夜の闇が恐ろしくて仕方がない。
親に死に分かれた僕は、遠い親戚のおじさん、おばさんとこの山奥の森の奥の家で暮らしている。叔父さんは逞しくて頼りがいがある。おばさんは優しくて、料理が美味しい。ずっと寂しかった僕が欲しかった暖かい家庭だ。
でも、叔父さんは山奥に行ったきり帰って来ない。探しに行ったおばさんも帰ってこない。美しいと思っていた山は、闇夜になると底が知れずに恐ろしい。鳥の囀りがが楽しかった森は、闇が深くなり、飲みこまれそうだ。
僕は怖くて家に閉じこもっていた。幸い食料は豊富にある。でも、おじさんたちが居なくなって、もうだいぶ経つ。僕は気が付いてしまった。夜になると、家の外を何かが這いずっていることに。しかも、その音は次第に近づいてきている。
日ごとにその音は近寄ってきている。今も屋根の上を這いずりまわっている音が聴こえてくる。僕は毛布にくるまって、耳を塞ぎ、目を閉じて、歯を食いしばって泣くのを我慢している。
僕は明日の朝を迎えることが出来るだろうか。誰か、この手記を読んだならば探しに来て欲しい。助けて欲しい。
子供の字で、震えて書かれた文字は、ここで終わっている。
今から40年ほど前、中学の図書館で読んだ本なのだが、脳裏に刻まれてしまい、忘れれることが出来なかった。いや、忘れても、ふとした瞬間に思い出してしまう。
ところが困ったことに、この短編の作者も、タイトル名も覚えていない。ただ、その内容だけが忘れられずにいる。
でも、ようやく、本当にやっとのことで見つけ出した。私は内容からして、アメリカの怪奇小説家ラグクラフトの作品だと推測していた。だから、彼の小説を読みまくったのだが、見出すことが出来ずにいた。
しかし、ラグクラフトの弟子たちの短編集を読んでみたら、そこでようやく発見した。ラグクラフトが想像して作ったクトゥルー神話は、多くの愛読者を生み出し、その中から自分で書いてみたいと切望する若者たちを、ラグクラフト自ら指導して書かれた作品がある。
その弟子の一人がロバート・ブロックである。怪談としてならば、案外と師匠よりも上手いのではないかと思うほどに表題の作品は良く出来ている。冒頭に書いた文章は、私の脳裏に刻まれた記憶に過ぎない。
是非とも本編を読んで、山奥の森の深い一軒家で恐怖に怯える少年の気持ちを味わって頂きたいです。ちょっと忘れなくなりますぜ。
クトゥルー神話、たぶんkinkacho世代のSF読みは嗜んでいない輩はいないですよね。
でも、生理的に不快で弟子の作品にまで手を出していませんでした。
「ん?( -_・)?」と気づきます。
食糧が豊富に備蓄されてる。怪物?らしき存在は
夜中に少しつづつ接近してくる。
なら何でリュック背負うて脱出しないんだ??
相手の正体を探って戦う準備するなり、一目散に逃げ出すなりしろよ!!
実はこの「何もしないで傍観」がラヴクラフトと
彼の「スクール」の作品の特徴なのですね。この
消極的で受け身がクトゥルー神話の特色です。
ただ、ラヴクラフト・スクールて唯一、このパターンにならない作家がいます。それが「野蛮人コナン」のHRハワードです。すみません今回は続きます。
隣に住む主役は、夜な夜な屋敷から物音が聞こえ、それがだんだん大きくなるのが不審です。
ブロックの「遠くからだんだん近づいてくる」が「隣で物音がだんだん大きくなる」な訳です。
そして音が大きくなるにつれ、周辺の猫、犬、子供と消えてゆく。似てますよね?
でもハワード作品は、ここで主役が探索に出るのです。屋敷主人に接近して正体を探る。そしてとうとう彼の恋人が消えて……先祖が十字軍で使った大剣を担いで殴り込み。幼体の魔物が育ちきる前にバラバラに切り捨てるのでした。道具だては似てるのに、ブロックやラヴクラフトと対極的ですね。静に対する動。
私はラヴクラフト作品が人を選ぶのは、この静の
(運命を待ち受け甘受する)消極受身にあると思います。だからこそ「廃屋に残るた日記」という不気味さが際立つのですが……動…ダイナミックな展開に欠けるとも思います。
ハワードのヒーローみたく、やっつける言わぬとも、相手を探り、逃げるなり応援を呼ぶなりしないか??と。
そこを「はっ!」と思い至ると、急に馬鹿馬鹿しくなってしまう。もっとも「忌まれた家」のように、主役が調査して怪異の正体を退治する話もラヴクラフトにありますが。
この対極的な作風(ブロックはクトゥルーをやる時はラヴクラフト寄りです)のラヴクラフトとハワードが仲良しだったのも面白いと思います。
ただヌマンタさんが怪談の名手なのが不思議なやです。私的には。
悪童時代のヌマンタさんなら、怪物が夜にしか現れないのだから、必ず昼間に足跡や痕跡を調査して判断するタイプと思うのです。
結果として、昼に荷物を背負って逃げ、応援を予備に行くか、アメリカの山奥なら猟銃くらい置いてあるだろうから、小屋を強化して猟銃で反撃するとか実行するでしょう。座して怪物に食われる子供とは思えません(笑)
生理的嫌悪を他読者の方が申されていましたが、
ラヴクラフトとかの気持ち悪さは、黙って食われるのを待っている消極性から来るものと思うのです。ハワードはそれが出来ないタイプなのでしょう。だから正体を確かめて反撃に出る。
つまりはヌマンタさんと同じタイプの思考をする書き手なのだと思います。
怪談は人間が脅威に晒され破壊される事を描きますから、対抗手段を講じるタイプの人間には向かないと思うのです。
しかし現実的にヌマンタ怪談は浮「。
そこで思うのですが、若い頃に山に登り、何度も大自然の脅威にあわれたから。病気で死にかけたから。人智を越えて強いものを見てきたから。
肌感覚で浮「ものを書けるのではないか?と
推察しています。長々と失礼しました。では。
浮「という
この記事の冒頭のストーリーは、私の記憶から書きだしたものです。是非とも原作を堪能してみてくだされ。疑問も溶けると思いますよ。
もっとも、クトゥルー神話の肝は、圧涛Iな恐浮ノ対する人間の無力さですから、無抵抗でも不思議ではないと思います。私が気持ち悪いと思いつつも好きなのは、旧神や、古き支配者たちが人間の善悪、好悪の枠から遠く離れた存在であることなのです。神や悪魔なんて、人間を超越した存在であるべきなのです。祈りも生贄も無意味であるからこその超越者です。