもめることもあるが、一番もめるのは事実認定だ。税務署には税務署なりの解釈があるし、納税者にも当然言い分はある。話をまとめるまでが、毎度ながらひと苦労だ。

和やかに談笑しつつ、話がまとまることもある。その一方で、感情が昂ぶり、互いにけんか腰になることもないではない。怒鳴りあうことは、滅多にない。短気な私とて、この十数年で2回だけだ。

育ちの悪い私が本気で怒鳴りだすと、どうもヤクザみたいな威圧感を伴うらしく、あまり評判が良くない。泣かれたこともあるし、なにを勘違いしたのかノートを顔の前にたてて怯えた人もいた。いくらなんでも殴るつもりはない。

若いときは、やりすぎて後日税務署の署長室に呼び出されたこともある。ちと焦ったが、うちの所長がのらくらと誤魔化して、事なきを得た。以来、怒鳴らずに、冷静に論理立てつつ、睨みつけて威圧するよう努めている。けっこう気疲れするぞ。

気持ちが荒み、落ち着かない時は、気分転換を図るよう努力する。気の置けない友人とのバカ話でもいいし、美術館を散策するのもいい。緑豊かな川沿いの道を散歩するのも悪くない。たわいない四コマ漫画でも読んで、リラックスするのも好きだ。

そんな時に読むのが、表題の四コマ漫画だ。週刊ヤング・ジャンプ誌に連載されていたので、ご存知の方もいるかもしれない。

親が人間なら子は動物系、動物系が親なら子は人間という隔世遺伝(?)の不思議な社会の子供と親が面白い。可愛さを売りにする悪徳パンダとか、空気が読めないストーカー魚の親に振り回される子供たちがドタバタ騒ぎ。何気に毒があるが、可愛らしい絵柄が毒を薄めるので、割と気軽に楽しめる。

作者が女性のせいか、可愛い笑顔で辛辣な科白の応酬をする女の子たちが妙に可笑しい・・・いや、ちと怖い。あの喧嘩の仕方は、男の子だとまずありえない。口げんかは女の子のほうが強いことを、つくづく思い出された。

まあ、気分転換には最適の一冊だと思っています。機会がありましたら是非どうぞ。
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プロレスってさ ラッシャー木村

2008-05-21 14:28:22 | スポーツ
大学生の頃に、酔っ払って高田馬場の西口をふらふらしていた時のことだ。

薄暗い路地を歩いていると、突然人影が目の前を遮った。「あんだ、この野郎!」と言い掛けた口を思わず閉じた。

デカイ!いや、それ以上にごつい。赤と黒が基調の派手な服は、堅気の人が着るには派手すぎだ。しかし、それ以上に、その薄い生地の下の筋肉の分厚さが、私を本能的に怯えさせた。

少し距離を置いて、前にまわって見直すと、なんとプロレスラーのラッシャー木村だった。

80年代プロレスの黄金期において、その流れについていけずに廃業した国際プロレスのエースが、ラッシャー木村だった。力道山以来、伝統の黒タイツを身に着けたラッシャー木村は、風貌はさえないが、朴訥な人柄で悪い評判は聞いたことがなかった。

しかし、派手な興行で知られる新日本プロレスへ移った際に、殺気立つ会場でマイクをとって一言「今晩は、ラッシャー木村です」と、ごくごく常識的な挨拶をしてしまったが故に、ダサイとの評を得てしまった気の毒な御仁でもある。

過剰な演出が目立つ新日本では、彼の朴訥さはマイナス評価となってしまった。あげくに、猪木と一対三のハンデキャップ・マッチを組まされ、完全に引き立て役扱いであった。正直、当時は背中に悲哀が漂っていた。

倒産した中小企業の社長が、大企業に移ったものの、遥か年下の若手社員たちにあごでこき使われるかのような姿であったことは、否定しがたいと思う。そのせいか、リストラが身にしみて分る中高年が応援していたようだ。

若かった私はTVでプロレスを観ていた時は、ラッシャー木村をバカにしていた。しかし、目の前に立つ当人を前にしたら、何も言えなくなった。デカイだけではない。ただ、歩くだけで、思わずよけてしまうほどの迫力があった。身体の分厚さが、普通の人とはまるで違う。

気になって、しばらくついて歩いた。やはりラッシャー木村だと気がついた周囲の酔漢が、絡んでこようとして、すぐに怯えて避けていくのが面白かった。私もそうだが、身近に見る、あの迫力はすごいものがあった。

たしか大相撲上がりだと思う。打たれ強そうな体躯、桁外れに太い二の腕。下手な虚勢を張る酔漢さえ怯えさす顔面の傷跡。新日本プロレスでは、やられ役、引き立て役だったが、この人喧嘩は強いと思う。

その後、ジャイアント馬場の下へ移り、あの朴訥な語りがマイク・パフォーマンスとして人気が出るようになった。馬場ともウマが合ったようだ。馬場と木村がリングに立つと、なぜか観客が優しいまなざしをリングにむけていたように感じて、妙におかしかった。

際立った必殺技もなく、風貌もさえないラッシャー木村だったが、プロレスラーとしての矜持は捨てなかった。その朴訥さが、観客からも評価される、稀有な人だった。こんな人がリングに立つ時代のプロレスを楽しめた私は、幸せだったと思う。
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「くっすん大黒」 町田康

2008-05-20 06:45:38 | 
人間は、心から腐っていく。

なにもする気がない。仕事も家事もする気がない。TVも見たくないし、本も読みたくない。人と会いたくない。なにもしたくない。ただ、本能が必要とするので食事と睡眠だけはとる。

気がついたら風呂に最後に入ったのが何時か忘れた。金はいくら残っている?・・・忘れた、いや分らない。さっきドアを叩いていたのは大家かな。そりゃ家賃払わなきゃ、怒鳴り込んでもくるわな。でも無いものは、ない。

あれ?電気が付かない。そうか、電気代払ってないな。こりゃ、ガスも駄目だろうな。払った記憶ないし。

・・・まっ、いいか。

こうして、人は堕落していく。堕落して何が悪い。本当に悪いのか?誰が決めたんだ。俺は決めてない。身体から腐臭が漂ってくるが、そのうち鼻が馴れるもんだ。気にしない、気にしない。

ここで道は二つに分かれる。このまま一人で自滅する人と、誰かにすがっても生きていける図々しい人に。こんな自堕落な生き方が許されるのは人間だけだ。野生動物の社会なら、群れから放逐されるか、敵に殺されるかして消されてしまう。人間と動物とを分ける境界が、堕落した生き方を許容できることだとは、なんとも情けない話だ。

おそらく、放牧生活をおくる遊牧民や、狩猟民の社会では許されない生き方だと思う。流通を確立して、余剰生産物資を抱える都市文明でしか許されない生き方だろう。だから、ある程度の規模をもつ町があるなら、どの時代、どの文明でもあり得る生き方だと思う。

こんな自堕落な生き方が普遍性を持つとは不思議であり、不可解でもあり、不愉快ですらある。多分、ほとんどの人には無縁の生き方だと思うが、私は誰にでもあり得る生き方だとも考えている。

私もこのような自堕落な生き方にはまりかけたことがある。病気で病み衰えた自分が嫌で、外に出ることを厭い、積極的に生きることに嫌悪を抱いた。堕落していく自分を愛おしく思い、感性を鈍化させ、無気力に自らを染め上げた。

傍から見れば、愚かしく無様で醜悪な生き方だと思うが、当人にはぬるま湯的暖かささえ感じる生き方であった。このまま世間から忘れ去られて、自滅するのもいい。けっこう本気でそう願っていた。腐臭の漂うドブ川だって、そこに浸かってしまえば、案外心地よいと思えるものです。

でも、そんな私のことを忘れずにいた奴がいた。ときおり絵葉書などを送ってきた。気軽に書いているように見えたが、そうではあるまい。当時私は世間を拒絶しており、そのことを知っていたからだ。それなのに、私は忘れてないよ、いつか戻ってきてねとの想いが伝わってきた。

しぶしぶと、けれど断固たる決意を固めて私は起き上がった。外に出ても恥ずかしくないよう、外見を整え、それから病んだ身体で出来ることを探した。それが税理士試験だった。

人は一人では生きてはいけない。一人だと立ち腐れてしまうのだろう。私が弱いだけかもしれませんがね。
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ミャンマーに思うこと

2008-05-19 12:28:14 | 社会・政治・一般
軍事政権は悪の政権なのか?

戦後の日本のおかしな常識の一つに、戦争とか、軍とか兵器などを悪いものと決め付けることがある。戦争を否定すれば平和が訪れ、軍をなくすことが平和につながると考え、兵器が平和を乱すと思い込む。

だからこそ、ミャンマーの軍事政権は批難されるのだろう。台風で被災した人々への国際救援を拒むとは、ミャンマーの軍事政権は言語道断だと批難する。でも、私は国際援助を拒否するミャンマーの指導者たちの考えも、分らなくはない。今更、信用できるかと思っているに違いない。

ビルマ王国は、シャム(現タイ)やカンボジアと並ぶ東アジアの伝統的仏教国だった。時折隣国との戦争を繰り返しながらも、穏やかな国家であったと思う。

しかし、イギリスの植民地支配を受けてから、国情は一変した。ビルマは、最大のビルマ族を始めとして7つの部族からなる連合王国だった。イギリスは、この部族が互いにいがみ合うように、ビルマの地を支配した。この過程で、旧ビルマ王朝の行政機構は分断破壊され、地方の部族のためだけの役所になりさがった。

第二次大戦後、イギリスは植民地支配を放り出し、残されたビルマを統治するのは軍隊しか残されていなかった。軍隊は警察と異なり、移動する行政機関としての機能を有するからだ。

イギリスの分断支配は、民族間の争いに火をつけ、カレン族やカチン族などが独立闘争を始めた。冷戦のため、アメリカ、ソ連、中国なども干渉してきた。

最大多数のビルマ族としては、国を守るためには軍事政権以外ありえなかった。西側も東側も、ビルマ国内の内戦に、様々なかたちで干渉してきたため、未だ国内を完全には統治できていないのが実情だ。ミャンマー政府が、外国からの援助を素直に受け入れできないのは、ある意味当然だと思う。

ついでだから書いておくと、日本でもカレン族の独立闘争に対する民間の支援は、けっこう長いこと行われていた。それとは別に政府のODAもミャンマー政府にされている。ミャンマーの人が、日本人に不信感をもっても全然不思議ではない。

もし、今のミャンマーに民主主義を持ち込めば、あっという間に部族同士の利権争いが始まり、じきに内戦が再発するだろう。互いの部族が、国よりも自分の部族の利益のみを主張しあい、話し合いで解決がつかず、結局戦いで白黒つける。これが現実だと思う。その内戦の結果、インド洋への抜け道を模索する中国の傀儡政権が生まれる可能性すらある。

だからこそ、ミャンマー政府は最大の援助国中国への警戒心を隠せない。さりとて、欧米の民主主義の押し付けは受け入れできやしない。西側マスコミにヒロイン扱いされているアウン・サン・スーチー女史なんざ、ビルマを混乱に貶めたイギリス人の夫をもつ、国内に混乱を持ち込む悪女扱いが実態だと思う。

私は民主主義の国で育った人間だから、当然に民主主義を支持するが、それでも民主主義を万能薬だとは考えていない。軍事政権のような強力な政府が必要な場合もあると思う。ただ、軍事政権は経済成長には向かないので、国内が安定した後、ゆるやかに民政化するのが望ましい。少なくとも台湾や韓国はその手法で成功している。

今のミャンマーに、民主主義は似合わないと私は思う。
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